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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

罪赦されて帰る―礼拝において経験する恵み

2016年8月21日
松本雅弘牧師
ホセア章11章2~9節
マタイによる福音書9章1~8節

Ⅰ.共観福音書が取り上げている出来事

マタイによる福音書9章1節に、「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた」とあります。イエスさまの帰りを待っていたかのようにして、1人の中風の人を床に寝かせたまま、人々がイエスさまの許に連れて来たのです。今日の出来事はそこから始まります。

Ⅱ.イエスさまのご覧になった「人々の信仰」

「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」と続く今日の聖書個所ですが、私たちはここで幾つかのことを知らされます。
まず1つは、「イエスはその人たちの信仰を見て」とありますが、「中風の人その人の信仰」ではなく、その彼を寝かせたままイエスさまのところに「連れて来た人たちの信仰」をご覧になったというのです。
ここで、イエスさまがご覧になった「人々の信仰」について考えてみたいと思います。
ここに出てくる「人々」とは、中風の人を床に寝かせたままイエスさまのところへ運んで来た人々のことです。ガダラ人の地からイエスさまが戻ったとのニュースが伝わるやいなや、彼らは、中風の人を床に載せたままイエスさまの所にやって来たのです。
ところが、人があまりにも大勢で、その家の戸口にまで溢れていました。そこで彼らは屋根に上り、屋根をはがして中風の人をつり下ろしたのです。
1人の大人を床に載せたまま吊り下ろすのも大変な作業だったと思いますが、彼ら4人が、1つの目標に向かって力を合わせ、祈りつつ、呼吸を合わせるようにしながら、イエスさまの前に吊り下ろしたのです。そして、それは成功しました。1人ではできないことも、4人そろったので実現できたとも言える作業だったと思います。
イエスさまはそうした型破りの行動に表わされた彼らの信仰をご覧になりました。そして、彼らの信仰に動かされたイエスさまご自身が、中風の人の罪の赦しと、病の癒しに関わってくださったのです。

Ⅲ.罪の赦し

このようにして連れて来られた中風の人に対して、イエスさまは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。この場面を想像してみましょう。
これは中風の人にとって、そしてまた、彼をここまで運んできた友人たちにとっても不意打ちを食らうように意外な言葉だったのではないでしょうか。
考えてみれば、ここまでやって来たのは、あくまでも中風の人の癒しが目的です。ところが病の癒しの前に、「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪の赦しを宣言されたのです。イエスさまは、何よりもそのことを第一になさったのです。
ところで、ここで言葉の説明をしておきたいと思います。ここに「罪」と出てくる言葉は、原文では複数形が使われています。日本語に直すならば、「もろもろの罪」という言葉です。多くの罪です。
多くの罪が重なり合っている。放っておけば、私たちの人生に祝福はなくなります。イエスさまの言葉に戻りますが、ここでイエスさまは、この人に対して、「あなたのもろもろの罪が赦される」と言われたのです。原文通り丁寧に訳しますと「あなたのもろもろの罪が赦されてしまっている」となります。
そうです。全く無条件に、「もう、あなたの罪は赦されている」と、済んだこととしてお語りになっているのです。しかも興味深いことに、いや、大事なことと言った方がよいかもしれませんが、ここでイエスさまは「ご自分が罪を赦した」とは言われずに、「罪は赦されてしまっている」と、一方的な赦しの恵みを宣言されたのです。
くどいようですが、ここでイエスさまは、「これから罪を赦すから、そのために懺悔しなさい」とは言われません。「病気を治してあげるけれども、その前に、片付けなくてはならないことがある。それはあなたの罪だ。しかも、その罪を片付けるのに、もう1つしなければならないことがある。それは、あなたが自分の罪に気づくこと、自分が悪かったということを本当に謝ることだ」と、そのようにも言われませんでした。全くの無条件なのです。
では、ここでイエスさまが、この中風の人に願っていたことは何だったのでしょうか? 結論から言いますと、それは、自分がもう罪赦されている人間だということに気づくこと。それを受け入れることだけだった、ということなのです。
ところで、イエスさまは、絶望のどん底にあるこの人に対して、「元気を出しなさい」と言われました。
彼にしてみれば、「元気を出せ」と言われた時、驚いたのではないでしょうか。というのは、何を理由に元気を出せるのか、分からなかったと思うからです。でも、その後、続けてイエスさまは、「あなたの罪は赦される」と宣言されました。
それは「罪の赦し」がそれほど私たちにとっては根本的な問題であり、それゆえ、赦された者にとって大きな力になるということを、イエスさまはご存知だった、ということなのではないでしょうか。
イエスさまはここで罪のことを複数形で表現されました。「もろもろの罪」です。彼の半生に積み重ねられてきたもろもろの罪です。しかし、そうした罪の赦しが、なぜ根本的な問題だと言われるのでしょう。
ある牧師は言います。罪一つひとつがみんな神に関係しているからだ、と。一番深いところで神と仲直りしていないからだ、と。
また、ある牧師は罪のことを、私たちの人生にマイナスを掛け算するようなものだ、と語っていました。私たちの人生のすべての働き、営み、実績、歩みを大きなカッコでくくり、最後にマイナスを掛け算すると、全部がマイナスになってしまいます。どんなに善いことをしたとしても、人生の一番深いところの根が、神から断ち切られ、主イエス・キリストから断ち切られている時には、どんな善行も、罪を重ねるということ以外の何ものでもないからです。そのマイナスが処理されなければ、どうにもならないのです。ですから聖書は「罪の赦しのないところには、いのちはない」と教え、パウロも「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)とはっきりと語るわけです。
この時、イエスさまは、彼の「中風」という病気に深く同情を寄せておられることは確かです。でも、もっと問題にしておられることがある。それが罪の処理の問題です。
よく考えてみれば、人は遅かれ早かれは死んでいきます。もしも病気の癒しがイエスさまの究極的な目的であるとすれば、癒された人が死んでいく時に、そのイエスさまのお働きも虚しく終わることになるでしょう。
でも本当に大切なこと、それは「死に至る病」と呼ばれる罪に勝利する命、イエスさまの十字架の贖いによる赦しから来る命なのです。

Ⅳ.罪赦されて帰る―礼拝において経験する恵み

最後にもう一度、聖書に戻ります。ここで、「あなたの罪は赦される」というイエスさまの発言に違和感を覚え、イエスさまが神さまを冒涜していると思った律法学者の心を、イエスさまが見抜かれたことをマタイは伝えています。
確かにイエスさまが神でなければ、この発言は自らを神とするような発言内容なので、イエスさまを神と考えていない律法学者にとっては、神を冒涜していると考えたのも無理はないと思います。そこでイエスさまは「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『(あなたの病気は治ったから)起きて、歩け』というのと、どちらが易しいか」とおっしゃったわけです。
律法学者は思ったでしょう。〈罪を赦す権威など持っているはずがないイエスが、「あなたの罪は赦される」といくら言っても、それは口先だけだから簡単だ。でも、このイエスが中風の人を癒すためには、特別な力を必要とするのだから、その方が難しい〉、そう考えたのだと思います。
そこで、その罪の赦しの権威を持っていることを証明するために、イエスさまは、目に見て分かる病気の癒しをもって実証されたわけです。
いかがでしょう。今日、ここに出てくる中風の人の姿は、私たち自身が、礼拝の中でいただく恵みを表わしている出来事、まさに、私たちが礼拝において経験することを語っているのではないかと思うのです。
私たちが礼拝に集うということは、イエスさまのこの、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という、主イエスの宣言を聞いて新しくされ、困難を自ら担う勇気を与えられ、もとの家へと帰って行く恵みに与ることです。
マイナスが、十字架と言う絶対的なマイナスと掛け合わされ、万事が益、つまりプラスとなって、イエスさまの許から派遣されていく出来事です。
それも、神に畏れを抱きつつ、神を賛美するように変えられて帰って行く恵みです。礼拝の中で、こうした恵みが繰り返して起こる私たちの信仰生活でありたいと願います。お祈りします。