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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

花婿が共にいるので

2016年9月18日
松本雅弘牧師
エレミヤ書31章31~34節
マタイによる福音書9章14~17節

Ⅰ.断食をめぐっての躓き

今日の聖書箇所の出来事を、この福音書を書いたマタイは、「そのころ」という「時」を表わす言葉で始めています。「そのころ」とは、いつの頃でしょうか?
実は、この「そのころ」と訳されている言葉は口語訳では「そのとき」、さらに新改訳では「するとまた」と訳しています。つまりイエスさまに招かれたファリサイ派の人たちがそこへ行ってみたら、マタイを初めとする徴税人や罪人たちが、すでにその食卓に招かれていたのです。そこで彼らは躓いて、弟子たちに質問したのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。そのすぐ後の「そのころ」ということです。
洗礼者ヨハネの弟子たちも躓きました。そこで、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言っているのです。この「よく断食しているのに」という言葉は、直訳しますと、「いま、断食している/断食の最中である」と訳せる言葉です。
当時、断食は特別な場合を除いて、日が昇っている間だけ食事をとらないという限定的なものでした。断食する人々は、自分や他人の堕落した生活を憂い、罪を悲しみ、週に1度ないし2度、定められた日に断食を行ったそうです。ですから、この時のヨハネの弟子たちの断食は、特別な機会と云うよりも、通常行っていた断食だったのではないかと思います。
この時の情景を思い浮かべてみましょう。イエスさまが宿としていたペトロの家の近くに、ヨハネの弟子たちがいて断食をしていたのでしょう。ところがイエスさまがおられる家の中からは楽しそうな声が、ときには歌声まで聞こえてきたりしたのでしょうか。
イエスさまは公生涯の最初に洗礼者ヨハネから洗礼を受けています。研究者によれば、イエスさまは何らかの仕方でヨハネや、ヨハネの弟子たちから影響を受けていただろうと言われます。ですからヨハネの弟子たちからすれば、イエスさまは自分たちの仲間のような存在です。それが、こともあろうに自分たちが断食しているこの時に、イエスの弟子たちは、イエスを真ん中にして本当に楽しく飲み食いしている。これは一体どういうことなのかと躓いたのです。
ここで注意しなければならないことは、イエスさまは決して断食という行為そのものを否定されていたわけではありません。山上の説教でも、断食について実際に勧めをしておられますし、何よりもイエスさまご自身が公生涯にお入りになる直前に、荒野で40日40夜の断食をなさったことが聖書に出て来ます。
ですからこの時、ヨハネの弟子たちと共に断食されなかったのは、決して、イエスさまがこの世の罪や堕落に対して無関心であったからではありません。むしろ、イエスさまがこの世に来られたこと、それ自体が、この世の罪や堕落を決して野放しにはなさらない御心の表れに他ならないという、福音の教えそのものを思い出す必要があると思うのです。

Ⅱ.古いものと新しいもの

それでは、何故彼らのように断食されなかったのでしょうか。結論から言えばイエスさまは断食とは別の仕方、根本的な解決の手段を選ばれたからです。
それは一言で言えば、人間の努力で自らを清くし、神に義と認めてもらう道ではなく、神の子イエスさまにお世話になって救っていただく道を、イエスさまが開いてくださったということなのです。
これは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々には想像もつかない道でした。イエスさまは、その道を説き、その道を示され、その道を実現するためにこの世に来られたので、そうしたイエスさまの1つひとつの言動自体が、彼らヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の「古い」考えをはるかに超える、あまりにも斬新で「新しい」道であったが故に彼らは躓いたのです。
それを表わす言葉が次の言葉です。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
ここでイエスさまはご自身が示された道のことを「新しい布切れ」、また「新しいぶどう酒」と表現されました。ご存じのように新しい布をそのまま古い服に継ぎ当てようとすると、古い布地は簡単に引き裂かれてしまいます。ぶどう酒の場合もそうです。新しいぶどう酒だって柔軟性のない古い革袋に入れたならばその発酵力で古い革袋は引き裂かれてしまい、ぶどう酒も革袋も両方がダメになってしまう。つまり、それほど新しい布切れや新しいぶどう酒は「強い」のです。それと同様、いやそれ以上にイエスさまの示された救いの道は、今までの考え方を根本的に覆してしまう程の強烈なインパクトを持って迫るものだったのです。
その新しさとは、今の時代に聖書を読み、福音書に示されたイエスさまの教えと御姿に触れる私たちにとっても同様に、まったく新しく斬新で、自分たちのこれまでの生き方をそのまま続けるのではなく、まさに回心を迫るような意味での新しさなので、時には本当に大きな躓きとなるのではないでしょうか。

Ⅲ.恵みによる救い―信仰義認

普通、清くない私たちが神さまに認めていただくためには、自分を律して、自分の力や努力によって清めていただこうと考えるものでしょう。ですから、その常識にとらわれている人々の目からみれば、イエスさまがなさっていることは非常識に見えました。いや、ある人の言葉を借りれば、「非常識ではなく、超常識だ(常識を超えている)」というのです。自分たちの考え方、常識の延長線上にはない救われる道です。私たち日本人は、人様に迷惑をかけることや、世間様のお世話になることを極力嫌い、また避けることが多いように思いますが、イエスさまが拓いてくださった救いの道、つまり神さまに義と認められる道とは、まさに初めから終わりまで神さまにお世話になって救っていただく道なのです。
「いや、そんなことはない。私たちにだってできることがあるだろう」と反論される方があるかもしれません。しかし、そうした私たちの主張の息の根を止めるように、聖書は、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と言います。アウグスチヌスが言うように、私たちはもともと曲がったナイフのような存在ですから、一生懸命まっ直ぐ切ろうと思っても、いつも曲がって切れてしまう。的を外してしまうのです。
その曲がったところ、これを罪と言うわけですが、これが解決されない限り、断食をしようと、何をしようと、それは神さまの清さの基準には程遠いというのです。ですからパウロは、私たちを「生まれながら神の怒りを受けるべき者」だったと呼ぶのです。
でも本当に幸いなことに、神さまは私たちを憐れんでくださいました。このまま、罪の問題が解決されないままで死を迎えたならば、滅びに行くしかない。その私たちを救い出すために、私たちの罪の贖いとして御子をこの世に送って下さったのです。
本当に人間らしい生き方とはこういう生き方なのだと、神の子として生きることを示してくださり、神の愛を説かれ、そして、御子ご自身が愛の生涯を送られたのです。

Ⅳ.花婿が共にいるので

実は、このことをイエスさまは「花婿が一緒にいる」という言葉をもって表現されました。婚礼の食事と一般の食事の大きな違いはご馳走の豪華さではなく、その食事の席に花嫁と花婿がいるかどうかです。それが食事の喜びの源泉であり、仮に食事が質素であっても、新郎新婦がいてくれれば立派な喜びの祝宴になるわけです。同様に、イエスさまが私たちの間におられるならば、それは喜びの祝宴です。
ただ、イエスさまの教えはさらに続きます。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と。
「花婿が奪い取られる時」とは十字架の時を指し示し、この後、花婿は十字架へと奪い取られて行きます。でも私たちは知っています。花婿は奪い取られたままではなく、3日の後に復活し、天に上げられ、あの二千年前のペンテコステの日に約束された聖霊を降し、より確かなかたちで、いつも私たちと共にあることを、主は実現してくださっているのです。
イエスさまが言われる、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とはまさに、このイエスさまと共に生きる中にこそ、本当の新しさがあるという意味です。ちょうど、新しい革袋に新しいぶどう酒を注ぎこむように、私たちも主イエスさまと共に歩みを進めていきたいと願います。お祈りします。