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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

今、神の国が来ている

2017年8月6日
松本雅弘牧師
エレミヤ書23章23~32節
マタイによる福音書12章22~32節

Ⅰ.聖霊に逆らう罪

今日は、代々木オリンピックセンターで行なっている日本中会アジア青年交流会に参加するために、アジア各地から来られた6名の兄弟姉妹たちと共に礼拝を捧げています。
さて、今日の聖書箇所には「ベルゼブル論争」の結末として、イエスさまの口から「聖霊に逆らう罪/赦されることのない罪」という言葉が飛び出して来たことが記されています。これは、聞く私たちに大きな戸惑いを与える言葉です。

Ⅱ.事の発端

事の発端は、目が見えず口の利けないという二重の障がいを負った人を、イエスさまが癒された出来事からでした。
この人の癒しを目の当たりにした「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」のです。
ここで注目したいのは「驚いて」という言葉です。調べてみると、これは英語の「エクスタシー」の語源となった言葉で、「恍惚状態」で「我を忘れる」という意味だと分かりました。
群衆は、イエスさまの奇跡を目の当たりにした結果、我を忘れるほどに感心し、茫然自失してしまったのです。直感的に、「この人には神の霊が働いている。この人こそ、来たるべきメシアかもしれない」と思ったのです。そうした場面です。
しかし、我を忘れることをしない人々が、そこにはいました。ファリサイ派の人々でした。彼らは主の御業を認めようとしないのです。主イエスの背後に神の霊の働きを認めるならば、自分たちの立場を揺るがすことになりかねないと、警戒したのでしょう。けれども、そこに超自然的な力が働いている、そのことは認めざるを得なかったのです。ですから、その働きを、悪霊の力によるものだと断定したのです。
これに対して、イエスさまは、悪霊が仲間割れして、その国が分裂するようなこと、それは悪霊といえども願わないだろう。もしも、悪霊の力によって悪霊を追い払っているということになれば、その国は立ち行かなくなる。そんなことがあり得るだろうか、と反論されました。そして、本当に大切な視点、もっと積極的で正しい見方をお示しになりました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」だから、こうした出来事が起こっているのだ、と言われたのです。わたしが、神の霊をもって、今、神の国をもたらしているのだ。それなのに、それに気づかないのかと、イエスさまは問うておられるのです。
今日は、「聖霊に言い逆らう罪/赦されることのない罪」の話題から始めましたが、聖霊とは、今、ここで働く神さまの霊です。聖霊は、私たちとキリスト、また私たちと父なる神さまを執り成し、結び合せるお方です。ですから、そのお方を、私たちの方で拒否することは、結果として、救いの道が閉ざされてしまうということでしょう。

Ⅲ.神の国とは

ところで、ここに「神の国」という言葉が出て来ます。マタイによる福音書は、ここまでは「天の国」と語られてきました。マタイ以外の福音書では「神の国」と語られています。
雑誌『舟の右側』に山口希生先生がこの点について書いておられましたので、それを参考にしながらお話しします。
マタイによる福音書では、今日の箇所以外では、「天の国」という言葉が当てられています。普通、日本人にとっての「天国」という言葉は、死んだ人の魂が憩う死後の世界のことを思わせます。「天国」とは「あの世」、あくまでもここではないどこか彼岸的な世界を指す言葉でしょう。しかし主は「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われる。
ここから分かることですが、イエスさまが説かれた「神の国」「天の国」とは、単なる「あの世」のことではないのです。「神の国」とは何か。それは「神の王国」、もっと厳密に言うと「王としての神による支配」のことです。したがって神が王として支配するところは、そこが「見える世界」であろうと、「見えない世界」であろうと、神が支配される王国に変わりがない。ですから、「ここには神の王国はない」ということは、「神はここにおられない、ここでは神は王ではないのだ」と言っているのに等しいわけです。逆に「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われた場合、そこに神さまのご支配の現実があるとイエスさまは宣言されたということなのです。
アジア青年交流会では各国の課題が分かち合われました。また、コロンビア出身のヨハン先生はカンバーランド長老教会に生じている「グローバル化」について話されました。
キリスト教は最初ヨーロッパに拡がり、アメリカに渡り、アメリカ経由で日本に届けられた歴史があります。しかし今、カンバーランド長老教会では、新しくスペインでの働きが始まりました。かつて植民地にし、キリスト教を伝えて行った人々の国に、今、植民地出身の人々が出向いて行きキリストの福音を伝えるという逆転が起こっているのです。
アジア青年交流会では、ファシリテーターの柳沢美登里姉が、この現実を神さまの視点で見るようにと導いてくださいました。若者たちだけで小グループに分かれ、互いに母国語ではない、慣れない英語を駆使しながら、真剣な分かち合いが行われたのです。

Ⅳ.今、神の国が来ている

イエスさまは言われました。「神の国はあなたたちのところに来ている」と。
アジア青年交流会で若者たちが経験したことは、まさに「神の国はあなたたちのところに来ている」という神さまのご支配の現実だったのではないかと思います。
私たちは、神のご支配「神の王国」をさまざまな仕方で経験します。「神の支配」は、既に今始まっているのです。あの2千年前のクリスマスに、光なるイエスさまが誕生されて以来、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:5、9)と、ヨハネが降誕の出来事を表現したように、私たちのこの世界の只中に、神の国は現れています。
ただ問題は、その神さまのご支配が見えず、暗闇が覆っているような現実がたくさんあるということです。時に悪霊が支配しているようにさえ見えることがある、ということでしょう。
でも、今回、若者たちがアジア青年交流会で経験したことは、聖霊なる神さまに信仰の目をいただき、神さまの視点で見る時に、実は、闇のように見えるアジアの現実の中に、また私たち自身が遣わされている世界において、ほめたたえられるべき主の霊の働き、神さまのご支配が確実に始まっている、その事実を知ることでした。
今日は、72年前に広島に原爆が投下された日です。近頃の新聞を読むと、東アジア情勢の中で、「核弾道ミサイル」という言葉が平気で飛び交っています。「広島」や「長崎」の日が近づいても、アメリカの核の傘の下に守られている日本が、今さら何を、と国際社会の目は厳しいものがあります。
内閣改造もなされましたが、何を信用して良いのか分からない。嘘ではないか、と多くの人が感じていても、それを正す決定打がありません。
先日の日本中会の「平和講演会」で学びましたが、自民党の憲法改正草案を知れば知るほど、心配が募ります。闇が本当に深いのです。
でも今、主イエスは、「神の国はあなたたちのところに来ている。」と言われます。あのクリスマスの夜に、光なるお方が誕生されました。ローマ皇帝アウグストゥスが、そしてユダヤは、あのヘロデが治める暗闇の時代でした。そうした深い闇の中に光がぽつんと灯ったのです。
そのお方が、「神の国はあなたたちのところに来ている」と。そしてまた、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)とすでに勝利を宣言なさっているのです。
ですから、私たちの将来は、圧倒的に支配しているように見える暗闇にではなく、あちこちでぽつりぽつりと灯り始めた神の霊の働きのもとにあるのです。
今回のアジア青年交流会でもそうでした。ぽつりと灯る神の霊の働きでした。そして、やがてその灯の光が世界中を覆い尽くすようになる、とイエスさまは約束してくださっているのです。
アジア青年交流会の分かち合いのグループからは、それぞれに真剣さが伝わってきました。そして同時に、時に明るい笑い声が聞こえていました。私は〈これだ!〉と思いました。どんなに課題が大きく闇が覆っているように見えても、私たちはキリストにあって笑うことが出来る! 何故なら神の国が私たちのところに来ているからです。どんなところにも、必ずほめたたえられるべき主の御業があるはずだから、いや、必ずそこにあるからなのです。
主イエスの約束によれば、究極的には神の国が完成する。キリストが悪に打ち勝つ時がやって来る、ただ、今は、究極の一歩手前の時なのだから、闇が覆っているような現実もある。しかし、私たちは失望することはないのです。なぜなら、「定められた時に」神の国は、必ず完成するのだから、神さまのご支配が完全に現れる時が来るからです。
だから、今、そうした希望を抱きつつ、「究極以前」の「今の時」を、「究極の一歩手前の真剣さ」で取り組めばいい。肩の力を抜いて、笑いながら歩めばいい。何故なら、「今、神の国は来ている」と主イエスが宣言なさるからです。お祈りします。