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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

天のエルサレム

2017年1月8日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記21章1~13節
ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

Ⅰ.パウロの主張「祝福の相続人は誰か?」と「本当の自由とは?」

パウロはガラテヤ書の3章から、二つのテーマを念頭において、この手紙を書いてきました。一つは、信仰の父アブラハムに神様から与えられた祝福を受け継ぐのは誰なのか? もう一つのテーマが「自由」です。パウロは律法に縛られた生き方を奴隷の状態だとしました。一方でキリストを信じる者は、その律法に縛られた奴隷状態から自由です。奴隷なのか自由人なのかの違いが、この手紙を書いているパウロの念頭にずっとありました。

Ⅱ.サラと女奴隷ハガイ(創世記16、18、21章)

アブラハムにはサラという妻がいましたが、子どもはいませんでした。妻サラは夫アブラハムに自分が不妊の女であることから、自分の女奴隷ハガルの子を産んでくださいと申しでたので、アブラハムはそれに従ってハガルは妊娠しました。ハガルは奴隷の女でしたが妊娠すると、主人であるサラを見下すようになりました。アブラハムは、サラとハガルのことで心を悩ますことになります。そうして生まれた女奴隷ハガルの子どもはイシュマエルと名づけられました。しかし、90歳という高齢になった妻サラに男の子どもが生まれるという、神の約束が与えられます。そうしてその約束通り生まれたのがイサクという男の子でした。成長して、先に生まれた異母兄弟の兄イシュマエルは、弟イサクのことを「からかった」と、創世記21章にあります。それを見たサラは「あの女奴隷と息子を追い出してください。私の子イサクと同じ跡継ぎになるべきではありません」と、訴えたので、アブラハムは悩んだ末にイシュマエルとハガルの親子を、荒れ野にパンと水を持たせて送り出します。これが創世記に記されたサラとハガイの出来事です。
この二人の女性を念頭に置きながら、今日の新約聖書個所を見ていきたいと思います。
23節「女奴隷の子は肉によって生まれた」とあります。女奴隷ハガルの息子イシュマエルはアブラハムの子ではあるが、それはただ血のつながりにおいての親子に過ぎない、しかしサライの生んだイサクは、「約束」によって生まれました。それは神様が、不妊だった90歳のサライに「男の子が生れますよ」と、約束をもって生まれた子どもでした。ここでいう自由というのは冒頭でも話しましたが、パウロがこの手紙を書きながら念頭にあった、律法から自由となったキリスト者の源流がサライにある事を意味しています。24~25節にあるように、二人の女性には二つの契約を表す意味があるのだとパウロは説明しています。アブラハム契約と、モーセが十戒という律法を授かったシナイ契約の二つです。最初に神様が人と交わされた契約はアブラハム契約で、これはサライを象徴している。あとになってシナイ山で交わされシナイ契約はハガルを象徴していて、今のエルサレムに当たるのだとパウロは説明しています。当時のエルサレムは律法の中心です。パウロは律法主義の象徴として当時のエルサレムの町と、女奴隷ハガルを同じだとしています。また、26節にある「天のエルサレム」と、比較する意味での「今のエルサレム」を、律法主義の奴隷状態だ、と譬えています。「天のエルサレム」は、黙示録21、22章に書かれている、キリスト者が生きている者も死んだ者も、最終的にたどり着く所、「新しいエルサレム」と記されています。パウロが「天のエルサレム」というのは、それが今も天に用意されているという考えから来ていて、キリスト者が最終的に住む安住の地が、27節のイザヤ書の引用で、バビロン捕囚で荒れ果てたエルサレムが、以前にも増して祝福される預言の通り、「天のエルサレム」が私たちに用意されているのです。
28節ガラテヤの人たちをイサクと同じ「約束の子」と言っていますが、パウロはこの手紙の中で、アブラハムの祝福の「相続人」とか、相続権がある「養子」などと、さまざまな表現を使って説明してきましたが、ここでは「約束の子」と表現しています。
けれども29節「あのとき、肉によって生まれた者が、“霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」の「あのとき」とは、創世記21章でイシュマエルがイサクを「からかっていた」時と同じように、パウロの時代もキリスト者に対する「あざ笑う」態度や迫害に及んだ状況が、同じような事が行われていることを指しているのです。
しかし、30節は、「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と、これはサラが言った通りの言葉です。ここの「一緒に相続人になってはならない」というのが、今日の聖書個所でパウロの言いたかったポイントです。
ガラテヤにやって来た、ユダヤ人主義者のいうようなイエス・キリストへの信仰と律法主義を混ぜ合わせた信仰などはない。福音はキリストを信じる信仰だけであって、それに足しても引いてもいけない。彼らの教えと一緒に相続することはできない。というのがパウロの主張です。

Ⅲ.弱さを誇る

27節でも触れましたが、神様は一見して大きかったり、強かったり優位にあるものではなくて、その後ろにある小さな者を用いる方だと、あらためて思わされました。不妊の女サライも自分には子どもがいない事で、ハガルに対して負い目があったと思います。
神様が選んだ王様ダビデも、兄弟の末っ子で、最初は親に呼ばれもしなかった隠れた存在でした。イエス様が選んだ弟子達も、優秀な権力者ではなくて、田舎に住む漁師や罪人と呼ばれる人たちでした。神様はユダヤ人という、本当に小さな民族を用いました。
パウロが活躍していた時代のクリスチャンは、異邦人が、ユダヤ人の数を遥かに超えていたと言われています。数千年にわたって救いの恵みは自分達ユダヤ人だけに与えられていると思っていたことが、ペンテコステの出来事で教会ができてから、まだ数十年しか経っていない地中海周辺諸国で、異邦人の信仰者の方が上回っていたのです。自分達が中心だと思っていた福音が、律法に固執しているうちに、いつの間にか軸が変わっていきます。まさしく、後から来た者が先にされる。先の者が後にされていたのです。
このように、その時は小さくて、不幸に感じて、マイノリティに属す者でも、神に対して誠実な者を引き上げられます。パウロは第二コリントでこのように言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。』(コリント二12:9)

Ⅳ.イシュマエル

サラから嫌われたハガルとイシュマエルの親子は、荒れ野に出てアブラハム、イサクの子孫とは別の道を歩みます。しかし、創世記でアブラハム一族から追い出されるイシュマエル親子を見ると、私はとても哀れに見えます。背中に背負われるほど小さかったイシュマエルを見ながら母親のハガルが「わたしの子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と途方に暮れて泣いている様子は心を痛めます。しかし天の御使いが「ハガルよ恐れることはない。私はあの子を大きな国民とする」と約束して水を飲ませ、生き延びます。
イシュマエルはその後、エジプト人の女性と結婚し、12人の子どもを生み、多くの氏族を生み出します。彼はどんな生涯を送ったのでしょうか?
英語の辞書で「イシュマエル」と引くと、聖書の人物の他に、「追放人、憎まれ者、宿無し、社会の敵」と出ていました。ですから欧米では嫌われ者の代名詞のように扱われているのかと思います。
アメリカの文学小説で「白鯨」という小説がありますが、その書き出しはアメリカ文学史で、最も有名な書き出しだそうです。書き出しでは「私をイシュメールと呼んでもらいたい」と言ってはじまります。これだけで、この人物がどんな人なのだろうと、想像力を掻き立てる書き出しになっているのです。旧約聖書の時代、「イシュマエル人」と呼ばれた彼らは、放浪の生活を好み、後に「アラブ人」と呼ばれて、今に至るまでユダヤ人と対立していきます。ちなみに、後のイスラム教の教祖ムハンマドは、自分がイシュマエル人でアブラハムの子孫であると主張しました。

Ⅴ.天のエルサレム

パウロは26節で「天のエルサレム」と言って、ヨハネの黙示録の最後で、私たちキリスト者が行きつく先について触れています。そこは本当の自由がある場所で、今の天と地は過ぎ去って、新しい天と地が天から降りて来るとされています。キリストを信じる者が、今生きている者も、すでに死んだ者も、その天のエルサレムでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)
パウロは旧約聖書を振り返って、真の福音を説いていますが、この福音は未来に向けた希望があります。この希望の源は、イエス様の苦難と十字架の上に立っています。2千年も前に私たちの罪の為に死んでくださった。今、この救いの恵みに感謝して、そして、「天のエルサレム」に向かう道のりを、希望をもって歩みたいと思います。