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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂
高座教会は、米国カンバーランド地方(現ケンタッキー州、テネシー州)を起源とする、プロテスタントのキリスト教会です。関東地方を中心とする日本中会の教会のひとつで、神奈川県大和市南林間で70年近く礼拝を守り続けています。
ここには当教会の主日の礼拝の説教を掲載しています。当教会のホームページもご覧いただければ幸いです。

和解と平和 - 2017.11.26

2017年11月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記2章15~17節
コロサイの信徒への手紙1章18~20節

Ⅰ.はじめに

コロサイの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から小アジアに住む、キリストを信じる信徒たちに向けて書いた励ましの手紙です。1章のここまでは、キリストがどのような人であるのかを丁寧に伝えているところです。キリストとはどのような方なのでしょうか。
まず、キリストは「見えない神の姿」であることです。そして「すべてのものが造られる前に生まれた方である」と伝えています。創世記1章には、天地創造の出来事がありました。海や空やこの世に存在するものが造られましたが、その前から存在していた方がキリストです。そして、そのキリストによって万物は造られました。それも、万物はこのキリストのために造られたと、パウロは言うのです。
しかしどうして、パウロは、このように詳細にイエス・キリストのことを説明するのでしょうか。パウロが手紙を書いた当時は、まだキリスト教が十分に普及していませんでした。ペンテコステの出来事で、キリスト教会ができてから30年程しかたっていなかったのです。残念なことに、イエス様のことを間違って解釈する人達も多かったのです。ですから、パウロは手紙を使って、そのことを繰り返し書き続けました。この手紙もそうです。そして今回の18節でも、イエス様の性質に関する言葉が続きます。

Ⅱ.教会のかしら

18節「また、御子はその体である教会の頭(かしら)です。」キリストは教会のかしらというように、教会を人間の体のように表すのは、パウロの独特の表現です。教会というのは、建物の教会ということではなく、キリストを主と信じる信徒たちが集うところです。そこには様々な人がいます。人種はユダヤ人もギリシャ人も関係ありません。個性もさまざまで役割も違います。そのさまざまな人達が一つになるには、リーダーが必要ですが、教会の頭(かしら)はキリストだということです。パウロは他の聖書箇所では、教会はキリストの「体」そのものだとも言っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中に、いろいろな人をお立てになりました」(1コリント12:27) 。このように、教会の頭(かしら)がキリストだと言ったり、教会はキリストの体そのものだと言ったりします。この表現によってパウロが言おうとしていることは、キリストこそ、教会の命と力の源泉であるということです。なぜなら教会は、キリストが十字架に架かって死んでくださったから、その後復活されたから、そして、天に戻られて聖霊を、この世に送ってくださったから、そのことによって教会ができたからです。それは最初の教会だけではありません。次々と建てられていった教会はすべて聖霊によってキリストの名の下に建てられたものです。今も、この私たちの教会も同じキリストの体、キリストを頭とする、キリストをリーダーとする教会です。

Ⅲ.最初に復活された方

18節の「死者の中から最初に生まれた方」というのも、このキリストです。「死」は終わりを意味しました。暗闇とか絶望と表現されました。日本人の価値観の中にも「死んでしまったらおしまい」というものがあります。しかし、そこから死を打ち破って、最初に生まれた人。最初に復活された人がイエス・キリストでした。最初というからには、続く人がいるのか?というと勿論います。それは私たちクリスチャンのことです。私たちがキリスト者として救われて、新しい永遠の命を与えられるというのは、イエス様がまず、最初に復活されたことがあったので、その御業に続くことが可能になったわけです。パウロは別の聖書の箇所でキリストを「初穂」とも表現しています(1コリント15:20)。麦の穂を収穫する季節になると、収穫を祝います。収穫の初穂の束を祭司のところに持って行って祝ったそうです。そうして、初穂が神様に捧げられれば、これから多くの収穫が期待できるわけです。この初穂と同じように、キリストの復活は、それに続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものであったとパウロは言うのです。
このように、イエス・キリストは天地創造の主であり、教会のかしら、そして復活の最初の人であるというように、神は「満ちあふれるものを、余すところなく、御子キリストの内に宿らせた」のです。

Ⅳ.キリストの平和

その、キリストがなさったことは、いったいなにか。それが、20節です。神は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
20節は二つのことを言っていると思いました。「キリストによって平和を打ち立てた」、そして、「キリストによって和解させた」ということです。キリストが「平和」と「和解」をもたらしたのです。これがどのようなものなのか。それぞれ見ていきたいと思います。
まず、「平和」というのは、どのような平和でしょうか。パウロはユダヤ人でした。ですから旧約聖書をよく読んで、真の神様を信じていました。しかし、パウロがかつてそうであったように、ユダヤ人は自分たちの神様は、自分たちユダヤ人だけを救ってくれる神だと考えていました。それどころか、外国に住む異邦人は汚らわしい者だとさえ思っていました。ですから、ユダヤ人はギリシャ人をはじめ、その他の異邦人と、一緒に食事することも避けていましたし、異邦人と結婚することも避けていました。そのようなユダヤ人は異邦人から見ても、嫌な存在でした。ですから、ユダヤ人と異邦人には大きな壁があったのです。しかし、キリストが十字架に架かられて、死んで復活されたことによって、その救いは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、国や人種の分け隔てがなくなりました。その二つの隔たりがなくなって、一つとされました。二つのものを一つにし、壁を取り壊したキリストの平和のことです。平和と言った時に、大切なことは、まず何よりも神との平和が必要であるということです。

Ⅴ.和解

次に「和解」ですが、20節で神様が「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とあります。キリストを通して神様と人間との和解をしたことで、被造物すべてが神と和解した。平和になったとパウロは言うのです。「和解」という表現は、生きている者同士の人間的な関係を思い起こさせます。先ほど、「キリストは教会のかしら」であると話しましたが、この比喩は単に説明のための比喩だけではなくて、教会というものが本質的に人間的な存在であることをパウロは言っているのです。ですから、神様と教会の関係、神様と人間の関係は、契約や法律的な冷たい関係ではなくて、本質的には人と人との絆のような関係です。家族のような関係の中にあるのです。パウロは他の書で、「神の家族」とも表現しました。たとえば、家族であっても叱られたり、喧嘩したり、家族ならではの難しさもあります。それを取り繕うには、心を開いて相手の心に歩み寄る必要があります。家族であっても、そうやって信頼関係を取り戻す努力が必要です。人間は、創世記のエデンの園での生活は、神と家族的な平和な関係でした。しかし、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と神様は、人間に警告をしました。
これは、契約を破ったら死刑になるというような、恐ろしい命令というものではないのです。人間は神とは違うのだから、神様に造られた、か弱い、限りのある存在で、そのことを示す為に、親が子どもに教えるような愛の警告だったのです。その警告を無視してその実を食べてしまった。神と人との関係はこじれました。せっかくあった「神の家族」という関係がこじれたのです。
しかし、神様はイエス・キリストを地上に送るという、和解の手段を示して歩み寄ってくださったのです。十字架に架かった、神の御子イエス・キリストを主と信じたならば、また絆は回復する。これが「和解」の手段でした。イエス様を信じることによって、再び「神の家族」という絆を取り戻せるようになったのです。
神様が歩み寄ってまでした「和解をしたい」という気持ち。独り子を地上に送ってまでして、「和解をしたい」という、神の切なる願いを察してみてください。その切なる願いは、パウロがこの手紙を書いて、コロサイの信徒の人々に向けた思いと重なると思いました。
コロサイのみなさん、「神が差し出した和解の手段に感謝して、神との平和を保って欲しい。」まるで、親が子どもに向けるような家族へのメッセージです。
今日は、キリストについて、キリストが死者の中から最初に生まれ、今も教会のかしら、「平和」と「和解」をもたらしたという、パウロの手紙を読んできました。
この一週間、「あなたと和解をしたい」と切に願って下さった神に感謝して「神の家族の平和」を保って、一日一日を歩んでいきましょう。お祈りをします。