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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

マリアの賛歌

2016年12月18日
第四アドベント
松本雅弘牧師
詩編147編1~11節
ルカによる福音書1章39~56節

Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア

先週の水曜日、クリスマス会を翌日に控えた幼稚園の年長さんが、ホッとスペース虹の部屋の前で遊んでいました。「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と訊き返すと、「マリアさん」とその子は答えました。そしてもう1人の女の子に「あなたは?」と尋ねますとその子も「私もマリアさん」と答えました。
〈さすが、みどり!〉と心の中で幼稚園を称賛しながら、「ところで、マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの…。」と答えたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味だったと思います。改めてクリスマスの主役はマリアさん、と思ったことでした。

Ⅱ.喜びに溢れるマリア

さて今日の聖書個所にはそのマリアさんが登場します。彼女は20歳にもならない娘です。その彼女にとって「受胎告知」は大事件でした。その経験を受けて、マリアは急いでエリサベトの許に向かったことをルカは伝えています。
それは彼女の心が不安で一杯だったためではありません。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出しの言葉にあると思います。ここには「わたしの魂は主をあがめ」とあります。
この「あがめる」という動詞の形は現在形で表わされています。「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。
ところが、それに続く「喜びたたえる」という動詞は不定過去形で「神を喜んでいた」という意味です。つまりもう喜んだというのです。このニュアンスを大事にしながら、ある人はこの個所を次のように訳していました。「神さまはもう、私の方に顔を向けてくださった。その時に私の心も、すでに喜びに溢れていた。そうです、神さま。あなたに顔を向けていただいた喜びに、私の心はもう溢れているのです。ご覧ください、この私を。この後の人々はみな、ああ、あの人は神の喜びに満たされた人、幸いな女と言うようになるのです」。
この時マリアはすでに喜んでいました。その喜びに急き立てられていたのです。それが、ここでルカが強調していることなのです。

Ⅲ.マリアのエリサベト訪問

喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトは、神の恵みを共に数え、共に賛美し、祈りをささげました。
ところで不思議なことがあります。それはマリアがエリサベトと会う時点まで、心の中にあった喜びが歌にはならなかったということです。ところがエリサベトに挨拶され、共に抱き合って喜んだ時、初めて賛美の歌が生まれました。こうして生まれた歌が「マリアの賛歌」でした。
今日、詩編147編を読みました。朗読を聞かれて、〈あれ、マリアの賛歌に似ているな〉とお感じになった方もあるのではないでしょうか。そうです。このマリアの賛歌は、全く白紙の状態からマリアが歌い上げたものではなく、マリアの心の中で詩編147編の一部が賛美となって整えられたことは明らかなようです。専門家によれば他にも幾つもの聖書の言葉が、この賛歌にはちりばめられていると指摘します。
マリアは、祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから、マリアの家も祭司の家だったかもしれません。きっと日常的に詩編を唱え、祈る家庭の中で、先輩たちの祈りの言葉によって自らの信仰を形作ってきたのでしょう。
ここで覚えておきたいこと、大切なことは、マリアは自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかったということです。神の子イエスを産むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのです。
先輩たちの信仰に育まれ、旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに、今、自らも与っている1人の信仰者として、こうしてエリサベトと一緒に、同じ神様からいただいた恵みを感謝しながら、喜びの歌を歌おうとしているのです。
みどり幼稚園にマリアさんがたくさんいるように、「私だけではない、あなたにも共に、このように神さまの恵みが与えられているのだ」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、昔から歌い継がれてきた賛美の歌を、新たな思いを込めて歌った、それがこの「マリアの賛歌」でした。
マリアとエリサベトの出会いの中に、次のような素晴らしい言葉が出て来ます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
ある専門家は、このエリサベトの言葉をこんな風に訳していました。「マリア、あなたは幸せです。何故ならあなたは信じることができたから。信仰を持っているから。信仰を持っていたら、何故幸いなのでしょう。それは神があなたに約束されたことを、神が必ず実現してくださるからです。神の手の中にあるあなた、あなたは幸せ者ですよ。」

Ⅳ.厳しい現実の中で、主を賛美することができる

以前用いていた口語訳聖書では、新共同訳が「神を喜びたたえます」と訳す部分をただ「神をたたえます」と訳しています。原文ではただ一語「喜ぶ」という言葉です。
聖書の教えによれば、神さまをたたえることは、神さまを喜ぶことです。こうしたことを踏まえて、今日、礼拝に集って来た私の心の中に喜びがどれだけあるのだろうか、神を喜んでいるだろうか、と考える時、この「喜ぶこと」は、当たり前のことのようで、実は、必ずしもそう簡単ではないことに気づかされます。
私は牧師ですが、カンバーランド長老教会では牧師を「みことばと聖礼典に仕える者」と定義しています。つまり教会の「説教係」が牧師です。毎週説教の準備をし、日曜日ごとに講壇に立ちます。夕礼拝が終わり牧師館に戻ったその時、重荷が取り去られる瞬間です。
そして、月曜日が終わって火曜日が来ると再び戦いが始まります。特に高座教会の場合、週日の諸集会があり、また牧師としての責任の中で、落穂拾いのように時間をかき集めながら「説教係」としての責任を果たさなければならない物理的な面での困難さもあります。
しかし「説教係」にとっての一番の難しさとは、牧師自身が常に喜びに溢れているかと言えばそうではないという現実があるということです。
ある牧師が「神の存在を十分に信ずることができる理由を探すより、神の存在を疑わせる理由を捜す方がたやすい」と語っていましたが、まさに実感です。私たちは、「神がおられるのに、何故?」と訴えたくなるような現実や出来事に囲まれています。
そうした日々を送りながら7日経つと主の日がめぐって来きます。ただいつも思うのですが、本当に不思議なことに、そのルーティンのような取り組みの中で、不思議と恵みに満たされていくのです。日曜日の朝になると信仰が与えられ、「説教係」としての務めを果たさせていただくのです。「強いられた恩寵」という言葉がありますが、まさに説教の準備こそ牧師にとっての「強いられた恩寵」なのだと思います。
そしてこれは牧師だけではないのです。すべての信仰者にも「強いられた恩寵」があります。それは礼拝を守るという務めです。信徒も神を礼拝するために召された者として礼拝に集えるように祈り、体調管理をし、予定を調整し、様々な工夫をするのです。その時、不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら礼拝を守ることは喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることだからです。
「マリアの賛歌」に戻ります。マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶこと。神さまを礼拝することにより、私たちの心は喜びに満たされるのです。
マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで、偉大な神さまは偉大な人々にしか目をお留めにならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
そして、私たちもその同じ神さまの恵みを数えつつ生きるのです。神さまに目を留めていただいている現実の中に私たちも置かれているからです。
この恵みの現実の中にしっかりと身を置いて、その恵みがつま先から髪の毛の先までも浸透し、実感することができるように、しっかりと受け止めて行くことです。なぜなら、「神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きる」ことができるからです。
マリアとエリサベトはこの神さまの愛を深く受け止め、喜びに満たされました。
たとえ、喜べない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれていたとしても、神さまに愛されている恵みに浸り、その恵みに立ち返ることによって、私たちもマリアやエリサベトと一緒に、主を賛美し、主を礼拝して生きることが許されています。この恵みの中、クリスマスに向かって歩む私たちでありたいと願います。お祈りします。