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イースター礼拝 主日共同の礼拝説教

新しくされてキリストに従う


2016年3月27日
イースター礼拝
松本雅弘牧師
詩編68編2~5節
ヨハネによる福音書21章9~25節

Ⅰ.ティベリアス湖畔にて

 人には思い出したくもない失敗が幾つかあると思います。この時のペトロもそうでした。3年間、生活を共にして導いてくださった主イエスさまを3度も否定してしまったことでした。
最初から、自他ともに認める弟子集団のリーダーとして歩んで来たペトロでしたが、この失敗によって〈もうダメ。自分はやっていけない〉、と感じていたことだと思います。
しかし、復活のイエスさまはそうしたペトロたちのために焼き魚とパンの朝食を用意し、冷たい体を温めるために火をおこし、大漁の経験へと導いて、弟子としての原点を思い出させていかれました。

Ⅱ.砕かれたペトロ

朝食を済ませた弟子たちの前で、イエスさまはペトロに対して、彼の本名、「ヨハネの子シモン」と呼びかけました。この呼びかけにペトロは不意を突かれたと思います。それは厳かな語りかけだったからです。そうした上で、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われたのです。
この問いかけを、「この人たちが私のことを愛する以上に、あなたは私を愛しているか」という意味と取るならば、ペトロにとって、これは耳の痛い問いかけだったと思います。ペトロは、〈他の弟子と質がちがう。自分の方が上である〉と自信を持っていたに違いないのです。ですから、「たとえ他の者たちが主を捨てても、私は捨てません。何故なら、私は他の弟子たちのようではないからです」と信じて疑っていなかったでしょう。
でも現実はそうではありませんでした。彼は主の予告通り3度、「主を知らない」と言ってしまったのです。しかし、そうしたことをすべてご存じの上で、イエスさまは、ここで敢えて「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とペトロに問いかけておられるのです。
問われたペトロは、心に痛いものを感じたことでしょう。でも同時に不思議と平安だったのではないかと私は思います。つまり、愛する主に隠すことなど何もない、もう全部知られている。という安心感です。いいことも悪いことも、成功も失敗も、すべて主は知り尽くしておられる。そうした上で、「ヨハネの子、シモン」と、真っ直ぐに、この者の目を見て問うておられるイエスさまです。言い換えれば、〈こんな自分をも相手にしてくださっている。だから私は、もうこのお方の前に背伸びすることも飾る必要もない。ありのままの自らを差し出していけばいい。そのままを差し出して行こう〉という平安です。
確かに主を否んだ、あの晩の出来事はペトロの高慢な鼻をへし折ったにちがいありません。ですからこの時のイエスさまの問いかけに対して、「わたしはあなたを愛します」と、はっきり言い切ることができませんでした。〈もしかしたらまた、躓くかもしれない〉という思いもあったかもしれない。そうした自分の弱さ、自信のなさが表れ、彼は、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とだけ答えているのです。この時のペトロには、そこまでしか答えられなかったのでしょう。でも、この言葉こそが、背伸びしていない、自己卑下もしていない、そのような意味で等身大の自分の心を素直に正直に言い表した、ペトロの真実で精いっぱいの告白だったと思います。
そして私たちは、ここに試練を通して砕かれ、それ故に新しく変えられていったペトロの姿を発見するのです。自分の力ではなく、主の恵みにより頼んで行こうとするペトロの姿です。そして主は、この謙遜にさせられたペトロに、ご自分が愛する人々を託して行かれたのです。

Ⅲ.傷ついたペトロ

 復活の主とペトロのやり取りは3回繰り返されました。それは、3度ご自身を裏切ったペトロの罪を、1回ずつ丁寧に消し去って全く白くするように、交わりを回復し、彼の傷ついた心を癒していこうとされたイエスさまの愛の表れでもあります。3度否定したペトロをイエスさまは1度も否定なさらなかった。逆に3回、愛のみを確認されたのです。そして、再び牧会の務めを託し、弟子として従い続けるよう、再献身へと招かれました。私たちは、こうしたイエスさまとペトロの応答の中に、復活の主イエス・キリストの豊かな愛を発見するのではないでしょうか。
そうした上で「わたしに従いなさい」と招かれました。つまり、最後の最後に、主イエスさまがペトロに与えた命令は「従いなさい。新しくされた者として私に従いなさい」という招きの言葉だったのです。原文のギリシャ語を見ますと、この「従いなさい」とは、「従い続けなさい」とも訳すことの出来る言葉が使われています。つまり、「躓き倒れても、私はあなたを愛しているのだから。その愛は忍耐強く、情け深く、いらだたない愛、真実を喜び、忍び、信じ、望み、すべてに耐える愛、その愛をもってあなたを愛しているのだから大丈夫。私に従い続けなさい」と招かれたのです。

Ⅳ.新しくされてキリストに従う

 さて、これで終わるならばハッピーエンドなのですが、現実はもっと複雑です。ペトロが後ろを振り返ると、そこに、自発的にイエスに従い始めていた「イエスの愛しておられた弟子」、すなわちヨハネの姿がペトロの目に飛び込んで来たのです。
残念ながら、私たちも人の生き方が気になることがあります。その人の暮らしの様子。教会へのコミットの様子。その人たちの仕事や家族関係のことなど。気にし始めると、もうありとあらゆることが気になってしまうものです。そうした気になる人の歩みの中に、喜ばしいこと、キリストに従う姿を見れば、それをそのまま喜び、また自分にとって、信仰の模範とすればよいのですが、ここでペトロは、ヨハネのことを素直な気持ちで喜べなかったのです。
洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後のイエスさまが、荒野においてサタンの試みを受けたと同じように、新しくされたペトロが、再献身へと歩みを進めようとした途端に、サタンはペトロを誘惑してきたのです。
ヨハネの姿を見て、ぺトロの心の中に暗い思いが湧きあがって来たのです。そう言えば数週間前、ペトロはヨハネに出し抜かれた経験をしました。それは、イエスさまがエルサレム行きを決意し、表明された直後、ヨハネが兄弟ヤコブとひそかにイエスさまの所に行って、自分たち2人だけの出世の約束を取ろうとしたのです。あの時は、他の弟子たちと一緒になってペトロも怒りを露わにしました。自分も同じことを願っていたからです。
このようにイエスさまの弟子として、ずっとライバル的存在であったヨハネが、この時、また自分の後から、キリストに従ってやって来る。そうしたヨハネの姿が、ペトロの心を不自由にしたのです。
ペトロはほんの少し前に、イエスさまから、わが身に起こる殉教の預言の言葉を聞かされていました。「あなたは…、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21: 18)。神さまの栄光のための殉教の死を遂げるまで従うようにと、イエスさまに命じられているのです。そのことが心にあったのでしょう。ペトロは、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ね、ヨハネも殉教するかどうかを知りたかったのかもしれません。
 ところが、復活の主イエスさまは、弟子としての分をわきまえることを説かれます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。原文を見ますと、「あなた」という言葉が強調されています。「わたしがヨハネのためにどんな計画を持っていようが、その計画を知ることは、ペトロ、あなたの仕事ではない。あなたがすべきこと、それはヨハネと競争し合うのではなく、またヨハネに託されたことを羨ましく思うのでもなく、私があなたに与えた務めを引き受け、私を愛し、私に従って来なさい」と語られたのです。
 後に、ペトロは殉教の死を遂げます。そしてヨハネは、福音書、手紙、そして黙示録を記し、最後にパトモスに島流しになって召されて行きました。興味深いことにギリシャ語の「マルテュス」は「殉教者」とも「証人」とも訳せる言葉です。歴史の教会は、「ペトロは赤い殉教を遂げ、ヨハネは白い殉教を遂げた」と語りました。
ペトロとヨハネ、おのおの託された働きは異なりました。でも主の栄光を表わすために、主を愛し、従い通す歩み、すなわち、マルテュスとしての生涯を共に全うしたのです。
そして今も、ペトロとヨハネがお仕えした復活の主は、私たちと共に生きてくださり、私たちを通して、ご自分の栄光を現してくださいます。
神さまは、一人ひとりそれぞれに生きるべき命を与え、競争し合うことでなく、互いを認め合い、主を愛し、主に従うことを願っておられます。
今日はイースターの記念の礼拝です。私たちの罪を十字架の死で贖い、そして一方的な愛をもって愛し続けてくださる復活の主を、私たちも愛し続け、主に従い続ける歩みをさせていただきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

受難のキリストに聴く


2016年3月20日 受難節第六主日
松本雅弘牧師
イザヤ書50章4~7節
ヨハネによる福音書12章12~26節

Ⅰ.イエスを迎える2種類の人々

 今日は棕櫚の主日と呼ばれる日曜日です。今日からイエスさまの最後の1週間が始まります。
今日の聖書箇所、ヨハネによる福音書12章 12節の冒頭に「その翌日」とあります。ですから、これはベタニアでイエスさまに香油が注がれた出来事の翌日です。この日、イエスさまはろばの子に乗ってエルサレムに入城されたのです。
ヨハネはイエスさまを迎えた群衆のことを、「祭りに来ていた大勢の群衆」と説明していますが、これはこの後、18節に出てくる群衆とは別のグループの人々だったようです。
この中には、前日ベタニアに行った人もいたでしょうし、また中にはガリラヤでの活動や教えに何らかの形で触れていた人々もいたはずです。専門家によれば、この時代、毎年15万人くらいの人が過越祭でエルサレムに上京しただろうと計算しています。
この後、「ホサナ」と迎えられたイエスさまは、金曜日には、群衆によって「十字架につけろ!」と裏切られて行くわけですが、専門家によれば、歓声を上げ、イエスさまを積極的に迎えた群衆は、過越祭のために集まって来た人々で、一方、「十字架に付けろ!」と叫んだ人々は、どちらかと言えば、18節に出てくるエルサレム近郊、もしくはエルサレム在住の人々だったのではないかと理解されています。

Ⅱ.祭りに来ていたギリシア人

 20節に、「祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」とあります。この出来事はヨハネによる福音書にだけ出てくる記事です。彼らはイエスさまに会いたいと願っていたというのです。
「イエスさまを見たい」というだけならば、遠くからその姿を見ればよいわけですが、彼らギリシア人たちが願ったことはそれ以上のことでした。そのことをお願いされたフィリポは困ってしまいます。彼は自分1人で判断できなかったので仲間のアンデレに相談します。そして、2人で話しても解決できずに、直接、イエスさまのところにお伺いを立てに行ったのです。
ところで、彼らが判断に苦しんだポイントはどこにあったのでしょうか? それは、「ギリシア人、もしくは異邦人をイエスさまのところにお連れしてよいかどうか」という点でした。私たちは当然のこととして、「いいに決まっているじゃないか」と判断するでしょうが、この時の彼らにとっては難問だったようなのです。
ヨハネによる福音書の記述を振り返ってみますと、福音書に記されているイエスさまの宣教活動はパレスチナが中心で、異邦人との接触はたいへん稀でした。確かに、イエスさまは、色々な人と関わりを持って来られました。徴税人、罪人、罪の女と呼ばれていた人々……です。でも、異邦人との出会いは、ヨハネによる福音書に限定すれば、4章に1回だけ、サマリアの女とイエスさまとのコンタクトの記事が残っているだけです。ですからフィリポが戸惑ったのも無理のないことです。
エフェソの信徒への手紙で、パウロがこのことについて語っていますが、ユダヤ人と異邦人の間にあった「隔ての壁」は、私たちが考える以上に頑丈な壁だったようです。
ユダヤ人からして異邦人の存在は、物凄く異質なものであり、全く別な存在でした。ですから、そうした彼らを隔てる壁は、私たちが考える以上に、高く、分厚い「隔ての壁」だったようなのです。
ですから、いつもでしたら、訊ねる人をすぐにイエスさまのところにお連れするフィリポであっても、異邦人であるギリシア人から「イエスにお目にかかりたい」と言われて、お連れしていいものかどうか、判断に困ったので、弟子仲間のアンデレに相談したのです。
すると、アンデレはためらうことなくイエスさまの所に行って、お話ししたのです。つまり、ギリシア人をイエスさまに執り成したのです。

Ⅲ.栄光を受ける時

 頼まれ上手のフィリポが動き、人をイエスさまにお連れすることを使命と感じているアンデレの執り成しによって、彼らギリシア人はイエスさまのところに行って、何をお話ししたのか、という問題が残ります。いや、果たしてイエスさまは、彼らギリシア人とお会いしたのでしょうか。この点についてヨハネ福音書はまったく沈黙しています。
福音書記者ヨハネは、起こった出来事全部を記録しているわけではないということを、ここで心に留めておきたいと思います。その上での想像ですが、たぶんイエスさまは彼らギリシア人とお話ししたでしょう。かなり長い時間、会話されたかもしれません。でも、そのやりとりがヨハネによって書き残されていないということは、ヨハネの執筆意図からして書き残す必要のない会話だったからだと思います。とするならば、逆にここでヨハネが書き残していることが、とても重要なことになります。
では、その書き残されていることって何でしょうか。それは、イエスさまが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたこと、主がそう判断されたことです。
ここに「時が来た」という言葉が出て来ます。ヨハネ福音書を見ていくと、特に、この「時」という言葉がキーワードのように使われていることに気づきます。ところが12章のこの時点まで、「イエスさまの時がまだ来ていなかった」のです。今まで何度も繰り返し、主の口から「わたしの時はまだ来ていない」という言葉が語られていました。
今日の箇所、アンデレを介してギリシア人がイエスさまに会いたいと言って来たこの時点を境に、これ以降を見ていくと、例えば、13章1節、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへと移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とありますし、16章32節にも、また、十字架を直前にした最後の晩餐の席上で捧げられた「大祭司の祈り」の冒頭の言葉、17章1節に、「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」と、イエスさまが祈られたことをヨハネは伝えています。
つまり、異邦人の代表であるギリシア人たちがイエスさまのもとに来たのが、まさに合図であったかのように、ユダヤ人をはじめとして、異邦人全ての人の罪を背負って十字架で救いを達成しようとする、その「わたしの時が、遂に来た」とイエスさまは判断され、そのようにおっしゃったのです。そして、このことこそが一大事なのだ、とヨハネはここでメッセージを伝えているわけです。

Ⅳ.キリストへの信仰と服従

 19節をご覧ください。「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。『見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。』」
 これはファリサイ派の人々の言葉です。今、まさにその言葉の通りに、「世をあげて」、すなわち、全世界の人々に投げかけられる問いかけが、イエスさまによってなされようとしていたのです。
これが、この時のイエスさまの問いかけです。「はっきり言っておく。……自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。』」(24~26)
いかがでしょうか。ユダヤ人でも、異邦人の代表であるギリシア人でも、全ての人が、このイエスさまの十字架の愛の対象です。同時に、ユダヤ人でも異邦人でも、全ての人が、このイエスをキリストと信じ、キリストに従う意志はありますかと、主は、私たちに問いかけておられるのです。
私たちが、洗礼を受けたのは自分の幸せのためにキリストを利用するためではありません。天国に行けないと心配だから、その切符だけは手に入れておきましょう。いざと言う時の保険のように、と言った感覚で洗礼を受けるのでもないのです。
洗礼を受ける時の質問の1つに、「あなたは、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主、主と信じ、洗礼を受けることを心から願いますか」と尋ねられますが、これは、あなたはイエスさまを、「罪からの救い主と信じ、そして、人生を導く主人として従いますか」という問いかけです。
今日から受難週に入ります。もう一度、イエス・キリストへの信仰と献身を新たに受け取り直す1週間となりますようにと祈ります。
そしてまた、全ての人がイエスさまの十字架の愛の対象ですから、今日、登場したアンデレのように、まだイエスさまを知らない家族やお友達をイエスのもとにお連れする働きをさせていただきたいと願います。
お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

恵みによって成長しよう


2016年3月13日 受難節第五主日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一 3章5~9節

Ⅰ.人間の成長とは

 私の父はある時からとても教育熱心になりました。父は昭和ひと桁の人で、勉強したい時期に家庭の事情でそれが許されなかったこともあり、私たち子どもに対しては学校に行かせてやりたいと思って接してくれました。
私は墨田区の生まれで地元の小学校に通ったのですが、小学校6年生の1学期の終わり頃、どういうわけか、父が私を私立の中学校に行かせたい。それも大学の付属中学で学ばせたいという理由から、家庭教師を付け、週末には進学塾に通わせました。四谷大塚という塾の試験を受けに行ったこともあります。国立付属の中学は難しい。男子でしたら開成、麻布なども難しい。そのちょっと下に私立大学付属中学がある。そんなことを毎週、塾に行くたびに叩き込まれていたかと思います。 
そのようにして私はある大学の付属中学を受験に行った時に、紺色の制服を着て帽子をかぶった受験生たちがたくさん試験会場に居ました。彼らの帽子には「国立(コクリツ)」と書かれたマークがありました。私はそれを見た途端に「コクリツだ~。僕は墨田区立だ~。負けた~」と思い、急に弱気になってしまったことを思い出します。実は、それは「コクリツ」と読むのではなく、「クニタチ」と読まなければならなかったことが後でわかったのですが。確かに「国立(コクリツ)」なんていう校章はどこにもないのは考えてみれば分かるのですが、6年生の私には全く分かりませんので、勝手にモチベーションが落ちてしまいました。結局、受けた学校、全部落ちてしまって、地元の公立中学に入学することになりました。
 現在の受験事情は詳しく分かりませんが、確かに日本は世界でもまれに見る教育熱心な国だと思います。そんな私たちの国ですが、果たしてそれがうまく行っているかと言えば様々な問題が指摘されている現状があります。人がよい成長をするとは、そもそもどういうことなのかと思います。受検勉強も低年齢化し、小さい頃から習い事をさせることが、教育と考えられる風潮もあるように思います。早くから親などが受験を意識して詰め込み教育をやりすぎる。私の場合もそうでしたが子どもは何のための勉強か分からないまま学校に進む。そして志望の学校に入った頃には勉強の意欲さえなくなっている。私自身、振り返るとそんな気がいたします。
こうした現実を知る時に、大人たちが「教育」の名のもとにしていることの結果、多少は学校の成績は良くなるかもしれませんが、子どもたちから感動を奪い、本来「成長」と呼ばれるものとは程遠い現実となっているように思うのです。では、聖書は「人が育つ」ことについてどんなことを教えているのでしょうか。

Ⅱ.成長させてくださる神

 今日お読みしたコリントの信徒への手紙は、パウロという人が、ギルシャにあるコリントという都市の教会に向けて書いた手紙です。
コリントに教会が誕生し、そして、礼拝に集う人々の数が増えて来て、今、教会の中に分裂騒ぎが起こっていたのです。コリント教会を最初に導いたのがパウロでした。彼が去った後、次にやって来たアポロという教師はたいへん有能で名説教家でした。するとコリント教会の人々は彼を担ぎ上げ、自分たちは「アポロ派」であると分派活動を始めました。そのような事情があって、パウロが書き送ったのがこの手紙です。
ここでパウロは、あなたがたが持ち上げているアポロも、そして自分も、ほんの少し神さまの働きの手伝いをしたに過ぎませんよ、と語ったのです。そして、あなたがたが成長したのは誰のお蔭かといえば、神さまのお蔭なのです。成長させてくださったのは神さまだからです、と語っているわけです。
勿論、人が成長する時、親の存在はとても大切です。教師や家庭環境も大事です。でもパウロによれば、親や教師や、家庭の環境も、すべて神さまがお用いになる道具に過ぎず、それを動かし用いながら教育しておられるのは神さまです、と教えているのです。

Ⅲ.聖書が教える成長-テモテの場合

では、聖書が教える人間の成長とはどのようなことでしょうか。その例としてテモテという人を取り上げてみたいと思います。
テモテという人は祖母ロイスと母親のエウニケによって幼い時から神さまのことを教えられて育ってきた若者でした。彼の父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人ですからテモテはハーフです。父親は早く死んだと言われています。未亡人の母親とお祖母ちゃんに育てられたのがこのテモテでした。見方によれば、テモテは家庭環境的に一見損をしている人のようにも思えます。ところが神さまは、この若者テモテをパウロという教師と出会わせてくださいました。パウロがテモテの父の代わりに用いられていきました。
そして、パウロの導きによってテモテはクリスチャンになり、その後、パウロはテモテを自分の伝道旅行に同行させます。そのようにして彼を訓練して行ったのです。
 私たちは、誰しも様々な弱さを抱えて生きています。色々な意味でのハンディをもつものではないでしょうか。しかし同時に、隠れた素晴らしい可能性を持たない人など、誰もいないのです。
父親を早く亡くし、ハーフとして育ったテモテは、幼い日に母親とお祖母ちゃんの信仰に守られ、パウロという教師に出会い、イエス・キリストを知っていきました。そしてそのことがテモテを成長させていったのです。
では、具体的にはどのような人へと成長していったのでしょうか。フィリピの信徒への手紙2章に、テモテのことがこのように紹介されていました。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。・・・テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、・・・」(20、22節)と書かれています。パウロによればテモテは「親身になれる人、確かな人」になったというのです。「確かな人」とは「色々な試験を経た、保証付きの人物」という意味です。
元々は、気弱で様々なハンディもあるように思えた人でしたが、そのテモテが、親身になれる確かな人となったというのです。何という成長ぶりかと思います。

Ⅳ.成長させてくださったのは神

ある時、イエスさまはお語りになりました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタイ6:26)と。
小学生の頃の私自身の経験をお話しましたが、そうした詰め込み教育、あるいは、あまりにも早すぎる受験準備は、イエスさまが、私たちをそこから解放しようとされた、親や本人の思い悩みやあせりの心から出て来ているのではないかと思います。
「思い悩むな」「あせるな」とイエスさまはおっしゃいます。「天の父なる神さまから豊かに注がれている恵みを覚え、そのお方を信頼しなさい」と言われるのです。その理由は、鳥だって何とかやっているのだから。その鳥よりもはるかに優れたあなたのことを神さまはちゃんと心にかけておられるのだ。だとすれば、必要なものは必ず与えられる。だから心配しないでいい、と言われるのです。
こうしたイエスさまの言葉に触れてはっと気づかされるのは、私たちの側の信頼の欠如です。神さまへの信頼は勿論、自分自身に対する信頼、子どもたちに対する信頼です。
私たちが生かされている以上、そこに意味があります。神さまが何かをさせようとして、この世に生かしておられるからです。もし、私に、私たちの子どもの内に、何か1つは必ずお役にたつものを神さまがお与えになっていると考えることが出来るならば、もう少し心の中に平安や安らぎが出て来るのではないかと思います。
聖書は、私たちが生きているのは生かされているからだと教えています。そして聖書は、私たちを、また子どもたちを成長させてくださるのは神さまだ、と教えます。
幼い頃の愛情深い母親や祖母からの養育、青年期におけるよき師パウロとの出会い、それが幾多のハンディキャップを乗り越えさせ、ついにパウロの後継者として、教会のリーダーテモテへと成長させていったのです。
私たちにも、一見マイナスに思えることが何かしらあるのではないでしょうか。でも、聖書の神さまは万事を益にしてくださるお方、成長させてくださるお方です。
このお方が子どもを、そして私たちを生かしておられます。それゆえ、必ずお役にたつものを神さまご自身が与えくださると信じて、心の目を開いていただき、神さまがどう見ておられるかの視点をいただきながら、私たちの心配を神さまに委ねていきたいと願います。お祈りします。

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よい実を結ぶために


2016年3月6日 受難節第四主日
松本雅弘牧師
詩編1編1~6節
マタイによる福音書7章15~23節

Ⅰ.死海のほとりで

 イスラエル研修旅行の2日目の夕方に死海浮遊という経験をしました。ただその日はとても寒くて、ほぼ寒中水泳のような状態でしたので、何度か体を浮かせる経験をした後は、ゆっくり景色も眺めずに急いでホテルに戻りました。そこで翌朝、散歩がてら死海のほとりに行きました。すると真っ黒な祭服に身を包み立派な髭を蓄えた司祭がいたのです。
妻が「お父さん、ユダヤ教のラビよ。一緒に写真を撮らせてもらえないかしら」ということで、カメラをもってお願いに行ったのです。そうしたらその方は快く妻の求めに応じてくださいました。妻に遅れて私も自己紹介をしました。彼はルーマニア正教会の司祭で教会の方たちと一緒に巡礼の旅にやってきたそうなのです。
私たちもクリスチャンで長老派の教会の牧師をしていることをお話しをしました。すると彼の目が急に輝いたかと思ったら、突然スイッチが入ったようになって「それはいけない。あなたは私たちの教会に改宗してくるべきだ」と、牧師である私を相手に、東方教会に改宗させようとしてきました。彼は近くにあった木の枝先の葉っぱを手に取りながら、自分たち正教会はこの幹の部分で、そこから分かれて行った西方教会、つまりカトリック教会は幹より細い枝の部分、そしてさらにあなたたちプロテスタントは、その枝からさらに分かれて行った小枝の部分もしくは葉っぱの部分だというのです。そして「ほら、見てみなさい」と言わんばかりに、葉っぱにフッーと息をかけると、葉っぱは頼りなげに揺れていました。「あなたたちは枝葉ではいけない。しっかりとした幹でなければ」と言い、正教会の正当性を主張していました。勿論、半分冗談で笑いながらのお話でしたが・・・。
さて、今日の箇所で、イエスさまは、まさに真の信仰と偽りの信仰を見分けるようにと説いています。今日は、この箇所を通して、神さまは、私たちの信仰をどのように見ておられるのかについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.私たちの陥りやすい過ち

ここでイエスさまは、「天の父の御心を行う者だけが」と言って、行いの実で見分けるようにと教えておられます。ところが、17節で問題にされている「悪い木」である人々のことが21節から出て来るのですが、彼らの行いはどうかと言うと、悪いどころかとてもよい行いのように思えて来るのです。まず彼らは「『主よ、主よ』と祈る人たち」でした。また実際に彼らは、イエスの御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を色々と行うことをしていました。しかし、その彼らに対してイエスさまは、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言う、と予告なさったのです。イエスさまによれば彼らは「天の国に入れない」者たちでした。これはとっても厳しい取り扱いです。では、一体、彼らのどこが問題だったのでしょうか。

Ⅲ.父なる神の愛の御心

このことを考える上でのポイント、それが21節で述べられているイエスさまの言葉、「わたしの天の父の御心を行っているかどうか」ということです。
再び彼らの主張の言葉に耳を傾けてみたいと思います。彼らは、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか。」(22節)と言っています。
私はこうした彼らの言葉を読みながら、どこかで聞いたことがあるなと感じました。そうです。あのコリントの信徒への手紙一の13章、愛の賛歌に出てくる言葉、そして、またあの放蕩息子のお兄さんの訴えの言葉が聞こえて来るのではないでしょうか。
1コリント13章の言葉は一般に「愛の賛歌」と呼ばれる部分で使徒パウロが語った言葉です。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(12:31b~13:3)
これを見ますと一つひとつは素晴らしい行いです。ところが、そうした素晴らしい言葉や、行い自体は、何の益にもならないと言うのです。むしろ人に害を与えるような騒がしいどらや、やかましいシンバルの音と何ら変わりないとパウロは断言します。では何をもってそう判断できるのか? それは愛があるかどうかだと聖書は言うのです。
思い出していただきたいのですが、放蕩息子のたとえ話の兄息子は一生懸命でした。またそのような自分を誇りに思っていました。でも、どうでしょう?! 一日の働きを終えて一人になった時に、彼の心に喜びや安らぎがあったでしょうか? 私は、そうではなかったと思います。
むしろ心配があり、妬みがあり、愚痴があり、思い煩いがあり、空しさや疲れで心が一杯だったのではないでしょうか。それは、彼を一生懸命の働きに駆り立てている心の中の動機が愛に対する応答ではなかったからです。「きちんとしなければ、人から何を言われるか分からない」という恐れです。神さまの愛でしか満たされない心のすき間を、「人から褒められる」という評価や称賛をもって埋めようとする。そうした生き方ですね。
ここで、イエスさまが口にされた「わたしの天の父の御心」とはどんな御心でしょう。そうです。愛の御心です。その愛とは無条件の愛です。何かをしたから愛される愛ではありません。何をしてもしなくても、それに関わりなく、私を大事な存在として思ってくださる愛の心ですね。
私たちは、今までの自分の経験から、愛を受けるには受けるだけの理由を私の側に持たなければならない、という思い込みをもって生きています。ですから、神さまもそうに違いないと思い、愛されるために一生懸命に頑張るのです。でもそれは大きな間違いです。誤解です。
神に愛されるために何かをするのではなく、神に愛されているので愛する、というのがクリスチャンとして無理のない自然な生き方です。
 モーセの十戒には「盗んではならない。嘘をついてはならない。姦淫してはならない……」とあります。そうした戒めは、それを守らないと後ろ指を指されるからそうするのではありません。人から褒められたいから盗まないのではない。そうではなくて、隣人を愛するから盗まないのです。その人を愛するのでその人の物を盗んでその人を悲しませたくないと思うからです。人に嘘をつかない、それはその人が大事だから嘘をついてその人を傷つけたくないからです。
それでは、どうしたらよいのでしょうか? まず神さまの愛に留まり続けることです。愛の御心に触れ続けることしかありません。
聖書は、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです(Ⅰヨハネ4:19)」と教え、信仰生活の大事な順序をはっきり示しています。
神さまは、私に愛を受ける理由があるから私を愛してくださるのではないのです。そうしたものがあってもなくても愛してくださるお方です。イエスさまが「天の父の御心を行う者だけが」  (21節)と問題にされている、神の愛の御心なのです。その愛で、私たちの心が満たされていく時に、その愛に応えるようにして、神を愛し、人を大事にする人へと変えられていくのです。

Ⅳ.よい実を結ぶために、よい木につながる

冒頭でご紹介したルーマニア正教会の兄弟は歴史のある正統的な教会につながることが大事なのだと一生懸命私に説いて聞かせました。私の方も由緒正しいカンバーランド長老教会に属する者として拙い英語で反論しました。でも歴史の長さを問題にされたら降参するしかありません。カンバーランドはたかだか200年ちょっと、高座教会も70年の短い歴史です。
でもそんな私たちの議論や交わりを御覧になったイエスさまは微笑みながら言われるのではないでしょうか。「この幹が正教会ではなくて、私自身が幹なのですよ。何故なら、私がぶどうの木、あなたがた正教会もプロテスタントもカトリック教会も、あなたがたは皆、私につながる枝です。だから、どちらが太いとか、細いとか、どちらがより幹に近い、いや幹から遠い枝の先の小枝かではなく、幹である私にしっかりつながっていなさい。あなたがたは私を離れては何をすることも出来ないのですから……」と。
イエスさまは、「良い木は良い実を結ぶ」と言われました。私たちは本当に的を外しやすい者です。ですから、良い木そのものであるイエスさまにつながり続けること。神さまのアガペの愛に留まり続けることです。そうすれば、私たちは必ず神の愛の御心を行う者へと造り変えられていくに違いありません。お祈りします。