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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

イエス誕生の予告

第3アドベント
2017年12月17日
松本雅弘牧師
詩編89編2~5、20~27節
ルカによる福音書1章26~38節

Ⅰ.黄金のモスク=岩のドーム=モリヤの山

12月6日、トランプ大統領が、エルサレムをイスラエルの首都と認める宣言をし、波紋が広がっています。
国際条約において、エルサレムはどの国にも帰属せず国際管理の下に置かれることになっています。ですからアメリカが単独に宣言できませんし、それに呼応してイスラエル政府がその宣言を歓迎することも中東和平にとってはマイナスになる状況です。
そもそもエルサレムとはどういう場所なのか、エルサレムの中心にある1つの大きな岩の存在に注目したいと思います。
現在、そこには「黄金のモスク」が建てられています。その中は、岩がむき出しになっているため、別名「岩のドーム」とも呼ばれています。
実は、そこからモハメドが昇天したと言われている岩です。さらに、その岩は旧約聖書に出て来るイスラエルの神殿が建っていた場所でもあるのです。そして、さらに歴史を遡り、創世記を見ると、その岩はモリヤと呼ばれ、神がアブラハムに対して、独り子イサクを犠牲としてささげるようにと言われたその岩なのです。
そのように、そこはイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして私たちキリスト教徒にとっても、間違いなく大切な場所です。とすれば、その岩のあるエルサレムを、一方的にイスラエルの首都と宣言する事自体、暴力的な発言に他ならないのではないでしょうか。
今日の御言葉、詩編89編4節から5節に、主がダビデ王に与えた約束、後に「ダビデ契約」と呼ばれる約束の言葉が出て来ます。「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った、あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々備える、と」。
この約束、メシア誕生の予告をいただいて以降、イスラエルでは、ダビデの家系に男子が生まれる度に、「もしかしたらこの子が、ダビデ契約で約束された油注がれたメシアかもしれない」という期待をもって、生まれてくる幼子を迎えたと言われます。
そして今から2千年前、イエスさまの誕生は、ダビデの家系に属するダビデの子、正にメシアとして、この約束に基づいて誕生なさった、と聖書は語るのです。

Ⅱ.戸惑いから

受け入れ委ねる心へと変える神の力
ところで、ユダヤ人たちがメシアを待望する、その心の思いは、イエスさまの到来とはかけ離れたものがありました。ですから主イエスをメシアと受け入れることに失敗したのです。
主イエスにおいて現された実際の神の国、神のご支配は、人間の知恵や理解からすれば、全く神の支配らしくなかったからです。
地上に来られた実際のメシアのお姿は、私たちの想像を超えて、いや期待を裏切るような仕方で来られました。何故、主はそんなにも神さまらしくない振る舞いをなさったのでしょうか。何故、誰もが考えるような神らしい姿でこの世に来ることをなさらなかったのだろうかと思います。
そのことを預言したのが有名なイザヤ書53章でした。預言者イザヤは真の救い主のことを「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」と語り、誰も信じない、誰の目からも隠されているメシア・救い主の姿を預言したのです。
まさにその予告通り、主イエスは赤ん坊として飼い葉桶に誕生されました。普通の人が考えるような逞しい成人男子として王宮に出現されたのではないのです。
東方の博士たちが王の王、主の主なるお方を求めてヘロデの宮殿に行ってしまったのは無理のない話です。それが普通です。
しかし、真の救い主は、正にイザヤの預言の通り、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(53:2)、しもべのしもべとしてのお姿で、貧しい姿でこの世に来られました。人間よりももっと深く、人間の弱さの中に、惨めさの中に、罪の恐ろしさの只中に立ってくださいました。
この世の人々は誰一人、真の救い主イエス・キリストの中に神のご支配を見出すことが出来なかったのです。ヨハネ福音書に「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(1:11)とありますように、誰一人その方を受け入れませんでした。むしろ拒絶し、排斥したのです。その結果が飼い葉と十字架です。
マリアですらそうでした。彼女の想像を超えた神のご計画だったからです。考えたこともないような計画を知らされたマリアは当惑します。天使ガブリエルが、「おめでとう、恵まれた方」と言っても戸惑うばかりです。
その後、天使はかなり詳しくマリアに語るのですが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言って、彼女の戸惑いは変わりません。
しかし、そのマリアに対して神は決定的な御言葉を用意されていました。「神にできないことは何一つない」。これがマリアをハッとさせたのです。神とは一体どういうお方なのか。そのことに目を開かせる衝撃的な御言葉でした。マリアは降参し「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えていきます。

Ⅲ.「大きな暗闇を吹き払う小さな灯」として来られたダビデの子イエス

新聞によれば、トランプ大統領の発言の背後にアメリカ国内のキリスト教保守派の強い動きが推進力となっているとも言われます。
そうしたキリスト教保守派とは、一般に「シオニズム」と呼ばれる、ユダヤ民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動があり、クリスチャンの立場から、その運動に共鳴する人々だそうです。
ただそうした共鳴は、パレスチナは神から与えられた「約束の地」であるから、あそこにイスラエル国家を樹立することは神の御心であるといった、非常にナイーヴで短絡的な聖書理解から導き出された共鳴でしょう。
そうした彼らキリスト教保守派と全く同じ聖書を読んで全く正反対の立場をとる人もいます。例えばカーター元大統領です。彼はイスラエルの占領政策を正面きって批判したことで有名です。占領地で行っている入植地や分離壁の建設自体が「アパルトヘイト」だと厳しく非難しました。彼は、イスラエルがパレスチナの領土を占領しつづけ、植民地化していることこそが中東和平を妨げる最大の要因だ、と訴えたのです。
イエスさまの時代、主イエスを救い主と受け入れなかった中心的な人々は聖書をよく読んでいたファリサイ派、律法学者たちでした。ただ問題は、彼らのメシア像、そのメシアが実現する神の国像が現実のイエスさまの御姿と違っていました。メシアを待ち望む点については同じでした。しかし、実際にイエスさまがもたらそうとした現実の神の国とズレていたのです。
このように、専門家たちはことごとく真のメシア、主イエス・キリストを指さすことに失敗したのです。

Ⅳ.キリストに示された神の国に生きる者として

ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーもシオニズム運動に参加していました。しかしある時から、その運動から離れます。そのブーバーが次のように語っています。
「シオニズム運動は、国家的エゴイズムか国家的ヒューマニズムのどちらを選びとるのかを決めなければならない。前者を選び取るなら、その民族は、真に超越的な使命に位置づけられることなく、浅薄なナショナリズムに降りかかる運命を被ることになる。しかし、もしヘブル的ヒューマニズムを愛することを選び取るなら、人類に対して語りかけ、人類に貢献するものをもつ運命を授かるものとなりうる」。
この言葉は、聖書を読んで生きる私たちが傾聴しなければならないメッセージに聞こえて来ます。自分は熱心なクリスチャンで誰よりも聖書を読んでいるとトランプ大統領は豪語するのですが、そうであるならば、何故、彼からあのような発言が飛び出すのだろうか。ブーバーの警告の言葉にあるように、聖書の言葉を曲解し、「アメリカ・ファースト/イスラエル・ファースト」を裏付けるために利用するならば、それは聖書のメッセージではなく国家的なエゴイズム以外の何ものでもありません。
ネタニヤフ政権もそうでしょう。ブーバーのメッセージをもう一度、聴き直す時に来ているのではないかと思います。何故なら「人は、聖書を読むようにしか生きることができないし、生きるようにしか聖書を読むことが出来ない」からです。聖書と私たちの生き方はそのように関係しているはずです。
ダビデの子であるメシアは、大きな暗闇に小さな光としてやって来たのです。単にイスラエル国民だけ、アメリカ国民だけが享受できる括弧つきの「平和」ではなく、すべての人を照らす真の光として世に来られたのです。
ブーバーの言葉を使うならば、聖書が説く本当のヒューマニズムを愛し、生きる道を示すために、私たちの只中に来てくださったのです。
主イエスが宣べ伝えた神の国の福音に生きるとは、一見弱そうに見える歩みかもしれません。その灯があまりにも小さなものだったので、当時の人々は見失ってしまいました。
しかしその光こそ、戸惑うマリアに「神にできないことは何一つない!」と宣言なさるお方が、私たち人間、また被造世界、全ての造られたものの救いのために備えてくださった、闇を吹き払う光なのです。
この希望のために備えられた尊い光なる主イエスの輝きを身に受けて、闇が勝利しているかに見えるこの世界に、忍耐強く主イエスの光を反映させ、証しし続けて行きたいと願います。お祈りします。