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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

主のなされる新しいこと


2016年1月31日
関伸子副牧師
イザヤ書43章14~21節
フィリピの信徒への手紙1章3~11節

Ⅰ.神が与えてくださった新しいわざ、救いのわざ

2016年、新しい年が明けて既に1ヶ月が経ちました。みなさんは新年に新しい思いを抱き、神さまへのおささげカードに今年の祈りの課題を書かれて、今もその祈りをあつくされているでしょうか。人間の新しさというものは、やがて古びてしまう。これは当然のことです。そのような私たちですけれども、神さまの前に、毎週、このようにひざまずいて礼拝の時を与えられている恵みを、何にもまさる主からの恵みと心から感謝して、私たちは「礼拝に生きる」ことを週毎に新しくして歩みたいと思います。
今日読みました聖書の中にイザヤ書で、神がこう語られている言葉を聞きました。「見よ、新しいことをわたしは行う」(19節)。神さまがなさる新しいこととは何か。あなたたちを、バビロンに捕らえられている捕囚の状況から解き放つ。やがて、そのことは起こる。荒野に道を設け、砂漠に川を流れさせる。私は選んだその民に水を、いのちの水を豊かに飲ませる。この民は、私のほまれを述べさせるために、私が造ったのだから、と神さまは言われます。

Ⅱ.わたしたちが新しくされるということ

あくまでも、この新しいわざ、新しさというものは、神さまが造ってくださるものだと言わなくてはなりません。渡辺善太という牧師が「我が過去を踏み直したもうイエス」という題で説教をし、それが、説教集『わかって、わからないキリスト教』に載せられています。それはどういうことかと言いますと、イスラエルの人たちの歴史というのは、あの荒野にあった40年の旅路だけではなくて、それ以後、彼らが歩み続けてきた歴史というものが、すべてと言ってよいほどに、不信仰、神さまに対するこの不真実に染められたものであったと言えます。そして、マタイによる福音書2章で、あのヘロデ王の主イエスに対する殺意を夢に聴いた、天使のみ告げにより、ヨセフはマリアと、幼子イエスを伴って、エジプトに逃げて行きました。それは預言者が、「わが子をエジプトから連れ出す」という預言の言葉が成就するためでした。なぜ、主イエスがエジプトに逃れなくてはならなかったのか。それは、神さまが自分のみ子をエジプトから救い出されるためであった、と言うのです。それでは、なぜエジプトからみ子を引き出さなくてはならなかったのか。それは、その歩んだ足の跡を、主イエス・キリストが、この両親に抱かれつつ、彼らの歩んだその足跡を踏み直すためであった、と渡辺先生は言うのです。そして、私たち個人の歴史もそうである、と。
私たちは、自分自身、隠れたところで、人の目に触れないところで、自分が歩んできた過去に、あんなことをしてしまった、こんなことをしてしまったというような思いになってしまうことがあります。ちょうど白い雪が降ったところを、私たちがこう歩いてくる。そこには黒い土が現れて、雪が汚れてしまうようです。私たちには、その過去を消すことはできません。しかし、その私たちの罪に汚れた足跡を、よろめきながら、さまよいながら歩んできたその足跡の一つひとつを、主イエス・キリストがしっかりと、その上をご自分の足をもって踏みつけるようにして、踏み直してくださったのです。私たちが新しくされるということは、こういうことではないかと思います。

Ⅲ.善い業を成し遂げる

旧約の人びとが願い、待っていた、その望みが、この主イエス・キリストによって、ここに成就したのです。主イエスが新しいわざを私たちの中に始めてくださった。フィリピの信徒への手紙1章を読みました。そこで、パウロはこう書いています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(6節)この神さまが私たちの中に始めてくださった「善い業」というのは、内容的に言えば、今、私たちが辿ってきた、神が主イエス・キリストによって始めてくださった新しい業ではないかと思います。それを使徒パウロはこういうふうにも言い表しています。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」(5節)福音の言葉を聴く。私たちが礼拝の中で、説教の言葉を聴き続ける。そこで、信仰を与えられ、キリストの恵みの中に生きることができるようになった。
しかし、そのように福音にあずかって生きることができるようにされた者は、また同時に、キリストの言葉が宣べ伝えられ、広められていくために、自分もまた何かの形でそれに参与し、加わっていくのです。それに力を添えていくのです。
そしてパウロは続けます。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。ここで「キリスト・イエスの日までに」というように訳していますけれども、これは「キリスト・イエスの日に」とも訳すことができる言葉です。私たちのこの人生の始めも終わりも、わざの開始も完成も、みんな、この自分の手の中にあるのではなくて、主がこの善いわざを始めてくださって、それを完成してくださる。そのキリストに、パウロは目を注ぎながら、フィリピの教会の人びとのわざが完成されることを、自分は確信しているのだ、と言うのです。

Ⅳ.神の恵みにあずかる

 このフィリピの信徒への手紙というのは「獄中書簡」と呼ばれていて、パウロが獄に捕らえられて、獄の中から書いたいくつかの書簡の中のひとつです。パウロは、「監禁されているときも」、また「福音を弁明し立証するときも」という言葉をふたつ並べて書いています。獄に捕らわれているということと、福音をパウロが堂々と立証し弁明するということが、同じひとつの状況の中で、このふたつのことが起こっているということなのです。
それゆえに、パウロは自分が牢につながれたということを、フィリピの教会の人びとに書き送ったときに、恵みに共にあずかる者として、私はあなたがたを深く心に留めている、というのです。神の恵みにあずかる、そういう仲間として、フィリピの教会の人々に、あなたたちを私は心に深く思っているのだというのです。
私たちは、新しい年の歩みをしています。この年もまた何が起こるか分かりません。讃美歌21の 367番に「新たな月日を 主のみ手に委ね」「たとえ死のかげの 谷を行くときも」という歌詞の年末・年始の歌があります。禍と幸い、良いことと悪いことが行き交う。しかし、その禍と思えること、人間の目から見たら不幸だと思えるような事柄の中に、むしろ深く神の恵みが、神の慈しみが隠されている、ということもあるのではないかと思うのです。そういうことを通して、私たちは一層深く、神さまの恵みを知る。
このようにキリストにより救いにあずかることを許されたものは、神に感謝と賛美をささげます。それが「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」という、11節のみ言葉です。カール・バルトという神学者であり牧師である人は、「神に感謝と賛美をささげる」ことは、私たちが自らを「恥じる」ことを含むと指摘します。
その私たちの過去を踏み直してくださった主が、今、私たちの前を先立って進んで行かれます。その主の後を、主に従って歩んで行きたいと思います。私たちの歩みがどんなにおぼつかないものであっても、また自分の罪の深さにたじろいで足が躓くようなときにも、主が私たちを捕らえ、支えていてくださる。そのことを私たちは信じて、この主に対する確信のゆえに、再び来てくださる主を仰ぎ望みつつ、共に福音に、また、恵みにあずかる者として、ここに主が造ってくださいました共同体の歩みを、私たちは、しっかりと、礼拝に生きることから始め、また祈り深く、生き続けてゆきたいと願います。お祈りをいたします。