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主日共同の礼拝説教

味わい、見よ、主の恵み深さを


2016年2月21日 受難節第二主日
松本雅弘牧師
レビ記19章9~18節、33~34節
ルカによる福音書17章11~19節

Ⅰ.キリスト者の管理の務めとしての

クリスチャン・スチュワードシップ
 ドイツ語で賜物や贈り物のことをGabeと言いますが、その単語にaufという接頭語が付いてAufgabeとなると、宿題とか課題という意味になるそうです。その言葉からドイツの教会では私たちが神から賜物を授かった時、それと共に賜物をどのように生かして用いるかという課題をも与えられていると教えられるそうです。
神がくださる賜物や恵みは多様です。私の心も体も、時間やお金、洋服、食べ物、もうありとあらゆる物すべて、元をたどれば神に行きつきます。ですから、キリスト者の管理の務めと言われるクリスチャン・スチュワードシップを考える時、第1に、神からいただいている賜物を特定すること、第2に、賜物が預けられている理由、つまり神はそれをどのように用い分かち合うことを願っておられるかを知ること、そして第3に、喜んで用いることが出来るように、私たちにそうした心を与えていただくこと、この3つが大切になってくると思うのです。

Ⅱ.恵みの手段としての

クリスチャン・スチュワードシップ
この大切な3つのことを考える前に、私たちカンバーランド長老教会が、いかにクリスチャン・スチュワードシップという聖書の教えを大切にしてきたかについてお話ししましょう。
カンバーランド長老教会は、聖書の教えをまとめた『ウェストミンスター信仰告白』を正式な信仰告白として採用する長老教会に属していました。けれども、その中に述べられている「二重予定の教理」というものを受け入れることが出来ずに、1810年2月4日に新たな教会としてカンバーランド長老教会を設立して今日に至っています。そして、その間に、1814年、1883年、そして1984年と3回、信仰告白を改訂してきました。
最初の改訂では、『ウェストミンスター信仰告白』と、ほぼ同じ内容で二重予定の教理だけを削除しているような極めて簡単な改訂でした。しかし1883年版の改訂では、『ウェストミンスター信仰告白』にはない項目が加えられました。それがクリスチャン・スチュワードシップの実践という項目でした。
これは元々聖書の中に教えられているクリスチャンの生き方なのですが、カンバーランドの先輩たちは、特にこの教えを大切にしてきました。賜物の管理ですから金銭の管理のこと、十分の一献金のことなども、はっきりと告白されています。
高座教会の教会員である私たちは、それを毎月「月定献金」という仕方で捧げるようにしていますが、ここで改めて「大切だ」と思わされることがあります。それは、このクリスチャン・スチュワードシップの実践とは、例えば献金を例にとるならば、この十分の一献金、高座教会員の責任としての月定献金が、教会財政を満たすための手段ではなく「恵みの手段」だと告白している点です。
「恵みの手段」、それは礼拝に出席すること、聖書を読み、祈ることと同じように、そのことによって、私たちがぶどうの木であるキリストにつながり聖霊の恵みを受けるために、神が用いられる手段だというのです。ですから、教会にお金が足りないので献金するのではなく、教会の財政が満たされていても満たされていなくても、それに関わりなく、私たちはクリスチャン・スチュワードシップを発揮して、神からいただいた賜物を管理し、神に捧げていくということです。
クリスチャンになれば祈ることを大事にします。祈っても祈らなくてもいいですよ、とは誰も勧めないように、クリスチャン・スチュワードシップについても「してもしなくてもいいこと」ではなく、むしろ大切にすべき「恵みの手段」であり、神さまが願っておられるということを覚えておきたいと思います。
クリスチャン・スチュワードシップに関して、100年ぶりに改訂された現行の「1984年版信仰告白」では、新たな点も加えられています。信仰告白改訂作業が始まった1970年代は、南北問題が話題になる時代でした。南北の経済的格差がありました。北の国の豊かさを支えるために南の国は搾取を強いられている現状に気づかされていきました。その後、東西の壁が崩れ、グローバル化が進み、民族や宗教間の対立も起こって来ています。
このように考えて来ますと、もう私だけ、私の教会、教派だけ、あるいは日本だけ、という思考では捉えきれず、問題の解決にならないのです。つい先日、東西キリスト教のトップが千年ぶりに和解するという歴史的なニュースが報じられていました。神は私たちの神ですが、私たちだけの神ではありません。神さまの創造世界全てのこと、全ての人に深い関心を寄せておられる神さまです。そのことに気づかされて、その問題意識を持って、一生懸命に聖書に向かった結果、出来上がったのが、今、私たちが使っている1984年版信仰告白です。
あるユダヤ人が、神学について次のように定義していました。「神学とは、朝起きた時、神が何を心配しているだろうかと考え、神の心配事を神と共に心にかけることだ」と。「クリスチャン・スチュワードシップに生きる」ということは、まさにこのことではないでしょうか。「朝起きた時、神が何を心配しているだろうかと考え、神の心配事を神と共に心にかけること」、また、礼拝の時に語られる御言葉を通して、神さまの御心を教えていただくことだと思うのです。

Ⅲ.どのようにすれば分かち合いたいという思いになるのか

クリスチャン・スチュワードシップのことを考える時、最後に残る問題、それは、どうしたら喜んで分かち合いたいと思う私に変えられるかということです。それを御言葉から考えてみたいと思います。 
今日の箇所を見ますと、「重い皮膚病」を癒された10人の内、イエスさまに感謝しに戻って来た人はたった1人だったことがでてきます。それに対してイエスさまは、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者は居ないのか」(18節)と言われたのです。
全員が癒していただき、新たなスタートを切れたのです。それにもかかわらず、その内の9人はイエスさまのところには戻ってこなかったのです。つまり恵みに対しての応答がありませんでした。何故でしょう? 病の癒しという恵みそのもので、もう彼らのニーズが満たされてしまって、その恵みの与え主であるお方にまで心が向かなかったのです。ここにクリスチャン・スチュワードシップの実践が「恵みの手段」と言われるゆえんがあります。
いかがでしょう? 私たちも様々な形でイエスさまの恵みに与っています。しかしイエスさまを礼拝しに戻ってこなかった9人は、ただ主イエスの御手から零れ落ちた賜物だけに自分の思いを集中させ、その賜物の与え主であるイエスさまを覚えることがなかったのです。クリスチャン・スチュワードシップは、恵みそれ自体に目を向けることで終わらせず、この私たちの目を、恵みの与え主である主に向けさせるための手段、恵みの源泉である主との関係を深めさせる手段なのです。
聖書に戻りますが、彼らの内のたった1人だけでしたが、私たちに模範を示す人がいました。それはサマリア人でした。その彼が御心にかなう応答をしたのです。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(15、16節)とあります。
『神を体験する』のテキストを書いたブラッカビー牧師が、「クリスチャン生活における基本中の基本は、神さまへの感謝の心である。そして感謝とは、いただいている様々な良きもの、祝福、そうしたものを与えてくださった神さまに対する意識的な応答である」と語っていましたが、まさに恵みに対する感謝、それがクリスチャン・スチュワードシップの動機です。
癒されるという恵みを経験したこの人は、その恵みの賜物をくださった方のところに行き感謝しました。その結果、彼だけは癒しの恵みだけではなく、その恵みの源なるイエスさまとの出会いを経験したのです。クリスチャン・スチュワードシップが恵みの手段である理由がここにあります。神さまは、日常の様々な出来事を通し、私たちをキリストとの生きた関係の中に招き入れたいと願っておられるのです。そして、これがゴールです。

Ⅳ.まとめ

聖書によれば、ギリシャ語で「エウカリスティア」と言われる「感謝」、これは「恵み」と訳されている「カリス」というギリシャ語に由来しています。ちなみに、「喜び」と訳せる「カラ」という言葉も「カリス」、すなわち「恵み」に由来するのです。
私たちが神さまからの「恵み」を知れば知るほど、私たちの内側に、感謝(エウ-カリス-ティア)と喜び(カラ)とが起こってくるというのが聖書の教え、信仰の基本です。そして、この感謝と喜びがクリスチャン・スチュワードシップの動機になっていくのです。そしてさらなる喜びへと導いていくのです。ですから、まず私たちは恵み、賜物を数えること、そのことに気づくことから始めていきたいと思います。それによって、私たちの心が主への感謝と喜びで満たされますようにと祈ります。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

親よりも、子どもよりも、夫婦が大切

2016年2月14日 ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マタイによる福音書19章4~6節

Ⅰ.よき夫婦になるための秘訣―父母を離れること

今日の聖書箇所でイエスさまは「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という旧約の言葉を引用しながら「父母を離れる」ことの重要性について語られました。
今日は、夫婦になるための条件としての父母を離れることを中心に、「よい夫婦となることの秘訣」についてご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.夫婦の関係は相手があって初めて成り立つ関係

 考えてみますと、夫と妻の関係は相手があって初めて成り立つ関係です。当然ですが夫は妻がいるから夫です。妻も夫がいるから妻なわけです。ところが、結婚してしばらくすると、この基本が危うくなります。ここでまさに「父母を離れる」という、「親離れ」が問われます。
結婚して間もなくの頃、私の母の誕生日が4月29日で国民の祝日にあたっていましたので、お祝いも兼ねて私の実家に帰るようにしていました。私にとっては母親の誕生日ですから、大事な年中行事だったのですが、妻にとってはあまり気の進む行事ではなかったようなのです。
子どもが与えられた後も、その日は子ども達を連れて実家に戻りますが、帰りの電車の中で決まって、私たち夫婦は険悪なムードになりました。仕舞いには、子どもたちの方がよく分かってきて、「お祖母ちゃんの誕生日はいつもケンカするね」と言われるほどになってしまいました。
何が問題だったのか? しばらくして妻の気持ちが分かるようになりました。それは実家に帰ると、いつの間にか私が母親の子どもになってしまうということです。実家にいる私の姿が妻の目から見ると夫であるよりも姑の息子としてしか映らない。夫なのに、子どももいる父親なのにまるで自分が子どものように振る舞っていたのです。

Ⅲ.夫婦の関係が祝されると家庭も祝福を受ける

最近つくづく思うのですが、私たちの人生って本当に複雑です。次々に応用問題がやってきます。夫婦の関係、家族関係もそうです。結婚してしばらくすると、夫も妻もそれぞれの役割が増えて来ます。夫は会社が忙しくなり、夫婦に子どもが与えられれば妻は母親としての働きが求められてきます。
たとえばこんなことが起こります。夫の会社での責任が増え、妻との時間がなかなか持てない。そうした中で、妻にとって夫が物理的にも精神的にも疎遠な存在になってしまうような場合、当然ですが妻は自分を「妻」として意識する機会が少なくなっていきます。そしてふと、自分の周りを見回した時に、そこに子どもが居たことに改めて気づかされる。すると当然、「ああ、私は、この子の母なんだわ」と突然スイッチが入るように、よい母親であることに自分の存在価値を見出していくことになります。
母親であることの自覚は、もちろん当然であり、尊いことです。ただ問題は、夫婦の関係の中で初めて満たされるべき心のニーズが、夫の存在が希薄であるがために、どうしても子どもとの関係の中で満たそうとする、そこに問題が起こるということだと思うのです。
先月のファミリーチャペルでも紹介しましたが、結婚カウンセラーの村瀬幸治さんは、最近の親の、子どもへの過干渉に触れ「なぜ親はそんなに子どもに執着するのか」と問題提起し、その理由は「親が1人の大人として、安心して生きていないからではないか。子どもとのかかわりの中でしか、自分の存在感を感じることが出来ないとか、・・」と語っていました。
男性はともすると仕事を第一にして、帰宅した後もずっと会社員であり続けることが考えられます。その結果、家庭には会社員はいても夫がいなくなるわけですから、妻も妻である意識が薄れます。夫あっての妻ですから……。すでに子どもが居れば、その子の母になるわけです。
このことは心の中で起きることなので、目に見える部分での大きな変化はありません。以前と変わらず、同じ屋根の下で暮らしています。でもそうした2人の生活はもはや夫婦ではなく、会社員の男性と母という女性が同居しているだけになってしまうわけです。
今年、教会ではマリッジコースという夫婦セミナーに取り組みます。そのセミナーで用いるビデオの中で、ある奥さんが話していました。テレビを観ていて、夫婦円満の秘訣は適当な距離を保つことだと真面目に説く専門家の話を聞いて驚いたというのです。定年退職した夫婦の場合には、この距離感が特に大切だと強調されていた。彼女は、「でも、私たちは距離を保つために結婚したのでしょうか」と率直に問題提起していました。 
教会で結婚式を挙げるカップルに課題図書を読んでいただくことにしています。それは『ふたりで読む教会の結婚式―大切な12のこと』という本です。今日の説教の題はその本の中にある1つの章のタイトルをそのまま使わせていただきました。
著者は牧師の吉村和雄先生です。その本の中にありましたが、吉村先生がアメリカで行われた研修会に参加した時のことでした。講師はとても有名な方で、牧師をしながら大学で経営を教えるような人だったそうです。その講師が自分の手帳を見せてくださった。当然のように手帳は予定でびっしり。真っ黒になっていました。ところが、ところどころ空白な日がある。不思議に思って、「先生、どうしてこの日が白いのですか?」と訊いてみたそうです。すると講師は、「この日は何の仕事も入れていない。妻と一緒に過ごす日だから」と答えたそうです。
吉村先生は、教会形成の学びもさることながら、この手帳の話が一番心に残り、感動を与えられたと語っていました。物凄く忙しい人が忙しいからこそ努力して妻と過ごす日を確保する。そういう日は、ベビーシッターを頼んでも必ず夫婦で出かけるというのです。なぜそこまでするのかと言えば、妻が母親になってしまうからだそうです。
勿論、夫は家庭に仕事を持ち込まない。そうやって夫と妻でいる時間を確保する。確かに、私たち日本では、若いご夫婦が子どもを預け、2人だけで外出することに批判的な風潮があります。でも聖書によれば、家庭において夫婦が基本ですから、ある意味で工夫をしながら、妻に対して自分が夫であること、夫に対して自分は妻であること、そうした夫と妻でいる時間を確保することが、実は、いかに大事であるかを知らされるように思うのです。
いかがでしょう。私は、自分が子どもの頃のことを思い出す時、何が安心で幸せだったかと言えば、お父さんとお母さんが互いを大切にし合っている姿を見る時だったと思います。そうした両親、つまり夫婦が中心になって作られた家庭の中で、子どもたちは安らぎを感じますし、温かさを経験するものです。
このようなことをお話しますと、そんなことをしたら子どもがひがむのではないかと反論する人もいます。でも、そうではないように思います。
逆に妻が妻であることを忘れて、子ども一辺倒の母親として、一生懸命になって世話を焼き、子どもを可愛がったとしても、たぶん子どもは幸せを感じないのではないでしょうか。むしろ、「ボクはいいから、お父さんを大事にして」というのが彼らの実感だと思います。  
また「俺が稼がなければ、お前たちは食べていけないんだから……」と言って、いつも仕事のことしか考えていない。罪滅ぼしのように、物を買い与え、立派な家を建て、その家の中を整えたとしても、誰が幸せを感じるでしょうか?! お金で建てられるのは「ハウス(家)」であっても、「ホーム(家庭)」は夫婦で協力して立てるものです。「ハウス」があっても「ホーム」がなければ誰が幸せになれるでしょうか?! 
そんな家の子どもに訊けば、「親父、お袋をかまってやってくれよ。そうでなければ安心して結婚もできやしないじゃないか……」と心の中で訴えているのではないかと思います。

Ⅳ.親よりも、子どもよりも、夫婦が大切

子どもはどんなに可愛くても手がかかってもいつかは巣立って行きます。またそうでなければ困るわけですが……。そしてまた、仕事も同じです。どんなに忙しく、そしてやりがいがあったとしても、いつか後輩にバトンタッチしていくものです。仕事から離れる時が必ずきます。
でも、夫婦は違います。2人が夫婦であるという事実はずっと変わりません。よく言われることですが、私たちの失敗は、変わるものに目を奪われすぎることです。それに加えて、変わらないもの、変えてはいけないものを軽く扱ってしまうこと、おろそかにしてしまうことでしょう。
「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」とイエスさまは言われます。
「父母を離れなければ、本当の意味で夫と妻の関係にはならない、ひとつにはなれないのだ。そのことを大切にしなさい」と強調しておられるのです。
私たちが心にとめておきたいよい夫婦の秘訣は、「親よりも、子どもよりも、夫婦が大切」ということです。夫婦の関係を優先して生きる時、結果として親子の関係が祝福されるからです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

キリストの前に喜び集う交わり


2016年2月7日
松本雅弘牧師
コヘレトの言葉4章9~10節
フィレモンへの手紙1~25節

Ⅰ.「 信仰生活の基本」としての主にある交わり(小グループ)に生きること

聖書の神、私たちをお造りくださった神は三位一体の「交わりの神」です。その交わりの神がご自身に似せて人間を創造されましたから、私たちは本質の深くに、交わりの中で初めて人間らしく生きることができるようにと、もともと造られているということでもあります。その交わりとは、神との縦の交わりであり、そしてもう1つ、クリスチャン同士の横の交わり、すなわち「主にある交わり」なのです。

Ⅱ.フィレモンへの手紙の背景

 今日はフィレモンへの手紙を取り上げました。この手紙が書かれた時代は奴隷の身分がありました。そして、オネシモは奴隷でした。ところがオネシモは主人の物を盗みローマに逃亡します。その逃亡先でパウロに出会い、信仰へと導かれました。話を聴けばオネシモは、パウロの宣教の支援者フィレモンの奴隷であったことが分かったのです。当時の習慣によれば奴隷はあくまでも主人の所有物です。ですからパウロは機会を見て、オネシモを主人フィレモンの許へと送り返そうと思い、この「フィレモンへの手紙」を書いたのです。
 私はこの手紙を読み返す中で、パウロの願いの仕方が、実に丁寧であることに気づかされました。パウロは、「どうか、かつての奴隷オネシモを、『奴隷』というよりは、むしろ主にある『愛する兄弟』として迎えて欲しい。そしてオネシモに負債があるならば、わたしが彼に代わって支払いたい!」と願い、そして「オネシモを赦し受け入れるように強制するつもりはない。あくまでもあなたの思いを尊重したい」という姿勢で、フィレモンの自発的な愛の応答を求めています。
また、この手紙から当時の奴隷の置かれていた厳しい状況が透けて見えてくるようにも思います。神さまを信じていると言っても、私たちは、しばしば自分自身の感情の処理がうまく行かない現実があります。「互いに赦し合いなさい」と言われていても、赦せない現実があります。正確な言い方をすれば赦したくない思いがあるのです。そうした土の器としての弱い私たちが抱え持つ現実を踏まえた上で、パウロは、細心の注意を払ってフィレモンに呼びかけていることに、私は深い感動を覚えました。

Ⅲ.主にある交わり(小グループ)としての家の教会の持つ解放の力

この時代、主にある交わりの多くは、「家の教会」と呼ばれていました。大きな礼拝堂があったわけではなく、むしろ家ごとに、クリスチャン同士、その交わりの単位で礼拝が捧げられ、交わりがなされていました。そして、クリスチャンになった奴隷たちの身分を、しばしば「家の教会」単位で買い取り、彼らを自由の身にしていったそうです。
コリントの信徒にあてた手紙の中で、パウロは「あなた方は代価を払って買い取られたのだ」と書いています。自分たちのために「罪の奴隷から贖うために、キリストの命という代価が払われた」のだ。だから、そうした神さまの救いの恵みに対する具体的応答として、教会のメンバーであるが社会的身分としては奴隷である人々のために、当時の教会は実際にお金を出して彼らを自由の身にしていったのだと言われています。現実のローマ社会にあって、このようにして新しい神の国の価値観に生きている人々がいました。そうした交わりがあったのです。それがキリストの教会でした。パウロは、私たちは神の家族同士なのだから、神の前では平等なのだと、このようにはっきりと打ち出しているのです。
いかがでしょうか? 今の私たちにとっては当たり前のことかもしれませんが、2千年前の当時のローマ社会の、いわゆる「家父長制社会」では当たり前ではありませんでした。パウロは、当時の習慣からすれば、決して当たり前でない仕方、すなわち、家族の1人ひとりを、神さまの御前にあって、皆同じく尊い人間、神さまの形に造られたものとして受けとめるようにと呼びかけていることが分かります。
当時、この手紙を読んだ人々にとって、書かれている内容はとても新鮮だったと思います。ものの本によれば、こうした「家の教会」を積極的にリードしていたのは女主人であった、と言われます。しかも、ここでは食事作り、食事の提供だけではなくて、イエスさまとの出来事を話し合うこと、また、「主の晩餐、聖餐」にあずかることも行われていたと記録にあります。ガラテヤ書に、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)と書かれています。このとおりのことが実践されていました。
また、ある時イエスさまは、家族とは誰か、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:35)と言われました。そのイエスさまの言葉の中には、「父・お父さん」という言葉が入っていません。それは、「天にいます方」だけを「父」とするからだと言われています。つまり、初代教会の「主にある交わり」の様子を伝える様々な記録や資料を読めば、イエスさまのこの言葉が男性を中心とするローマ社会で、まさに現実として機能していたことが分かるのです。
私たちは、御言葉に促され、人生における「出エジプト」、すなわち、罪の奴隷状態から、あるいは、洗礼を受ける前の古い生き方の奴隷状態から解放されました。そのために、神が用意してくださった神の小羊、イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流してくださったのです。そのようにして、私たちを縛る「古い物語」から自由にされ、神さまを礼拝する者、神さまと人々との交わりを喜び、楽しめる者へと解放されました。そして、このことを常に確認する場、それが、この時代の人々にとっては、「家の教会」であり、私たちにとっては教会の中の「主にある交わり」なのです。

Ⅳ.神の赦しを実体験する場としての主にある交わり(小グループ)

この時、法律に従えばフィレモンは、罰としてオネシモをそれなりに処分してよかったでしょう。しかし、パウロはオネシモを兄弟として愛し迎え入れるようにとフィレモンに執り成しています。しかも、それを口でお願いするだけではなく、自分を代わりに罰し、その人を赦してやってくださいと言っています。私たちが毎週、礼拝の中で祈る「主の祈り」の一節のようです。
このパウロが深く愛し、心から従っていたお方が主イエスさまでした。よく考えて見ますと、このイエスさまこそ、実はパウロが犯した罪を、父なる神さまに赦していただくために、自ら罪の償いとなって十字架にかかってくださったのです。パウロは、このことがよく分かっていました。
私たちが大切にしている「主にある交わり」って何でしょうか。イエス・キリストの罪の赦しの恵みを常に確認し合う場、それが主にある交わりです。イエスさまが命をかけて、「どうか彼らをお赦しください」と神様に願い、私たちの身代わりとして十字架の上で命を捧げてくださった、そのお蔭で、私たちは赦されたのです。
出エジプトの際、イスラエルの民は1歳の羊を殺して家の鴨居にその血を塗るようにと神さまから命ぜられました。そして、その血を塗った家庭は守られたのです。ちょうどそれと同じように、イエス・キリストが過ぎ越しの祭りの小羊として十字架にかけられて血を流し、その血によって私たちを的外れの生き方から救い出そうとされたのです。
「主にある交わり」、それは私たちの心の鴨居にキリストの十字架の血潮が塗られていることを確認し合う場です。その交わりに与った者同志が、キリストの十字架によって愛され、赦されて、新しくスタートを切らせていただいたことを互いに確認し合うようにと、神さまが与えてくださった恵みの場です。そして、私たちがそのことを覚えて生きるために、そして互いに助け、愛し合って信仰生活を全うするようにと、主にある兄弟姉妹、信仰の友が与えられているのです。
フィレモンの家のように奴隷が居るなら、その人が自由な身になれるように。ハンディーを持つ人が居るなら、その人があたかもハンディーがないかのように。外国の人がいるなら、「寄留者」ではないかのように。そして小さな子どもがいるなら、みんなも神さまの子どもなのですから・・。そして社会的な問題と真剣に取り組む人がいるならば、それを共有することができるように。そうした振る舞いや生き方が自然な形で現実に起こる場、それが主にある交わりであり教会なのです。
この交わりを実体験するために、主は具体的な、顔の見える兄弟姉妹を私たちの周囲に置いてくださっているのです。独りぼっちのクリスチャンは居ません。礼拝に来てお仕舞いではなく、ぜひ何らかの仕方で、具体的な小グループの中に一人ひとりが自分の居場所を求めていきたいと願います。お祈りします。