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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

ふり返る主のまなざし

2016年9月25日
松本雅弘牧師
詩編77編2~21節
マタイによる福音書9章18~26節

Ⅰ.喜びを襲った悲しみ

イエスさまが、「花婿が共におられる喜び」の話をされている時、カファルナウムの町のある指導者が、「わたしの娘がたったいま死にました」と言って、その喜びの食卓に死の知らせを持ち運んできたのです。
さらにマタイはもう1人、喜びとはほど遠いところに置かれていた、出血が止まらないという病に苦しむ女性が、イエスさまとの関わりを求めにやってきた出来事を伝えています。喜びの後に悲しみが襲う。私たちの日常は、こうした喜びと悲しみのコントラストに彩られているようにも思います。

Ⅱ.立ち止まるイエスさま

娘の死の知らせを持ってやって来たヤイロは、カファルナウムの共同体の指導者、会堂長という役割を担う人物でした。彼は本当に頼るべきお方としてイエスさまを選び、そのお方に賭けていきました。
イエスさまは、そうした彼の信仰に応えて立ち上がり、彼について行かれたのです。ところが話はそれで終わりませんでした。その途中、イエスさまは別の悩みに苦しむ一人の女性と出会い、立ち止まられたのです。
この女性は、12年間、出血が止まらないという病気に悩む女性でした。律法ではこうした病気は汚れたものとされ、この病気を患った者は人に近づくことも、場合によっては家族と接触することも禁じられていました。
しかし彼女は、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じ、後ろから行って、そっとその衣の房に触わりました。するとイエスさまは、すぐに気づき、ふり返られたのです。そして彼女をとがめるのではなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったのです。イエスさまは、藁にもすがるような彼女の行動を「信仰」という言葉でもって受けいれ、彼女を励まされたわけなのです。

Ⅲ.私たちの葛藤

説教を準備しながら、もし私に特別な癒しの賜物があり、病気の方に手を置いて祈ったら、癒されるのだとしたらどんなに素晴らしいかと思いました。でもそうした賜物は与えられていません。むしろそうした私たちに神さまが与えて下さっている導きとは、祈り求めるようにということです。その結果、私たちは祈りが聞かれる経験をし、また、時には聞かれないということもあります。
ただここで私たちの心に1つの葛藤が起こるということがあるかもしれません。それはイエスさまの癒しの力を信じる一方で、その御力が私の病に臨むかどうかは信じ切れないという葛藤です。
今日の聖書箇所でもイエスさまは病気の人を癒しておられます。それが当たり前という前提で、私たちは聖書を読みます。
でも今、私たちはそうした癒しをイエスさまに期待することができるのだろうか。期待していいのだろうかと思います。問題はそれだけではありません。今日の聖書の箇所には、病気の癒しにとどまらず、人が甦っています。私たちはそうした願いを主にぶつけていいのでしょうか。
ここで、私たちが聖書を読む時に冷静になって受けとめて行かなければならない、もう1つの大切な事実があるように思います。それは、イエスさまでさえも、私たちが歳を重ねていく時計の針を逆戻りさせ、また人が誰しも、死を経験するということを決して覆すことをなされなかったという事実です。
死の床から起こしてもらったヤイロの娘も、これから後、何年、生きることになったか分かりませんが、やがて死んで行ったと思います。もう1人の女性も同様でしょう。だとすれば私たちが祈り求める病の癒し、さらに踏み込んで、死んだ娘を生き返らせて欲しいというような求めとは、何を意味しているのでしょうか。

Ⅳ.必ずふり返り私たちの傍らに来てくださるお方

最近、歳をとることの関連で「アンチ・エイジング」という言葉をよく耳にします。これは年齢という時計の針が先に進むことにストップをかけ、場合によっては逆戻りさせ「若返り」をはかるような営みのことです。しかし果たしてそうした人間の営みは、神さまの御心に適っているものなのでしょうか。
確かに私たちが、歳を重ねる中で切に願うこととは、弱らず、衰えず、長生きすることでしょう。しかし、もう一方で聖書は、私たちの生物的な意味での死を免れるとは一言も保証していないのです。ヤイロや、この女性に申し訳ないのですが、ここまで考えを進めて行きますと、ここに登場するヤイロもこの女性も、特に気の毒で、特別に不幸な境遇に置かれている人たちではないように思えて来ます。何故かと言えば、ヤイロが直面している死の問題は誰もが味わう死そのものです。そして私たちや私たちの家族や友も、今現に、この女性と同じような、いやそれ以上に重い病と闘っている方がおられるのです。
では、そうした私たちに聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。それは、イエスさまが、こうした私たちの悲しみや、死の現実とどのように向き合ってくださったのか。どのように受けとめてくださっているのかということだと思うのです。マタイは、こうした出来事を通して、そのことを私たちに伝えようとしているように思うのです。
聖書に戻りますが、イエスさまのところにヤイロがやって来て、娘の死を伝えると、イエスさまは立ち上がってヤイロの後についてきてくださったのです。その理由は、ヤイロが直面していた死の現実を、イエスさまも現場で立ち会いながら受けとめてくださるためです。
この点に関し、ある牧師がこんな話をしていました。キリスト教会が誕生したのは何故か、と問いかけた後で、教会が誕生したのは、病を癒す力を教会が神さまから授かったからではなく、イエスさまが復活されたからだ、というのです。
死んだヤイロの娘を立ち上がらせること。女性の病気を癒すこと。つまりいのちの時計の針を逆戻りさせることを、イエスさまはご自身のお働きの中心とは考えておられなかったように思うのです。その証拠に、生き返った娘も出血の病を癒していただいた彼女も、いつか必ず死を迎えたわけです。
それでは、イエスさまが復活を通して、私たちにしてくださったことは何でしょうか。ある牧師曰く、「それは、いのちの時計の針を逆に前に戻すのではなく、むしろそのいのちの時計の針を先に進めること。死を超えてもっと先に進めてしまうことにある」というのです。
聖書を読みますと、私たち1人ひとりには、いのちの持ち時間があることが分かります。そうした意味で、みなそれぞれ、いのちの時計を持っているようなものでしょう。そしてその時計は死の時点で止まります。
でもどうでしょう。イエスさまは、そうした私たちのいのちの時計が、死をもって止まる時に、そこで止まらないでもっと先に進めるようにしてくださる。先に進めてくださるのです。それがキリストと共に復活することの恵みです。
私たちの究極の救いは、病の癒しの先にある、罪の支払う報酬といわれる死の解決の問題だからです。聖書が語るのはこの福音です。
聖書に戻りますが、イエスさまは、恐る恐るご自分の衣の房に触れた彼女のために立ち止まり、ふり返って見てくださいました。探してくださったのです。ここにイエスさまの愛があります。
「この時、イエスさまが前を真っ直ぐに向いて歩いて行かれたならば、おそらく十字架について死ぬことはなかったと思う」とある先生は語っていました。イエスさまは立ち止まり、ふり返られたので死んだのだ、というのです。イエスさまはふり返えられたので殺された。ふり向いて徴税人や罪人と一緒に食事をするようなお方であったからこそ、人々はイエスを亡き者にしようと躍起になったのです。それがイエス・キリストというお方です。
この女性はそのイエスさまに自らの全てを賭けて信じて行ったのです。私たちは、イエスさまがこのようなお方だから、そのお方に願うのです。諦めないで祈ることが出来るのです。
悩みの中で、病のために苦しむ私たちのために立ち止まり、ふり返り、傍らに居ていてくださる愛のお方ゆえに、そのお方に祈り続けることができるということです。
時に、神さまは癒しをもって祈りに応え、そして時には、そうでないこともあります。でもそのお方は必ずふり返り、私たちの傍らに来てくださるお方なのだ、だから、そのお方を信じ、このお方に期待しなさいと聖書は教えています。
イエスさまは言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:29~31)。
私たちはこのようなお方に守られています。このお方のお許しがなければ、この私に何も起こらないのです。このイエスさまと共に歩む1週間でありたいと願います。お祈りします。