あなたは大切な人です

主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

わたしたちの原点


2016年1月10日 夕礼拝
関伸子副牧師
イザヤ書53章1~12節
ヨハネによる福音書1章19~34節

Ⅰ.主イエスの十字架の出来事を見つめて

私たちが現在、礼拝で使っている讃美歌21の460番に「やさしき道しるべの」という、美しい歌があります。54年版では288番でした。その賛美歌の魅力もあって、葬儀の時にもしばしば歌われます。作詞をしたのは、ジョン・ヘンリー・ニューマン、1801年生まれで、1890年にその生涯を全うした英国の牧師、神学者です。この人が、初めて南ヨーロッパ、地中海の周りを訪ねて帰る途中で大病に遭い、奇跡的に回復し、帰りの船で輝く灯台の光りをみてこの詩をつくったということです。彼は英国教会、日本で言いますと日本聖公会の建てている教会ですが、イングランドの国教会の聖職者でした。40歳半ばに自分の教会に失望するところがあったのでしょう。カトリック教会に転じ、後にカトリック教会の聖職者の中でも、もっとも重要な地位である枢機卿になって亡くなりました。
この人はすぐれた説教者です。その説教についてこう書いています。「ニューマンは私たちに主のご受難の出来事の幾つかをまざまざと描きだすように語った。『今わたしは皆さまにお願いする。どうぞよく考えていただきたい。これらの仕打ちが誰に対してなされたかを。それは全能の神』。この簡潔な叙述でその時何が起こったかを、私たちも微かに、知ることができます。主イエスのみ苦しみの出来事、ひどい仕打ちを幾つか語って、これが誰に対してなされたかをよく考えてほしい。この仕打ちをしたのではなくて、受けておられたのは誰か。他ならぬ全能の神であられた。ニューマンはまるで自分が見ているヴィジョンをいつもじっと見続けているようなまなざしで説教をしたと、ある人は伝えています。

Ⅱ.あなたは誰ですか

「ここでこのような仕打ちを受けているのは誰であったか。全能の神」。先ほど読みましたイザヤ書の53章もまたその驚きを既に語っています。ヨハネによる福音書は、この19節以下の部分にもまだ主イエス・キリストの姿は出て来ません。26節に、このような形で登場します。洗礼者ヨハネの答え、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」ニューマン牧師が持っていた信仰のまなざしがあなたがたにはない。19節の「ヨハネの証しはこうである」という言葉から、この叙述は始まります。「証し」という言葉は、この福音書記者が丁寧に用いている言葉です。一方で私たちが知らなければならないのは、この言葉に続いて19節の終わりに「質問させた」という言葉があり、20節に「公言して隠さず」という言葉があり、更に「言い表した」という言葉が続くことです。これらの言葉はいずれも裁判用語です。
ここでは誰が裁いているのでしょう。エルサレムのユダヤ人たちです。裁かれているのは、第一にヨハネです。いなごを食べ、粗末な衣服を身にまとい、禁欲の生活をし、ユダヤの人びとにその罪を悔い改めて洗礼を受けることを求めていた。だから「バプテスマのヨハネ」と呼ばれた人です。ユダヤ人は、洗礼とは本来自分たちが受ける必要はないものだと思っていました。なぜかというと、生まれながらの神の民なのですから。それなのに、ヨハネはユダヤ人にも洗礼を勧めました。エルサレムにいる祭司たち、レビ人たちは、辺境の地ヨルダンの向こう側でそのような運動を始めて、自分たちの足もとからもつぎつぎと引き寄せられて群衆がヨハネのもとに赴くことに耐えられなかったのです。

Ⅲ.主イエス・キリストの証しをする

ここではヨハネがまず、「お前は誰だ」と裁かれています。しかし、ヨハネ福音書は「証しをする」という言葉をもうひとつ特別な意味で使います。自分のことについては言葉で何の言葉を語らなくても、「わたしは誰だ」という問いに答えながら主イエスの証しをするのです。
ところで、改革者ルターはこのところで、これはヨハネに対する試みの言葉であったと書きました。ルターはドイツのそれほど大きくはない町の修道院の修道士でしかありませんでした。自分が心中に抱いた信仰の事柄についての疑いを神学的な問いとして提出しただけでした。ところがそれが導火線になり、大爆発を呼び起こしてしまって、当時の世界の歴史が揺れ動くようなことにまでなりました。ルター自身、誘惑を感じたと思います。自分でも世直しができる。自分も救世主になれる。そう錯覚する危険は、ルターにとっては切実なものでした。洗礼者ヨハネがどのような誘惑にさらされたか、だれよりもよくわかったであろうと思います。わたしはわたしを救うことなどできませんと言うならば、そこでメシアに場所をあけなければなりません。それが信じるということです。それこそ、「わたしはメシアではない」という言葉が持っている真実の意味です。ヨハネはそれをここでしているのです。あなたは誰か、わたしはキリストに、わたしの場所を明け渡した者だと言うのです。

Ⅳ.神の臨在を証しする者となる

 このあと続いて「あなたはエリヤですか」と問われて「違う」と言い、「あの預言者なのですか」と問われて、それも違うと言いました。ここで思い起されるのは、旧約聖書の最後の預言の言葉であるマラキ書が記す、たいへんよく知られている言葉です。その3章23節、「見よ、わたしは/ 大いなる恐るべき主の日が来る前に/ 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」神の最後の審きのとき、また決定的な救いがもたらされるとき、その先駆者として預言者エリヤが来るとマラキは語ったのです。背景にあるのは申命記18章15節以下です。
イスラエルの民を導いたモーセが、いつの日かわたしに似た預言者が登場するということを既に預言しました。神の決定的な審きに先立つ預言者と考えられました。そして、エリヤにしても、モーセが語る「あの預言者」にしても、いずれも世の終わりのイスラエルにとっての決定的な救いをもたらす時に現れるべき人物と信じられ、待望されるようになりました。エルサレムにいて洗礼者ヨハネの運動のことを聞き、その評判を毎日のように聞いているときに、心穏やかではない思いをユダヤの宗教的指導者たちは抱きました。ファリサイ派と祭司は犬猿の仲のようにお互いに争っていたと知られていますが、そうであっても共通の敵が出てくると、しばらくの間仲良くなることは私たちもよく知っています。これは今日でも国と国との間で、政党と政党の間で、いくらでもしていることです。あなたは何の権限をもってするのか。許し難いことではないか。そこでヨハネは答えるのです。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(26~27節)。
ジョン・ヘンリー・ニューマンは、16歳のときに信仰の目が突然開かれる体験をしたそうです。「『あなたは神の存在を信じるか』と言われて、わたしは『もちろん』と答える。『その理由』と問われたならば、『わたしは自分を信じているから』と答える」というのです。なぜそんなことが言えるのでしょうか。神がわたしたちのところに来てくださり、わたしの中に来てくださっているからです。このこととあの十字架のご受難を語りながら、「ご覧なさい、あそこで苦しみを受けているのは全能の神」と言った信仰の告白とはひとつに重なるのです。しばらくの沈黙、そして会堂の隅ずみまで、ああ、今説教者の声が震えているということが分かるような声が震えがある。それはその説教者の心の中にあるものが何であったかをたいへんよく示していると思います。洗礼者ヨハネの声も、そのような意味では、時に震えることがあったのではないかと想像して間違いないとさえ思っています。願うことならば、私たちもまたその微かに震える声で神のご臨在を証しする者となり切ることができれば、いや既にそのようになっていることを感謝して受け止めることができればと願います。お祈りいたします。