松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書17章23節
フィレモンへの手紙
2022年1月1日
Ⅰ.はじめに
新年あけましておめでとうございます。
私たち教会活動テーマは「主にあって一つとなる」、主題聖句は、ヨハネ福音書17章23節の御言葉、「私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります。」を掲げることになりました。
聖書の神さまは、父・子、聖霊なる三位一体の神さまです。すでにご自身の中で愛の交わりを味わっておられる。言わば「交わりの神さま」です。その交わりの神さまに造られた私たちには、すでに交わりのDNAが魂に刻まれている。ですから、私たちは、主にある交わりに与る時、初めて人間らしく生きることができる。元々、そのように造られているからです。その交わりとは、神との縦の交わり、そしてもう1つ、お互い同士の横との交わりです。そして主イエスは、その交わりにおいて、「一つとなる」ことを祈っておられます。
Ⅱ.フィレモンへの手紙の背景
今日は、今年の主題聖句を考える上で、パウロが書いたフィレモンへの手紙を読ませていただきました。この手紙が書かれた時代、社会は奴隷という身分がありました。オネシモはその奴隷でしたが、主人の物を盗んでローマに逃げてしまった。大都会ローマの雑踏に紛れ込めば「安全」と思ったのでしょう。そうこうするうちに彼は獄中のパウロに出会い、パウロとの交流を通して福音を聞き回心しクリスチャンとなりました。
実は、オネシモによれば、彼の主人はフィレモンで、パウロの宣教の協力者でした。この時、フィレモンは幽閉生活を強いられていたパウロの世話をしていたわけですが、機会を見てオネシモをフィレモンのところに送り返そうと思い、書いた手紙が「フィレモンへの手紙」でした。
このパウロの切々たる文章を読みますと、他の手紙を書いている時よりも牧会者パウロの心を伝え、イエスさまに似た者に変えられ続けていた彼の姿を見せてくれます。具体的な日々の生活の中で、具体的に人を生かそうとしているパウロと、そうした導きに応えていった人々。それが今年、私たちに与えられている「主にあって一つとなる」という、「主にある、私たち相互の交わり」の姿、それこそが「一つとなる」ことの姿なのではないかと思うのです。
Ⅲ.「主にあって一つである」ことの意味
ところで、この時代、教会の多くは、「家の教会」と呼ばれていました。大きな礼拝堂があったわけではありません。むしろ、家ごとのクリスチャン同士の交わり単位で礼拝が捧げられ、交わりがなされていました。そしてしばしば、「家の教会」単位でクリスチャンになった奴隷たちの身分を買い取り、彼らを自由の身にしていったそうです。
例えば、パウロが、コリントの信徒へあてた手紙6章20節に、「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」と書いていますが、考えてみれば私たち一人ひとりは、元々罪の奴隷であったにもかかわらず、キリストの命という代価で、その隷属/奴隷状態から解放された者たちです。そうした神の恵みを知った者たちが、その恵みに対する具体的な応答として、教会のメンバーとなったが、今もなお社会的身分としては奴隷であった人々のために、実際にお金を支払い、彼らを買い戻す働きをしたのです。このように、当時の、ローマ社会にあって、神の国の価値観にそった新しい生き方をすること、それがクリスチャンの交わりであり、それがキリストの教会だったのです。
こうしたことを踏まえて、もう一度、1節と2節を見ていただきたいのですが、ここでまずパウロは、家族の1人ひとりに呼びかけています。神さまの御前にあって家族は平等な地平に立つ者であることが打ち出されています。
これは今の私たちにとっては当たり前のことかもしれません。でも、2千年前の当時のローマ社会の、いわゆる「家父長制社会」では当たり前ではありませんでした。いや、少し前の日本でもそうですね。
この手紙の最初の2節でパウロは、当時の習慣からすれば、決して当たり前でない仕方、すなわち、家族の1人ひとりを、神さまの御前にあって同じく尊い人間として、神さまの形に造られた者として呼びかけていることが分かります。当時、この手紙を読んだ人にとっては、とても新鮮だったと思うのです。物の本によれば、こうした「家の教会」を積極的にリードしていたのは女主人であった、と言われます。食事を供するのは女性の仕事でしたので、何かそのことも、自然な事として受け入れられるように思います。
しかも、ここでは食事作りだけではなくて、イエスさまとの出来事を話し合い、今日、私たちも共にお祝いしますが、「主の晩餐、聖餐」にあずかることも行われていたと記録にあるわけですから、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で書いた「ここではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」が、文字通り実践されていたと思われます。このように、「家の教会」の女性たちは生き生きしていました。使徒言行録やルカ福音書、ローマの信徒への手紙に登場する裕福な女性たちと共に、「家の教会」の女性たちは、初期宣教活動の着実な担い手でした。
ある時イエスさまは、ご自分を探しにやってきた母親のマリアさんや兄弟姉妹、そしてそこに居合わせた人々に対して、「家族とは誰か。神の御心を行う者が兄弟であり、姉妹であり、また母である」と言われました。そのイエスさまの言葉の中には、「父・お父さん」という言葉が入っていないのです。何故でしょう。それは、「天にいます方」だけを「父」とするからだ、と言われています。つまり、初代教会の「主にある交わり」の様子を伝える、様々な記録や資料を読みますと、このイエスさまの御言葉が、「男性を中心とするローマ社会」の中で、まさに現実として機能していたことが分かるのです。
私たちは、御言葉に促され、人生における「出エジプト」、すなわち、罪の奴隷状態や、あるいは、洗礼を受ける前の古い生き方の奴隷状態から解放されました。そのために、神が用意してくださった神の小羊、イエス・キリストが十字架に掛かって肉を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを縛る「古い物語」から自由にされ、本当の意味で、礼拝のために、また神さまと人々と交わりを喜び、楽しめる者へと解放されました。そして、そのことを常に確認する場が、この時代の人々にとっての「主にある交わり」だったのです。
Ⅳ.多様性と主にある一致
ここでパウロは、悪い事をした人をどうか赦してやってくださいと言っているわけですが、その事を口でお願いするだけではない。自分を代わりに罰して、その人を赦してやってくださいという。ちょうど、私たちが毎週、礼拝の中で祈る「主の祈り」の一節のようです。このパウロが深く愛し、心から従っていたお方が主イエスさまでした。よく考えて見ますと、このイエスさまこそ、実はパウロが犯した罪を、父なる神さまに赦していただくために、自ら罪の償いとなって十字架にかかってくださった。パウロは、このことがよく分かっていたわけです。
私たちが大切にしている、「主にある交わり」って何でしょうか。このイエス・キリストの罪の赦しの恵みを常に確認し合う場です。イエスさまが命をかけて、「どうか彼らをお赦しください」とお願い、私たちの身代わりとして十字架の上で命を捧げてくださったお蔭で、私たちは赦されたからです。
フィレモンの家のように奴隷が居るなら、その人が自由な身になれるように。ハンディーを持つ人が居るなら、その人があたかもハンディーがないかのように。外国の人がいるなら、「寄留者」ではないかのように。そして小さな子どもがいるなら、みんなの神さまの子どもなのですから…。そして社会的な問題と真剣に取り組む人がいるならば、それを共有することができるように。そうした振る舞いが、そうした生き方が自然な形で現実に起こる場が主にある交わりであり、教会なのです。
このような交わりを実体験するために、主は具体的な、顔の見える兄弟姉妹を私たちの周囲に置いてくださっている。そして一人ひとりは、興味や関心、また賜物も背景もことなりますが、むしろそうした違いが対立の原因となるのではなく、そうした私たち一人ひとりを包む、キリストの体なる教会の豊かさにつながっている。
今年もコロナのことがいつも頭の片隅にありながらの生活になりますが、しかし、今日の御言葉にあるような意味で「主にあって一つ」であることを経験し、その交わりが、私たちの周囲の方たちにとっての良い証しとなりますように。そのような高座教会、また私たちであることを祈り求めてまいりたいと願います。お祈りします。