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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

沈黙の恵み


2016年11月27日
第一アドベント
松本雅弘牧師
詩編77編1~21節
ルカによる福音書1章5~23節

Ⅰ.ザカリアに起こった出来事

祭司ザカリアが神殿の奥に入って神にお仕えしている時に天使が現れ、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」と伝えられました。
ところが、知らせを聞いたザカリアは戸惑います。そして「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えたのです。その結果、彼は沈黙を強いられることになりました。

Ⅱ.強いられた沈黙

よく考えてみれば、私たちも、時に沈黙を強いられる場面に出くわすことがあるように思います。失敗してしまった時、病気など思いがけない状況に出くわす時、厳しい現実に直面し、モノが言えなくなる。そんな経験をすることはないでしょうか。それまで自信を持って語っていたことが一切語れなくなる。この時のザカリアがそうでした。沈黙を強いられ、モノが言えなくなったのです。妻エルサベトは、口は利けましたが、その出来事に驚き、身を隠したことが聖書に書かれています。彼女も夫と共に黙り、引きこもってしまったのです。
説教題に「沈黙の恵み」と付けました。この時のザカリア夫婦は、すぐにこの出来事を恵みと受け取れなかったと思います。けれども、私は、ふたりの静かな日々を思うと、この夫婦がこの沈黙の期間、どんなに深く神さまの恵みを味わったことかと思います。
その証拠に、この10カ月にわたる黙想の日々の後、ザカリアの口から飛び出した第一声、それは、「ほめたたえよ」という言葉でした。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」(ルカ1:68)という賛美の言葉です。後に「ザカリアの賛歌」と呼ばれるこの詩編の歌は、10か月の間、沈黙を強いられたことにより、自らを吟味し、神の恵みを数え、心の中で反芻し、味わいながら賛美の言葉へと導かれ歌い続けたものでした。それがこの「ザカリアの賛歌」です。
この沈黙の期間、ザカリアは天使ガブリエルの言葉の一字一句を深く味わったことでしょう。そして口が利けるようになった時、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。…」と、天使ガブリエルが取り次いだ神の言葉の一つひとつを、漏らさず伝えることによって、その御心を明らかにしていったに違いないと思うのです。
ある人が「神の前での沈黙を知る者だけが有益な言葉を語ることができる。自分がしゃべり続けるということは不信仰のしるしでもある」と語りました。この時、本当に大切な言葉を語るため、神の御心に生きる者とされるために、ザカリアは沈黙を強いられたのです。

Ⅲ.ザカリアの戸惑い

私は今回の聖書箇所を読みながら、天使が現れた時のザカリアの戸惑いに心が留まりました。祭司という務めは、決まったことを決まったとおりに行う仕事でもありました。
ザカリアは、生ける神さまの御前に出て、務めを順序正しく滞ることなく執り行うことができるように心配りしながら、緊張感を持って務めを果たしていたと思います。
その時、式順どおりに行かないことが起こりました。突然、天使が現れ、香壇の右に立ったのです。それを見て、彼は不安になり恐怖の念に襲われました。考えてみると、これはとても皮肉な話です。ザカリアは、目に見ることは出来ませんが生きておられる神さまの御前に出ていたはずです。その祭司が、生ける神さまの臨在に触れた時に、不安に襲われたというのです。
ある人はこの時の彼の様子について、「ザカリアの手順が狂った。神が邪魔をされた」と語っていました。ザカリアは神さまに邪魔をされたので慌てたのです。順序正しく滞ることなくやろうとしていたのに邪魔が入った。その張本人が神さまであったということでしょう。
今まで何十年と神さまに仕えてきたベテラン祭司のザカリアが、神さまのリアルな働きに触れ、不安になりおじ惑っているのです。何か滑稽です。
でも私たちは、こうしたザカリアを笑えるでしょうか。これは彼だけの問題ではありません。私たちは今日も礼拝に来ました。だいたい1時間から1時間10分で終わります。1つひとつの式順に従って礼拝は進みます。でも、そうした礼拝、あるいは日常のクリスチャン生活はどこか決まりきったもの、もっと言えば、この時のザカリアのように、誰からも邪魔されたくない、邪魔され不安にさせられたら困るという思いが、私たちにないだろうか、と思わされたのです。
「ザカリア」という名前は「神に覚えられている者」という意味のある名前です。その名前を帯びた祭司がザカリアです。しかし、その神さまから救いの言葉が与えられた時、彼は不安になり恐怖を覚えたのです。何故なら想定外だったからです。神さまが、彼の人生の今、この場面に直接介入されることを想定せずに信仰生活を送っていたからです。これはザカリアだけの問題ではありません。

Ⅳ.沈黙の恵み―神のシナリオを受け取り直すために

少し私たち自身に当てはめて考えてみたいと思います。「もしかしたら、私たちの生活は、神さまに邪魔されたら困るような生活になっていないでしょうか」ということです。
私たちは自分で自分の人生のシナリオを描きます。私も学生の時にシナリオを描きました。一般企業に就職する時にも困らないようにと語学の試験でAを取りたいと思いました。もし、その時点で、神学校に行くシナリオを描いていたら、先週お話しした、あんな馬鹿なことをする必要もなかったと思います。大学時代、語学でCの成績が付いても神学校の入学試験には関係ないわけですから……。
神学校では、もっと勉強を続けたいというシナリオを描いていました。でも神さまは、卒業後にすぐに教会に仕えるようにというシナリオを用意しておられました。このように、私たち1人ひとりは、自分の人生を自由に設計し、夢を抱き、シナリオを描くわけです。でも、クリスチャンになった後、そして神さまとの交わりが深まる中で、私たちの心の中に1つの、不安のようなものが生じることがあるでしょう。それは「果たして、私が描くこのシナリオは、神さまが私のために描かれるシナリオと同じかどうか…」という問いが起こるからです。
もしそうした問いを心深くに持つならば、あるいはその問いに気づいたならば、自分で描いたシナリオどおり、滞りなく、手順どおり、物事が進むようにという自分の計画、思いを、もう一度神さまの前に差し出すことが必要になります。神さまは、それをザカリアに求めたのです。
こうしたことを考える時、私はいつも創世記に出てくるヨセフを思い出します。ヨセフもシナリオを描きました。牢屋に入っていた時に、給仕役の長の夢を解き明かし、彼によってヨセフの身の潔白が証明され、牢屋から解放されるというシナリオです。ところが神さまはもっと壮大なシナリオをお描きになり、ヨセフにその一端を担って欲しいと考えておられたのです。
仮にヨセフが願ったとおりのタイミングで解放されたとしたら、2年後にファラオの夢の解き明かしはなかったかもしれません。そして、ファラオとの出会いがなければ、彼が総理大臣になることも、そして、もっと大事なこと、ヤコブの家を始め、エジプト全土、その周辺諸国の人々の救済も難しかった事でしょう。
ヨセフが願ったように獄からの解放がなかったこと、これが神さまのシナリオでした。
神さまは私たちが手に握りしめている宝より、もっと素晴らしく豊かなシナリオを用意しておられるのです。
預言者エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29:11)と語っていますが、私たちはそのことを受け止めるために、神さまの前に静まり、御心を聞く時を必要とします。生活の中に余白を必要とするのです。ザカリアには10か月の余白が必要だったのでしょう。
箴言に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」(16:9 口語訳)とある通り、私たちの側に、神さまの介入を受け入れる余白を備えることです。それは、私たち1人ひとりにとって、また、教会にとっても必要なことです。
カール・バルトは語りました。「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない限り、それは癒されることはない」と。神さまに妨害された時、すなわち神さまの介入が起こった時に初めて、私たちの本来の恵みの生活が始まります。そして、それはすでに始っていることを、心に留めながら、1週間を歩み始めて行きたいと思います。
お祈りします。