あなたは大切な人です

主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

永遠のいのちに生きる道


2016年3月13日受難節第五主日 夕礼拝
関伸子副牧師
イザヤ書52章13節~53章5節
ヨハネによる福音書12章20~28節

Ⅰ.一粒の麦は、地に落ちて死ななければ

このヨハネによる福音書12章24節に、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。みなさんの中には、「一粒の麦もし死なずば、ただ一つにてあらん」という文語の言葉で覚えておられる方もあるかもしれません。ヨハネによる福音書の中にあるみ言葉としては、神がその独り子を与えてくださったほどに、この世を愛してくださったことを告げる3章の16節と並んで、私たちがその箇所を開いてみることができなくても聖書の言葉として口にすることができるものです。小説を読んでいても、誰かのエッセイを読んでいても、おや、と思うところに、「一粒の麦もし死なずば」という主イエスの言葉が引用されているのに気づきます。
特に心に留めたいのは、この言葉は、来週の棕梠の主日におそらく語られたと考えられることです。13節に「なつめやし」という言葉があります。これは口語訳では「棕梠」となっていて、これに基づいて、2週間後の主日に祝う主の復活の記念の主日に先立つ来週、主イエスがエルサレムにお入りになった日を、棕梠の主日と呼んでいます。
この時エルサレムに主イエスがお入りになるのを大勢の人が歓迎しました。19節に、「世をあげてあの男について行ったではないか」という言葉が記されています。ユダヤ人だけではなく、20節に、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人びと、あるいは主イエスをエルサレムに迎えたときにそこに立ち混じっていたのかもしれない人びとの中に「何人かのギリシア人がいた」と続けて書いています。このギリシア人との深い結びつきで、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」というみ言葉が語られているのです。

Ⅱ.ギリシア人たち

ここに登場してくるギリシア人がどういう人たちであったのかは推測するよりほかありません。祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人びとの中にいたという言い方から、このギリシア人もまた礼拝するために来たのであろうと、まず理解することが多いようです。『図説キリスト教文化史』という、原書房というところから出版されている本が3巻刊行されています。この本にこのようなことが書いてあります。主イエスが伝道をされていた頃、ギリシア人とユダヤ人の関係はたいへん悪かった。こういう過越しの祭りの時に巡礼者が多く集まります。エルサレム近郊のユダヤの国に住んでいる人だけではなくて、エルサレムから遠く離れた、むしろギリシア人支配地域にいつもは住んでいるユダヤ人たちがここにやって来ていると見ることもできるのです。もしかするとその友人たちであるかもしれません。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と言う言葉が示しているように、この人びとは主イエスに会いたかった。このギリシア人たちは求道者でした。
なぜフィリポが出て来たかと言うと、フィリポという名前はギリシア的な名前だそうです。アレクサンダー大王というギリシアのマケドニア出身の王がいますが、その父も王であり、フィリポという名前です。12人の弟子の中で自分たちにいちばん近い名前を持っている人に親しみを持ったのかもしれません。アンデレがなぜ出て来たのでしょう。これも1章を見ますと、シモン・ペトロの兄弟です。アンデレもまた、フィリポがナタナエルのところに行くのに先立って、兄弟のところに行って、わたしは救い主を見た、お前も一緒に行こうと言って誘ったと記されています。明らかにここではフィリポとアンデレは主イエスを紹介する役割を担った伝道者の模範として、特にその名を記されていると見ることができます。みなさんも、独りでここへやって来られたわけではありません。

Ⅲ.麦のイメージの中で生きておられた主イエス

全世界に教会がある限り、人びとはキリストの教会に尋ねます。本当に神はおられるのか。私たちの人生にとって確かな望みはあるのか。愛は真実に可能なのか。そのさまざまな問いかけに教会が答え得るただひとつの答えを与えられています。一粒の麦が死ななければ多くの実を成す場はなかった。今その実りがここにある。あなたにもその実りが与えられている。これが私たちに与えられている答えです。
主イエスは他の機会にも麦についてよくお語りになりました。たとえば種まきの話をなさいました。この種というのも麦の種であるとまず考えることができます。麦が成長していくとき、そこに毒麦が混じっているなどという話をなさることもあります。ナザレの村の周りにいくらでも麦畑がある。麦が耕された黒い土の中に落ちて、姿を隠してしまう。死んだとしか思えない。そして何もなくなってしまったように思われるところに、投げこんだ種のあるところから緑の芽が吹き出し、捨てられたはずの粒と同じ粒がたわわに実り、自分の養いになる。そこに神の不思議な愛のみわざが既に映し出されているのを主イエスは見ておられた。そして神のみこころを知るようになった時に、自分がその一粒の麦になることこそ、神のご意志であることを知るようになったのではないでしょうか。

Ⅳ.栄光を与える

 ギリシア人が「お目にかかりたい」と弟子を通して申し出たとき、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と答えています。「人の子」というのは「救い主」という意味の言葉です。人びとがそのように救い主のことを呼んだのです。地に落ちて死ぬ一粒の麦のように主に、イエスのうちに栄光を見るとき、真にイエスに「お目にかかった」ことになるからです。
 先ほどイザヤ書の言葉を読みました。52章から53章までに語られる、「苦難の僕の第4の歌」です。本当に不思議なことで、今はイザヤ書に納められていますが、もう既に無名となった預言者、あるいはひとりではなく何人かの預言者群であったかとも想像される人びとが、神の救いはいったいどこに現れるのかということを、この僅かな、しかし凝縮された表現に言い表しています。諳んじるほどに何度も読みますが、読むたびに感動が溢れます。この預言の歌をなぞるように主イエスは来られました。
 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。この25節の言葉も一粒の麦についてのみ言葉としっかり結び合された言葉として覚えていなければなりません。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」  (26節)。信仰生活を全うするのはとても難しいです。たとえば教会生活が困難になるということが起こります。大切なことは、主イエスがおられるところにいるということです。礼拝の場所以外にも、主イエスはいてくださる。どこにでも主イエスはいてくださる。その主イエスがおられるところに自分がいるのだと言えるのです。しかも、ここではそれだけではなくて、「父はその人を大切にしてくださる」という言葉が付け加えられています。「大切にする」ということばはとても重い意味を持った言葉です。神がわたしを重んじてくださるというのです。洗礼を受けた者を神は重んじてくださる。宝物にしてくださる。
 憎まなければならない「自分の命」というのは、自分で自分の命の主人になろうとして生きるときに見えていた命です。自分の手の中に握りしめ、自分で生かそうとしていた自分の命です。罪の自分なのですから当然です。主イエスの愛を無視して自分たちの愛だけで生きていかれると思う生き方を捨てるのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」その多くの実りを、主イエスはご自身の幻の中に見て心から喜んでおられたに違いありません。そこにご自身の栄光を見ておられたに違いありません。そこにこの栄光を見させてくださっている神への感謝が溢れています。
 信仰を持って歩んでおられるみなさんが、これから後どのような体験をなさるか分かりません。神が何年生かしてくださるか分かりません。やがて葬られる日が来る。しかしその葬りをも超えて永遠のいのちに生きるこの道を、今ここで主イエスは約束していてくださいます。ただ私たちがしなければならないことは、この主のみ言葉を、全存在をもってアーメンと言って、受け止めるだけです。お祈りいたします。