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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

実を結ぶ種

2017年9月24日
松本雅弘牧師
詩編119編105節
マタイによる福音書13章1~23節

Ⅰ.たとえが持つ2つの側面

イエスさまはたとえ話の名人でした。身近な題材を使って、常にピタッとはまるたとえ話をされ、それによって神の国の深い真理を教えられました。
たとえにはもう1つの側面があります。それは、分かる人にだけ分かるという側面です。分かり易くするのではなく、どこか煙に巻くように、分かりにくくするためにもたとえが用いられる場面があるのです。

Ⅱ.種を蒔く人のたとえ

このように考えて来ますと、この個所は3つに分けて考えることができると思います。まず1節から9節で、大勢の群衆に向かって語られた「種を蒔く人のたとえ」です。そして10節からは、たとえそのものが持つもう1つの側面、すなわち分かる人には分かるということについてイエスさまは語っておられます。そして3つ目の部分が18節からで、群衆に語られた「種を蒔く人のたとえ」の説明の部分です。
今日は「種を蒔く人のたとえ」の意味を私たちに結び付けて考えてみたいと思います。種は神さまがお語りになる御言葉です。そして種が蒔かれた地とは、御言葉の受け取り手である私たちのことです。

Ⅲ.「種」の小ささ

イエスさまが、御言葉を種にたとえられたのは何故でしょう? 種はとても小さなものです。その小さな種から美しい花が咲き実もなります。種だけを見たときに、そうした花や実は想像もできないでしょう。でも実際に、種には花を咲かせ実を実らせる可能性と命が備わっているのです。そのように御言葉には力があります。
ただ種ですから、命を宿す種が芽生えるために、また、種の持つ可能性と力が生かされるのには、その種がまかれた土地の状態にかかってくるのです。まずは実際に芽を出すことができるか。芽が出たとしても順調に育つのか。育った後、実るのか。さらにその実りはどれだけのものなのか。こうした1つひとつのことは、今日のイエスさまのたとえ話によると、種が蒔かれた土地によって大きく違ってくるのだ、と言われるのです。
以前、ある幼稚園の園長先生が「時代とともに変わる教育」というテーマでこんな話をされていました。戦時中の子どもたちは、敵を憎み戦うことを教えられ、国のために死ぬことが良いことだと信じ込まされた。そして戦争が終わり、今度は食うや食わずの生活が始まり、大人たちは食べる心配に奔走した。そうした中で、子どもたちは放っておかれた。次に高度成長期の時代がやってきて、子どもたちは将来を保障することにつながる切符として、我も我もと有名校への入学を目指した時代がやってきた。確かに「他人を殺して戦え!」と言うかわりに、「命を大切にしよう!」と大きな声で言ってあげられる。価値観が多様化し個性尊重の時代の中で、「自分らしく生きよう!」と伝えることもできる。でも以前に増して子育てに疲れを覚え苦闘しているお母さん方が多いと、その園長先生はお話されていました。
そして、その原因を2つ挙げておられました。1つが、「情報過多」、もう1つは「より所の喪失」でした。2つに共通していることは「何を信じてよいか分からない」ということです。
親たちは自分で考え、自分で決めることを求められるが、情報過多の中、そうしたことが上手く出来ずに振り回されてしまう。その結果、疲れを覚え不安になる。でもこれは子育てに限ったことではありません。今は様々な面で情報が溢れている時代です。私たちクリスチャンも、そうした周囲の情報の中で、いつの間にかそちらの情報、そちらの考え方や価値観の方が大きく、大切なことに感じてしまい、御言葉を表面的にしかとらえることができなくなる。そこで御言葉の本来的価値が小さく見え、その結果、神の言葉の価値が小さく思える。それが「悪い者」の誘惑です。
イエスさまは、御言葉の種の受け止め方、その代表的な4種類を「土地」にたとえて話しておられます。最初の種は道端に蒔かれます。最初から全く耳を貸すこと、興味を示すこともしない心の状態です。「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」とあります。こうした状態の時は、奪い取られたことにすら、気付かないでいるかもしれません。
第2は石だらけの所です。そこは残念ながら土が薄いのです。神の言葉には力と命がありますから、ある程度は芽を出します。でも根を張るだけの土がないので太陽が照りつけ、間もなく枯れてしまう。最初は喜んで受け入れるのです。でもちょっとした困難に出くわすと諦めてしまいます。3番目の種は茨の中です。そこは、根は張れるのですが、この世の誘惑やまどわしが、成長を阻止するのです。ところが、多くの種が駄目になって行く中で、良い土地に落ちた種の中には100倍の実を結んだ種もある、とイエスさまはおっしゃるのです。

Ⅳ.主イエスの命をかけた働きに支えられて

聖書によれば、本来、神の口から出る1つひとつの言葉によって生きる、と言われている人間が、その命の言葉を下さる神さまから離れてしまったのだと言われます。
御言葉である種をしっかりと受け止めることが出来ない場合、どうなるかと言えば、結局、御言葉以外の別の何かをもって自分を満たそうという行動に出ます。物で心を満たそうと思ったり、周囲の人に、私の心のニーズを満たしてもらおうとしたりするのです。
しかし現実は、私が助けを求めるその人自身も、神さまから離れ、本当の満足を味わっていないならば、その人の内側にも満たされるべきニーズが存在するでしょう。ですから、場合によっては、互いに利用し合う、共依存関係になるのです。
これに対して主イエスは言われます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
イエスさまは御言葉を聞いて悟ることの大切さを説いています。どうもこれは一般的な意味で、理解力があるとかということではないようです。
ある牧師は、御言葉を聞いて悟るとは、その言葉に捕えられてしまうということではないだろうかと語っていました。つまり、聞いた言葉が、その人の内で、何か決定的な関わりを持ち始めるのです。
いかがでしょう。同じような経験をしても、ある人は何も感じず、ある人はそこに神が生きて働いておられることを受け止める、ということがあります。
絨毯を、裏側からいくら眺めてみても、その絨毯に描かれている模様は見えてこないでしょう。神さまとつながりながら、絨毯を上から見る経験をさせていただく、その時に初めて、そこに不思議な神さまの恵みを、私たちは見てとることができるのです。その時、その混乱の中に、悟る目と耳が与えられるのではないでしょうか。その幸いを、この時すでにイエスさまは説いておられます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(16節)
しかし、最後の最後に、ここでもう1つ心に留めたいと思うのです。それは、もともとの私たちはどうか、私たちはどのような土地か、ということです。
御言葉に対して、最初から良い土地のような受けとめ方が出来る人はそう多くないのではないかと思います。しかし、逆に、どんなに悪い土地であっても、不可能を可能にしてくださるのが神さまです。その神さまが、私たちの心の土地を耕してくださるならば、きっと実を結ぶ。私たちは、そう信じることが許されているのではないでしょうか。
この後、イエスさまが十字架にかけられた時、この場に居合わせた弟子たち、たとえの説き明かしを聞くという特権に与った弟子たちが、それこそ一人残らず、イエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。イエスさまが、噛んで含ませるようにして、丁寧に教え、蒔かれた種は、みんな枯れてしまったのでしょうか。
イエスさまは、13章のこの時点で、そのことを見ぬいておられたのではないでしょうか。しかし、そのことを御承知の上で、復活という思いもよらないなさり方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り、30倍、60倍、100倍、いやそれ以上の実を結ばせられたのです。
何故なら主イエスご自身がこう言われました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)
種が実を結ぶようになるために、主イエスの命をかけたこの働きがありました。十字架と復活があったのです。私たちはこの恵みに支えられ、良い土地であることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。