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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

呪いから祝福へ

2016年9月11日夕礼拝
和田一郎伝道師
ハバクク書2章2~4節
ガラテヤの信徒への手紙3章10~14節

Ⅰ.はじめに

前回の箇所でパウロは、アブラハムの信仰を例にして、ガラテヤ地方にいる人々に、正しい信仰理解を説明しました。アブラハムによって、すべての国民が祝福される、割礼でも律法でもなく、信じる心「信仰」こそがアブラハムの子孫のしるしなのだ。 「信仰」こそがアブラハムに約束された祝福を手にすることができる。そうパウロは説明しました。
今日の箇所では、アブラハムから少し離れて「祝福」と、その反対「呪い」が取り上げられています。旧約聖書において「祝福」とは、神様が私達に与えられる、繁栄や幸福をもたらす恵みのことですが、それとは反対の「呪い」は神様に背くことへの裁きでした。

Ⅱ.旧約聖書からの引用

今日聖書個所の10節から14節の短い箇所でパウロは旧約聖書を4つ引用して説明しています。前回の箇所ではユダヤ人なら誰でも知っているアブラハムの話でしたが、今回はユダヤ人なら誰もが学んでいる旧約聖書からの引用です。
10節の「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている。」これは申命記27章26節の引用です。間違った教えを広めているユダヤ人主義者たちは、律法、律法と言うけれど申命記をはじめ、旧約聖書では律法を守らない者は呪われると書いてある。けれど「すべて守れる人はいるのですか?すべて守れなかったら『呪われる』と、書かれていますよ」と言うのです。
ユダヤ人の律法学者が、律法を完全に守っていたかというと、そうではありませんでした。祭司やレビ人も同じです。人間ですから当然といえば当然です。せいぜい8割から9割といったところでしょうか。しかし、10節にあるように「すべてのことを絶えず守る」というのですから、律法は100%ことごとく守らなければゼロと同じであるわけです。例えば、ここから新宿駅に来てください、そこで会いましょうと言われていて、一つ手前の南新宿に行っても意味はないのです。行かなかったのと同じ訳です。律法に書かれている一切の事を守らなければ、「律法を守りました」とはならない訳ですから、それは「呪われている」ことになります。パウロが引用した申命記の27章の箇所はモーセが約束の地カナンを目前にして、イスラエルの民に語りかけた箇所です。荒野をさまよう40年間にエジプトを脱出した第一世代は死に絶えました。信仰に忠実であったヨシュアとカレブだけが生き残り、他の者たちのように神様に不従順であれば、呪いが降るとモーセは警告した、この言葉をパウロは引用しました。
続く11節ではハバクク書からの引用があります。「正しい者は信仰によって生きる」というハバクク書2章4節の引用です。律法では不十分で呪いの対象になってしまうが「信仰によって生かされるのだ」という事を示している大事な箇所の一つです。
12節は「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」というレビ記からの引用です。レビ記では律法を守れる者の祝福を指していますが、パウロはこの前のハバクク書の「信仰によって生きる」と対比させることによって「律法の定めによって生きる」者も、それを全て守れない訳ですから、律法の支配下で囚われた人間のように生きる事だと指摘しました。
13節は、私たちを律法の呪いから贖い出してくださる、キリストの出来事が取り上げられます。申命記21章22~23節で「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」と決められていました。ですから、イエス様が十字架という木にかけられた事実は、ユダヤ人的には、イエス様は呪われた者としか映っていませんでした。確かにイエス様は、十字架の上で呪われた者として死なれました。しかし、それは自らが招いた呪いではなくて、ユダヤ人が律法の呪いの下にあってその呪いを、イエス様が肩代わりしてくださったのです。異邦人であるガラテヤの信徒たちが、信仰だけではなく、やみくもに割礼を受けて律法を守ろうとするならば、かえって呪いを身に招くことを指摘しているのです。
こうして14節にあるように、アブラハムに与えられた祝福が、イエス様の十字架において、異邦人に及ぶことになりました。

Ⅲ.アベルの信仰

11節にある「正しい者は信仰によって生きる」というハバクク書の言葉について、考えたいと思います。ヘブライ人への手紙11章4節によると、旧約聖書のカインとアベルの兄弟がいましたが、弟のアベルが義人(正しい者)であると書かれています。創世記4章でアダムは、その妻エバを知りました。二人のあいだにカインと、弟アベルが生まれます。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となります。ある時、カインは、大地の作物から主へのささげ物を持って来ましたが、アベルもまた彼の羊の中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルの献げ物に目を留められました。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せました。
ちなみに、アベルの献げ物が神に受け入れられたことを妬んだ兄のカインに対して、神はこう言いました。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せている」と言われました。
献げ物が神に受け入れられるのは、献げ物それ自体ではなく、その献げ物をささげた者の「心」にあります。献げ物はその心の表現と言えます。アベルの献げ物が神に受け入れられたのは、「羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」からでした。
私たちの新共同訳ですと「肥えた初子を持って来た」とあって分かりにくいのですが「肥えたと」訳されたヘブル語の「テレブ」という言葉は「肥えた・脂肪・脂」という意味と合わせて「最もよいもの」「最上のもの」とも訳される言葉です。へブル人の中では、牛や羊の肉の中で「脂」の部分は最上の部分とされていて、神様に捧げるために、脂肪の部分は祭壇で焼かれて、人間は食べる事を禁じられていました。ですから、「肥えた初子を持って来た」というのは、アベルは自分の羊の中から最上の物をささげ物として持って来たことを、意味しています。しかしカインの献げ物には、そうした記述がありません。とすれば、献げ物が最上のものではなかったようです。
アベルは自分にとって最上の物を捧げましたが、神様はその最上の物、そのものを喜ばれたのではありません。その心のうちにあるものが大切です。その「心のうちにあるもの」とは「信仰」のことです。アベルの献げ物が「信仰によって」なされ、その「信仰によって義とされた」。では、アベルの信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。
アベルの生き方というのは、神様は良いお方であって、自分に恵みを与えて下さっているのは、この神様なのだと信じる生活だったのではないでしょうか。
つらい事や災難があったとしても、神様は私たちの理解を越えて、必ず私たちにとって良い事のために働きかけてくださっている。それが神様に対する感謝の表われとして、「最上の献げ物」「肥えた初子の献げ物」となって捧げられました。神様がどのようなお方であるかという信頼が、その応答としてアベルの献げ物に表わされました。自分の「正しさ」とか、自分の「善い行い」とかではなく、神様をどのようなお方として信じているかが、神様の関心事です。

Ⅳ.まとめ

神様は異邦人である私たちにとっても、良いお方です。その方を求めようという信仰がなければ、いつも感謝をささげていくことはできません。ましてや神様に喜ばれる献げ物をすることはできません。信仰がなければ「呪い」から「祝福」へと変えてくださる神様と、良い関わりを築いていくことはできません。この神様に感謝を表して、私たちにとって最も良いものを、献げていきましょう。