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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

十字架のキリストを仰ぎ見る ―信仰生活の基本①

2017年1月15日
松本雅弘牧師
イザヤ書53章1~5節
フィリピの信徒への手紙2章5~8節

Ⅰ.「キリストを知りキリストを伝える」-信仰生活の5つの基本①

今日の聖書箇所(フィリピ2:5~8)にはイエス・キリストとはどういうお方で、何をしてくださったのか。そして、それは何故必要だったのかが簡潔に述べられています。

Ⅱ.なぜ、神が人間とならねばならなかったのか

私たちには、イエスさまのご生涯を知るために4つの福音書が与えられています。その4つの福音書が伝えようとしているポイントを、今日与えられた短い聖書箇所が鋭く突いているのです。
それは、「なぜ、神が人間とならねばならなかったのか」という、私たち人間の側の問いに対する神さまの側からの答えです。言い換えれば、これはクリスマスの意味です。
ある牧師は「飼い葉桶と十字架は、最初から一つだった」と語ります。つまり「なぜ神が人間とならねばならなかったのか」という問いは、「なぜ神が十字架で死ななければならなかったのか」という問いへと深められていくのです。
アドベントの季節に、私たちは受難節の時に使う紫の布を講壇に掛けて礼拝をしました。歴史の教会はその紫を「罪の悔い改めと罪に対する悲しみを現す色」として理解しています。
普通、家庭に赤ちゃんが誕生することは喜ばしいことです。赤ちゃんは生きるために生まれてくるのです。ところが、聖書は、キリストは十字架にかかるために生まれてくださったと教えるのです。
パウロは今日の個所で、キリストは「神の身分」であったが「僕の身分」となられたと語ります。この生き方は、私たち人間とは全く逆方向の歩みです。私たちは色々な機会を狙っては、何とか「自分の身分」を高めようとするでしょう。しかしイエスさまは神であること自体を放棄し、「ご自分を無に」されたのです。しかもあの不名誉な十字架と言う磔刑によって死なれました。言い換えれば「罪人」として生涯を終わったというのです。
今日は、このことから3つのことをお話したいと思います。

Ⅲ.十字架の意味・十字架の力・十字架の結果

まず第1の点は「十字架が起こった理由」です。「なぜ神が十字架で処刑されなければならなかったのか」それは、「私たちの罪がキリストを十字架につけた」ということです。
以前、高座教会に講演に来られたS先生は、イエスさまが十字架におかかりになった時に、その十字架の下にいた人々について、深く心に残るお話を語ってくださいました。
S先生は、ご自分が関係している障害者通所施設の職員が、通所してくる利用者に対して優しく出来ないという現実を証しされ、そして、それだけではなく、スタッフ同士の間でも、いつの間にか上下の関係ができてしまう、そのようなことをお話くださいました。そしてその理由は、職員も利用者もスタッフも、実は、皆それぞれに傷を負って生きているからだとも言われました。
だから優しくなれず、人を傷つけてしまう。そうした現状を前にして、S先生は〈どうしたらいいのだろう〉と考えたのです。そしてその時、十字架の下にいた多くの人たちのことを思い起こされたそうなのです。
ピラトによってイエスさまの死刑が確定したとき、兵士たちはイエスさまを傷つけました。唾を吐きかけ、そして、「ユダヤ人の王」と言って侮辱しました。イエスさまが、彼らに何かをしたわけではありません。兵士たちは、ただ仕事として鞭打ちながら、彼らの心の奥底に潜めていた怒りを爆発させたのです。その怒りがどこから来たかと言えば、上役によって蔑まれながら仕事をしなければならない「兵士という仕事」、時には上の者から唾を吐きかけられ、一方的に罵声を浴びせられ、また、殴られたり、本当に悔しい思いをした記憶が彼らの心の奥深いところにありました。
いつもはその怒りを押し隠しながら仕事をしていました。ところが、イエスという名の死刑囚を、「仕事として」鞭打ち始めた時、いつしか、押し隠していた怒りの感情が、また本来自分を足蹴にしてきた上役や周りの人たちに向けられるはずだった怒りが、無抵抗なイエスに向かって集中したのではないだろうかと、S先生は考えたというのです。
十字架の場面には、宗教家たちも、そして一緒に磔にされた死刑囚もいました。皆、無抵抗なイエスという名の男に罵声を浴びせ、侮辱し、傷つけていったのです。
なぜなのだろうか? ここにいた誰もが、心深く傷ついていたからなのではないか……。やり場のない怒りを、その時、一番弱い立場におかれていた「無抵抗なイエスという名の男」に集中していったのではないだろうか。彼らは、怒りの矛先を、見当違いのイエスに向けていったのです。
聖書によれば、イエスさまは彼らの傷、心の痛み、怒りをご存知でした。ですから、十字架の上で「父よ! 彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないでいるのです!」と執り成されました。イエスさまは、十字架の周りにいた人々のことを、「自分が何をしているのか知らない」(ルカ  23:34)人々と見ておられたのです。
そしてどうでしょう。こうした彼らの姿は正に、私の姿、私たち自身の姿と重なるのではないでしょうか。つまり聖書は、彼らだけではない、私たちが、イエス・キリストを十字架につけたのだということを、伝えようとしています。
キリストの十字架は、そうした私の心の渇きを癒し、心の痛みを癒す、私たちのためのものだったのです。ですから「キリストを知る」ことは、言い方を換えれば、「キリストの十字架の恵みを味わい知る」ということなのです。これが第1のポイントです。
「キリストを知る」ことの第2のことは「十字架には力がある」ということです。その「力」とは何でしょう? それは、「神さまの愛の力」です。
聖書は十字架の出来事の直前に、弟子たちが何をしていたかを記録として残しています。その1つに、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、仲間の使徒たちを出し抜いて自分たちの出世を願ったことが出てきます。その事実を知った他の弟子たちは腹を立てました。彼らも同じ事を考えていたからでしょう。
しかしこの後、十字架の愛に触れ、復活の希望をいただき、ペンテコステの日に、聖霊の命をいただいた直後から、彼らは変えられていきました。
この時のヤコブとヨハネだけを見ても、素晴らしい変化です。ヤコブは使徒の中で最初の殉教者となり、キリストの僕であることを証ししました。ヨハネは晩年、島流しになり、やはり殉教の死を遂げます。そしてヨハネが生前残した手紙を見ますと、その中で、彼は「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(ヨハネの手紙一3:16)と証ししています。
仲間を押しのけ、自分が良い地位を確保しようとする欲深いヤコブをつくり変え、また、雷の子と異名をとった血の気の多いヨハネを愛の人に変えた神さまです。ですから、この私たちをも、造り変えてくださるのです。
なぜでしょう? それはキリストを知ったからです。十字架の愛の力によるのです。この愛に触れた時、心の底から喜びと力が湧いてくる。私たちの堅い心が砕かれ、溶かされていきます。そして、この愛に応えていきたいと願う者へ、不思議と変えられていくのです。ある時、イエスさまは、「多く赦された者は多く愛するようになる」と語られました。これが第3のポイント、「十字架の結果」そのものです。
ドイツ人牧師シュラッターが、今日の聖書個所を、「主が僕になられたのは、人間が神の僕だからだ」と解説していました。私たち1人ひとりが、自分の賜物を用いて神さまと隣人とに仕える者となるために、主が僕の身分になられたのです。
神さまとの縦の関係においては、神さまを礼拝することを通して、私たちは神に仕える者として生きます。そして、横との関係において、伝道と愛の奉仕を通して隣人に仕えていくのです。そのことを自ら身をもって示してくださったのが、私たちの先頭を歩まれるイエス・キリスト、そのお方でした。
ですから、このことを深く心にとめるようにと、パウロは「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(5節)と語っているのです。

Ⅳ.キリストに愛されていることを深く知る

以上が今日の個所です。私たちの喜びの源はイエス・キリストに愛されていることです。しかも、十字架に命を捨てるほどに愛してくださっているのです。そして、その愛は赦しの愛です。
この愛を、私が必要としているだけではなく、愛する私たちの家族も、職場の同僚も、学校の友も、私と同じように「キリストに愛されていることを知る」必要があるのです。
この1年、まず私たちが主の愛に深く留まること、そして、この愛を他の人々に証しする者へと導いていただきたいと願います。
私たちの信仰生活のすべては、キリストを知るところから始まるからです。お祈りします。