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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

嵐を静めるイエス

2016年7月24日
松本雅弘牧師
詩編103編1~22節
マタイによる福音書8章23~27節

Ⅰ.主イエスの舟に招かれている私たち

教会の歴史の中で、信仰の先輩たちは、私たちの人生を航海にたとえて語ってきました。アウグスチヌスもその一人で、「私たちはこの世の海を航海しているのです。風が起こり、誘惑の暴風が起こる」と記しています。
確かに、日々の生活は航海のようなものです。それぞれの船に乗って社会の大海原をわたって行かねばなりません。そして、しばらくすると風が起こり嵐にも遭遇します。そうしたことを知っていますから、嵐に備えて、私たちは「出来るだけ頑丈でしっかりとした船」を確保したいと願うものです。
その「出来るだけ頑丈でしっかりした船」とは、ある人にとっては安定した仕事であり、また、十分な蓄えを持つこと、あるいは、人によっては健康体を維持することが「頑丈な船」となるでしょう。そうした上で、その人がクリスチャンであるならば、その船にイエスさまお迎えしているわけですから、ある説教者は、「この船にイエスさまが乗ってくだされば、まさに『鬼に金棒』、もうどんな嵐が来ようとも、いや悪魔が来ようとも、こわいものなしだ」と語っていました。しかし、果たして聖書はそうした生き方を奨励しているでしょうか。
23節に、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。この聖句によれば、最初にイエスさまが舟に乗り込まれ、その後続いて、弟子たちがその舟に乗り込むという順番です。つまり信仰を持って生きるということは、私たちが自分で準備し、十分に整えた船に、さらに確かな「お守り」のようにして主イエスをお迎えすることではないのです。むしろ逆に、主イエスが乗っておられる舟に私たちが乗り込み、共に航海を始めることです。これが信仰生活です。
そして、彼らがイエスさまに従って舟に乗り込んだ直後、「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあります。私たちの方がイエスさまの用意した舟に乗り込むように招かれる。そして乗り込んだ結果、何が起こるかと言えば、突然、激しい嵐に襲われ、その舟が波に飲み込まれそうになるというのです。

Ⅱ.嵐の中の弟子たち

今年1月のイスラエル研修旅行のときに、ガリラヤ湖畔の博物館に展示されていたイエスさま時代の舟を見ました。弟子たちはこのような素朴な舟に乗って向こう岸まで行ったのか、としみじみと思ったことでした。
元々イエスさまは、「舟を信頼しなさい」というような招き方はなさいません。舟は簡単に外側からの影響を受けるものです。激しい風が起こることもあるのです。不景気の波が押し寄せ、会社が傾くかもしれません。病気という嵐が押し寄せてくるかもしれないのです。押し寄せてくる波や嵐の大きさによっては、舟自体が備え持つ力など、たちまちのうちに砕けてしまうほど、ちっぽけなものに過ぎないかもしれないのです。
ところが、私たちの傾向としては、どちらかというと舟を信頼する、あるいは舟さえしっかりしていれば大丈夫と思うものです。ですから、一生懸命に努力し、信頼に足る立派な舟を調達出来るように頑張るという、そうした舟に対する信仰で生きている場合が多いように思います。いかがでしょう。この時、イエスさまに従って舟に乗り込んだ弟子たちの中には、「こんなはずじゃなかった」と、イエスさまに従ったことを後悔した人もいたかもしれません。
この世の生き方は、神さま抜きの考え方によって成り立っています。そこでは、全てを統べ治める神さまは不在です。ですから、私たちの心の中に、しばしば「自分の力でどうにかしなくちゃ」という声が聞こえて来るのです。当然、そうした心の中に平安はなく、次から次へと心配や不安、恐れが起こってきます。そして、そうした思いを払拭しようと、一層、真剣になり、船の整備に努めていくのです。
私たちが、この世の海で航海を始めたら、そこには必ず風が起こり、暴風が起こります。そして、どうでしょう、イエスさまに従って歩む時、私たちはこの世の価値観とは異なる物の見方をいただくことになりますから、この世の追い風を受けるというよりも、逆に、向かい風の場面の方が多くなるかもしれないのです。

Ⅲ.嵐の中で眠るイエス

今日の聖書箇所を繰り返し読む中で鮮やかに浮かび上がってくる光景があります。それは嵐の中での弟子たちの姿と、イエスさまの姿のコントラストです。弟子たちが死の危険すら感じている状況の中、主は、乳飲み子が母親の懐で安らいでいるように眠っておられました。確かにお疲れもあったでしょう。でもそれ以上に、私たちが目を留めるべきこと、それは、この場面でイエスさまが睡眠をとることが出来たのは、心の内に平安があったからだということです。
昨年から始まった「エクササイズ」の最初の課題はまさに「睡眠」です。テキストの著者のスミスは、「睡眠は信頼の行為だ。私たちは委ねる。すべてが上手くいくという証拠も何もないのに、誰も私たちを傷つけないと信じて初めて出来ること、それが眠ることだ」と語ります。
よくよく考えるならば、私たち、平安がなければ眠ることなど出来ないものです。「眠っている場合ではない」と思うからです。委ねることが出来ないでいると、心は思い煩いで一杯になります。「何か出来ないか?」、「何か出来るのではないか?」、そして次に「じゃあ、どうしたらいいだろう」。そんなことを考え続けていたらゆっくりと眠ることも出来ません。
ここでイエスさまは眠っておられます。自分の座っている板の下は深い湖です。それも嵐の中、小さな舟の中で眠ることが出来たのは、イエスさまにとって、たとえ暴風雨の荒れ狂う湖の上であったとしても、そこは父なる神さまの創られた世界の一部に変わりなく、それゆえに、神さまの支配される所であるとの信頼があったからなのではないでしょうか。
そこが突風の吹き降ろすような湖の上であっても、イエスさまにとっては、父なる神さまの懐に変わりなかったのです。父なる神さまのご支配の及ぶ神の国の一部でした。これが信頼であり信仰です。

Ⅳ.イエスさまの眠りに支えられ、教えられる

そう言えば、イエスさまがお生まれになった時、舟ではない、飼い葉桶で眠っておられたことを思い出します。世界で最初のクリスマスの出来事が起こった年、この時も世界に大きな嵐が吹き荒れていました。ローマ皇帝による全世界規模の人口調査が起こった年でした。また、ユダヤには暴君ヘロデもいました。2歳以下の幼子を皆殺しにするという嵐が起こります。それを避けるようにして、彼らは難民となりエジプトに避難します。
今も、同じようなことが起こっています。今も、嵐が吹いています。でも、そうした嵐のただ中に主イエスがおられ、そして眠っておられる。この主イエスの確かで大きな眠りの事実に、私たちの目が開かれていくとき初めて、そのイエスさまの心の内にある平安に私たちも触れることができるのです。たとえ私たちを取り巻く状況がどんなに荒れ狂っていたとしても、です。
ある時、イエスさまは、この信仰に私たちを導くためにお語りになりました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29)と。
ご自身の独り子イエスさまと、父なる神さまがその独り子を与える程に愛している弟子たちの乗る舟が、どうしてそのお方のお許しが無くて沈没するでしょうか! 神さまの許しがなければ、1羽の雀も地に落ちることはないのです。
この神さまの無限の愛、無限の力に対する深い信頼が、この時の弟子たちにあったならば、弟子たちの態度はほんの少しだけでも変わっていたにちがいありません。
ある先生が、聖書の教える「回心」とは、見えるものが変わること、物の見方が変えられることだと定義していました。普通、私たちは肉眼で見えるものしか見ていない、見えない物は信じられないのです。しかし、私たちがイエスさまを通して教えられることは、眼に見ることは出来ないが、神がおられるということです。神の国が今、ここにある。愛の神さまのご支配が、今ここにも及んでいるのです。
だからこそ、キリストは、この現実、この状況の中でゆったりと眠っておられるのです。そして私たちも、私たちの世界に、また日々の生活の中に嵐が押し寄せて来ようとも、この主イエスの眠りに支えられ、この主イエスの眠りに教えられ、そして何よりも主イエス・キリストと共に、父なる神に委ね、平安の内に眠ることが許されているのです。
そして再び、このお方と共に目覚め、日々歩むことができるのです。お祈りいたします。