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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

患いと病を引き受けて


2016年6月26日
松本雅弘牧師
イザヤ書53章1~5節
マタイによる福音書8章14~17節

Ⅰ.熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめ

山上の説教を語り終えたイエスさまを待ち受けていたのは、重い皮膚病を患った人であり、また病に苦しむ僕の癒しを切に願うローマの百人隊長でありました。
そして、今日の朗読箇所では、熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめが、イエスさまに癒しを必要としている3人目の人物として紹介されています。

Ⅱ.生活の中で神を知る

ただここで1つ注意したい点があります。それはペトロのしゅうとめ以外の2人は、共に大変な病気だったのに対して、しゅうとめの病状はそれほど重いようには見えない点です。
勿論、本人は大変だったでしょう。またペトロをはじめ家族の者たちも心配していたに違いありません。でもそうは言ってもごくありふれた日常的な病気だったと思われます。
そして、もう1つ注目したいのは、重い皮膚病を患った人、百人隊長の僕、そしてペトロのしゅうとめ、この3人がそれぞれに癒されていくプロセスにおいても、ペトロのしゅうとめと他の2人は大分違っている点です。
重い皮膚病の人の場合は、本人が、死に物狂いで病の癒しを懇願しました。百人隊長の僕の病の癒しについては、上司である百人隊長が必死になって執り成したのです。ところがペトロのしゅうとめに関しては、当の本人を含めて、誰かがイエスさまに向かって、彼女を癒して欲しいと求めたことがひと言も出て来ませんし、またそうした様子を伝える記述もまったくないのです。そうした中で今日、とても大切だと思う点は、彼女や周りの人がイエスさまに癒しをお願いする、その前に、イエスさまご自身が、熱を出して寝込んでいる彼女を御覧になったということです。そしてイエスさまの方から進んでその病を癒してくださったのです。
ここで私たちが注目したいのは、イエスさまのお働き、神さまのお働きは、何か特別な、劇的な仕方ではなくて、ごく日常的なレベルでなされているということです。
誰でもが風邪をひき、熱を出してしまうことがあるわけですから、そうしたごく日常的なことに対して、イエスさまは心を向けてくださるお方なのだ、ということを覚えたいと思うのです。つまり、イエスさまというお方は、ごくごく普通の生活をしている私たち1人ひとりを「御覧になって」くださるお方、しかも、そうした私たちの手に触れられ、場合によっては病気を癒してくださるお方だ、ということです。
いかがでしょう? 神さまは、私たちが聖書を読む時だけとか、あるいは日曜日の礼拝において説教という御言葉を通してだけ語りかけてくださるお方ではなく、私たちの、ごく日常の生活における様々な出来事を通して働きかけ、語りかけてくださるお方だというのです。
私たちにとって大事なことは、そうした日々の生活の中で、このようなイエスさまの眼差しを受けとめて生活しているか、あるいはまた、イエスさまが触れておられる御手の温もりや、その働きを、どれだけ意識しながら過ごしているかということでしょう。また、私たちが神さまからのメッセージやサインを敏感にキャッチしながら、日常の出来事の中を歩んでいるだろうか、ということなのだと思うのです。
ペトロのしゅうとめの出来事から今日教えられること、それは、ごく普通のありふれた日常の中に、私たちがイエスさまの眼差しを、イエスさまの御手を、どれだけ受けとめることができるのか、ということだと思うのです。

Ⅲ.患いと病を引き受けて

16節を見ますと、夕方になって、さらに人々が、悪霊に取りつかれた大勢の人々をイエスさまのもとに連れて来ます。そして、イエスさまは、御言葉を語ることによって、悪霊を追い出し、病人を癒して行かれたことが分かります。
マタイによる福音書8章は、その最初から病気の人々の癒しの物語が続いているのです。こうした一連の病気の癒しに関する出来事のまとめとして、17節で、マタイは旧約聖書イザヤ書53章4節を引用する形で締めくくっています。
「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」(マタイ8:17)
これは、イザヤ書53章4節の正確な引用と云うよりも、マタイ独特の自由な引用の仕方で、「苦難の僕」としてキリストの受難を明確に預言した言葉である旧約聖書イザヤ書53章を引用しながら、まさにイエスがメシアであることを伝えようとしているのです。
では、ここでマタイはイエスさまの何を伝えたかったのでしょうか。イザヤ書53章3節から5節には次のようにあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
つまり、福音書を書いたマタイは、このイザヤ書53章3節から5節に書かれていることをひとまとめにして、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」と語っているわけです。
イエスさまが重い皮膚病の人、中風で苦しむ僕、そしてまたペトロのしゅうとめの熱病、さらに悪霊に取りつかれた人や、様々な病で苦しむ人々を次々と癒されたのは、ただ単に不思議な力で人々を癒したということにとどまらずに、こうした一連の病の癒しが実現した背後には、患いや病をご自分のものとして引き受けるというイエスさまの御業があったからですよ、とマタイが語っているということなのです。もっと言えば、こうした私たちの病の癒しの向こう側に、主イエスさまの受難、イエスさまの十字架を、この福音書を書いたマタイは見ている、ということなのです。

Ⅳ.癒しから奉仕へ

そして最後に、イエスさまのこのような御業によって癒されたシモンのしゅうとめはどうしたか、ということです。
15節をご覧ください。
「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」とあります。つまり、癒された結果、主イエスさまを「もてなした」のです。
実は、この「もてなした」と訳されているギリシャ語は、「ディアコネオー」という言葉です。一般的な訳は「仕える」「奉仕する」というものです。ギリシャ語の「ディアコノス」、つまり「執事」の語源となった言葉です。
つまり、ここでペトロのしゅうとめは、癒された結果、主イエスさまに仕えたのです。もっと分かり易い言い方をするならば、主の弟子となった、ということです。
16節を見ますと、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とありますが、同じで出来事を記したマルコによる福音書では、その後に「町中の人が、戸口に集まった。」(マルコ1:33)とあります。つまり、イエスさまがいらっしゃるペトロの家の戸口に、町中の人が集まってきたのです。
熱病から癒されたしゅうとめは、このようにしてイエスさまに仕え、そして癒された喜びから、一生懸命になってカファルナウムの人々を癒されるイエスさまのお働きをサポートしたのではないでしょうか。そしてまた、こうしたしゅうとめの奉仕を、イエスさまは快く受け入れていかれたのだと思うのです。
私たちは、どうでしょう? 私たちもまた、イエスさまに救われ、癒されることを経験します。もしそうだとするならば、私たちもまた、このしゅうとめ同様、自分はどのように仕えることができるのか、それを自分自身に、そして主イエスさまに、問いかけてみる必要がある、ということなのではないかと思います。お祈りいたします。