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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

キリストを着る

2017年7月30日
和田一郎伝道師
創世記1章27節
コロサイの信徒への手紙3章5~17節

今日の説教の題は「キリストを着る」としましたが、日本語では服を着ることを「袖を通す」などと言ったりします。新しい服を着る時などに使う表現だそうです。ただ「服を着る」というのではなく、服に「袖を通す」と言うと、なんとなく新しい服を着る時の新鮮な気持ちが伝わってくる表現です。パウロは、「キリストを着る」という表現をよく使いました。今日の箇所でも「新しい人を身に着けなさい」つまり「キリストを身に着けなさい」と言うのです。日本風に言えば、「キリストに袖をとおす」と言ったところでしょうか?その「新しい人を身に着ける」ということを中心に話しをすすめていきたいと思います。

Ⅰ.古い人

コロサイ3章は、クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後の生き方についてパウロが教えている箇所です。信仰をもつ前と、その後の生き方にどのような違いがあるのか。パウロは信仰を持つ前は地上的なもの、特に「欲」と「怒り」に代表されるものに従って生きていると言っています。確かに今の世の中は、人一人の生活や仕事の環境よりも経済成長を前提に動いていますし、思いやりよりも、不寛容な「怒り」が目につく社会で生きています。しかし、私たちが信仰を持った時から、世の中の価値観からキリストに従って生きる生活へと変えられました。パウロは信仰を持つ以前の「欲」と「怒り」に従う自分を捨て去りなさい。と忠告しています。それは「古い自分」だと、捨てなさいということは、まだ捨てられないでいる自分がいるということです。
欲や怒りは仏教の用語でいうと煩悩と言うそうです。「煩悩を捨てなさい」とか「断ちなさい」といったりします。煩悩というのは簡潔にいうと、人間のもつ「欲望と、怒り憎しみの思い」を言うそうです。「欲と怒り」に執着しないことを「煩悩を捨てる」と言うようですが、パウロの表現では「欲と怒り」は「古い自分」です。「煩悩を捨てる」のではなくて古い自分を捨てなさいと教えています。そして仏教の教えと違うのは「新しい人」があるという事なのです。そのことをパウロは10節で説いています。「造り主の姿に倣う、新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」
「新しい人を身に着ける」というのは、キリストという「新しい人」があるのが、仏教とは決定的に違っていて、「新しい人を身に着けて・・・真の知識に達する」これが聖書の真理です。

Ⅱ.新しい人(キリストを着る)

「造り主の姿に倣う、新しい人を、身に着ける」というのは、私たちを造ってくださった父なる神様の姿に、似た姿を身に着けるという事です。これは創世記1章27節の言葉からきています。
「神は御自分にかたどって、人を創造された。神にかたどって創造された。」
「神に『かたどって』造られた」の「かたどって」というのは、何かの型に入れて、その「形」に造ったのではないのです。「神のかたち」を神学用語で「イマゴ・デイ」と言います。とても大事な神学用語ですが、「イマゴ・デイ」はラテン語ですが、英語では”image of God” という言葉を使っています。つまり、「神のかたち」は輪郭のようなものではなく、輪郭でしたら”shape of God”となりますが、”image”ですから霊なる神の「性質」に似せて私たちは造られたわけです。
神の性質というと思い浮かぶのは、愛という性質、聖なるきよい性質、正しい事を正しい、悪い事を悪いと定める「義」なる性質、父と子と聖霊からなるコミュニケーションをとろうとされる交わりの性質をもっています。寛容であり忍耐をもった性質、そのような性質に似せて造られたのが私たち人間です。
そして、「神のかたち」を考えた時、イエス・キリストこそが、神様が天地創造のはじめに、人間に期待した「神のかたち イマゴ・デイ」の本来の姿です。イエス様こそが、人間に期待されている本来の姿です。

Ⅲ.命の尊厳

「神のかたち」を考える時に大切なこととして考えなくてはならないのは、命の尊厳です。人間の命の尊厳性というのは、どこに起源があるのだろうかと言ったら、ここにあります。「神のかたち」として造られた創世記1章27節にあります。私たちクリスチャンにとって、本当に幸いなことの一つは、「命の尊厳の起源」というものをしっかり持っているということです。神のかたちに造られている、ということが命を尊ぶ意味と、はっきり言えることです。たとえば「人は人を殺してはいけない」というのは、誰でも知っている事です。しかし、その理由を考えて見た時に、「人は人を殺してはいけない」ことの理由を聞かれてどのように答えるでしょうか。
先週は相模原市の障害者施設で殺傷事件があってから1年がたったので、さまざまなかたちで報道されました。命の尊厳を考えさせられる事件であったのは、障害者に対する差別的な考えをもった犯人が、あたかもハンディをもった人たちの命の尊厳を無視するような発言をしていたことです。さらにそれに同調する人がいたことも残念なことです。
無駄な命は一つとしてない。人は人の命に、手をかけてはならないとする根拠をどう答えるでしょうか。
多くの人はその根拠を持っていないと思います。勿論それぞれの人の考えはあると思いますが、根源的な不変性というものはないでしょう。そうであるから、いったん戦争や紛争が起こってしまえば、人は簡単に人を殺めてしまうのです。根幹における命の尊さの意味づけというものがないからです。わたしたちは「神のかたち」である者として、たとえハンディを持って生まれたとしても、自分には欠けがあると感じている人も、認知症であったり、昏睡状態にあるような人であっても、命がある限りそこに尊厳があると言えます。それは人権という言葉を越えているものです。人権を守るという言葉も使われますが、特に「命」に関わることに関しては、聖書的には「尊厳」という言葉が相応しいと思います。その根拠が創世記1章の「神にかたどって創造された」という「神のかたち イマゴ・デイ」にあるのです。私たちクリスチャンは、命の尊厳の根源的な起源をもっているということです。わたしたちは、神のかたちに造られている、というのが人の尊い価値であり、命を大切にする不変的な意味です。

Ⅳ.神の愛を映す者として

コロサイ3章10節に戻りますが、パウロは古い人を捨てなさい、と言った後に「造り主の姿に倣う、新しい人を、身に着けなさい」というのです。先ほども言いましたが、イエスキリストこそが、人間に期待されている、本来の姿「新しい人」です。パウロはそれを「キリストを着なさい」などと言いますが、みなさんは毎日、キリストに袖を通しているでしょうか。それは日曜日だけとか、教会に行く時だけであったり、またはキリストではない、よそ行きの服を着たりしていないでしょうか。
そんなパウロは、イエス様に出会った日から、日々キリストを着てキリストに似た者へと変えられていきました。そのキリストに似た者の姿が12節以降に書かれています。
キリスト者は神に選ばれた者として、聖なる者として、愛を身に着けること。キリストを着るということは、愛を身に着けることです。愛という性質をこの身に溢れさせること、そのことに感謝して、詩編と賛歌と霊的な歌で、心から神をほめたたえるのです。
私たちは、キリストに似たものとされることを通して成長していきます。それは聖霊によってキリストの姿に日々、変えられていくという、人間本来の「かたち」になっていくことです。古い自分と新しい自分の境目には、キリストの十字架があります。そしてそこに神の愛と、赦しが現わされています。わたしたちが自ら、新しい姿を求めていくようにと神様は招いておられます。