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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂
高座教会は、米国カンバーランド地方(現ケンタッキー州、テネシー州)を起源とする、プロテスタントのキリスト教会です。関東地方を中心とする日本中会の教会のひとつで、神奈川県大和市南林間で70年近く礼拝を守り続けています。
ここには当教会の主日の礼拝の説教を掲載しています。当教会のホームページもご覧いただければ幸いです。

ペンテコステの出来事の意味 - 2019.02.03

2019年2月3日
イザヤ書32章15~17節
使徒言行録2章1~13節

Ⅰ.世界に拡がる教会の初穂としての使徒言行録2章の教会

二千年前の五旬祭の日に、約束の聖霊が降り、世界に拡がる教会の初穂として使徒言行録2章の教会が誕生した。花嫁なる教会が主に捧げられたのです。それがペンテコステの出来事でした。

Ⅱ.ペンテコステの日に与えられた聖霊とは

この時、弟子たちはエルサレムに集まっていました。「聖霊を与える」という約束の実現を待ち望んでいたからです。すると、主イエスが復活した日から数えて50日目、その日はちょうど五旬祭の当日、今日と同じ日曜日でしたが、一同の上に聖霊が降り、一同は聖霊に満たされたのです。弟子たちの内に聖霊が宿り、彼ら自身が神殿となり、復活の主の証人になった瞬間です。
さて、「聖霊が与えられると、復活の主の証人となる」と聞きますと、「いや、ちょっと、待ってください。証しは牧師さんや熱心な人たちに任せて・・・」といった思いを抱く方もおありでしょう。でも二千年前のこの日以来、その人が認めようが認めまいがクリスチャンであれば誰もが聖霊を宿す神殿となり、復活の主の証人として召されたのだと聖書は語るのです。
主イエスは、公生涯の90%の時間や労力を12弟子に惜しげもなく投資しました。その結果、彼らが素晴らしい弟子として育ったかと言えば、残念ながらそうではなかった。十字架の場面で一人残らず主を捨てて逃げてしまいました。それが現実でした。
でもそれで終わらなかった。主イエスは続きを用意しておられました。それが聖霊なのです。公生涯の全てをかけて弟子たちを愛し、全てを与え尽くした主イエスが、最終的になさったこと、それが、ご自分の霊である聖霊をもって弟子たちを満たすことでした。

Ⅲ.聖霊に満たされるために―祭司・預言者・王として生きていく

ここで、次に問題になることがあります。それでは、聖霊に働いていただくためにはどうしたらよいのかという問題です。
聖書から聖霊について学ぶ時、一つの大切な真理に出会います。それは、このペンテコステ以前、聖霊は3種類の特別な人たちのみに注がれる霊だったという事実です。その3種類の特別な人とは、祭司、預言者、そして王です。ある方は早合点して反論するかもしれません。「今日の個所には全ての弟子に聖霊が注がれているではないか!」と。そうなのです。二千年前のペンテコステ以降、歴史が変わりました。旧約の神の民と、新約の神の民の決定的なちがいが起こったのです。
それが、今年の高座教会の主題聖句です。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17)
イエスを救い主として告白する人々に分け隔てなく聖霊が注がれる。それが預言者ヨエルの預言であり、それが成就したのです。正確な言い方をすれば、聖霊は祭司、預言者、王に注がれることは昔から変わっていません。ただ、ペンテコステ以降、全ての人に聖霊が注がれた。それは、クリスチャンになった人が一人残らず、この時代にあって、祭司、預言者、王になったということ。祭司、預言者、王として生かされているということなのです。
そうした上で、「聖霊に満たされるには、聖霊に働いていただくにはどうしたらよいのか」という、先ほどの問いに戻ります。
結論から言えば、聖霊は祭司、預言者、王に注がれる霊ですから、私たちが生涯かけて祭司として、預言者として、王として生きていく、それに徹して生きる時に聖霊は私たちの上に豊かに注がれていくということなのです。このことこそが、宗教改革者が「万人祭司・預言者・王の原則」と呼んだものです。
では、第1に生涯かけて祭司として生きるとは何を大切にする生き方でしょうか。
祭司とは、神と民の間に入って執り成す人、まさに祈る人です。ですから私に聖霊が注がれたということは、生涯かけて祈りに取り組む、祈りの人として育てられていくということです。
第2に、私たちが預言者として生きるとは、どのようなことなのでしょうか。聖書によれば預言者とは神の言葉を預かり語る人です。ですから、預言者の一番中心的な役割は、神に、御言葉に聴くことです。
ペンテコステの日に登場するペトロが、後に書いた手紙の中で、預言者として御言葉を聴く時の姿勢について、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(ペトロの手紙一2:2)と勧めています。生まれたばかりの赤ちゃんのお乳の吸い方は全力の吸い方です。
そしてペトロは、吸うだけでなく、「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」(2:1)と勧めています。栄養に成る物と一緒に栄養にならない物、いや魂の成長に害を及ぼすもので内側を満たしていないだろうかと問いかけているのです。これらは、聖霊に満たされる方向とは逆のものです。
以前、教育講演会でお招きした玉川聖学院の水口洋先生が、私たち親は常日頃子どもに対してネガティブな言葉を発し続けているが故に、一般的に80%の子どもが「自分は駄目だ」と思っていると話されました。
子どもからすれば、否定的な言葉を浴び過ぎていますから、「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)ているという、神の瞳に映る本当の姿ではなく、周囲のそれも身近な親からの否定的な言葉によって、そうした駄目な姿が自分の姿だと心に刷り込まれて来ました。
『エクササイズ』の本に「Hurt people hurts.-傷ついている人は人を傷つける」という言葉が出て来ますが、子どもや身近な人についついダメ出しをしてしまうのは、私自身が実は深く傷ついているからです。
「Hurt people hurts.-傷ついている人は人を傷つける。」この言葉は真実です。パウロは、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4:29)と言っています。
私たちは、否定的な言葉かけは止めにして、神が私にしてくださっているように、意識して肯定的な言葉だけを、それも必要がある時に語るように努めていきたい。高座教会においても、ぜひこの信仰の文化を作り上げていきたいと願います。
祭司、預言者として生きるとはそういうことでしょう。そうした生き方に徹する時に、聖霊は力強く働かれ、後押ししてくださるのです。
最後の3番目、聖霊は王に注がれます。この場合、王とは責任者のことです。クリスチャンは王です。私に与えられた掛け替えのない命を生きるようにと人生の責任者として立たされているのです。
自分の人生と向き合い、「主よ、良くなりたいです」、「主イエスさま、成長させてください」、「主よ、祝福してください」と祈り、訴えて行く時初めて、そこでぶどうの木である主イエスに繋がることができるのです。
私の心を本当の意味で満たすのは聖霊なる神さまです。誤解を恐れずに言えば、夫でも妻でもありません。子どもでもない。仕事でも奉仕でもありません。
自分を本当に満足させるのは、「主よ、どうぞ心に入ってください。聖霊なる神さま、この私を満たしてください」と、心を開いて、自分の人生の王になっていくことを通してです。
その時、聖霊はしっかりと臨み、祝福の道へと導いてくださるのです。ですから、聖霊に満たされるということは、自分が自分となっていくことです。人間が人間となっていくことです。聖霊に満たされるとは、主イエスが私を神の子として本来の私の姿にさせるために用意された恵みです。パウロになる必要もない、ペトロになる必要もないのです。マザー・テレサにならなくていいのです。私が私であるために聖霊が注がれるからです。
確かに素晴らしい信仰の友や先輩が大勢います。でも、誰も私に代わって家庭の中で、会社のなかで、教会において、神さまに用意された「私という指定席」に座って、私の人生の責任者として生きてはくれません。まず私が、神さまの用意された指定席に座り、その責任をしっかりと引き受けていく。その時、聖霊は始めて、私を助け励ますことがおできになるのです。何故なら、聖霊は私たちを王とするために注がれたからです。

Ⅳ.使徒言行録2章の教会の姿

まとめに入ります。私たちは、たくさんの弱さや欠けを覚えます。聖霊を受けた初代教会の弟子たちもそうでした。
彼らは、「エルサレムを離れないで、父が約束した聖霊を待ち望むように」(使徒1:4)と言われ、最後の晩餐を共にし、「決してイエスさまを裏切ることはありません」と偉そうに言った、虚しい言葉がこだまする、あのエルサレムの二階座敷、イエスさまのことを最後まで理解できずに、見捨てて逃げてしまった、恥ずかしい思い出に満ちたエルサレム、そこに留まり、1つになって祈っていた、その場所に、王として責任を持って居続けたとき、聖霊が降ったのです。
高座教会もたくさんの弱さや足りなさを覚えます。でも、それでいいのです。神さまに祈っていくならば、必要は必ず満たされます。なぜなら弱い時にこそ、本当の力のある神さまにより頼むからです。
ですから、聖霊の息吹を体一杯に受け止めるために、私たちが生涯かけて、祭司として、預言者として、そして王として生きていくことに徹していくことです。そのようにして、「信仰の帆」を高く、広く掲げていきましょう。
私たちはペンテコステの祝福に今もなお、あずかり続けている教会です。復活の主の証人として、「私がやった」ではなく、「神さまがしてくださった」と、神さまの素晴らしさ、神さまの偉大さを、身をもって証しする者へと、導いていただきたい。
それこそが、ペンテコステの日に誕生した「使徒言行録2章の教会」の姿です。お祈りします。