2020年4月9 日
ヨハネによる福音書17章1-26節
和田一郎副牧師
1、大祭司の祈り
今日の聖書箇所17章は、イエス様がお祈りしている箇所です。ヨハネ福音書における「最後の晩餐」(13~17章)は、イエス様が弟子の足を洗うという模範と、そのあとに続く「決別の説教」、そして、説教の締めくくりとして今日の箇所「祈り」が記されています。この祈りは、聖書に記されているイエス様の祈りの中で最も長い祈りです。その内容から「大祭司の祈り」と呼ばれています。御子であるイエス様が、父なる神様に私たちのために執り成してくださっている祈りだからです。イエス様は、神様と人間との間に立って祈っていて、人間の罪を担って神様に執り成しをされました。イエス様は、真(まこと)の神であり真(まこと)人でありましたが、この神様と人間との間に立たれるという大祭司の役割は、まさしく、神であり人というイエス・キリストには変えられない祈りです。
2、イエス様ご自身のための祈り
大祭司であるイエス様は、ご自身の十字架の死を前にして何を祈られたのでしょうか。1節に「父よ時が来ました」と言われました。この「時」というのは、十字架の時であり、その後に続く復活とペンテコステの時です。イエス様が地上にお生まれになってから、ずっとここを目指して歩んできた、その「時」です。さらにさかのぼると、天地が造られる前から定められていた神様の救いの御業が、長い年月を経て成される「時」です。その時がついに来ました。
イエス様は、「栄光を与えてください。」と、1節と5節で祈り求めています。イエス様が十字架を前にして、求めていたものとは、何よりもこの栄光です。そしてこの栄光は、神の独り子であるキリストが、父なる神様と共に天においてもっておられた栄光です。地上に来る前に持っていた栄光であり、天に昇られたイエス様が、神の右において持っておられる栄光です。このキリストの栄光は、父なる神様と一つの栄光ですから、父なる神様の御心と一つでもあるのです。イエス様は、十字架を目前にして、自ら十字架に架かることによってその栄光を現すのだ、と受け止めておられるということです。地上の生涯においては、真(まこと)の人として、栄光とはほど遠い姿で歩まれました。しかし、真(まこと)の神として、天において持っておられた栄光を十字架で現すのです。
イエス様は3節で、永遠の命について、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言われます。
永遠の命とは、父なる神様とイエス・キリストを知ることだというわけです。ここでいう「知る」という言葉は、知識としてあの人を知っている、というような意味の「知る」ではありません。知るというのは、人格的な関係を意味しています。人格的に深く交わること、その方との深い信頼において、その方無しには自分本来の命はないと知ることです。それは「愛する」と、一言で言い換えてもよいと思います。父なる神様とイエス様を、深い人格的な愛の関係において生きる。それが永遠の命に生きるということです。
父なる神様とイエス様との深い交わりがあり、そこに私たちも加わることができる、その交わりこそが「永遠の命」なのだと言うのです。
3、弟子たちのための祈り
9節では「彼らのためにお願いします。世のためではなく、私たちに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と記されています。イエス様は、「私たちに与えてくださった人々のためにお願いします」と祈っているのですが、これは弟子たちのことを指しています。「世のためではなく」と、あえて言われてますが、ヨハネによる福音書の中で「世」と言った場合、それは神など必要としない、と思っている人々のことを指しています。しかし、それは決して「世」はどうでも良い、としていたのではないのです。順序として、まずは弟子なのです。これは、救いの秩序と言っても良いことです。神様は、いきなり世のすべての人を救うのではなく、まず弟子たち、それから弟子によってイエス様を信じるようになる人々、その人々が増え続けることによって「世」を救おうとされました。また、この祈りは、現代において、弟子たちの働きを担っている、私たちのために祈られた祈りとも言えます。
15節では「私たちがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」とあります。イエス様はご自身が十字架に架かって世を去ることを意識しており、そうなった時に、残された弟子たちの行く末を案じていました。
もし、弟子たちが信仰から離れてしまうというようなことになれば、誰が福音を福音として、この世に広めるのでしょうか。この重要な役割を与えられていたのが、最後の晩餐の席にいた、弟子たちです。ですから、イエス様は彼らのために「守られるように」と祈ったのです。
4、弟子たちの働きを通して救われる人々のための祈り
20節では、「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私たちを信じる人々のためにも、お願いします」と始まります。20節以降でイエス様は、弟子たちによって、イエス・キリストを救い主として信じるようになった人々のために祈りました。弟子たちによって彼らの言葉や、彼らの働きによって、イエス様を信じるようになった人々への祈りですから、教会のために祈られた祈りとも言えます。ここで分ることは、イエス様が私たちのために祈ってくださった、自分は祈られている者だ、ということ、そして、その祈りは、今現在においても祈られていると、知ることができるのです。
21節では、「父よ、あなたが私たちの内におられ、私たちがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちたちの内にいるようにしてください」と記されています。イエス様は、教会に繋がる兄弟姉妹が一つであることを祈ってくださっています。そして、三位一体である、父なる神様と独り子イエス・キリストの一体性を示しつつ、父なる神様と子なるキリストが一つであるように、教会を一つにしてくださいと言うのです。
三位一体の父なる神様と独り子キリストの一致は、まさに神秘的な統一性にありますが、「彼らも私たちの内にいるようにしてください」と続いているように、私たちが一つになるというのは、この三位一体の神秘的な一致の中に、父なる神様と独り子キリストとの、永遠の交わりの中に、私たちも入れられるという、これ以上にない恵みを示しています。先ほど、父なる神様とイエス・キリストを知ることは、人格的な愛の関係を生きる、それが永遠の命だと話しました。まさしく三位一体という愛の関係の中に、私たちも招かれている、素晴らしい恵みに与っているということなのです。
まとめ
今日のイエス様の祈りは、大祭司なるイエス様が、ご自身の祈りから始まって、私たち教会、私たち信徒一人一人を、父なる神様に執り成す祈りでありました。いつの時代でも、教会が一つになるところから、その愛が外に向かって溢れていきます。地域にいる困難を覚えている人、孤独な人、子どもたち、福音を必要とする人に向かっていきます。そのような教会の一致は、世の中に光を照らします。私たちが一つになって役割を担う姿を見ながら、世の中の人は、神様がイエス・キリストをこの世に送ってくださった意味をしることになります。救い主が、今も生きておられることを知るようになるのです。
イエス・キリストは、父なる神と、罪深い私たちとの間に立たれて、執り成してくださる方です。救いの御業のその時の為に大いなる犠牲を担ってくださいました。
その、主のご受難を覚えて、この一週間の日々を歩んでいきたいと思います。
お祈りをします。