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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

神の言葉で生きる


2016年2月14日夕礼拝
関伸子副牧師
申命記8章1~10節
マタイによる福音書4章1~11節

Ⅰ.パンを与え、養われる主

今日、私たちに与えられている聖書の記事は、主イエスの「荒れ野の誘惑」と題されることの多い、よく知られている物語です。この荒野の誘惑そのものの物語よりも、もしかするともっと広く知られていると思われる聖書の言葉が4節に出てきます。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)。
これは、申命記8章3節からの引用ですが、その前半は特に有名です。4節の意味を理解するために、もとの申命記の前後を注意深く読んでみましょう。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。」(申命記8:2)イスラエルの人々はモーセを通じてエジプトから導き出された後、放浪の旅をしなければなりませんでした。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。」(同3節a)神はただ人を困らせようとされたのではありません。ですから人を飢えのまま放っておかれませんでした。毎日毎日、マナという天から来る不思議な賜物で、直接、彼らを養われました。ここで、引用の言葉が出てきます。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(同3節b)

Ⅱ.悪魔の誘惑

「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、どういう場面で主イエスが語られたのでしょうか。これは空中に描かれた言葉ではありません。主イエスの荒野における誘惑との戦いの中においてです。1節に、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。1節では「悪魔」と書かれているのに、3節では「誘惑する者」と言い換えられています。悪魔は、よく漫画にあるように、二本の牙があり、しっぽがはえていて、いかにも「悪魔でございます」という顔をして登場するわけではありません。空腹どころか、もう飢え死に寸前の主イエスのところに悪魔は賢い助言者のようにして近づいてきたのです。しかも、福音書は明記します。この主イエスが荒れ野に導かれたのは霊によってであったと。主イエスはこの時すでに、あのゲッセマネの祈りを体験しておられるのです。あのゲッセマネの園における祈りに似て、主イエスは空腹に耐え、血の汗を流しながら、神よ、あなたがここでこそ、神であられるということはどういうことですかと問われたのです。

Ⅲ.霊に導かれて

悪魔は最初の誘惑に失敗すると、今度は主イエスをエルサレム神殿の屋根の上に立たせました。当時の人々は「救い主はエルサレム神殿の頂上に現れる」と信じていましたから、これはイエスが神の子であることを示す絶好のチャンスであったわけです。「神の子なら、飛び下りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(6節)。悪魔が引用したのは、詩編91編11~12節の言葉ですが、これは元来、どんな時にも神は私たちを守ってくださるという信仰の歌でした。しかし信仰の歌でさえも悪魔の道具になり得るのです。
 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という長編小説の中に「大審問官」という物語があります。みなさんの中にもお読みになられた方がいると思います。舞台は16世紀のスペイン、宗教裁判の盛んな時代です。大審問官というのは、その裁判長、いわばキリスト教世界の最高責任者です。そこへ、キリストがひょっこり帰ってくるという話です。そこへ大審問官が通りかかり、キリストを捕まえてしまうのです。その夜大審問官は、こっそり牢屋のキリストを訪ねて、とうとうと話しをしました。「あなたはなぜ今ごろ、のこのことかえって来たのか。困るではないか。キリスト教会は、あなたの後、実はあなたの教えの上に成り立っているのではない。本当は、あの時あなたと対決した悪魔のほうが正しかったのだ。あの時、あなたがあんなことを言ったものだから、キリスト教会はこんなに苦労したのだ。大多数の一般民衆にとっては、パンを与えられて、奇跡と神秘を見せられ、絶対的な権威のもとに置かれたほうが幸せなのだ。それを示してくれたのはあなたではなく、あの悪魔であった。」90歳になる大審問官は、これまで誰にも言えなかったことを、しびれを切らして言いました。「なんとか言ったらどうだ。わたしはあなたを生かすことも殺すこともできるのだぞ。」その後どうなったかと言えば、キリストは無言のまま、この年老いた大審問官に近寄り、そっと唇にキスをするのです。大審問官は一瞬ぎくっとして、唇がぴくりと動きます。そして牢屋の扉を開けて、わなわなと震えながら、「さあここから出て行け。二度と戻ってくるな。どんなことがあっても絶対に帰ってくるな」と言い放ちます。そしてキリストは音もなく、暗い街の中へ立ち去っていきました。「大審問官」の物語は、私たちに「信仰とは何か」という深い問いを突きつけています。
 聖書は言葉をもって近づいて来た悪魔に向かって、主イエスも聖書の言葉をもって答えられました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」(7節) 主イエスはやがて十字架の上で、この時悪魔が語ったのとそっくりの言葉を聞くことになります。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(マタイ27:42-43)しかし主イエスは降りてきません。他人を救うために、自分を救わない。イエス・キリストは、力によってではなく、愛によって、神の子であることを示されたのでした。

Ⅳ.誘惑を退ける

 悪魔は二回の誘惑に失敗すると、いよいよ本性を現してきました。悪魔はここで自分のもてる力を全部出し切ります。主イエスを高い山の上に連れて行き、世界中の繁栄ぶりを見せて、「これを全部あげよう、ただし私を拝んだらね」と言ったのです。日本語では、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」が先になっていますが、原文でも英語の聖書でも「これをみんな与えよう」が先です。条件を表す副文章が後ろについている。本当に言いたいことを、あたかもおまけのようにして言うのです。ドイツの説教者ティーリケは、この副文章こそが、実は主文章であると言いました。
 悪魔の誘惑に対して、主イエスは「退け、サタン」(10節)と答えられました。悪魔と議論することは、かえって悪魔の思うつぼです。これは、牧師である私自身への戒めでもあります。牧師の仕事は神に仕えるはずのものでありながら、自分の栄光を求めていることがあります。このぎりぎりのところに立たされ、それと絶えず闘っています。悪魔の狙いは、神に栄光を帰させないことだからです。主イエスは、この「退け、サタン」という言葉に加えて、「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と語られました。これは申命記6章  13節の引用です。悪魔の「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」という言葉に対して、「あなたの神である主を拝み」と答えられました。主イエスは、この悪魔のささやきが本音であることを見抜いておられたのです。「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」(11節)とあります。1節には、荒れ野に導いたのは“霊”であったとありました。これは悪魔の本拠と見えた荒れ野においてすらも、その初めと終わりは、神の支配下にあったということです。
私たちもペトロのように、主イエスの前に立ちはだかって、「サタンよ」と言われることがないように、主イエスがここで悪魔に対して「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖書の言葉を、もう一度はっきりご自分のいのちを賭けて語り直してくださったことに、深い感謝を表したいと思います。お祈りいたします。