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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

人でなくキリストによる

2016年5月29日
和田一郎伝道師
エレミヤ書9章11~15節
ガラテヤの信徒への手紙1章10~17節

Ⅰ.初期キリスト教会の問題

パウロは確信があるが故に、ガラテヤ書1章10節で「私は人に取り入ろうとしているのではない、人の気に入ろうとしているのでもない」と強く主張しました。パウロがガラテヤ書1章全体で主張したかったことは、福音の意味、福音理解でした。イエス・キリストの福音というのは、イエス様を救い主と信じる信仰によるものです。割礼と律法を守らなくても、ユダヤ人ではなくても、すべての人がキリストを信じれば救われる、このことでした。この教えを、パウロは命がけで伝道して、ガラテヤの教会もパウロの教えに従っていたのです。ところが、パウロが伝道した後、ある人たちがガラテヤ教会に忍び寄ってパウロの伝えた教えを覆そうとしていました。パウロが伝えたキリストの福音に加えて、ユダヤ教徒と同じように割礼を施すこと、律法を守ること、この2つを加える必要があるというものでした。
このガラテヤ書は、パウロの書いた手紙でも一番早い時期に書かれたものとされています。ですから、キリスト教が生まれてまだ間もない頃に起こった問題を、ガラテヤ書は取り上げているのです。ペンテコステの出来事でキリスト教の教会が生まれて、20年ほどしか経っていない頃の未熟だった時期でした。中にはこのように、間違った教えを伝える人がいたのです。それどころか、これを伝道するパウロに対する個人攻撃もされたので、事は深刻でした。パウロに対する攻撃というのは、次のようなものでした。「パウロは自分が使徒だと自称しているようだが、本物の使徒ではない。彼はエルサレム教会からも、また使徒のヤコブやペトロからも任命された者ではない。ようするに勝手に作った福音だ。」このような解釈を広めていたのです。
ようやくキリスト教の基盤が広がりつつあるのに、大事な教えについて腐敗が見え始めてしまった。当時はまだ、エルサレム教会やペトロたち使徒には特別な権威があったのです。「私はあのエルサレム教会から来た」とか「ペトロやヤコブの弟子だ」と言って、権威に取り入ろうとしたのです。キリスト教の命を枯らして、息の根を止めさせてしまうのは、いつも人間的な権威にしがみつく思いにあります。人間の思いから、人間を通して広まる、人間の権威が、静かに教会を侵食していくのです。よく言われることですが、日本の教会は、道徳や一般常識のような事柄には敏感ですが、神学や霊性に関わることは後回しにする事が多いというものです。日本人の高い倫理観が現れているのかも知れませんが、その根拠が人間的な権威であるならば、教会は静かに侵食されていくものです。

Ⅱ.人によるものではなく、キリストに召し出された

パウロの強い確信の根拠は、何だったのか? それは、11節から12節においてパウロが記しています。パウロの確信は、ダマスコの途上でキリストと出会った回心の出来事、その事の一点によるものです。パウロはキリスト者を迫害していましたが、キリストに出会って人生が変わりました。人との出会いではありません。権威ある教会の誰かにこの福音を教わったのでもない。復活したイエス・キリスト、その方に出会って告げられたのです。しかし、パウロがイエス様から告げられたことは、並大抵のことではありませんでした。異邦人伝道という困難な伝道の使命を告げられてパウロは、すぐに受け取ることができたのだろうか?と私は不思議に思うところがありました。後のパウロの生涯を見ていても、牢に入れられたり、鞭を打たれたり、説教をしては相手にされないこともありました。また、エルサレムの使徒たちに受け入れられるという保証はありません。案の定、ガラテヤの教会のように、パウロに逆らう人たちがいました。それまで通りユダヤ教徒でいた方が、すでに地位もあったでしょうに、もったいないことをしたのではないか?と思うのです。しかし、パウロは神の御心のままに、受け取ったのです。

Ⅲ.御心のままに

「御心のままに」という言葉で思い出すのは、ビートルズの代表曲“Let it be” という曲です。当時の歌詞の日本語訳が「すべてなすがままに」という訳だったことを覚えています。この歌の歌詞は「苦しい時に、聖母マリアが来て、知恵ある言葉を話してくれた」、それが「すべてなすがままに」という歌詞でした。私はこの歌詞から「なるようになれ」という印象を受けていました。しかし、ルカの福音書1:38で、マリアが結婚前なのに、妊娠していることを告げられた時、天使に返した言葉「お言葉どおり、この身に成りますように」と、いうところも“Let it be”と訳している聖書があるとおり「神様のご意志を私は受け入れます」という意味があるのだと分かりました。マリアも自分に告げられた事を、信仰をもって受け入れました。「御心のままに、神様のご意志を私は受け入れます」というものです。パウロも同じように、異邦人伝道という困難な使命を、信仰をもって受け止めたのです。15節後半にある通り、「恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して下さった」。そうです「恵みによって召し出してくださった」と、パウロは受け取ったのです。御心には必ず恵みがともなう。私たちも、自分にはとてもできない、本音を言えば、そんな嫌な仕事は受けたくない。そのような役割を告げられることがあるかと思います。しかし、その御心には必ず恵みがともなうという信頼がなければ、パウロのように、その使命を自分の生き方とすることはできません。

Ⅳ.信仰のみ

来年の2017年は宗教改革500周年となり、私たちプロテスタント教会にとって記念の年となります。500年前に、マルチンルターが「信仰のみ」と、宗教改革に立ち上がるきっかけとなったのが、このガラテヤ書でした。人間の権威が、静かに教会を侵食していった、暗黒の時代を超えて、再びイエス・キリストの福音を呼び起こしたのが、実にこのたった6章からなる小さな書簡だったのです。
Ⅴ.まとめ
キリスト者として自分の人生を考えた時、自分にとってなにが一番重要なのでしょうか。それは、私たちの罪のためにキリストが十字架にかかってくださり、そのおかげで罪がゆるされ、救われた。この大いなる、神の御心を信じる信仰には、恵みがともなう。その一つの事ではないでしょうか。お祈りをしましょう。