和田一郎副牧師
2020年4月6 日
ヨハネによる福音書13章1-17節
1、過越の祭りと最後の晩餐
今日の聖書箇所は、最後の晩餐の場面です。イエス様が弟子達の足を洗うという出来事は、この最後の晩餐の中で行われた事です。この出来事は、他の3つの共観福音書では「過越の食事」と記されています。ですから、今日の聖書箇所には「過越祭の前」とありますが、最後の晩餐は「過越の食事」としてイエス様が弟子達と一緒に食事をとったのです。そして、最後の晩餐が「過越の食事」であることは、とても大切なことです。「過越の食事」は出エジプトの出来事があってから、イスラエルの人々にとって、自分たちの災いを過ぎ越してくださったことを忘れないための、大切な儀式でした。かつてイスラエルの民が、エジプトで奴隷とされていた時に、神様がモーセを指導者として立てて、10の災いを通して、イスラエルをエジプトから救い出しました。その時、最後の10度目の災いは、すべての家の初子、家畜の初子はさばかれて死ぬというものでした。しかし、家の戸口に子羊の血を塗るなら、神のさばきはその家を過ぎ越し、その家の中にいる初子は救われます。イスラエルの民は命じられたとおり子羊の血を塗ったのです。しかし、エジプト人は血を塗らなかったので、神のさばきによって彼らの初子はすべて死に、エジプト全土に災いがくだりました。そして、この神のさばきを通して、イスラエルの民はエジプトから救い出されました。過越の出来事は、さばきと救いの出来事です。イスラエルの民が、この出来事を忘れないように、毎年行われていたのが、過越の祭りです。
神様の計画は、過越の祭りの時に、独り子であるイエス・キリストが十字架に架けられ死ぬということでした。そして、人々が救われるためには、過越の出来事と同じように、子羊の血が必要でした。イエス様はそのほふられる子羊となって血を流し、その血によって私たちは神のさばきから救われます。エジプトで起こった過越の出来事は、始めからイエス・キリストの十字架を示していました。そして、最後の晩餐は、イエス様がみずからが過越の羊となられることを、後に弟子や主に従う者たちが思い起こせるように意図されました。過越の食事を、救いの主に在る食卓へと置き換えたのです。
さて、この食事は1節にあるように、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあって、そして、この過越の食事がはじまったことが分かります。この最後の晩餐で成されたことの、一つ一つにイエス様の愛が示されています。
2.弟子の足を洗われる
イエス様は突然立ち上がり、上着を脱いで手拭いを腰にまとって、そして弟子たち一人一人の足を洗われました。当時の人々の履物はサンダルのようなもので、足は埃でとても汚れていました。その足を洗うのは、当時では召使いがする仕事でした。この時この家には召使いがなかったようです。12人の弟子達の足は汚れたままで、その足をイエス様が洗いはじめたというのです。 ペトロはイエス様に足を洗ってもらうことなんて、もったいないという思いから「わたしの足など、決して洗わないでください」。と頼みます。それは率直なペトロの言葉でしょう。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。ペトロはそれだったら「主よ、足だけでなく、手も頭も」と頼みます。イエス様は彼に言われました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」、と言って、イエス様は弟子たち全員の足を洗ったのです。
「全身清い」というのは、洗礼を現していると考えられています。私たちは洗礼を受けることによって、イエス様との新しい繋がりが与えられます。イエス様が差し出してくださる、救いの恵みに与るだけです。イエス様が私たちを生かすために、召使いのように仕えてくださったのですから、この救いの恵みを感謝をもって、受け入れていきたいと思うのです。
3、互いに足を洗い合う
イエス様は、弟子の足を洗った後に言われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わねばならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」。(14-15節)これは、イエス様によって足を洗っていただいた者、つまりイエス様の十字架による罪の赦しに与った者は、互いに足を洗い合いなさい、ということです。
しかし、16節に「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」とあるように、私たちが互いに足を洗い合うといっても、イエス様のように、完全な罪の赦しを与え合うことなど出来ません。しかし、私たちは互いに罪を赦し合い、互いに支え合うという、神の家族を作るために召されているのです。
ここで、イエス様が「互いに足を洗い合わねばならない」、と言われた教えの「互いに」という言葉に注目したいと思います。イエス様が私たちの足を洗ってくださったから、「私も赦す」ということは相応しいことです。しかし、イエス様が言われているのは「互いに」とあります。つまり、私は赦す者でもあるし、時として赦してもらう必要もあるのです。私たちの心のどこかで「赦してやろう」といった、上から目線の思いが隠れているように思います。そうではなく、自分も赦してもらわなければならない。そういう者である。私たちは神様に赦していただかなければならない者ですし、隣人にも赦してもらわなければならない者です。
そもそも、私たちは塵の土から生まれ、土に帰っていくにすぎない者でした。ところが、神様がイエス様をこの世に送ってくださり、苦難と十字架の死を受けて下さったことで、神様のとの繋がりが回復しました。そして、キリストに従う者たち同士が、互いに繋がることを求めてられています。互いに足を洗い合い、互いに仕え合い、互いに赦し合う、神の家族に加わる者として召されています。
イエス・キリストは、その神の家族という繋がりを築くために、大きな犠牲をはらってくださいました。主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。
お祈りをいたします。
受難週の日々、今日も与えられている命に感謝いたします。
今、わたしたちは新型コロナウィルスの感染の恐れの中にいます。どうか、世界に広がる感染の恐れを取り除いてください。この町の人々の安全を守ってください。この恐れの最前線にいる医療従事者を、あなたが守ってくださいますように。
健康に不安を抱える人を支えてください。命を司る神様、あなたの力に依り頼みます。
わたしたちに先立って、痛みと苦しみを受けてくださったイエス様の受難を覚えつつ、
主イエス・キリストの名前で祈ります。