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人生の歩き方


2016年4月24日 夕礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書19章1~10節

Ⅰ.徴税人という生き方

イエス様はエルサレムの都へ向かって旅をしていました。途中、エリコという町を通られました。エリコの町にはザアカイという男が住んでいました。ザアカイという名前の意味は「清い」とか「正しい」という意味です。彼の仕事は徴税人で少し特殊な仕事でした。ローマ帝国は、植民地であるユダヤから税金を徴収するのに、同じユダヤ人に税金を集めさせて、ローマに納めさせました。徴税人は、同じユダヤ人から税金を集めるために、威張ったり、脅したりして集めては、自分の懐に分け前を取ってローマに納めていました。ローマ帝国の手先となってお金を巻き上げる裏切り者、売国奴と見られていました。
どうして親がザアカイという「清い、正しい」という名前にしたのに、このような人生になってしまったのでしょうか? 3節を見ると、背が低かったとあります。しかも群衆に遮られたとありますから、意地悪もあったのでしょう。子どもの頃からコンプレックスを持っていたのかもしれません。「いつか見返してやる」そんな思いで、お金を稼ぐことに邁進して稼ぐためなら何したって構わない。人を裏切ろうが嫌われようが、結局この世は金なんだ。そんな思いで生きていました。そして財産の面では優越感に浸れました。
しかし、ザアカイには虚しさがあったのです。  3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。本当に満足していれば、イエス様を見たいなんて思わなかったでしょう。人より稼いでいれば優越感に浸れると思ったけど、そうではなかったのです。なんでも貧しい人間の所へ行って病気を治したり、困っている人を助けたりしているらしい。本来なら、そんな金儲けにもならないことに関心を持つような、ザアカイではなかったでしょう。しかし、気になったのですね。イエスという男はどんな人なのだ? なぜ気になったのか?「もしかしたら、こんな俺でも変えてくれるかもしれない」

Ⅱ.自分を変えてくれる人と出会う

通りに行くと、イエス様を一目見ようと人でいっぱいでした。このままじゃイエス様を見る事ができない。ザアカイが来ても、譲ってくれる人なんかいないわけです。そこで、ザアカイは近くにあった、いちじく桑の木を見てその木に登りはじめました。木の上からみんなを見下ろして、優越感さえあったかもしれません。「ほら見ろ、お前たちとは違うんだ、こっちの方がよく見える」という優越感。ここにもザアカイの生き方がよく出ています。ザアカイは優越感をもっている。一方で、周りは「なんだアイツ」と冷めています。このザアカイに見られるように、優越感は劣等感の裏返しです。常に人よりも上にいないと、落ち着かないのです。言うなれば、ありのままの自分を受け入れられない、そのままの自分を愛せない、そんな生き方をしてきた姿が、木に登ったザアカイから見ることが出来ます。
木の上の桑の葉のあいだから遠巻きに眺めていると、イエス様が突然とまって、木の上のザアカイを見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」と言いました。神様が「私はあなたの名を呼ぶ」と言ったら、それは特別な招きです。「私はあなたのありのままを知っている。そしてあなたを受け入れる。」そんな意味があるのです。神様に指名された偉大な預言者や王たちも、名前を呼ばれ、受け入れて偉大な働きをしてきました。ザアカイが自分の名前を呼ばれて思い出したのは、オレの名前は「清い」という名のザアカイだった。降りて来なさいと言った言葉は、「あなたはその名を、取り戻しなさい」と受け取りました。そして続く言葉にさらに驚きます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とイエス様は言ったのです。ユダヤ人の社会では、目上の人からその家に泊まろうと言われれば、食事以上にゆっくり話しあって、特別な信頼関係を持とう、という意味が込められています。ザアカイは、急いで、木から降りていきました。

Ⅲ.イエス様を受け入れる

イエス様は、ザアカイが徴税人として、人を脅したりしてお金を取っていたことなども知っていましたが、その事は一切口にしていません。一方、ザアカイも、自分の家に招くわけですから、包み隠さずさらけ出したわけです。ありのままの日常の姿をさらけ出して、イエス様を受け入れたのです。
 これを見ていた人たちは噂しました。「イエス様は、よりによって、あの徴税人の家に泊まりにいった。だったらイエス様を信じるのをやめよう」と噂する人もいたのです。イエス様自身の評判を落とす事にもなったのです。しかし、そんなことも気にせずにイエス様は、たった一人の罪深い男、みんなから見下されて生きて来た一人の人の所に、あえて、来て下さった。イエス様を家に招いて、イエス様と過ごして、ザアカイは変わっていきました。8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」それまでは、貧しい人から巻き上げる事だってしてきた。お金に囚われた、お金の奴隷でした。それが180度変えられました。続いて、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」とまで言いました。ここで、ザアカイは自分の罪を認めているのです。税金をただ集める、徴収係だけでなくて、私は人を騙していました。そんな、自分のありのままの罪を、認めるまでになっていました。
なぜ、変えられたのでしょうか? もっと自分を変えたいと思うのは誰でも思います。この中でザアカイがしたことは、イエス様を受け入れた、ただそれだけです。「どうぞお入りください。」自分の、ありのままをさらけだして迎えた。イエス様を受け入れたたことで、変化が起こったのです。

この変えられたザアカイを見て、イエス様は9節でこう言います。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」神様はアブラハムに約束をしたのです。「地上の人々はすべて/あなたによって祝福に入る」という希望です。でも、ザアカイは、ユダヤ人の抱く希望なんて捨てていたのです。神様に祝福される人生なんて諦めていたのです。しかし、今日、救いが訪れた。ザアカイは諦めていたけど、イエス様の方では諦めていないのです。10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
イエス様は初めから、ザアカイと会う計画をしていたと話しました。神に背を向けて歩む人を、聖書では、「失われた人」と言います。「迷い子」とも言います。ザアカイのような、迷い子を探して下さるのがイエス様です。「迷い子」ですから、探す人がいないと戻って来れない人なんです。自分で自分は変えられない。わたしたちは変えてくれる人が来ないと、変われません。イエス様は、失われた者を、捜して救うために来たのです。
イエス様は「そういう事になっている」と言うのです。なぜか? みなさんが生まれる前から、捜しに来るというこの計画を、神様がされていたからです。その時、人生の歩み方が変わるか、変わらないか。その違いは「どうぞお入りください」・・・イエス様を受け入れるかどうか。それだけです。

Ⅳ.その後の人生の歩き方

10節でこの話しは終わっていますが、この後ザアカイはどうなったんでしょうか?
もう、徴税人の仕事など辞めて、イエス様の弟子になったのでしょうか? そうではないでしょう。ザアカイは、そのまま徴税人の仕事を続けた。財産の全部ではなくて、半分を施して、半分は残したのです。私たちも神様に従って生きて行こうと思った時、牧師や宣教師などの働きにでることが全てではありません。ある人はサラリーマン、またある人はパートや施設で働いている人、家の家事を担っている人、介護の世話をしている人、それぞれ持ち場があります。その与えられた持ち場で、祝福を分け与える拠点となって用いられていくのです。神様に用いられる人になって、祝福の源として生きる人生。自分が活かされて、周りを活かす人生になっていく。私たちの生きがいというのは、自分の持ち場で、神様に用いられている、というところに本当の生きがい、喜びがあります。
イエス・キリストは、十字架に架かり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。ここに、神様に招かれなかった人は、一人もいません。イエス様は今日、すべての人に対して、「疲れている人、重い荷物を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたを休ませてあげよう」と、一人一人を呼んで下さっています。

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あまりにも真面目すぎて


2016年4月24日 春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章25~32節

Ⅰ.弟息子の帰還

 今年の春の歓迎礼拝ではルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ話」をご一緒に読んでいます。先週は父親の遺産を持って出て行った弟息子が、お金を使い果たし、どん底まで落ちたところで父親のことを思い出し、悔い改めて戻って来たお話しでした。父親は息子が帰ってきたことを本当に喜び、その喜びを、皆で分かち合おうと宴会まで催すわけです。
そこに仕事から帰ってきたのが、今日の主人公の兄息子でした。今日は、この兄息子にスポットライトを当ててみたいと思います。

Ⅱ.兄息子の不満

 兄息子は弟の帰還を祝う宴の最中に帰って来たようです。家の近くまで来ると普段と様子が違います。ところで、ここを読んだ時に、1つ不思議に思うことがあります。兄息子は家の近くで音楽や踊りのざわめきを耳にするまで何も知らなかったということです。
確かに、弟は前触れもなく突然帰って来ました。でも、たとえそうであっても祝宴が始まる時には誰かが兄を呼びに行ってもいいはずです。ところが誰もそうしていませんし、事実、兄は弟の帰還の事実を全く知りませんでした。
話を戻しますが、家の近くまで来ますと普段と様子が違っていて、「音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」と、このたとえ話は語ります。聖書によれば、このお兄さんは、賑わいの原因を知らないだけでなく、わざわざ僕(しもべ)を家の外まで呼び寄せて問いたださなければ、何が起こっているのか、知ることが出来なかったようです。
問われた僕は出来事の成り行きを、かいつまんで説明しました。説明し始めた僕は、弟息子の帰還を喜んでもらえると思って兄息子に報告したのだと思います。ところが僕がひと言、「弟さんが帰って来られました」と言った途端に兄の顔色がサァーと変化したのです。気遣いの行き届く僕は普段から弟に対して良い感情を持っていない「兄の性格」を思い出し、すぐに声のトーンを落として、「無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」と、「事実」だけを報告したのです。
するとどうでしょう。これを聞いた兄息子は怒って家に入ろうとしません。自分の殻に閉じこもってしまい、そのようにして無言の抗議を父親に対してしたわけです。
私はこのたとえ話を読むたびに、弟息子よりもこのお兄さんの方に共感を覚える自分を発見します。正直、このお兄さんが気の毒に思います。これまでの経緯を知っている者にとって、この時の「お祝い」は、弟にとっては、全くふさわしくないものでした。弟の今後のことを考えても、決してふさわしいことだとは思えないからです。弟息子は父親に反抗して自ら墓穴を掘ったのです。まさに自業自得です。
当時のユダヤ教からすれば法律違反を犯したわけですから、それなりの償いがあって初めて迎えられるべきであって、祝宴どころの騒ぎではないのです。
ところがどうでしょう? 子どもの前で正しく義なる存在でなければならないはずのユダヤの父親なのに、身上を食いつぶして帰って来た息子を、懲らしめもせずに迎え入れ、責任も取らせずに祝宴を設けているのです。父親の神経を疑いたくなる。それが、この時の兄息子の心境だったのではないかと思います。
兄は言いました。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。この言葉には、この時のお兄さんの収まらない怒りが現れています。注意して読めば、お兄さんは「自分の弟」の事を「わたしの弟」とは言っていません。「あなたの・あの息子」と呼んでいます。口が裂けても「わたしの弟」とは言いたくなかった。自分とは全く関係の無いように、人を突き放すような言い方をしています。父親に対する怒りと、弟に対する軽蔑が込められています。
もう1つ、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来る」という言葉を見ると、兄の弟に対する憎しみの大きさが、もっと伝わって来るように思います。弟が、娼婦と一緒にいたかどうか、この時のお兄さんは知っていたのでしょうか? 確かに13節からすれば、そうだったかも知れません。しかし、これは一方的な兄の邪推であり、決めつけでしょう。実際に見ても聞いてもいないわけですから。弟の帰還を認めようとしない、いや、認めたくないという、弟に心を閉ざしている兄息子の気持ちが、このように言葉の端々に現れてくるのです。

Ⅲ.父親の愛情

 では、このようなお兄さんに対する父親の振る舞いに注目したいと思います。第1に、父親はまたもや家の外に出てこなければならなかったということです。父親はつい先ほどまで、来る日も来る日も弟息子が家出して行った方角を眺めては、彼の帰りを待っていました。弟のために何度も、いや何百回、何千回と父親は外に出たのです。そして今、どうでしょう。物凄い勢いで憤る兄息子の言葉の前で、祝宴どころではない、愛する「もう一人の息子」のために、ふたたび戸惑い、苦しむ父親が家の外に立っています。
第2に、父親は怒り狂う兄息子に対して、「子よ」と語りかけている点に注意したいと思います。「放蕩息子」と呼ばれる弟息子に対して父親は変わらずに「お父さん」であり続けました。それと全く同じように、嫉妬と怒りで荒れ狂う兄に対しても同様に「お父さん」であり続けているのです。
ちょうど、無くなった銀貨1枚を必死になって捜し求めた女性の手の中に同じく尊い9枚の残りの銀貨が握られていたように、怒りの納まらない兄息子もまた、この父親とっては愛する息子、大切な宝のような存在なのです。ですから、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに見つかったのだ」と語りかけているのです。
「あなたの・あの息子」と吐き捨てるように言った兄息子の言葉に父親は深く傷ついたことだと思います。でも怒りゆえに烈しい言葉を発してしまった兄息子に対して「お前の・あの弟」と優しく投げ返しています。自分の方から関係を絶ち、殻に閉じこもろうとする兄息子をなだめるために、必死になって外に飛び出す父親の姿は、まさに、弟を遠くから見つけて走り寄った、あの時の真剣な父親の姿と重ならないでしょうか。
 そして第3に、父親の最後の言葉に注目したいと思うのです。「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この父親の言葉は、私たちと共に在ること、私たちの存在自体を喜びとされる神さまの恵みを、何物にも勝って告げているのではないでしょうか。

Ⅳ.あまりにも真面目すぎて―もう一人の放蕩息子

私たちはここで大切な事実に目が開かれます。それは常に父親の近くにいたはずの兄息子の方が、もしかしたら遠い国に出かけて行った弟息子よりもはるかに遠く離れていたのかもしれないということです。実は、兄息子も「もう一人の放蕩息子」だったという事実です。
思い出していただきたいのですが、このたとえを聞いていた人々はファリサイ派の人々や律法学者たちです。ここで「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」という兄息子の言葉が紹介されていますが、これはまさに、彼らファリサイ人、律法学者の「自信」を表す発言とダブって聞こえます。
でも現実はどうでしょう。ファリサイ派の人々も律法学者たちも、人のことはとやかく言うのですが本当の意味で自分自身の心の中に喜びや満足、平安がなかったのではないでしょうか。
彼らは本当に真面目だったと思います。でも、そうした生き方を保つために、困難な事、責任を負うべきことを遠ざけ、間違いのないような手堅い所だけを行う生き方を選びとっていきました。
人の目を気にし、徴税人や罪人と言われていた人々に近づかない。何故でしょう? 汚れた者と言われたくないからです。彼らの表面的には品行方正な生き方は、神さまに対する愛、隣人に対する愛からではなく、「世間が自分をどう見ているか」という恐れから来るものでした。後ろ指をさされないように、人から批判されないように。つまり真に畏れるべきお方を畏れない結果、神さまでも何でもない、人々の目を気にする生き方しかできなくなっていたのです。
私たちはどうでしょう? これまで読んできた3つのたとえ話に当てはめるならば、安全な場所に残された99匹の羊、女性の手の中にある9枚の銀貨、そして今日の兄息子かもしれません。
洗礼を受け礼拝には来ていますが、いつしか心に喜びを失い、信仰生活が義務のようにしか思えなくなり、心の中が怒りや憤り、不平不満で満ちているとするならば、まさしく私たち自身がこの時の兄息子なのかもしれません。一見正しく立派に見える兄息子も、実は父親から遠く離れていた、もう1人の放蕩息子だったのです。
この後、兄息子がお父さんの招きに応じて家の中に入ったのかどうか、それは分かりませんが、私たちは、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」という招きに応え、ぜひ神さまのふところに飛び込んで行きたいと思うのです。お祈りします。

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決してあきらめない


2016年4月17日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
ルカによる福音書15章11~24節

Ⅰ.はじめに

 今日、お読みした聖書箇所に付けられた新共同訳聖書の小見出しには「放蕩息子のたとえ」と書かれています。でもこの話を注意深く読んでみますと、単に「放蕩息子」と呼ばれる弟息子の物語ではなくて、むしろその息子の父親の物語であり、その父親によってたとえられる神さまの愛についての物語であると思います。では、さっそく今日のたとえ話を詳しく見ていきましょう。

Ⅱ.息子を思い続ける父親

 たとえ話の最初を見ると、弟息子が父親の元気なうちに遺産を分けて欲しいと願い出たことを伝えています。「遺産」ですから、普通は父親の死後に相続されるものです。
この時代のユダヤの法律では、父親が元気なうちは、子どもは、財産について一切権利主張をすることは許されないと定められていましたから、見方によればこの息子は法律違反を犯していることになります。
 こうした息子の要求に対して、ここに登場する父親はその要求通りに財産を分けてやってしまうのです。そして財産を譲り受けた息子はすぐにそれを換金し、お金だけが物を言う「遠い国」に行ってしまったのです。
残された父親は何を考えたでしょうか。きっと後悔したのではないでしょうか。財産を要求されても、頑とした態度でそれを許さなければ、息子を失わなくて済んだのではないだろうか。あの場面で、息子にこう言っておけばよかった、ああすればよかった、と悔やんだと思います。しかし、このたとえ話のお父さんは全く動こうとしていないのです。
なぜ、ここまでなすがままにさせておくのでしょうか? 
私はそのところに父親の苦しみがあったのではないかと思います。親なら誰もが多少の経験を持つのではないでしょうか。「気持ちの無い」息子を力ずくで連れかえって来たとしても、すでに息子の心は父親から遠く離れてしまっている。ですから、きっと、また出て行ってしまうでしょう。父親には、どうすることもできないことが分かっていたのです。
子どもに対して、すべての権限を持つはずのユダヤの父親です。その父親が、息子と心通わせる事が出来ずに、無力さの中に立ち尽くしている状態が、この時のお父さんの姿だったのです。
父親としては、息子の心に向かって叫び続けることしかできない、メッセージを送り続けることしかできないのです。
本当にやるせないほどの激しい苛立ち、悲しみ、そして身を焦がすような苦しみがあったように思います。これがこの時のお父さんの心だったのではないでしょうか。

Ⅲ.放蕩息子の悔い改め

 次に息子の方に目を移してみたいと思います。彼は何もかも使い果たしてしまいます。実際、彼はどん底に落ちてしまいました。ところが、そんな中、本当に幸いなことですが、彼は「我に返った」のです。
彼は「祝福に満ちた父親の家を思い起こすこと」によって我に返ったのです。このことは私たちに大切なことを教えています。
貧しさや悲しみが人間を神さまに立ち返らせるのではない。時として、それは人の心をもっと頑なにさせたりするでしょう。けれども、この息子は、落ちぶれ果て、どん底の状態にあっても、そこで父親のことを思い出せたのです。そして、この時、彼は初めて悔い改めることができました。つまり方向転換をして父の元に帰る心へと導かれていったというのです。
 もう一度、父親にスポットライトを当ててみましょう。息子がどん底まで落ち、父親を思い出して悔い改めを決意した時、父親の方はどうしていたでしょうか。聖書には、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけ」た、と出て来ます。
私はこの言葉を読むたびに感動を覚えるのです。このお父さんは息子が家を出て行った日からこの時まで、息子の帰りを信じ、家出して行った方角をいつも見ていたのだと思います。来る日も来る日も外に立っていました。
今、「私は、この言葉を読むたびに感動を覚える」と申しましたが、何が私に感動を与えるかと言えば、息子が父親のことを思い出す、それより前に、実は、息子のことを一時も忘れることのない父親がいたのです。父親は、どうしようもない息子のことをいつも思い続けていたというのです。
あなたに対して、神さまはこのようなお方なのですよと、この時、イエスさまは教えてくださったのです。

Ⅳ.決してあきらめず、思い続けてくださるお方

私たちが自分をどのような者として受け止めているか、このことが私たちの生き方と大きく関係していると言われます。いわゆる、専門の言葉で「アイデンティティー」ということですが、これはとても大切なことです。
私が、神さまをどのようなお方として信じているか。そして同時に、私自身が、神さまからどのような者として知られているか。このことを心の深いところで、しっかりと受け止めることによって、私たちの生き方は確実に変わるのです。
こんな話がありました。アメリカのアリゾナ州フェニックスという町で、1つのセミナーが行われました。その集会には、大きな会社の経営者が800人あまり参加していました。講師は、有名な人間関係学の専門家であり、ビジネス書『ソロモン王の箴言』の著者であるゲリー・スモーリーでした。
彼は、バイオリンを手にとって皆に見せました。それはとても古く、ネックの部分が折れていて、弦がぶら下がっている、ひどいバイオリンでした。
スモーリーはそのバイオリンを、皆が見えるように、高く掲げ、そして聴衆に向かって「このバイオリン、いくらすると思いますか?」と尋ねたそうです。
 そうしましたら、そこにいた経営者たちのほとんどは、笑いながら、「せいぜい2~3千円でしょう」と答えました。
その時、スモーリーは、バイオリンの内側を覗き込み、そこに書かれている文字を大きな声で読み上げました。「1723年アントニオ・ストラディバリウス」
「アントニオ・ストラディバリウスのバイオリン」は、現在、世界に600本程しか残っておらず、値段は3億円から高いものですと30億円もするそうです。
聴衆が、そのバイオリンの価値に気づいた後で、スモーリーは、改めてそのバイオリンを取り上げ、最前列に座っているセミナー参加者に手渡しました。そのバイオリンを手にした人、そしてまた、それを見ていた人も、その価値を知りましたから、周囲の人々は息を呑んで見守り、手渡された人は、本当に大事に宝物を扱うようにしながら、そのバイオリンをまじまじと眺めたそうです。そのバイオリン自体は何も変化しなかったにもかかわらず、です。
いかがでしょう。私たちの周りの人たちが、私たちを見て、色々なことを言うかもしれません。「せいぜい、2、3千円くらいの価値でしょう」とか・・・。
でも、それは私たちの本当の価値を知らない者が言うことです。でも神さまは違います。神さまは、あなたを御覧になって、「あなたは高価で貴い。私はあなたを愛している」と語ってくださるのです。それだからこそ、今日のたとえ話に出てきた父親のように、息子の帰りを待ち続けてくださるのです。
バイオリンの本当の価値に気づいた時、セミナーに参加した人々の、その扱いが変わったように、私たちも、そこまでしてこの私を捜し続けてくださる神さまを知る時に、自分自身の見方が、それまでとはまったく違ったものになるのです。
神さまは、皆さんを捜しておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネ黙示録3:20)と言われます。
私たちの心には扉があるのです。でも、内側にしか「取っ手」がついていません。イエスさまは外に立って、私の心の扉をトントン、トントンと、叩いておられるのです。
私たちの意志を無視して、強引に力ずくで入ることはなさいません。私たちの人格を、私たちの心を大切にしておられるからです。
でも、その声に気づいて戸を開ける時、そのお方は、私たちの人生の同伴者になってくださり、私の助け主となってくださるのです。
ぜひ、主のみ声に応えていただきたいと願います。お祈りします。

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振り向くと光があった


2016年4月10日夕礼拝
春の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ルカによる福音書15章11~24節

はじめに

ルカによる福音書でイエス様が語られた「放蕩息子」の話は、主な登場人物は3人で、父と二人の息子です。11節を見ると、二人の兄弟がいました。そのうちの弟の方が、父にこう話しました。「お父さん、この沢山のお父さんの財産は、いつかお兄さんと私が相続するんでしょ? だったら今、私が頂くことになっている財産を先にくださいよっ!」と言うわけです。確かに父が亡くなるまで、何十年も経ってからもらうより、どうせもらえるなら、今もらったほうが得に決まっています。しかし、父親からすれば、自分の老後の世話もしないで、いなくなってしまったら困る、と普通は考えます。しかし、この父はとても寛容な父でした。12節後半を見ると、この弟と兄の二人に財産を分けてあげたのです。ここで一つのポイントは、兄にも弟にも二人に財産を分けたことです。そして、兄と弟とその財産の使い方が分かれたのです。この話しではお兄さんは、財産を分けてもらっても、そのまま父の元で仕事を続ける。一方、弟はもらった財産を全て現金に換えて遠い国へ旅立ちました。弟はさらにこの時、大飢饉がこの地方に襲いかかって、彼は二重の意味で苦しい境遇に陥りました。お金の無くなった彼を見て、食べ物をくれる人は誰もいませんでした。
この弟は、財産以外に、大事なものを3つ失ったと思います。一つ目、「人との関係を失った」。16節にあるように、飢えているこの弟を助けようとする人がまったくいなかった。人は一人では決して生きて行くことが出来ません。二つ目、「自分を見失った」。これも16節に、自分の民族的アイデンティティである、汚らわしいとされた豚。その豚の餌でさえ、「食べてしまおうか?」と思ってしまった。もはや、自分というアイデンティティを失った状態にありました。三つ目、「神との関係を失った」。13節で、この弟は父の元を離れました。実は、この譬え話しの父親は神の存在を表しています。ですからこの弟は神から離れた生活をしてしまったのです。二人の兄弟は私たち人間を表していますが、神様の近くに留まる兄のような人間と、神から遠くに離れて行った弟のような人間を対比しています。神の元にいれば、すべてが備わっている。一方で、神様から離れて、多くのものを失ってしまった弟の悲惨な生活。この三つの関係を保った人間を、聖書では「人間の本来の姿」であるとしています。キリスト教が教えている本来の姿とは、宗教だからといって、神様との関係だけを、大事にするということではありません。聖書は「あなたの隣り人を愛しなさい」と言います。この言葉通り、人と人との関係を、大切にしている事です。それだけでなく、聖書は自分を大切にすることを重んじています。たとえば「隣人を、自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)とあるのです。「自分のように、隣り人を愛しなさい」ですから、まず、自分を愛せないと、他人も愛せない、という順番になるのです。日本人は「愛する」という言葉をあまり使いませんから、しっくりこない方もいるかもしれませんが、自分を愛することは、「ありのままの自分を受け入れる」ということです。自分を受け入れる事と、他人を受け入れることは連動しているのです。
しかし、苦難は往々にして、人を正気に戻します。弟は17節のところで、我に返りました。父の所には、あまりにも当たり前で気づかなかったけど、必要なものはそこにあった。あの頃は、父の近くにいるのが窮屈だと思った。しかし、失ったすべてのものは、みんな父の元にあった。そう気付いて、方向転換することができました。そう思った弟は18節で「父の所へ行こう。そしてこう言おう。私は罪を犯しました。罪というものが分かりました。こんな私はあなたの息子と呼ばれるような資格もない。でもあなたの元で、あなたに繋がる一人にしてください。」この節で「罪を犯しました」と弟は言いましたが、キリスト教では「罪」という言葉が良く出て来ます。その「罪」の本質は「神様に背を向ける」ことなのです。まず、しっかりとした神様との基盤がないと、人間関係に振り回されてしまう。自分を見失ってしまうわけです。20節で、父の元へ帰ろうとします。ですが、父の元に帰っても、父が受け入れてくれるかどうか、分からない。もらう物はもらって、勝手に出てきた弟ですから、いまさら戻っても、もう遅いかもしれないでしょう。
そのことが、20節以降の父親の姿に表されています。「まだ、遠くにいた息子を見つけた」とあります。なぜ見つけられたのか? それは・・待っていたからです。父は毎日待っていた。さらに、走り寄って来てくれたとあるように、ただ待つだけではなく、向こうから来てくださる。それが聖書の神様です。神様は待っている方、近づけば走り寄って来てくださる方。
さらに父は僕に言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」「服」は権威の象徴ですから、いちばんいい服、という「人の尊厳」を息子に回復させました。「履物」は「自由」を象徴します。息子も以前はそこで、履いていたはずです。奴隷は逃げられないように裸足でした。父は財産などに囚われたりしない「本当の自由」を与えました。「肥えた子牛を屠る」のは、特別な「時」を象徴しています。特別な時にしか子牛を屠ったりしませんから、この息子の帰りを特別な「時」だとしています。しかし、兄からすると、まじめに父の元にいたのに、何もしてくれない。勝手に出て行った弟の帰りを喜ぶのは、不公平にも見えます。しかし、正しい人ではなくて、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求める人となって帰ってきた事を、「特別な時」だと喜んでくださった。
「自分には資格がない」と言った息子が戻った時、父は受け入れたのです。ありのままの息子をです。自分には資格がないと言った息子に、そのままで資格があると、受け入れたのです。弟が失った3つの大事なものの、まず「神様との関係」を、自分には資格はないと思っているが、神に救いを求めたことで、取り戻すことが出来ました。こんな自分勝手だった、罪だらけだった自分を、ありのままで受け入れてくれた。そのことが「自分を受け入れ」「隣り人を受け入れる」基盤となったのは、言うに及びません。神の愛が、私を受け入れてくれる。自分を愛せる。隣り人を愛せる。このことを聖書は何度も繰り返しています。
さて、戻った息子は、その後、どうなったでしょうか? 24節後半には、「そして、祝宴を始めた」とあります。また、宴会をしていました。無駄遣いしていた時も、父の元に戻って来ても、見た目は同じことをしている。しかし、神のいる宴会です。宴会が悪いのではない。楽しむことが悪いのでは決してありません。クリスチャンの人はみんな真面目そうで、堅苦しいと思っている方もいるのではないでしょうか。しかし、厳しい修行や、堅苦しい禁欲生活を求めるものではありません。むしろ、どんな人とも、それぞれの持ち場で、喜び祝い、世の中に光を放つ者であることです。それが目立たなくても、人には分からなくても、そうあるだけでいい。それが聖書が示す、本来の人の姿です。私たちが光をはなつことが、出来るのであれば、隣り人を受け入れ合う、愛のある世界が来るのです。
今日の説教の題名は「振り向くと光があった」としましたが、この光は神様の愛です。
今までの歩みから、くるっと向きを変えて、振り向くと、人生の風景が変わります。
今日の話しは、神様に背を向けた「放蕩息子」の譬え話しと、一般的に呼ばれていますが、息子の話しと言うよりは、実はありのままを受け入れて下さる神様の話しです。
この譬え話しを、聖書の中で話されたのは、イエスキリストです。私たちはこのイエスキリストを主として崇めています。この方は、十字架に架かかり、死なれる、という形で、わたしたちに愛を示してくださいました。そして、復活して今も生きておられます。
このことも、また、引き続き、礼拝の中で、受け取って頂きたいと思います。

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そのままの姿で


2016年4月10日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
ルカによる福音書15章8~10節

Ⅰ.はじめに―「生涯の日を正しく数えるように教えてください」

今日、お読みしました旧約聖書の言葉の中に、「あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます」(詩編90:5~6)とあります。私たちの人生を、瞬く間に飛び去っていくものとして表現しています。つまり「人生のはかなさ」をしみじみと歌っているのです。
さらに詩人は、「人生はため息のように消えうせます。人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年…」とあり、「移ろいやすい」だけではなく、「ため息のように」あっという間に過ぎ去っていく。この感覚が詩人モーセの実感でした。
こんなお話を聞くと、「教会に行って、励まされて帰って来たいと思ったのに、牧師さんは急に暗い話をし出した」と思われるかもしれませんが、もう少しご辛抱いただきたいと思います。
あっという間に過ぎてしまう人生ですので、詩人は真剣になって神さまに祈っているのです。その祈りの言葉は、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」というものです。
それこそ「ため息のように」過ぎ去ってしまう人生の日々を、主にあって1日1日大切に過ごしていきたい。今日、この日を、どのように受け止め、どのように生きるかを教えてください、という祈りです。そして、この祈りに応えてくれているのが、この聖書の中に出てくる様々な教え、イエスさまの教えです。
少し前置きが長くなりましたが、私たちの人生の日を正しく数えることができるように、今日も、イエスさまの教えに心の耳を傾けていきたいと願っています。

Ⅱ.背景

今日のたとえ話も、徴税人や罪人と呼ばれる人々と一緒に食事をしていたイエスさまを批判する、ファリサイ派や律法学者に向けて語られています。
ここに出てくる「罪人たち」とは職業上、また様々な理由から社会からつまはじきにされ、誰からも相手にされない人々でした。ところが、そうした中で、イエスさまだけは、彼らを人として接しておられたのです。ですから、彼らは、彼らの方からイエスさまのところに行って、イエスさまと交流したい。イエスさまのお話を聞きたい。イエスさまと時間を共にしたい。そのような思いでやってきたわけです。
そのことが、当時の宗教指導者には気に入らないことだったのです。イエスさまは、それに対してどうなさったでしょう。「そこで、イエスは次のたとえを話された」のです。
イエスさまが語られたたとえ話とは、大きく分けて3つあります。「見失った羊のたとえ」、今日の「無くした銀貨のたとえ」、そして来週から2回に分けてお話します「放蕩息子のたとえ」、この3つのたとえ話です。

Ⅲ.無くした銀貨のたとえ

 イエスさまが語られたのは次のようなお話でした。あるところに1人の女性がいました。10枚の銀貨を持っている女性です。その彼女、どういうわけか、大切な1枚を失くしてしまいました。
このドラクメ銀貨の価値を調べてみましたら、当時の貧しい労働者1日分の賃金に相当する額だそうです。ですからそれなりの価値あるものですが、でも捜しても見つからなければ、〈いつかまた出てくるでしょう、あと9個残っているし〉と気持ちを切り替えてしまうこともあるかもしれません。ところが、この女性は、必死になって捜しているのです。
薄暗い家の中です。ユダヤの貧しい家屋ですから、窓がありません。ですから8節を見ますと「ともし火をつけ」必死になって捜したのです。自分の目でもって一生懸命無くなった銀貨を見つけようとします。でも残念ながら見つかりません。そこで彼女はほうきを持ち出して薄暗い家の隅々を掃きながら、テーブルがあればそれをどかして、その下を掃きます。
たんすがあれば、その下にほうきを突っ込んで掃き出します。あるいは、家具を移動して、一生懸命捜します。
このように、ともし火を点して、目を使い、今度はほうきを手に持って、そこいら中を掃きながら、ひょっとすると無くなった銀貨が「ほうき」の先にでも引っかかって、音でもたてないかと、耳に神経を集中して捜しているのです。つまり、彼女は無くなった1枚の銀貨を見つけるために、目で捜し、手で捜し、そして耳を使って捜す。つまり、全身で捜しているのです。
まさに「見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」とイエスさまが言われるとおりです。
では何故、ここまでするのでしょうか。銀貨1枚です。周囲からすれば無意味に思える行為かもしれません。ある人にとっては価値がないとも思える銀貨です。でも、この女の人にとっては、価値があったのです。何故なら、それは彼女の宝物だったからです。
当時、イスラエルでは銀貨10枚に紐を通して、結婚のときに髪飾りとして持ってきたそうです。嫁入りの時の飾りでした。また、銀貨を用いたのは、持参金でもありました。もし何かどうしても必要な急場の時には、それを使うということもありました。つまり、彼女にとっての銀貨1つ1つは、思い出がこめられた宝物であり、大切なものだったのです。
私たちにたとえるならば、結婚の誓約のしるしとして交換した結婚指輪のようなものでしょうか。私も30年以上、同じ指輪をはめています。よく見てみますと随分と傷がついてきました。覚えていますが30年前はピカピカでツルツル、とても綺麗な指輪でした。でも今は色がくすんで表面はザラザラです。でも、どうでしょう。「新しいものと交換しよう」と思うでしょうか? 「買ったときと同じ値段を払いますから、売ってください」と言われて、売るでしょうか。そうしないですね! あの時、あの場面で交換した指輪であることに価値があるのです。
つまり、他のもので代用することはできない結婚指輪のようなもの、それが、この時、彼女が無くしてしまった1枚の銀貨でした。

Ⅳ.見出される喜び

 私はクリスチャンになる前、イエス・キリストというお方を知る前は、何か悪いことが起こると、また、嫌なことに出くわすと、自分に自信もないですから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ」と真剣に思うことがありました。今日の聖書の箇所は、周囲の人々の扱いから、「自分なんて、居ても居なくても良い存在だ。」そうとしか感じることができないような人々に対して、イエスさまはこのたとえをお語りになり「そうではない! あなたは神さまから捜されている宝物なんだ!」と、必死になって伝えようとしているのです。
 私は、この説教を準備しながら、「まばたきの詩人」水野源三さんのことを思い出しました。
クリスチャンの詩人水野源三さんは、9歳の時に赤痢にかかり、高熱で脳性まひになって、見ることと聞くこと以外の機能を全部失ってしまいました。その水野さんが13歳のときに、自分を捜しておられる神さまを知って洗礼を受けてクリスチャンになりました。
それ以来、お母さんが作った、「あいうえお」の書かれた「50音表」を、まばたきで合図しながら、ひとつずつ言葉を拾い、詩の作品を作って証しをされた方です。その水野さんの作った詩の中で私の大好きなものがあります。

たくさんの星の中の一つなる地球
たくさんの国の中の一つなる日本
たくさんの町の中の一つなるこの町
たくさんの人間の中のひとりなる我を
御神が愛し救い
悲しみから喜びへと移したもう

 水野さんはどうにもならない「自分の小ささ」を実感していました。でも、そのような小さな者を愛して捜し出してくださった神さまに出会ってから、心の中の悲しみが、大きな喜びへと変えられていくことを経験したのです。
私たち誰もが、神さまが捜しておられる神さまの宝物です。私たちがそのお方に出会う時、初めて、人と比べて100分の1、10分の1に過ぎない私など、と思うことなく、掛け替えのない私を受け止めて生きることができるのです。
ぜひ、水野源三さんのように、この私を捜しておられる神さまと、喜びの出会いをさせていただきたいと願います。お祈りします。