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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

キリストの真実

2016年7月31日
和田一郎伝道師
詩編100編1~5節
ガラテヤの信徒への手紙2章19~21節

Ⅰ.はじめに

広島の原爆の慰霊碑に書かれている言葉があります。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記されているそうです。逆の見方をすれば、人は過ちを繰り返してきました。過ちを繰り返す性質があるわけです。過去を思い起こすのは、二度とそのような過ちを繰り返さないためですが、私たちがイエスキリストを信じる前と、後とを、思い起こしたいと思いました。私たちがキリストを信じた、キリスト者とされた、新しくされた、ここに私たちの立つべき原点があります。皆さんが洗礼を受けたのは、いつの頃だったでしょうか?
宗教改革者のルターは「洗礼によって、古いあなたは死んだ」といいました。

Ⅱ.ガラテヤ書の中心テーマ「信仰による義」

ガラテヤ書のメインテーマは、この神様に、どうしたら義とされるのか? どうすれば、神様は私を救ってくださるのか? それは何か良い事をすれば、救われるのではない、ただ信じる心「信仰による義」なのだ。この信仰理解がガラテヤ書の中心テーマです。しかし、私たちには、過ちを繰り返す性質があるわけですから、洗礼を受けて、神様に正しいとされた者になったのに、以前の、自分を中心とした生き方を、繰り返してしまいがちです。
パウロがこの手紙を送った、ガラテヤの教会も同じでした。せっかくパウロとバルナバが第一回の宣教旅行で正しい福音を伝えていたのですが、しばらくすると、イエス様の十字架の出来事がなかったかのように、昔の信仰理解にもどってしまって、やれ割礼も守れ、やれ律法も守れと言って、正しい福音からそれてしまった。後戻りしてしまう過ちを犯していたのです。そのガラテヤの信徒たちを正す為に、パウロはこの手紙を書きました。

Ⅲ.信仰

旧約聖書はヘブライ語で書かれています。「信じます」と訳されたアーマンאָמַן(aman)というヘブライ語は、聖書においてはとても重要なことばです。アーマンが聖書で最初に出てくるのは創世記15章6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という箇所です。アブラムは「すべての人はあなたによって祝福に入る、あなたの子孫にこの土地を与える」と、神様は約束をして下さった。アブラハムはこの約束を、必ず守ってくださると信じたのです。だからこそ、それが彼の義とみなされました。これはアブラハムが割礼を受ける以前の事でした。ここは、救いにおける信仰理解を教えている大切な箇所です。
私たちは、お祈りのあとに「アーメン」といいますが、その語源が先程言いましたアーマンというヘブライ語です。「信じる」とか「しっかりした」という意味を持った言葉です。
ギリシア語ではアーマンが派生して出来た「αμηνアミン」という言葉が新約聖書に記されています。私たちがいつも使っているアーメンという言葉で「確かに」とか「真実」という意味があります。
イエス様がヨハネ福音書3章で「はっきりと言います よくよく言っておく」の所は、「アミン,アミンあなたに告げます」と表現するのです。このイエス様の語った独特な表現は、明らかにメシア的力を持っている特別な言葉です。ですから、私たちがお祈りの後でアーメンと言いますが、私たちが信じると言っても、その信仰を支えているのはイエス様の確かさです。それでなければ、私たちの信仰は、信念とか自分の作った信条と、なんら変わりません。アーメンと言いましたら、キリストの確かな真実によって与えられ、支えられている故の信仰です。この信仰に生きるということです。昔は自分の信念に生きていた、しかし、もうもどってはいけない。
パウロはこの事をガラテヤ書2章19節で主張しています「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」律法という言葉が二つあって分かりにくい表現ですが、前者をモーセの古い律法、後者をキリストの新しい律法とすると、分かりやすいと思います。かつてモーセの古い「律法」に縛られて、誤った信仰理解をしていましたが、それは、キリストの新しい「律法」によって死んだのです、と言うわけです。
続いて19節後半「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と比喩的な表現をしていますが、イエス様が十字架に架かられた時、人間の目には、そこにはイエス様一人の姿しか見えないかも知れません。しかし、イエス様だけではなくペトロもパウロも、そして私たち一人一人もキリストと共に、十字架に架けられている。神様はイエス様と一緒に、罪人であった、かつての私たちも十字架につけてしまったのです。
ですから20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と、イエス様がこの、自分の体の中に生きていると言うのです。つまり、イエス様と一緒に十字架に架かって死んだ者たちは、そのままイエス様と一緒に、「いま」生きる者とされているのです。

Ⅳ.神の子に対する信仰

そして20節後半、それは、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた、『神の子に対する信仰』によるものです。」と書かれています。「神の子」に対する信仰ですから、「キリストに対する、私の信仰」というように新共同訳では翻訳されています。この20節後半には、『神の子に対する信仰』とあるので、「キリストに対する、私の信仰」「私」に主体があるような表現で違和感を感じました。
「エクササイズ」という松本先生が翻訳してくださった本の中にこの20節のことが触れられていました。英語の現代語聖書では、ここの『神の子に対する信仰』のところに、注意書きが付いていて「『神の子の信仰』と訳すことができる」と書かれているそうです。なぜかというと、ギリシャ語の原文に忠実でありたいと考える翻訳者は、この訳の方が、より正確な訳だと考えるからだそうです。そうだとするなら、なぜほとんどの聖書が『神の子に対する信仰』と訳すのでしょうか?この「エクササイズ」の著者は、イエス様に対する、私たちの信仰を強調する傾向があり、私に対するキリストの信仰ということは、今まで考えたことがない、というのがその理由だと書かれていました。

Ⅴ.宗教改革の信仰理解

さらに少し歴史をさかのぼってみたいのですが、宗教改革者のルター、カルヴァンなどが、このような訳し方の伝統を作ってきたようです。当時から、善い行いをしないと救われないと解釈する人達との間で、論争がありました。特に当時のカトリック教会がそのような傾向があって、贖宥状と言われるものを販売していたのですが、それに対してルターが信仰だけで救われる事を強調した経緯がありました。
ルターはこのガラテヤ書とローマ書、そして詩編から、正しい信仰理解を確信して、当時のカトリック教会のゆがんだ教理に異議を申し立てて、宗教改革を行いました。ルターは詩編を愛したことでも有名です。宗教改革が動き始める4年前に、ルターが大学で最初に授業の対象に選んだのが詩編研究でした。ルターが「人は行いではなく、信仰によって救われる」ことを見出したのは、詩編だったと言われています。ですから、ガラテヤ書2章20節「神の子に対する信仰によるものです。」という箇所は、「神の子の信仰」と訳す方が、しっくりくると言えます。この箇所を言い換えれば、パウロの中に住んでいるキリストが、イエス様自身の信仰をパウロの体の中に再現した。それはパウロの信仰ではなく、パウロの心に住んでいるキリストの信仰であるというのである。私たちは自分の信仰に目を注ぎがちですが、私たちが信じると言っても、その信仰を支えているのはイエス・キリストの信仰です。
21節は自分が立派な行いをすることによって、救われようとする事を、もう考えません、と言う事をパウロは伝えています。そうでないと、キリストの死は無意味になってしまう、救われた者として、私たちはキリストを内に抱いて生きることです。

Ⅵ.まとめ

人間は過ちを繰り返してきました。これからも繰り返すかも知れません。最近でもつらい事件や、心を騒がす不条理なできごとが、私たちの生活のすぐ近くにあります。不条理な出来事がなぜ善い行いをしている人にも及ぶのか? それらの事について知ることはできません。そんな時に、神様は本当にいるのかな?と信仰が揺らいでしまうこともあります。自分の行いにばかり、気持ちが向いてしまうことがあります。しかし、私たちの意思ではなくて、私たちの中にいる「キリストの信仰によって」私たちを、確かな道へと生かしてくださる事を信頼したいのです。お祈りをします。