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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

洗礼者ヨハネの証し

2017年12月10日
松本雅弘牧師
イザヤ書61章1~4節,8~11節
ヨハネによる福音書1章6~8節、19~28節

Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕の出来事

ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
当時、ユダヤ教の人々は、イエスをキリストと告白する者がいれば、その人を会堂から追放することを決めていました。クリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。
そのように考えて今日の箇所を読んでいくと、イエスこそ救い主であり神の独り子であること、そして、神による恵みと真理が、イエスによって現されたことなどが強調されていることに改めて気づかされるのです。

Ⅱ.証言者としてのヨハネ

福音書記者ヨハネは、「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネを示します。洗礼者ヨハネは、イエスこそがメシアであり、自分はそうではないことを主張しました。
ヨハネは、イエスさまについて「語る」ために神から遣わされたのです。ギリシャ語で「語る」という言葉は「見たことを証言する」という意味があります。つまりヨハネとは証言者でした。

Ⅲ.土台のある人ヨハネ

ある時イエスさまは、ヨハネを指して「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛しました。そのヨハネが殉教の死を遂げるのです。理不尽極まりない仕方でヨハネは殺されていきます。
時の権力者、ユダヤの王ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアを奪い取って結婚したのです。それに対して、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」(マルコ6:18)。
このようにヨハネはヘロデの罪を糾弾し、その結果として逮捕され投獄されました。
しばらくしたある日、ヘロデの誕生日に、ヘロディアの娘が客の前で踊りを披露したのです。喜んだヘロデは、その娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、娘はその母ヘロディアと相談し「洗礼者ヨハネの首を」と願い、この結果、ヨハネの首がはねられることになったのです。
福音書には後日談が記されています。ヘロデがヨハネを殺した後にイエスさまの活躍の様子が、そのヘロデの耳にも入ってきます。するとヘロデはイエスさまのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と思い不安にさせられたというのです。
ヨハネは、その働きを進める中で、自分の死をある程度予測できたのではないかと思います。
ところが、福音書に出て来るヨハネには、恐怖におびえたり、後悔しているような形跡が全くないのです。与えられた道を当然のように信じ、まっすぐに歩いて行く、小気味良い生き方に見えます。ヨハネの生涯を顧みる時、彼を取り巻く状況は大変厳しいにもかかわらず、常に心穏やかです。彼は自分自身に満足し、確信に満ちていました。
何故なら、ヨハネは真に恐るべきお方である神を恐れていたので、他の一切の恐れから解放されていたからです。ですから、時の権力者に向かって、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことができました。彼は輝いていました。たとえヘロデによって殺害されたとしても、ヨハネの魂、彼のスピリットは決して滅びることがなかったのです。聖書はそのことを証ししているのです。
殺す側のヘロデについても触れておきたいと思います。記録によれば、ヘロデは豪華な宮廷に住み贅沢の限りを尽くしていました。軍隊に守られ、律法を破ってでも欲しいと思うものを手に入れようとしました。そのようにして自分のものにしたのが、妃ヘロディアでした。
ところが、彼の内面は何と平安のなかったことか! 何とビクビクし怯えていたことか、と思います。先ほども触れましたが、「イエスの名が知れ渡ったので」、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」(マタイ14:2)と、自分が首をはねたヨハネからの報復の恐怖に憑りつかれておののき、良心の呵責に悩まされています。
殺される側のヨハネが生き生きと輝き、喜びに満ちていたのに対し、殺す側のヘロデは恐怖におののいていた。主客転倒が起こっていました。権力、地位、財産、そうした支配の力は表面的には強く見えても、実質は無に等しい。しかも、死と隣り合わせです。
これに対して優しさ、愛、良心、信じること、そして望みを抱くことは、表面的には弱く見えても、実はどのような権力も刀打ちできない強さがそこにはあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(ヨハネⅠ 4:18)と、その手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は、この違いを好対照なものとして示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方を一言で表現すれば「人と自分を比べて生きる生き方から自由であった」ということです。
私たち人間が的外れな生き方をしている場合、そうした人間の生活の中には、必ず自己中心と虚栄心として現れてくると、聖書は教えています。自己中心とは「自分が、自分が」という思いです。虚栄心とは等身大の自分を受け入れることが出来ないために背伸びをして生きる心です。
何故そうなるのでしょうか。それは、神さまにしか満たすことの出来ない心の隙間を、神さまの愛以外の何かをもって満たそうとするから。そして、心の深いところで「自分はダメな人間だ」との思いが支配し、自分を受け入れていないため、少しでもよく見せるようにと虚勢をはるのです。
本来、神さまに造られ愛されているはずの私たちが、造り主なる神さまから離れて生きようとする時、必ず自己中心となり、虚勢を張って生きるしかなくなると、聖書は教えています。洗礼者ヨハネは、そうした生き方から本当に自由でした。解放されていました。
自分に満足できない人は、人に対しても決して満足できません。これがヘロデの問題であり、私たちの問題でもあるのです。これに対して、神さまの恵み、神さまの愛が十分に実感されていく時、そのままの自分自身に満足できるのです。あるがまま、そのままの姿で受け入れられ、受け止められるので背伸びをする必要がありません。人と比べることから解放され、自由です。「私は私で良かった!」と心の深いところに満足を覚えることができるのです。
洗礼者ヨハネと、王ヘロデの生き方、その違いは、人生の拠り所の違いと言えるでしょう。それは神さまを土台として生きていたかどうかの違いなのです。

Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち

福音書は、洗礼者ヨハネは「光について証しをするために来た」証人だと伝えます。
光なるイエスさまについて証しをする時には、光そのものと向き合う必要があります。月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスさまの素晴らしさを反映し、私たち自身が光輝くのです。それによって、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただくのです。
五味太郎さんが『クリスマスにはおくりもの』と
いう絵本をかいています。こんな話です。クリスマス・イヴに靴下を下げておいた女の子のところに、サンタさんがやってきます。靴下にプレゼントを入れようとすると、中に何か入っています。それは、サンタさんへの贈り物でした。サンタさんはそれを取り出し、大事に抱えて急いで帰って、自分のベッドの靴下に、そのプレゼントを入れて朝まで待つのです。
クリスマスの朝、包みを開けてみると素敵な靴下でした。真新しい靴下をはいて、サンタさんは喜んで教会へ出かけます。サンタさんからピカピカの靴を貰った女の子も、その靴をはいて一緒に教会で賛美歌を歌います。来年は手袋を上げようと、心に決めながら。
女の子はプレゼントを貰うだけではなく、プレゼントをくれるサンタさんに贈り物をしています。喜びを分け合っているのです。この絵本、このお話しには、クリスマスの心がよく現されていると思います。
そして、この絵本のサンタクロースは教会へ行ってクリスマスの礼拝をしているのです。クリスマスはサンタさんの日ではなくイエスさまの日だからです。私たちは、「教会に行かないサンタさん」をよく見かけますが、クリスマスの主イエスさまを知らないサンタさんでは困ってしまいます。
人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていた洗礼者ヨハネも困ったようです。人々はヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。
ヨハネは、「そうではないのです。自分は救い主について証しをするために来たのです」と訴えるのです。周囲の人々は、あまりにも身勝手にさまざまなことを言いました。それは、それだけヨハネが、イエスさまによって光輝いていたからだと思うのです。
それに対して15節を見ると、「声を張り上げて」イエスさまについて証しするヨハネの姿が紹介されています。
キリストは、「まことの光」として、「すべての人を照らす」お方としておいで下さいました。他の誰でもなく、ただ、イエスさまを見つめることが大切なのだと、ヨハネは訴えているのです。
光の中で初めて、私たちは自分の本当の姿を確認することができ、そして、光なるお方と向き合って生きる時に、その光を反射させる者としていただけるのです。そして、主の証人となるのです。
キリストは、罪深い私たちをも、光の証し人として生きることが出来るようにと招いておられるのです。お祈りします。