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主日共同の礼拝説教

人でなくキリストによる

2016年5月29日
和田一郎伝道師
エレミヤ書9章11~15節
ガラテヤの信徒への手紙1章10~17節

Ⅰ.初期キリスト教会の問題

パウロは確信があるが故に、ガラテヤ書1章10節で「私は人に取り入ろうとしているのではない、人の気に入ろうとしているのでもない」と強く主張しました。パウロがガラテヤ書1章全体で主張したかったことは、福音の意味、福音理解でした。イエス・キリストの福音というのは、イエス様を救い主と信じる信仰によるものです。割礼と律法を守らなくても、ユダヤ人ではなくても、すべての人がキリストを信じれば救われる、このことでした。この教えを、パウロは命がけで伝道して、ガラテヤの教会もパウロの教えに従っていたのです。ところが、パウロが伝道した後、ある人たちがガラテヤ教会に忍び寄ってパウロの伝えた教えを覆そうとしていました。パウロが伝えたキリストの福音に加えて、ユダヤ教徒と同じように割礼を施すこと、律法を守ること、この2つを加える必要があるというものでした。
このガラテヤ書は、パウロの書いた手紙でも一番早い時期に書かれたものとされています。ですから、キリスト教が生まれてまだ間もない頃に起こった問題を、ガラテヤ書は取り上げているのです。ペンテコステの出来事でキリスト教の教会が生まれて、20年ほどしか経っていない頃の未熟だった時期でした。中にはこのように、間違った教えを伝える人がいたのです。それどころか、これを伝道するパウロに対する個人攻撃もされたので、事は深刻でした。パウロに対する攻撃というのは、次のようなものでした。「パウロは自分が使徒だと自称しているようだが、本物の使徒ではない。彼はエルサレム教会からも、また使徒のヤコブやペトロからも任命された者ではない。ようするに勝手に作った福音だ。」このような解釈を広めていたのです。
ようやくキリスト教の基盤が広がりつつあるのに、大事な教えについて腐敗が見え始めてしまった。当時はまだ、エルサレム教会やペトロたち使徒には特別な権威があったのです。「私はあのエルサレム教会から来た」とか「ペトロやヤコブの弟子だ」と言って、権威に取り入ろうとしたのです。キリスト教の命を枯らして、息の根を止めさせてしまうのは、いつも人間的な権威にしがみつく思いにあります。人間の思いから、人間を通して広まる、人間の権威が、静かに教会を侵食していくのです。よく言われることですが、日本の教会は、道徳や一般常識のような事柄には敏感ですが、神学や霊性に関わることは後回しにする事が多いというものです。日本人の高い倫理観が現れているのかも知れませんが、その根拠が人間的な権威であるならば、教会は静かに侵食されていくものです。

Ⅱ.人によるものではなく、キリストに召し出された

パウロの強い確信の根拠は、何だったのか? それは、11節から12節においてパウロが記しています。パウロの確信は、ダマスコの途上でキリストと出会った回心の出来事、その事の一点によるものです。パウロはキリスト者を迫害していましたが、キリストに出会って人生が変わりました。人との出会いではありません。権威ある教会の誰かにこの福音を教わったのでもない。復活したイエス・キリスト、その方に出会って告げられたのです。しかし、パウロがイエス様から告げられたことは、並大抵のことではありませんでした。異邦人伝道という困難な伝道の使命を告げられてパウロは、すぐに受け取ることができたのだろうか?と私は不思議に思うところがありました。後のパウロの生涯を見ていても、牢に入れられたり、鞭を打たれたり、説教をしては相手にされないこともありました。また、エルサレムの使徒たちに受け入れられるという保証はありません。案の定、ガラテヤの教会のように、パウロに逆らう人たちがいました。それまで通りユダヤ教徒でいた方が、すでに地位もあったでしょうに、もったいないことをしたのではないか?と思うのです。しかし、パウロは神の御心のままに、受け取ったのです。

Ⅲ.御心のままに

「御心のままに」という言葉で思い出すのは、ビートルズの代表曲“Let it be” という曲です。当時の歌詞の日本語訳が「すべてなすがままに」という訳だったことを覚えています。この歌の歌詞は「苦しい時に、聖母マリアが来て、知恵ある言葉を話してくれた」、それが「すべてなすがままに」という歌詞でした。私はこの歌詞から「なるようになれ」という印象を受けていました。しかし、ルカの福音書1:38で、マリアが結婚前なのに、妊娠していることを告げられた時、天使に返した言葉「お言葉どおり、この身に成りますように」と、いうところも“Let it be”と訳している聖書があるとおり「神様のご意志を私は受け入れます」という意味があるのだと分かりました。マリアも自分に告げられた事を、信仰をもって受け入れました。「御心のままに、神様のご意志を私は受け入れます」というものです。パウロも同じように、異邦人伝道という困難な使命を、信仰をもって受け止めたのです。15節後半にある通り、「恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して下さった」。そうです「恵みによって召し出してくださった」と、パウロは受け取ったのです。御心には必ず恵みがともなう。私たちも、自分にはとてもできない、本音を言えば、そんな嫌な仕事は受けたくない。そのような役割を告げられることがあるかと思います。しかし、その御心には必ず恵みがともなうという信頼がなければ、パウロのように、その使命を自分の生き方とすることはできません。

Ⅳ.信仰のみ

来年の2017年は宗教改革500周年となり、私たちプロテスタント教会にとって記念の年となります。500年前に、マルチンルターが「信仰のみ」と、宗教改革に立ち上がるきっかけとなったのが、このガラテヤ書でした。人間の権威が、静かに教会を侵食していった、暗黒の時代を超えて、再びイエス・キリストの福音を呼び起こしたのが、実にこのたった6章からなる小さな書簡だったのです。
Ⅴ.まとめ
キリスト者として自分の人生を考えた時、自分にとってなにが一番重要なのでしょうか。それは、私たちの罪のためにキリストが十字架にかかってくださり、そのおかげで罪がゆるされ、救われた。この大いなる、神の御心を信じる信仰には、恵みがともなう。その一つの事ではないでしょうか。お祈りをしましょう。

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主日共同の礼拝説教

似て非なるもの

2016年5月22日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編27編11~14節
ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節

Ⅰ.似て非なる、紛らわしいもの

本物が良い物であればあるほど、紛らわしい偽物がでてくるのかも知れません。
昔、中国の孔子が弟子たちに言った言葉があります。「私は、外見が似ていて、中身が全く違うものを憎みます。たとえば、口先のうまい人を憎むのは、その言葉が正しい筋道に似ていて紛らわしいからです。言葉を上手に扱う人を憎むのは、間違っていても、まるで真実のように聞こえて紛らわしいからです。紫のような中間色を憎むのは、正色である朱色に似ていて紛らわしいからです。そして、偽善者を憎むのは、ほんとうに徳のある人に似ていて紛らわしいからです。」
今日は、ガラテヤ書1章から「似て非なるもの」について、考えたいと思います。善と悪がはっきり分かれているものであれば、分かりやすいものですが、この世にある善と悪は、得てして見分けが着きにくい、紛らわしいものです。これがなかなか厄介です。先程の孔子はこれを憎むと言いましたが、パウロはこれを「呪われるがよい」と表現しました。ちょっと尋常ではない怒りの表現です。パウロが怒りの矛先を向けたのは、イエス・キリストの福音と「似て非なるもの」で、とても厄介なものでした。パウロは通常、手紙の書き出しでは、差出人である自分について「使徒パウロ」と名乗りました。続いて受取人、挨拶を書いて、次に感謝の言葉が書かれます。ローマ書でもコリント書でも、出だしの挨拶のあと神への感謝、または頌栄や神への賛美の言葉が出て来ます。ところが、ガラテヤ教会宛の手紙では、そのようになっていません。神への感謝どころか「あきれ果てています」と書かれています。パウロは神様への感謝する、いとまを惜しんで「あきれ果てて」とありますが、ニュアンスとしては「おおいに驚いている」と言ったニュアンスの方が近いと思います。それほどガラテヤ教会の状況は、あっという間の変化で深刻でした。この後に書かれたコリントへの手紙を見ますと、コリント教会でも問題が山積みしていましたが、そのほとんどが道徳的問題でした。一方でガラテヤ教会の問題は神学的な問題で「福音理解」の問題でした。パウロにとっては道徳的問題以上に、はるかにこの神学的「福音理解」の方が重大なことでした。もちろん安易に比較することは、できません。神学も道徳的問題も大切です。どちらも、キリスト教が誕生して20年程しか経っていない、当時の教会が抱えていた問題です。
これは、私たち日本の教会についても、よく言われることですが、日本の教会は道徳や、一般常識のような事柄には敏感ですが、神学に関わることは鈍感なことが多いというものです。日本人の高い倫理観が現れているのかも知れませんが、一般常識に関しては強い反応を示す傾向にあるようです。
パウロが福音の真理という神学的な課題に固執して、真理を死守しようとする姿が異様に感じられるようでしたら、私たちは信仰共同体の一人として、自分の立ち位置を再確認する必要が、あるかも知れません。クリスチャンがクリスチャンであるために、キリスト教会がキリスト教会であるために、何が重要であるかと問われれば、それはキリストの福音そのものに他なりません。一般的に教会とかクリスチャンと聞くと、まじめで品行方正な人を思い浮かべるかも知れません。しかし、まじめで品行方正であることで、クリスチャンになるわけではないですね。キリストを信じて、福音の恵みに生かされてこそ、キリスト者となるのです。キリストの福音は唯一絶対的なものです。それは「神様は全ての人を、愛して下さっている。けれども、私たち人間は、罪をもっているが故に神から離れています。そこでイエスキリストが地上に来られて、私たちのために死なれて、キリストを信じる事で、神の愛を経験し、永遠の命を得る事ができる。そして、今現在、生かされているように、神の国に生きることができるようになった。この、恵みを、良い知らせ、福音として受け取っています。この神の絶対的な福音に、何かを付け加えたりすれば、それはもはやキリストの福音ではありません。似て非なるものです。この世の中には似て非なるものが溢れています。

Ⅱ.福音だけではなく、割礼も・・律法も・・

7節で、ガラテヤ教会に忍び寄ってパウロの伝えた教えを覆そうとしたある人たちは、キリストの福音に加えて、ユダヤ教徒と同じように割礼という、しるしを施すこと、律法を守ること。この2つを加える必要があると論じました。見ようによってはほんの紙一重の差で、重大な違いだとは思えないかも知れません。もともとユダヤ教徒であった人は、割礼も律法も守って当たり前にしてきました。しかし、異邦人の中でクリスチャンが増えたことで、議論が始まったのです。どちらもキリストを主として信じている、という事においては共通しています。しかし、割礼と律法を守らなければ、一人前ではない。クリスチャンであるかも知れないが、二級のクリスチャンに過ぎない。他のユダヤ人クリスチャンのように、一級のクリスチャンになりたかったら割礼を受けて、律法を守らなければならないと、主張したのです。割礼は、神と神の民との契約のしるしであり、律法は神が、神の民に行動規範として与えたものですから、見方によっては筋が通った話しです。これに対してパウロは、キリストの福音に、割礼と律法を加えるならもはや、それは似て非なるもので、もはや福音ではないと、批判しています。恵みの絶対性、十字架の絶対性が脅かされるからです。8~9節でパウロは全く妥協する余地もなく、断固たる姿勢を通します。ここでは語られる人物を問題にしていません。誰であっても、パウロであっても、仮に天使であっても関係なく、語られる福音の中身が問われています。私たち人間は語る人物が立派だとか、権力があると、その語られる中身いかんによらず、人物に影響されることがあります。

Ⅲ.「呪い」と「祝福」

パウロたちが以前ガラテヤに行って伝えた、唯一の正しい福音に、変えたり、継ぎ足すような教えならば、「呪われよ」と言い放ちます。パウロがいう「呪い」とは、現代を生きる私たちにはあまり馴染みのないものですが、旧約聖書の申命記30章1~3節に記されているのですが、「呪い」とは「祝福」の反対です。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。」(申命記30章1~3節) 私たちは祝福を求めるわけですが、その反対の「呪い」も私たちの前に置かれているものです。「呪い」とは「裁き」と理解してもいいかもしれません。旧約聖書で、イスラエルの民をエジプトから救い出したモーセは、自分が死ぬ直前に、川の向こうに見える約束の地を、遠く眺めて、民に向かって「祝福」と「呪い」について、イスラエルの民が神に忠実であれば祝福されるが、反対に、神に逆らい忠実でないのであれば、呪いが下ると語ります。そして、モーセが予期したように、イスラエルの民は、神様に逆らい、忠実を通すことができませんでした。そして、バビロン捕囚という、裁きを受けることになります。祝福とは裏腹に、呪いがありました。
パウロは、ガラテヤの教会の信徒たちが、影響されつつある、似て非なる福音。一見、筋が通っていそうな付け足された福音などは、呪いの対象だと、切り捨てたのでした。唯一の福音は、ユダヤ教的キリスト教ではない。また、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも気に入られる信仰でもありません。確かにそれらは似ているかも知れない。似ている要素があるからこそ、はっきりと区別しなければならなかったのです。律法も大切にしようよ、割礼もずっとやってきた事から、大事にしよう、と言ったらバランスが取れているように聞こえます。しかし、人から出て来たものに真理などはないのです。

Ⅳ.信仰の成長などはない?

かつて榎本保郎という牧師は、自分の中で「信仰の成長などはない」と言いました。信仰は日々与えられるもの、ですから、自分の中で生まれた変化は、人から出たものです。信仰は与えられるものですから、人間には自分を救う為に、出来ることなど何もありません。何かの功績を積むことによって信仰が成長したり、罪が許されるという事もないわけです。
ただ、キリストの恵みにすがるのみです。イエス・キリストが、人の姿をとって地上に来られて、私たちの罪を担って、私たちに代わって十字架の上で、「呪われた」者となって下さいました。私たちの救い、私たちの恵みは、この十字架の救いによるものです。

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和解の手を差し伸べて

2016年5月22日
松本雅弘牧師
レビ記13章45~46節
マタイによる福音書8章1節~4節

Ⅰ.「あの時以来」

イエスさまというお方は、私たちが人としての自分を取り戻すために、様々な語りかけを通して、出会ってくださるお方ですね。今日もそうしたイエスさまとの出会いを経験した人が登場します。
山上の説教を終えられたイエスさまが山を下りると、重い皮膚病を患った人が近寄ってきました。聖書に出てくる「重い皮膚病」は、長い間、今で言うところの「ハンセン病」とされてきました。ハンセン病の感染力は非常に弱いと言われます。なおかつ、それは遺伝病ではありません。しかし、日本でも患者が隔離され、子どもをもうけることも禁じられてきた過去があります。そして現在にいたっても、完治する病気でありながらも、社会的差別がなおも残っているのです。
つい先ごろ、4月25日でしたか、日本において、かつてハンセン病患者の刑事裁判などを、隔離された療養施設などに設けた「特別法廷」で開いていたという問題で、最高裁判所が、その調査報告書を公表し、「社会の偏見や差別の助長につながった。患者の人格と尊厳を傷つけたことを深く反省し、お詫びする」と謝罪した出来事がありました。このように、今の日本においても現在進行形の問題であることを思います。

Ⅱ.和解の手を差し伸べるイエス・キリスト

この人の苦しみ、この人を苦しめていたものは、肉体的苦痛であると共に、「汚れた者」というレッテルを貼られるという意味で、宗教的な断罪であり、そして、社会的な疎外でもありました。そのような意味で、この人は三重の苦しみを背負わされていた人だったと思います。
この同じ出来事を記録したルカによる福音書を見ると、この時の彼の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(ルカ5:12)という言い方で伝えていました。「居てはいけない人がそこに居た」というニュアンスで、その状況を記録しています。しかも、「そこに居た」ということは、本来、その人にあてがわれた場所から、移動してやってきて、そこに居たということでしょう。
当時、この病の人は「汚れた者、汚れた者」と言い、患部を見せながら、人々と接触をしないように移動しなければならないことになっていましたから、そうした犠牲を払ってやって来たのでしょう。そして、ひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願っています。
ここで、ただ1つ気になることがあります。それは、この時の彼は、単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないことです。彼の中に、どうしても心配なことがあったのではないでしょうか。それは、「果たしてイエスさまが私を癒そうと思うかどうか/そうした気持ちになるかどうか」と言う事でした。ですから単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないのです。いや、言えなかったのでしょう。その代りに「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのではないかと思います。
厳しい世間によって、彼はどれだけ傷ついてきたことでしょう。やっとつかんだ幸せのときを、また、その世間が奪っていく。そうしたことの繰り返しが彼の毎日でした。ですから、何か起これば過剰に反応してしまいます。もう傷つけられたくありませんから、とても防衛的になってしまう……。イエスさまだけは違うと期待しながらも、でも、もしかしたら、と思ってしまう誘惑との戦いだったのではないでしょうか。見るからに普通の人の肌の色とは違っていました。ですから、聖書に出てくるこの人も、自分の病気は、相手の同情をかきたて、人の心を揺さぶるような病ではなく、見た目にも嫌悪感を抱かせるものだと知っていたと思います。また、現代医学では治せる病で、感染力も弱いことは分かっているわけですが、二千年前のこの時代のことです。
そんなことを考え始めたら、ほんとうに自信が無くなって来るのではないでしょうか。ですから、彼の心の中には、「イエスさまは果たして自分を癒そうと思ってくださるかどうか?」 これが唯一、そして決定的に彼の心を支配していた不安だったと思います。
ところが、イエスさまの前にひざまずいている彼に、イエスさまは手を伸ばして触れられた、のです。口をお開きになる前に手を伸ばし、全身重い皮膚病に犯されている人に触わってしまわれたのです。当時、誰もが近づくことさえ恐れる病人です。イエスの周囲にいた人々は、その人が重い皮膚病を患っていると知った瞬間に、後ずさりしたのではないかと思います。しかしイエスさまだけは、逆に前に進み出ながら、手を差し伸べて、その人に触れたのです。
ここで1つ、覚えておきたいことがあります。福音書を見ますと、イエスさまは多くの病人を癒されました。ただ、誰かを癒される時に、常にその人に触れて癒されるわけではない、ということなのです。
例えば、この出来事の後、百人隊長の僕が癒される出来事が紹介されますが、そこでは約束の言葉を与えただけ、僕の姿を見てもいません。主イエスさまは、言葉だけで癒すことができた、ということを福音書は伝えているのです。ところが、この時は、わざわざ重い皮膚病を患った彼の体に触れておられるのです。
それには理由があったと思います。それは、この人の体に触れることが、この人にとってどんなに大事なことかを、イエスさまは良く知っておられたからだと思うのです。思うに、彼の負っていた病、また深い傷は、単に体の病気によるものだけではありませんでした。誰からも相手にされず無視される。バカにされる。
しかも先ほどのレビ記にありましたように、自分自身に対しても「わたしは汚れた者です」と言わねばならない。いや、叫ばねばならない。そのような者として自覚し、そうしたアイデンティティーを刷り込まれていた人です。そこに、彼の心の傷、痛みがあったと思います。
私たちの主イエスさまは、そうした彼の深く痛む傷を、力強く、そして優しく、温かな主の手を置いて癒そうとなさった。癒してくださったのです。
いかがでしょう。この人からすれば、もう、何年も、いや、もしかしたら何十年も経験できなかった感触だったと思います。この彼にイエスさまの手が触れた時、本当に久しぶりの手の感触に、病に犯された彼の肌はどのように反応したのでしょうか?! きっと鳥肌が立ったのではないかと思います。
そして、「よろしい。清くなれ」と言われたイエスさまの言葉。この「よろしい」という言葉の意味は「私はそれを欲する」という意味です。「あなたが欲しさえすれば」という、彼の言葉に対する主イエスさまの答えです。
それだけではありません。「手を差し伸べてその人に触れる」ということは、ユダヤの習慣では仲直りの行為でした。「和解の手を差し伸べる」という意味のある言葉です。
何年もの間、聖なる所から一番遠い場所に閉じ込められていました。人間として生きる権利を奪われるような生活でした。生命と身体はあるのです。いや、心もありました。もしかしたら、彼の心は普通の人とは比べものにならない程、敏感によく働いたかもしれません。でも、そうした心を持っている人間であったにもかかわらず、身の置き場がなかったのです。
そうした彼に、感染するかもしれないのに触ってくれた。友が仲直りの手を差し伸べるように、彼を虐げていた人間社会を代表するかのように、「赦してくれ」と、イエスさまの方から和解の手を差し伸べてくださったのです。そうした上で、彼の手を取って、神さまの恵みの中心へと彼を招き入れてくださったわけなのです。その結果、重い皮膚病はたちまち癒されます。

Ⅲ.山を下りられるイエスさま

ボンヘッファーは、「苦しむ神だけが助けを与えることができる」と言いました。主イエスさまは、誰もが触れない彼に触れられた。和解の手を差し伸べられた。そのようにして、神との間の仲保者になり和解をなしとげてくださったのです。
この憐れみの極地が十字架の死でした。キリストは体を張って、私たちの生きる「居場所」を備えてくださったのです。ご自分の命と引き換えに、私たちに命を与えてくださいました。
最後に8章1節に注目しましょう。「イエスが山を下りられると」と出て来ます。聖書の世界では、山とは神さまに近い場所を意味すると言われます。逆に、海は世俗の世界を象徴します。
ある先生が、「この『イエスが山を下りられる』というひと言の中に、すでに大きな福音があると思います」と語っていましたが、まさにそうだと思います。
学生の時、信州の山の上で行われた修養会に参加し、本当に恵まれた時を過ごしました。上野に戻り、人々の雑踏を通り抜けるに従い、その「恵み」が色あせて来るのを感じたことです。確かに「山の上」は恵まれている。御言葉を聞くことができる。でも私たちは必ず「日常」へと戻って行くのです。
主イエスさまも自分1人が山に留まるのではなく、山から日常に戻る私たちと共に、この世の真っただ中へと進んで行かれるのです。大変さや辛さや、誘惑の多い日常のただ中に、です。
このイエスさまが、そのところで私たちと出会い、出会った私たちは、その出会いを通して本当の自分を取り戻すことができる。そして、安心して主に従う歩みを進めることができるのです。
お祈りします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

あなたがたは力を受ける


2016年5月15日  ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録1章6~14節、2章1~4節

Ⅰ.はじめに

ペンテコステ、おめでとうございます。2千年前の過ぎ越しの祭に、世の罪を取り除く神の小羊イエスさまが、十字架の上で贖いの死を遂げ、その3日の後に復活なさったのです。その後、40日間にわたって弟子たちに姿を現し、昇天されます。
今日の聖書個所には、昇天される直前の、イエスさまと弟子たちとの間で交わされた会話、そして、イエスさま昇天後、ペンテコステまでの10日間の弟子たちの姿が記録されています。
彼らは、「父なる神さまの約束」を、主の教えの通りに待ち望んでいました。このようにして、2千年前のペンテコステに、父なる神さまが約束された聖霊がくだり、そして、私たちが霊を宿す神殿となりました。こうして私たちは、復活の主の証人となったのです。

Ⅱ.一民族国家であるイスラエル王国の復興

ではなく神の国の実現のために
弟子たちは昇天前の主に尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。考えてみれば、この質問は、単に彼らの個人的な関心ではなく、国家を失って以来、すでに数百年経っていた、イスラエル民族の「悲願」を代弁する「問いかけ」でした。
この質問に対する復活の主イエスさまの答え、 それはイスラエル民族国家の復興ではなく、今までイエスさまが宣べ伝えて来られた「神の国の到来」だったわけです。
福音書を読む時、イエスさまは、この神の国の到来の福音を伝えるためにやってこられたことが分かります。マルコによる福音書の1章15節に、公生涯の最初にイエスさまが語られた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉があります。
この「福音」という言葉は「良き知らせ」という意味です。ただ、ここで改めて〈「良き知らせ」とは何を意味するのか〉という素朴な疑問を持つのではないでしょうか。
ある人は、「福音」とは十字架の出来事の意味を語ることだと考えます。しかし、イエスさまがこの「福音」という言葉を用いた時には、もう少し広い意味で使われたように思います。このことを考える上で、マルコが、イエスさまのメシアとして第一声(マルコ1:15)を記す直前に記録している2つの出来事を覚える必要があると思うのです。
その1つは、洗礼を受けられた時に、天から語られる神さまの声を聴き、イエスさまご自身が、神さまの愛を体験したということです。そして、この出来事に続く40日間、断食の祈りを通して、イエスさまは神さまと親しく交わる経験をしました。これらの体験によって、ご自身に対する神さまの愛を深く味わい悟られました。イエスさまは、これを公生涯の始まりになさったのです。
そして2つ目のこととは、神さまのご自分に対する無条件の愛をもって、イエスさまは悪魔の誘惑に勝利したのだ、ということです。つまり、マルコによる福音書は、イエスさまの、メシアとしての第一声の前に、「神さまはわたしを愛してくださっている」ということ、そして「神の愛によって悪魔に勝利した」、この2つの出来事を記しているのです。
ですから、私たちは、主キリストに倣う者として、キリストのこの2つの体験を追体験していくこと、そのことが、私たちキリスト者にとって、大切なクリスチャンとして歩みとなるということです。
まずは、イエスさまが父なる神さまの無条件の愛を、深く感じたように、私たちも神の愛を深く味わうことができるように。そして、その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされる経験をすることです。
もう一度、マルコによる福音書1章15節に戻ります。ここでイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「悔い改める」というギリシャ語は「メタノイア」という言葉です。「ノイア」というのは「考え・考え方」のことです。「メタ」というのは「ひっくり返す」という意味です。「メタノイア」、すなわち、「考えを変える」、「今、自分が持っている信仰や信念をひっくり返す」。そうした上で、神さまの無条件の愛を、また、神さまの憐みによって悪魔に打ち勝つ力を与えられるという恵みを、言い換えれば〈「福音」を信じなさい〉、とイエスさまは招いておられるということなのです。

Ⅲ.聖霊が与えられていることの恵み

 しかし、ここでもう1つ、大きな課題がありました。それは私たち人間に備わった自然の力では、こうした歩みを進めることができないということです。そのために神さまが用意してくださったことがあります。それが、聖霊を私たちに与える、という聖霊のプレゼントです。
ヨハネによる福音書16章には、父が約束された聖霊のお働きについて、イエスさまが丁寧に説明された言葉があります。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:7~15)
 私たちがイエスさまを信じ、クリスチャンとして生きていく力を与え、また、聖書の言葉を悟らせ、自分のものにできるようにしてくださるのが、この聖霊なる神さまの働きなのだ、とイエスさまは教えてくださっていたのです。先ほどの言葉を使うならば、私たちが父なる神さまの無条件の愛を深く味わうことができるようにし、そしてまた、この愛に満たされることで様々な誘惑から自由にされる経験を、導き支えてくださるお方、それが聖霊なる神さまなのです。さらに言えば、パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)と語っていますように、この聖霊によって、初めて私たちは「イエスさまを主」と告白できるのです。そしてまた、この聖霊の働きによって、主の御心を求めるような私に変えられていく。「御心のままに望ませ、行わせておられる」のも、私たちに与えられている聖霊のお働きだからです。
 さらに、パウロはフィリピ教会に宛てた手紙の中で、次のように語っています。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:3~6)
 聖霊は、私たちの中で善い業を始め、なおかつ、その業を成し遂げてくださる、完成してくださるのだ、自分はそのことを確信している、とパウロは語っているのです。そして、その善い業の完成のプロセスにおいて、私たちが、ぶどうの木であるイエスさまにつながる時に、聖霊の恵みの樹液が流れて来て、私たちの内側に、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結び(ガラテヤ5:22~23)、キリストに似た私たちへと導いて行かれるのも、この聖霊のお働きによるのです。
このように考えていくと、本当に、この聖霊のお働きというのは、救いの始まりから完成に至るまで、私たちの全てを覆い尽くすほどのお働き、いや、私たちをキリスト者として育て成長させるお方であることを教えられます。

Ⅳ.私たちにも与えられている聖霊

 ペンテコステとは、この聖霊が与えられた日です。そして、今もなお、イエス・キリストを救い主、主として信じた者に与えられる、神さまからのプレゼントです。
プレゼントをいただきながら、そのことを知らないでいたコリントの教会の兄弟姉妹もいました。パウロはその人たちに対して語りました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)
 この聖霊が私たちにも与えられています。イエスさまが、聖霊に導かれて神さまの無条件の愛を深く感じたように、私たちも、この聖霊に導かれて神さまの愛を深く味わうことができるように。その愛に満たされることで、様々な誘惑から自由にされ、力を受けて、復活の主の証人として、神さまの素晴らしさを証ししていく私たち、聖霊が豊かに息づく教会として育てていただきたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

福音の信仰


2016年5月8日 夕礼拝
和田一郎伝道師
イザヤ書43章1節
ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節

今日から、第2、第4主日の夕礼拝で「ガラテヤの信徒への手紙」というパウロの手紙から、御言葉を受け取っていきたいと思います。この手紙を書いたパウロという人に、みなさんはどのような印象をもっていらっしゃるでしょうか?

Ⅰ.パウロという人

新約聖書27の文書のうち、13の文書がパウロによって書かれました。おおよそ半分がパウロの書簡です。神学的内容の手紙を書いたことは事実ですが、あくまで宣教する現場で活躍しながら、多くの教会、伝道者を牧会し、次々に生じる課題、問題に取り組んだ人です。
パウロという名はギリシャ語名で、ヘブル語名ではサウロといいます。サウロはイスラエルの最初の王サウルに由来します。パウロはユダヤ人(ヘブル人)で、系図をたどるとベニヤミンの部族の出身です。ベニヤミン族は12部族で最も小さい部族でした。恐らく、パウロとサウロの名前を、状況によって、使い分けていたと思います。エルサレム教会では「サウロ」と呼ばれていただろうし、異邦人教会では「パウロ」と呼ばれていたのではないでしょうか。使徒言行録13章9節でパウロは「サウロ」から「パウロ」に名前を変えた訳ではありません。それは著者のルカが、最初はユダヤ人として描写し、第一次伝道旅行から、ギリシャ語を話す、地中海周辺の伝道に従事するようになったので、呼び名を変えたのです。
聖書ではイエス様の公生涯が終ってから、パウロが登場しますので、以外に思う方もいるかも知れませんが、パウロはイエス様より10歳程若いぐらいで、ほとんど同じ世代を生きた人です。イエス様や12弟子達がユダヤのガリラヤ地方出身だったのに対して、パウロは、現在のトルコの南部タルソスという町の出身でした。タルソスはガリラヤの田舎とは違って、ローマ帝国の中でも文化の発達した3大学術都市と呼ばれた都市の一つです。その土地柄もあって、パウロはヘブル語、ギリシャ語、恐らくラテン語も話せた国際人でした。その後、エルサレムに移り住んで有名な学者ガマリエルの元で律法を学んだエリートです。そして、とても熱心なファリサイ派でした。しかし、パウロはダマスコへの途上で、イエス様が生きて目の前に現れた事実を、受け入れて頭の中で整理する必要に迫られました。イエス様と出会って、目が見えない状態で自ら学んできた旧約聖書の解釈を、再構築するために頭の中で葛藤していたことでしょう。これらの経験を通して、書かれたのがパウロの書いた手紙で、今日お読みしたガラテヤの信徒への手紙もその一つです。
このガラテヤ書はパウロの書いた手紙でも一番早い時期に書かれたものとされています。
ですから、キリスト教が生まれて、まだ間もない頃に起こった問題を、ガラテヤ書は取り上げているのです。その問題が示されているのが、今日お読みした聖書箇所の1章1節に表されています。

Ⅱ.神によって

この1章1節は、なんでもないような、手紙の前文ですけれども、人から任命されたわけではない、人を通して認められたのでもなく使徒とされた、このパウロ。と、強調されている文章です。ここに当時のキリスト教会の問題が示されています。パウロは第1回伝道旅行でガラテヤ地方へ訪問して、建設されたガラテヤの教会が、その後、パウロとは違う、間違った教えを持つ人たちに、教会が影響されてしまった事実が伝わってきました。彼らは、人が救われるには、キリストを信ずる信仰だけではなく、割礼も受けてモーセの律法のすべてを守らなければならないと、ガラテヤ教会の人たちに広めていました(使徒15章1~5節)。さらに、パウロの教えを否定しただけに留まらず、彼らはパウロの「使徒」という称号も否定したのです。彼らの言い分はこうです「パウロは使徒と自称しているが、本物の使徒ではない。彼はエルサレムの教会からも、ペトロや、イエス様の兄弟ヤコブたちからも任命されてはいない。したがってパウロは公認の使徒ではなく、彼の教えている、割礼も律法も必要としない福音には何の権威も裏付けもない。」と言うものでした。しかし、パウロはこの攻撃に対しても動じないで、この手紙を書きました。自分の使徒職はどんな意味においても人間的なものでなくて、神的なものだと強く主張しているのです。ペトロを中心とする十二使徒や、アンテオケ教会のような人々によって任命されたのではない。アナニヤやバルナバのような人を通して任命されたのでもない、パウロは人間的なものは何一つ、自分の任命とは、かかわりがなかった。直接的にも間接的にも人間によるものではなく、ただ神によるものでした。パウロの表現を借りるならば、それは「イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって」の事である。ここでは「よって」という一つの言葉にパウロの強い主張が込められています。

Ⅲ.福音の真理

1節の文章の「キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」という箇所に注目したいのですが、パウロはダマスコで、復活したイエス様と出会いましたが、もともとファリサイ派であったパウロは、この事をどのように理解していたのでしょうか。今日は召天者記念礼拝ですが、このイエス・キリストの復活というのは、パウロにも、私たちにとっても、どんな意味があるのでしょうか。
まず一つ目に挙げられることは、復活することによって、死に打ち勝った勝利者であることです。もし、十字架の死だけで終わっていたならば、いくらイエス様が、自分から父である神様の意志を果たしたとしても、人から見れば失敗として映って、イエス様の存在は歴史から消えてしまっていたことでしょう。しかし、復活という出来事を通し、十字架の死が、完成された救いであることを示されたのです。また、このことはパウロにも、私たちに対して大きな喜びと希望を与えるものとなりました。イエス様が復活されたように、私たちもやがて復活して、永遠の命を得るという希望です。
キリスト教の考えの中には、生まれ変わりという考え方がありませんから、この私が「私」として、いつか復活するということになります。そうなると、今までに亡くなった方とも、また出会えるということです。そうなると、葬儀のとらえ方も違ってくることになるはずです。単なるお別れではないのです。そしてもう一つは、わたしたちが死によって無になってしまったり、別のものに生まれ変わったりしないわけですから、今の生き方に応じて復活した状態も変わってくるということになります。復活するという信仰をもって、今を一生懸命に生きていこうとするのが、私たちキリスト者の生き方です。パウロはフィリピ書で「生と死」について、このように記しています。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」(フィリピ1:21~22)
パウロにとって、この世は決して楽しいだけではありませんでした。むしろ死には、生きる事の苦しみから解放される要素もありました。神様を目の当たりにしていられる場所に行くことの方が利益がある。一方で、この世で生きていれば、やりがいのある仕事もある。どちらがいいか私には分からない、とパウロはいいます。「死んだらおしまい」という観念はパウロにも、私たちキリスト者にもないわけです。それが私たちに与えられた「イエス・キリストが復活した」意味です。復活が私たちの希望となりました。この希望をこの私に与えて下さったのは、誰によるものなのか?と問われれば、パウロの表現を借りればこうなるでしょう。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」与えられた希望なのです。復活の恵みは人からではない、神による永遠の希望です。私たちに与えられた福音の真理、変わることがない、永遠の恵みとして。ガラテヤ書1章4節をお読みして終わります。
「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」