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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

生活の全ての領域で 主の恵みを味わう

2017年2月12日
松本雅弘牧師
創世記25章19~34節
エフェソの信徒への手紙5章31~33節

Ⅰ.イサクとリベカ夫婦の現実―子がない現実

今日の箇所にはイサクとリベカが結婚してから、およそ19年の歳月が流れた頃の出来事が記されています。その間、この夫婦には子どもが与えられないという現実があり、一方、イサクの異母兄弟イシュマエルの家庭には次々と子どもが誕生していました。
イサクは心配したのではないでしょうか。イサク自身、神の奇跡によって生を受けた存在でしたけれど、時間の経過と共に、次第にその確信も薄れていったのです。
そこでイサクがしたこと、それは妻のために主に祈ることでした。主はその祈りに答え、リベカは身ごもっていくのです。

Ⅱ.イサクの信仰

ところで創世記は、イサク本人の結婚であるにもかかわらず、一から十まで父親アブラハムが主導権を執っている様子を記しています。結婚の後も、その新家庭を守るために、アブラハムはイサクの兄弟たちをイサクの周囲から遠ざけています。「父母を離れる」ことが結婚の大前提です。父親アブラハムは関わり過ぎのように思います。
そのためでしょうか、これまで主体的に自分のこととして神さまと交わった経験が乏しく見えたイサクでしたが、子どもが与えられないという現実を通して、つまり、問題と取り組むことを通して、神さまとの祈りの格闘を始めていくことになったのです。イエスさまが言われる、「もっと豊かな実を実らせる目的を持ってなされる、神さまの枝の刈り込み、お手入れ」です。
私たちは弱い者です。だからなかなか祈ろうとしません。弱い者であるならば、なお、強いお方である神に向かってもっと祈ればよいのですが、でもそうできないし、また、そうしないのが私たちです。
そこで私たちを愛する神さまは、具体的な祈りの課題を私たちにお与えくださり、それを通してご自身との交わりへと、私たちを導こうとされるのかもしれません。
この時のイサクも「子どもが与えられない」という現実を抱え、神さまの御前に跪いて祈っていきました。これこそが祝福でした。

Ⅲ.イサクとリベカの夫婦

神さまはイサクの祈りに応えてくださいました。「めでたし、めでたし」です。しかし創世記には、「ところが、胎内で子どもたちが押し合うので」(創世記25:22)とあり、誕生した双子はイサクとリベカにとっての悩みの種となるのです。
それに対して彼ら夫婦はどうしたでしょうか。イサクはイサクで、そしてリベカはリベカで祈っているのです。夫婦そろって神さまの前に出ることがありませんでした。
二人のこの祈り方は、たまたまの出来事ではないように思います。何故かと言えば、この後、イサクとリベカの夫婦は、自分たちの好みによって、二人の子どものうち、それぞれ片方の子どもを偏って愛していくことが起こっているからです。
聖書は、「父母を離れて夫婦が結ばれ一体となる」と教えます。一体となるために父母を離れるのです。ですから父母を離れることが難しい時、夫婦が一体となることも非常に困難だということでしょう。
一体とならなくても平気、と感じる時、もしかしたら本来、夫婦間でしか満たすことの出来ない心の隙間を、全く別のもので満たしている自分を発見するかもしれません。イサクとリベカは、互いに交わりを深め、愛し合うようにと教える、聖書の生き方をしていたのだろうか、と思います。
自分のニーズを満たしてもらうために、相手の存在は好都合だったかもしれません。しかし、相手のために、自分の都合を変えるというところまでいっていなかったのでしょうか。そうした、夫イサクに対する苛立ちや怒りが、リベカの、夫に対する反発になり、足の引っ張り合いに発展していったのではないでしょうか。
その表れとして、エサウとヤコブという二人の子どもを、夫婦がそれぞれ、一人ずつ、別々に競争するように大事にしていきました。代理戦争のようにして、偏って子どもを大事にする行為になっていったように思います。
つまりこの夫婦は、根本的なところで不一致です。このような夫婦の許で育っていくエサウとヤコブは、結局、そうした大人たちの「負の遺産」を引き継いで大人になっていきました。その決定的な出来事が「長子の権利」を巡る事件です。

Ⅳ.生活の全ての領域で神さまの恵みを味わい知る

さて、これだけで物語が終るならば、単なる「悲劇」でしかありません。そこには「救い」も「福音」もありません。
でも、これだけでは終わらないのです。神さまが、この家庭の1人ひとりを愛してくださるがゆえに、この家庭に介入してくださるのです。創世記の物語はこの後、主人公がイサクから息子のヤコブに移っていきます。
最初、ヤコブは兄エサウを押しのけ長子の権利を奪い取る人物として登場します。誰も信じない、いや、信じられない、最終的には頼りになるのは自分だけという物語で生きてきた人物です。
そうしたヤコブが、エサウから命を狙われ逃亡し、叔父ラバンの許に身を寄せるのです。実は、そこもある種の地獄でした。叔父の許での厳しい労働。そして、叔父の2人の娘と結婚することになります。結婚することで、さらに人間関係も複雑になっていきました。
とうとうヤコブはラバンの許からも逃亡します。2度目の逃亡です。しかし、これから向かう地には命を狙う兄のエサウがいるのです。かといって逃げ出して来た義理の父親ラバンの許に帰ることもできません。八方塞がりの状況で、ヤコブは生まれて初めて、神さまとの出会いを経験したのです。自分のこととして、神さまと指しで向かい合う経験へと導かれました。
その出来事が創世記32章に記されています。ヤコブは生まれて初めて真剣になって神さまに祈りました。この時、その祈りの答えとして、ヤコブに「何者か」が襲い掛かり、夜明けまでヤコブと格闘したということが書かれています。
負けず嫌いのヤコブですから、倒されまいと必死に頑張りました。これに対して相手は、強引に屈服させようとし、彼の腿のつがいを打ったのです。体全体を支えていた片方の足に耐え難い激痛が走りました。と同時に、突然、力が抜けてゆくのを感じました。ヤコブは、とっさに自らの体を相手の胸に預けることしかできませんでした。
ところが、その瞬間、「ハッとするような経験」を彼はしていくことになります。ちょうど、水に体が浮くような経験です。それは、自分以外のものに自分の全存在がグッと受け止められるということであったと思います。
ヤコブは、小さい頃から、自分だけしか信用せずに成長してきた人物です。持ち前の賢さを武器に、人を蹴落とし、自らの運命を切り開いて生きてきました。しかしこの時、頼みにしていた「自分の力」がスゥーと体から出て行ってしまうような経験をしたのです。そして次の瞬間、今度は、自分以外の存在にしっかり支えられる確かさと力強さ、そして心地よさを、生まれて初めて身をもって実感していったのです。
人は無意識のうちに多くの持ち物、資格、力、経験によって自分の弱さを隠し、武装しています。そして、そうしたものによって自分は支えられていると思い易いのです。しかし、どうでしょう。この時のヤコブは、それらの武装がすべてはがされ、裸にさせられているような感じだったのではないかと思います。頼りにしてきた足場を失う喪失感を味わったことでしょう。
このようになったヤコブに対して、神さまは初めて祝福をするのです。それは新しい名前、「イスラエル」をもって表現されました。その意味は「神が戦う」という意味です。「お前が戦うのではない。ここは神の陣営である。私が戦うのだ」と。
ヤコブは、自らの弱さを通して真に頼るべきお方と出会っていきました。もはや、自分の人生は自分で勝ち取るのではなくて、主が戦ってくださるゆえに、このお方に依り頼もうとする信仰が与えられたのです。
自分の力では、どうすることも出来ないような状況に追い込まれ、結局、神さまに依り頼まざるを得ないのです。しかし、それが彼にとっての恵みでした。そのことを通して神さまとの出会いを経験しました。初めて水に体を任せ、水に浮く経験をしたのです。ヤコブは真剣になって祈り、慰めを求め、必死になって神さまに向かったのです。
今日は、イサクとリベカの結婚からスタートし、彼らから生まれ、彼ら夫婦に育てられたエサウとヤコブ、特にヤコブに注目して見て来ました。
私たちにとっての恵み、私たちにとっての福音は、神さまが愛のお方であり、神さまの愛から離すものは何もない。生活の全ての領域に神さまの恵みが満ちているということです。そのことを通して、私たちは神に近づくように召されているのです。
ですから、私たちにとって必要なこと、それは、生活の全ての領域で主の恵みを深く味わうことなのです。
お祈りします。