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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

神の語りかけの中に生きる年

2016年1月1日 新年礼拝
松本雅弘牧師
詩編119編105節

Ⅰ.はじめに

 新年、あけましておめでとうございます。今年私たちは「御言葉と祈りに生きる」というテーマで、詩編119編105節の御言葉を主題に歩んでまいります。年の初めに、御言葉と祈りの生活が意味することを、ご一緒に考えるところから始めていきたいと思います。

Ⅱ.御言葉とは

 ところで、聖書で「御言葉」と言う場合、通常3つのことを指して使われています。1つは、イエスさまのことを御言葉と呼びます。イエスさまご自身が御言葉そのものですね。「肉体となった御言葉」と言われます。2つ目は聖書のことを御言葉と呼びます。聖書とは「書かれた御言葉」です。3つ目に、聖書の説き明しである説教のことも御言葉と呼びます。つまり「語られた御言葉」としての説教です。そして、この3つの関係が大事なのです。
洗礼者ヨハネがイエスを見た時に、「見よ、罪を取り除く神の小羊」と言って、イエスというお方が誰であるのか指し示したように、聖書も説教も究極的には、御言葉そのものであられるキリストを指し示すものなのです。
ですから「御言葉と祈りに生きる」と言った時、御言葉自体が御言葉そのものであるイエス・キリストを証しするものですから、御言葉と祈りを通して、ぶどうの木であるキリストにつながり、キリストに出会うということ、それが、今年のテーマが指し示す恵みだと思うのです。

Ⅲ.祈りは聴くこと

次に祈りについて考えてみたいと思います。祈りとは基本的に神さまに向けられるものです。私たちは祈りを通して神さまに様々な願い事をします。また神さまと親しくなるにつれて、不満や悩みを打ち明けたりもします。でもそれは祈りの入り口です。そこから入って、次のステージに進まなければならないでしょう。それは何かと言えば「聴く」ということ、「聴く祈り」です。
サムエル記上の3章には、祭司エリから、祈りについて学ぶ少年サムエルの様子が出てきます。
サムエルは祭司エリに教えられたように、「お話ください。僕(しもべ)は聞いております」と主に祈りました。これが、聖書の教える祈りの基本的な態度です。祈りは主なる神さまに聴くことです。しかし、洗礼を受けて何年経っても、私の側の願いや要求を言葉にしてあげ連ねることで終わってしまうことが多いように思います。もし、そうしたことに気づいた時には、まず、時間を取って、私の側にある思いを、神さまに向かって全部はき出してみましょう。神さまは愛のお方ですから、じっくりと腰を据えて、私の思いのたけを聴いてくださいます。ですから、まずは私の側の気持ちを全部神さまにはき出し、空っぽになったところで、次にゆっくりと神さまの語りかけに耳を傾けて聴いていきましょう。その結果として、神さまに聴く姿勢が整っていくのです。
 聴く祈りとは、具体的にはどのようなものでしょうか。そのことを考えてみたいと思います。この点についてイエスさまは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、独特な表現をお使いになりました。まずは私の側で「聞く耳を持つ」ことです。耳を澄まして、心を静めてよくよく聴かなければ分からないのが、神からの語りかけだからです。
不思議なことですが、大事な話になると、私たちは急に声が小さくなります。そしてさらに不思議なことに、語る側の声が小さくなると同時に、聴く側の耳はダンボのように大きくなります。つまり心を静めて、耳を澄ますのです。
昨年から「エクササイズ―生活の中で神を知る」の学びを始めています。そのことを通して教えられてきたことですが、呼吸を整えて心が静まると、不思議と私たちの心は開いてくるのです。そして、心が開かれ、聴く姿勢になった時、つまり「聞く耳を持った」時、私たちは聖書を通して、神さまの呼びかけ、神さまの語りかけを聴くことができるようになっていきます。そして、そうした静けさの中で自分を見つめ直すことができるようになるのです。
神さまは聖書や説教という御言葉を通してだけではなく、様々な出来事を通して働きかけてくださいます。ですから、心が開かれ、聴く姿勢を持つ時、そうした日常の出来事の中からも、神さまからのメッセージやサインを敏感にキャッチできるようになるわけです。
列王記上19章には、預言者エリヤが、カルメル山でバアルの預言者を相手に勝利をした後、物凄い虚無感に襲われた出来事が出てきます。あれだけ勇敢に闘ったエリヤがイゼベルを恐れ、一目散に逃げていくのです。そして、神さまに向かって「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と訴えるエリヤの姿がそこに描かれています。
神さまがそのエリヤをどうお取扱いになるか、その様子が記されています。神さまは、御言葉それ自体をエリヤにお語りになる前に、彼の側に聴く姿勢を整えようとされています。具体的に言えば、まず、エリヤ自身の疲れを癒し、体力を回復させることから始めているのです。何故なら、神さまは人間が肉体を持ち、それ故に弱さや限界を持つ者であることをご存知だからです。ここで神さまは、エリヤが安心して休めるように、彼を覆い隠すことができ、また日陰を提供できるように、「えにしだの木」を備えてくださいました。ある程度睡眠を取ったところで、主は、御使いを通してエリヤに触れ「起きて食べよ」と言われました。そこには、「枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があった」とあります。つまり、出来立ての手作りパン、そして十分な水がエリヤのそばに、それも枕もとに置かれていたのです。神さまからの「おもてなし」、ホスピタリティーをエリヤは感じたのではないでしょうか。
そして、食事をした後、再び横になってしばらく休んだエリヤを起こす際にも、ただ言葉かけをしているのではありません。「御使いは…エリヤに触れ」という言葉が出てきます。神さまは御使いを通して手を当ててくださる、タッチしてくださるのです。神さまの愛が体にしみこむように、優しく触れてくださるのです。疲れたエリヤにとっては大きな、本当に癒される経験だったのではないかと思います。
このようにして、エリヤ自身が「聞く耳」を持つ状態へと導かれた上で、神さまは初めて御言葉を与えておられるのです。そして、この御言葉は、激しい風や地震、火を通してではなく、「静かにささやく声」として、エリヤに大事な御心を伝えていかれるのです。
このように神さまの語りかけは、様々な方法で、しかも静かであり、微妙なのです。だからこそ耳を澄まして、よくよく聴かなければ聞こえてこないのです。
私が心を静めた時、その静けさの中で、神さまはそっと語ってくださいます。同時に、「神さまの語りかけは様々な方法で」と申しましたが、エリヤのために用いられた、「えにしだの木」、「出来たての温かな手作りパン、水」。しかも、それらが枕もとに置かれていたこと、そして、体に触れていただいたことなど、それらすべてが、神さまの自分に対する取扱いであることをエリヤは受けとめていったと思うのです。

Ⅳ.神に愛されていることを実感するために

 最後にもう1つのことをお話しします。それは、神の語りかけを待つことについてです。
これまでご一緒に考えてきましたように、神さまが、いつ語ってくださるのかそれは分かりません。私たちが時を決めることはできないからです。ですから、そのために私の側では「待つ」姿勢が大事です。時に「なんで?」と思うような出来事や悩みの中で、なかなか答えが見つからないようなことが起こります。そのために必要な私たちの姿勢は、じっくりと待つこと、その待つこと自体が祈りとなる、ということです。
イエスさまのお母さん、マリアの姿にその良い例を見ることが出来ると思います。マリアは、その生活の上で起こる様々な出来事の意味をすぐには理解できずにおりました。そうした中で彼女は分からないことから逃げることなく、それを心に納めてゆっくりと思い巡らしていたのです。
私たちもこのマリアの態度を見倣いたいと思います。すぐに答えが分からないことに対して、絶望し焦ったりするのではなく、その出来事をゆっくりと味わってみるのです。それが神さまの語りかけを待つこと、祈りになるからです。こうした祈りのプロセスこそが何よりも大切です。そうした時間をかけての思い巡らしによって、今まで気づかなかったことに気づき、見えなかったことが見えてきたりするものです。自分にとってマイナスだと思ってガッカリしていた出来事、それ自体が、実は、自分を成長させる貴重な経験だったということが、後になって分かることもあるのです。まさに、御言葉と祈りの生活の目指しているところは、このようにして、神さまは私を本当に大切にしてくださっている、そのことに気づくことです。神さまの愛を実感することなのです。
 今年、御言葉ご自身であるイエスさまと深く交わることを通して、2016年に私たちが歩むべき道を照らす光、そして灯である御言葉に導かれていきますように。神さまが願う私たちの歩みとなりますように、神さまの語りかけの中に生きる1年でありたいと心から願います。お祈りいたします。