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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

隠された宝

2017年11月19日
松本雅弘牧師
ヨブ記28章20~28節
マタイによる福音書13章44~50節

Ⅰ.はじめに―2つのたとえのちがい

最初の2つのたとえ話を比較しますと、この2つの話には、共通点と相異点があるように思います。1つ目の「畑に隠された宝のたとえ」を注意深く読むと、土の中に宝を発見したこの人は、初めから宝探しをしていたわけではなく、偶然、見つけたのでした。これに対して、2つ目の「良い真珠を探す商人のたとえ」では、この商人は必死になって良い真珠を探し求めています。積極的に、熱心に探しているのです。決して偶然に見つけたのではなく、熱心に探し求めているのです。これが相違点です。

Ⅱ.2つのたとえの共通点

それでは、共通点とは何でしょうか。宝を見つけた人も、真珠を探し出した商人も、どちらも、躍り上がるほどに大きな驚きと、喜びに満ちていたということです。この宝を手に入れられるなら、自分の持ちものをすべてつぎ込んでも惜しくないと思ったほどに喜んでいるのです。
私たちがイエスさまを信じる信じ方、イエスさまとの出会い方は一人ひとり違います。でも、イエスさまを知り、そのお方を信じる生活に入るということでは、みな同じく、喜びにあふれ、すべてをささげて惜しくない、そのようなことだと思うのです。
この2つのたとえに、もう1つの共通点があります。それは、その宝、すなわちイエスさまの言う「天の国」は、本当に見つけにくいものだということです。この「天の国」とは、「神の支配」と言い換えてもよい言葉です。このように、神の支配は隠された宝のように人目に隠されているものなのです。
これまでイエスさまは大勢の群衆に向かって、「天の国」についてたとえをもって話してこられたのですが、この時は、彼ら群衆を外に残して家に入り、そばに寄って来た弟子たちに向かって、3つのたとえ話をされたのでした。

Ⅲ.厳しいたとえ

そのような中で、3つ目のたとえ話がイエスさまの口から飛び出してきました。前の2つと比べてトーンが少し違います。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(47-50)
ずいぶん厳しい響きがある言葉です。〈もしかすると自分も燃える炉の中に投げ込まれるかも〉と、不安を覚えた方もあるかもしれません。
私が教会に通い始めた頃、まだクリスチャンになる前でしたが、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という御言葉に出会いました。
当時、教会の中で耳にする説教は、世の終わり、もしくはイエス・キリストを信じないで人生を終わった後に待ち受けている神の裁きの恐ろしさ、そしてその裁きから免れるためにイエス・キリストを信じなさい、というメッセージでした。
今でも、時々、こうした伝道メッセージを耳にすることがあるでしょう。ある人は、これを、「永遠の裁き」というピストルを突きつけられ、「さあ、信じるか、信じないか、どうなんだ」と回心を迫る状態だと言っていました。
今、振り返ってみると、私がクリスチャンになった時の動機は、「信じなければ、永遠の裁きを免れないので信じる」という信じ方だったのではないか、と思います。ここにおられる方たちの中にも、そういう方がおられるかもしれません。
しかし、クリスチャンになりイエスさまと共に歩みを進める中で、そのお方に従う生活をすることは、世の終わりにおける裁きが恐ろしいからではなく、それ以上のこと、イエスさまのたとえで言うならば、むしろ大きな宝物を発見したから。だからこそ、持てるもをすべてつぎ込んででも、その喜びに連なりたいと願うからなのではないでしょうか。
ここまでの話の中で、心に留めたい点があります。それは、こうした厳しい「世の終わり」のたとえを、大袈裟に考えることはよくないのですが、決して簡単に聞き流してはならないということです。
全体的に主イエスが説かれた「天の国」の福音は喜びに満ちた知らせです。イエスさまご自身が、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言っておられます。これこそが、福音全体を貫く根本的なトーンです。
このことを踏まえて、このたとえが言わんとしていることを考えるならば、それは終わりの日における神の完全な勝利です。「悪」が滅びるということです。
しかし、私たちの日常生活において、どうして悪がなくならないのかと訴えたくなる、そのような現実の中に生きている私たちではないでしょうか。私たちの神さまは、それを決して無視してはおられないのです。むしろ、キチンと「悪」を終わらせることを考えておられるということです。

Ⅳ.生活の中に見出す「天の国」

今日の説教に「隠された宝」という題を付けました。イエス・キリストにおいて現わされている神の支配は、本当に見えにくい、と思わずにはおれません。
なぜ、そんなにも神さまらしくない振る舞いをイエスさまはなさったのだろうか、と思います。私たちが見て、すぐわかるように、私たちが考えるような神さまらしい振る舞いやお姿があったならば、すぐに理解できたかもしれない。
しかし、実際に、この地上に来られた御子のお姿は、私たちの想像を超えて、いや私たちの思いを裏切るような仕方で来られたのです。
それはちょうど預言者イザヤが、真の救い主のことを、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(53:1)と預言した通りです。
まさにその予告どおり、主イエスは赤ん坊として飼い葉桶に生まれました。全ての人が期待したように、逞しい成人男子として王宮に、という分かり易い姿で出現されたのではないのです。
イザヤの預言のとおりに、しもべのしもべとしての姿で、貧しいお姿でこの世に来られたのです。人間よりも、もっと深く、人間の弱さの中に、惨めさの中に、罪の恐ろしさの中に立ってくださったのです。ですから、この世の人々の誰1人として、真の救い主イエス・キリストに神の支配を見出す者はいなかったのです。
ヨハネはそのことを、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」(1:10)と語ります。
この世はイエスさまのものです。イエスさまがお造りになった世界です。そのお方が、ご自分のところにやって来たのに、この世の者は誰一人、イエスさまを受け入れなかった。拒絶し排除したのです。
その結果が、飼い葉桶でした。でも本当に幸いなことに、福音はそれでおしまいではなかったのです。ヨハネは続けます。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と。
隠された宝であるイエスを見つけた人がいたのです。畑の中に宝を見つけたように、偶然見つけた人もいるでしょう。あるいはまた、懸命に探し求める商人が素晴らしい真珠を探し当てたように見出した人もいます。
このたとえ話を聞いている弟子たちが、そして私たちがそうなのです。ですからイエスさまは弟子たちと共に、私たちにも言われるのです。「あなたがたは見つける。あなたがたは私において神の支配を見ている」と。
このたとえの解き明かしを聞いていた弟子たちは、主イエスに勧められたままに、家も財産も捨てて、イエスさまに従って歩んでいました。この先どうなるのか、その「先行き」について、よく分かっていなかったと思います。でも、主だけは信頼できました。ですから従って歩んで行けたのです。
イエスさまは弟子たちに向かって何かを命令しておられるのではありません。イエスさまのこれらの言葉には、命令形の文章は一切ありません。「真珠を探せ」とか、「さあ、畑に行って宝物を探せ」と命令なさったのではないのです。
ただ事実を語っておられます。「あなたは、わたしという宝を見出した。あなたがたはすでに天の国、神の支配の中に生きている」と。
ミッシェル・クオストというカトリックの司祭がおられます。彼は『神に聞くすべを知っているなら』という、有名な祈りの本の著者です。そのクオスト司祭はこう語っています。
「私がしたことは、生活の中で祈るということです。それを一緒にやろうとしただけです。なぜか。神がそこにおられるからです。神は天におられるのです。しかし、それだけではなくて、この地上にも生きておられるからなのです。そのことを、分かってもらいたかったのです。悩み、悲しみ、苦しむ人に、あなたは1人ではない。そこに神がおられるのだ、ということを言ってあげたかったのです。その神を知った以上、祈らないわけにはいかないのです。その神を知るのは、祈りにおいてしか、知ることができないのです。」と。
神は天におられると共に、ここにもおられます。私たちの生活の中にいてくださるのです。そこで「天の国」、主のご支配、イエスさまの守りを、日々発見したいと願います。お祈りします。