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主日共同の礼拝説教

走りながら考える

2016年6月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記28章13~15節
ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節

Ⅰ.一致しなければ無駄になる

2章1節は「その後14年たってから」と始まります。サウロがダマスコ途上で、復活したイエスに出会ってから14年ということのようです。あるいは、初めてパウロがエルサレムを訪れてから14年という意味かもしれません。どちらにしても、パウロは同労者バルナバと一緒に、若いテトスを連れて、エルサレムに上りました。今回のエルサレム訪問のおもな目的は、この2節に明確に書かれています。「自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。」
パウロはこれまで、タルソやアンテオケで、福音を宣べ伝えてきました。1節にあったように約14年もの間、宣教してきました。イエス・キリストが救い主であること、ユダヤ人だけでなく、すべての国民にも告げられていて、もはや割礼をしたり律法に縛られる必要がないという福音でした。この事は、確かにキリストの啓示、父なる神がパウロの前にイエス・キリストを示してくださった、直接、語りかけて下さった、そのことが最重要です。しかし、パウロの宣べ伝えているこの福音について、エルサレム教会の人々と一致しなければ、パウロの宣教の働きは将来、無駄になりかねません。
2節は「意見を求めました」と、ここでは訳されていますが、英語の聖書などでは(make sure. To be sure)、「念のため」「確認する」といった表現です。前後のパウロの言動を見ていても、エルサレム教会に意見を求めたり、お墨付きをもらうような意図ではないと思います。あくまでも、自分の「してたこと」「していること」を提示して、それが彼らも一致しているか? その確認が、この時必要だったのです。
パウロは一回目の伝道旅行に行った結果、多くの異邦人のクリスチャンが起こされていきました。もし、パウロの伝えている福音理解が、否定されてしまったら、それまで信じた人たちが、正規のクリスチャンではないなどと、言われる事が起こりかねません。実はその具体的な対象になっているのが、一緒に連れて行ったテトスでした。テトスはパウロの伝道中に回心したギリシア人です。のちに「テトスへの手紙」を送られた、パウロの片腕となった人ですが、ギリシア人ですので、ユダヤ人のように割礼を受けていない人です。このテトスを連れて、エルサレム教会へ訪れていました。伝統的なユダヤ人は、割礼をしていない者は神に背く者だと思って生きてきました。しかし、テトスを連れて行くと、3節で「しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。」というのが、エルサレム教会の反応でした。ここで議論の焦点になるのは、ユダヤ教という生い立ちを持たない異邦人は、異邦人のままでよいのですか? それとも、割礼を受けて律法を守る、ユダヤ教徒にもならなければいけないのですか? という問いです。
パウロは、異邦人キリスト者は異邦人のまま、とどまっていてよい、いや、とどまっていなければならない、というのが主張でした。
このガラテヤ書のテーマは「福音の真理」です。ここで改まって福音の真理などと言うと、難しいことだと聞こえるかもしれません。ですが、その意味はいたってシンプルです。キリストを信じさえすれば、いかなる罪人も救われる。神様の前で正しいとされる。これが福音のすべてです。ところが、人間というのは、こんな単純でシンプルな福音ではかえって裏があるのではないか、などと思ってしまいます。今でも、この真理以外に、品行方正にならなければならないとか、常識をわきまえなければならない、などいろいろ付け足しや、差し引いたものが見え隠れします。真理というものはシンプルでハッキリしたものでしょう。それに、付け足したり引いたりすると、輪郭がぼやけます。
曖昧になってしまっては、いけません。私たちはただ、キリストの十字架による救いという真理を、受け取りさえすればよいのです。この結果、テトスに割礼だけではなく、どんな義務も求められなかったのです。

Ⅱ.「彼らは知った」・・・何を?

7節「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。」とあります。7節最後の「知りました」は、何をエルサレムの人たちは知ったのでしょうか?
話の流れからすれば、パウロが宣教の現場でしてきたことを、エルサレムの人々に示した結果、彼らは知った、となります。ペトロには割礼を受けた人々、つまりユダヤ人に対する宣教が委ねられている。一方で、パウロの話しを聞いたその場の人たちは、「このパウロという男には、ペトロとは別に、割礼を受けていない、ユダヤ人以外の人に対する宣教を委ねられているのだな」と言うことです。「このパウロは『神』に委ねられた人なんだ」。そのことを、彼らは、知りました。9節に「彼らはわたしに与えられた恵みを認め」とあって、「与えられた恵み」という意味は、神に与えられた「使徒」という称号のことです。12人の弟子は、12使徒と呼ばれますが、「使徒」という称号は、イエス様から直接任命される、特別な人です。ダマスコの途上でイエス様に直接「使徒」としてされた事を、ヤコブとペトロとヨハネ達は認め、一致のしるしとして右手を差し出しました。
パウロは、エルサレムの彼らが受け入れたことで、ほっとしたのではないでしょうか。もし、ここで認められなかったら、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者は分裂していたかもしれません。パウロには確信がありました。ですが、このエルサレムとのギャップがあるのではないか? という懸念を持ちながら、14年間、宣教の現場で、走りながら考えてきたのです。自分には確信がある。あるがゆえに、分裂を引き起こしてしまっては意味がなくなるということです。
パウロはエフェソ書で、キリスト教会の一致について、このように語っています。
エフェソ4:2~6「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

Ⅲ.まとめ

「教会はキリストの、身体なのです!」 と定義したパウロは、体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ とされました。パウロは異邦人クリスチャンが増えるにつれて、考えたのです。エルサレムの教会との一致が必要なことです。二千年前の初代教会においては、パウロがエルサレムに行き、一致が保たれました。しかし、ここでは主要な人々の合意でしかありませんでしたので、やはり草の根レベルでの一致にはまだ時間がかかったのです。このあとにも、教会の一致には、エルサレム会議を開くなど、まだ時間を必要としました。
パウロの言葉を借りれば、「高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つこと。愛をもって互いに忍耐し、霊による一致を保つように努めれば」教会の一致は保たれるはずです。パウロは、無駄なことをしているのではないか?と、走りながら考えました。そのパウロの宣教の働きを支えたのは、信じるものは人種に関わらず、すべての人は救われるという、福音の真理でした。人間は神様が御子キリストを、地上に送ってくださった、その理由である福音の真理に何かを足したり、差し引いたりしてはいけないことを、心に留めたいと思います。信仰は一つ人種は問わない。すべての人は信じることで救われる。この輪郭をしっかりとさせなければなりません。そのベースにあるものは、イエスキリストの十字架です。

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主日共同の礼拝説教

患いと病を引き受けて


2016年6月26日
松本雅弘牧師
イザヤ書53章1~5節
マタイによる福音書8章14~17節

Ⅰ.熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめ

山上の説教を語り終えたイエスさまを待ち受けていたのは、重い皮膚病を患った人であり、また病に苦しむ僕の癒しを切に願うローマの百人隊長でありました。
そして、今日の朗読箇所では、熱を出して寝込んでいたペトロのしゅうとめが、イエスさまに癒しを必要としている3人目の人物として紹介されています。

Ⅱ.生活の中で神を知る

ただここで1つ注意したい点があります。それはペトロのしゅうとめ以外の2人は、共に大変な病気だったのに対して、しゅうとめの病状はそれほど重いようには見えない点です。
勿論、本人は大変だったでしょう。またペトロをはじめ家族の者たちも心配していたに違いありません。でもそうは言ってもごくありふれた日常的な病気だったと思われます。
そして、もう1つ注目したいのは、重い皮膚病を患った人、百人隊長の僕、そしてペトロのしゅうとめ、この3人がそれぞれに癒されていくプロセスにおいても、ペトロのしゅうとめと他の2人は大分違っている点です。
重い皮膚病の人の場合は、本人が、死に物狂いで病の癒しを懇願しました。百人隊長の僕の病の癒しについては、上司である百人隊長が必死になって執り成したのです。ところがペトロのしゅうとめに関しては、当の本人を含めて、誰かがイエスさまに向かって、彼女を癒して欲しいと求めたことがひと言も出て来ませんし、またそうした様子を伝える記述もまったくないのです。そうした中で今日、とても大切だと思う点は、彼女や周りの人がイエスさまに癒しをお願いする、その前に、イエスさまご自身が、熱を出して寝込んでいる彼女を御覧になったということです。そしてイエスさまの方から進んでその病を癒してくださったのです。
ここで私たちが注目したいのは、イエスさまのお働き、神さまのお働きは、何か特別な、劇的な仕方ではなくて、ごく日常的なレベルでなされているということです。
誰でもが風邪をひき、熱を出してしまうことがあるわけですから、そうしたごく日常的なことに対して、イエスさまは心を向けてくださるお方なのだ、ということを覚えたいと思うのです。つまり、イエスさまというお方は、ごくごく普通の生活をしている私たち1人ひとりを「御覧になって」くださるお方、しかも、そうした私たちの手に触れられ、場合によっては病気を癒してくださるお方だ、ということです。
いかがでしょう? 神さまは、私たちが聖書を読む時だけとか、あるいは日曜日の礼拝において説教という御言葉を通してだけ語りかけてくださるお方ではなく、私たちの、ごく日常の生活における様々な出来事を通して働きかけ、語りかけてくださるお方だというのです。
私たちにとって大事なことは、そうした日々の生活の中で、このようなイエスさまの眼差しを受けとめて生活しているか、あるいはまた、イエスさまが触れておられる御手の温もりや、その働きを、どれだけ意識しながら過ごしているかということでしょう。また、私たちが神さまからのメッセージやサインを敏感にキャッチしながら、日常の出来事の中を歩んでいるだろうか、ということなのだと思うのです。
ペトロのしゅうとめの出来事から今日教えられること、それは、ごく普通のありふれた日常の中に、私たちがイエスさまの眼差しを、イエスさまの御手を、どれだけ受けとめることができるのか、ということだと思うのです。

Ⅲ.患いと病を引き受けて

16節を見ますと、夕方になって、さらに人々が、悪霊に取りつかれた大勢の人々をイエスさまのもとに連れて来ます。そして、イエスさまは、御言葉を語ることによって、悪霊を追い出し、病人を癒して行かれたことが分かります。
マタイによる福音書8章は、その最初から病気の人々の癒しの物語が続いているのです。こうした一連の病気の癒しに関する出来事のまとめとして、17節で、マタイは旧約聖書イザヤ書53章4節を引用する形で締めくくっています。
「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」(マタイ8:17)
これは、イザヤ書53章4節の正確な引用と云うよりも、マタイ独特の自由な引用の仕方で、「苦難の僕」としてキリストの受難を明確に預言した言葉である旧約聖書イザヤ書53章を引用しながら、まさにイエスがメシアであることを伝えようとしているのです。
では、ここでマタイはイエスさまの何を伝えたかったのでしょうか。イザヤ書53章3節から5節には次のようにあります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
つまり、福音書を書いたマタイは、このイザヤ書53章3節から5節に書かれていることをひとまとめにして、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」と語っているわけです。
イエスさまが重い皮膚病の人、中風で苦しむ僕、そしてまたペトロのしゅうとめの熱病、さらに悪霊に取りつかれた人や、様々な病で苦しむ人々を次々と癒されたのは、ただ単に不思議な力で人々を癒したということにとどまらずに、こうした一連の病の癒しが実現した背後には、患いや病をご自分のものとして引き受けるというイエスさまの御業があったからですよ、とマタイが語っているということなのです。もっと言えば、こうした私たちの病の癒しの向こう側に、主イエスさまの受難、イエスさまの十字架を、この福音書を書いたマタイは見ている、ということなのです。

Ⅳ.癒しから奉仕へ

そして最後に、イエスさまのこのような御業によって癒されたシモンのしゅうとめはどうしたか、ということです。
15節をご覧ください。
「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」とあります。つまり、癒された結果、主イエスさまを「もてなした」のです。
実は、この「もてなした」と訳されているギリシャ語は、「ディアコネオー」という言葉です。一般的な訳は「仕える」「奉仕する」というものです。ギリシャ語の「ディアコノス」、つまり「執事」の語源となった言葉です。
つまり、ここでペトロのしゅうとめは、癒された結果、主イエスさまに仕えたのです。もっと分かり易い言い方をするならば、主の弟子となった、ということです。
16節を見ますと、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」とありますが、同じで出来事を記したマルコによる福音書では、その後に「町中の人が、戸口に集まった。」(マルコ1:33)とあります。つまり、イエスさまがいらっしゃるペトロの家の戸口に、町中の人が集まってきたのです。
熱病から癒されたしゅうとめは、このようにしてイエスさまに仕え、そして癒された喜びから、一生懸命になってカファルナウムの人々を癒されるイエスさまのお働きをサポートしたのではないでしょうか。そしてまた、こうしたしゅうとめの奉仕を、イエスさまは快く受け入れていかれたのだと思うのです。
私たちは、どうでしょう? 私たちもまた、イエスさまに救われ、癒されることを経験します。もしそうだとするならば、私たちもまた、このしゅうとめ同様、自分はどのように仕えることができるのか、それを自分自身に、そして主イエスさまに、問いかけてみる必要がある、ということなのではないかと思います。お祈りいたします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛という名の贈物

2016年6月12日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一13章4~8a節

Ⅰ.はじめに

以前、ある方がこんな話をしてくれました。息子さんから通知表を見せられた時のことです。「どれどれ、国語が3、数学が3、社会が2、ちっといただけないな・・。エーと、理科も2か、もう少し頑張らないと・・・。英語が3、まあまあかな・・。美術が6??!! エッ、何これ?! もしかして、10段階評価!!」。
ある子どもは通知表を見てがっかりする父親に向かって「おとうさん。ぼくの成績が振るわないのは、遺伝のせいなの? それとも環境のせいなの?」と聞いた、というのです。笑い話のように聞こえますが本当の話だそうです。
ところで、子育ての本が世界で一番売れているのが、北アメリカだそうです。しかし、そうした北米の多くの親たちは子育てに迷い、自分たちの無力さを感じている人が多いと言われます。子どもたちの問題行動の原因がどこにあるのか、あるいは、その責任がだれにあるのか悩んでいるそうなのです。でもこれはアメリカ人やカナダ人に限ったことではなく、私たち日本に住む者にとっても同じなのではないかと思います。
多くのプレッシャー、そして精神的ストレスを抱え、そして、大人も子どもも競争原理の中で生きざるを得ない今の時代です。そのような意味で現代ほど、賢い知恵が、親である者に求められ、いや親であるなしに関わらず、今の時代に生きる私たちすべてに求められている、そんな時代はないのではないかと思います。

Ⅱ.聖書の説く 生きていく上での7つの「基本的な必要(ニーズ)」

心理学や様々な学問的な研究、さらにまた私たちが経験的に知り得たことなどを綜合して考える時に、私たちの心の発達に必要な幾つかの基本的な原則があると言われます。それは年齢に関係なく、私たち大人にも等しく必要なことです。ですから人の成長過程で、そうした基本的要素が満たされない場合、その人の心の内側に不安感が残り、一生それを抱えて生きていくか、もしくはあまり健全ではない方法で、満たされなかったものを獲得しようとするのだと言われます。
心理学者K・メニンガーは、「基本的な必要が満たされないとき、人は2つの方向のいずれかへ進む。自分自身の内に引きこもるか、あるいは、これが外へ転じて、他人を攻撃するようになるか、である。」と語っています。
これを受けて牧師であり心理学者であるJ・ドレッシャーが、人が生きていく上で最も基本的なものは、聖書から学ぶ時に7つあると主張し『幼い子をもつ親のための7章』というタイトルの書物にまとめています。
その7つとは、次のようなものです。①大切な存在であることを知らせること、②安心感をもたせること、③受けいれること、④愛すること、愛されること、⑤ほめること、⑥しつけること、⑦神を教えること。
今日は、この7つのうちで基本となる1つ目、「大切な存在であることを知らせること」について、特に注目していきたいと思います。

Ⅲ.大切な存在であることを知らせること

私たちにとって、自分が大切な存在であるということを知るのはとても重要なことです。
ある時、3人の園児が一緒に遊んでいました。初めしばらくの間は、3人とも楽しそうに遊びに熱中していました。ところが、その内の2人が、1人を無視して少し離れたところで2人だけで遊び始めたのです。するとほどなく、独りにされた子がこう叫んだ、というのです。「わたしはここよ。ここにいるのよ。2人ともわたしのことが見えないの?」。
そう叫んだ子は、2人の友だちが自分に対してとった行動について理論的に説明したり、心理学的に分析したりすることは出来ません。子どもですから当然です。でも、その子の訴えは年齢に関係なく、心を持つ人間であれば誰もが覚える心のニーズを雄弁に言い表わしていると思うのです。そのニーズとは、自分の存在に気づいて欲しい、価値ある者として認めて欲しい、というニーズです。
健全な意味で、人が自分は価値ある者だと自覚することは誰にとっても大切なことです。自分は価値のない存在であると思っていたり、自分のことが嫌いであったりする時に、人は安心して自分と仲良く生きることが難しくなります。ではどうしたら自分を大切な存在であると考えるようになれるのでしょうか? それは他人から認められ、評価され、自分がありのままで愛されているという経験を積み重ねることによってです。
こんな話があります。小学1年生の子どもたちが牧場に社会科見学に行きました。牛からミルクがどのようにとられるのかを見学したそうです。見学も終わりに差し掛かった頃、先生が、「ではみなさん、何か質問がありますか?」と子どもたちに尋ねました。すると1人の生徒が小さな手をサッと挙げて、「先生、僕のこの新しいセーターに気づいた?!」と言ったというのです。先生は牛の乳搾りについて尋ねたのですが、この子は自分に注目して欲しかったのです。もしこの時、先生がちゃんと目を向けていなかったら彼は牛乳をこぼすとか、ある種、関心をひくような行動に出て自分をアピールしたかもしれません。
子どもの時代に、自分の存在を認めてもらうこと、自分の価値を認められることがどれほど大切なことなのかがよく分かるように思います。そして、そのことが生涯を通じて、その人の情緒と、心の健康とバランスの基礎を作ることになるのだと思います。
大人である私たちは、どうしたらよいのでしょうか? この点に関して、ドレッシャーは私たちが犯す3つの誤った考え方を指摘しています。
第1は夫婦関係よりも親子関係を優先する過ちです。
A・ネッサーは、「たとえ結婚生活を長く持続できた夫婦であっても、それがもろくも崩壊してしまうとすれば、その最大の要因は、おそらく子ども中心に生活してきたことにあるだろう。」と警告を与えています。
実際に子どもが与えられると、夫、あるいは妻のことよりも子どもを優先しがちです。「子どものために」ということで、夫と妻の関係が後回しにされることが多くなります。
アメリカの場合ですが、自分に対する妻の愛情が薄れていないと感じている夫は、多くの場合、進んで「イクメン」を買って出るそうです。皿洗いや家事を、責任をもって果たそうとするというのです。
誤った考え方の第2は、子ども中心主義の弊害です。これは1つ目の、親子関係優先の延長線上にあるものです。聖書は、家庭では、いつでも夫婦の関係が中心であることを説いています。
そして3つ目は、子どもに年相応以上のことを求めてしまう親のエゴです。私も経験することですが、親は、自分が子ども時代に経験できなかったことをせめて自分の子どもには経験させてやりたいと思うものです。でも冷静になって親自身の心の奥を探ってみれば、実は、子どもを通して、自分が叶えることができなかった夢を叶えてもらいたいという親のエゴかもしれません。

Ⅳ.愛という名の贈物

では逆に、子どもが親や大人との関係の中で、自分が大切な存在であるということを知るためには何が大切なのでしょうか。
先ほどのドレッシャーは次の7つを挙げていました。
①親の自分自身に対する態度、②子どもに家事を手伝わせること、③子どもを人に紹介すること、④子ども自身に話をさせること、⑤子どもに選択をさせること、⑥子どもと一緒の時を持つこと、⑦子どもに任せること、です。
今日は、コリントの信徒への手紙一の13章の言葉を読ませていただきました。ここを見ますと、愛という言葉の意味が、様々な表現で言い換えられています。
子どもを愛するということ、それは、子ども自身が、自分は大切な存在であると受けとめるのを助けることだ、と言い換えることができると思うのです。不思議なことですが、私たちは人に優しくされると人に優しくなれるのです。夫が妻に愛されていることを感じると、その夫は「イクメン」に変えられていくわけです。
ドロシー・ブリッグスという心理学者が、 26年にわたる臨床経験を踏まえて、『子どもと自己存在価値―人生のかぎ』という本を書き上げ、その結論のところでこう述べています。「子どもたちに対する最大の贈物は何であろうか。それは、自分自身が好きになるための手助けをしてやることである」と。これが愛ですね。
今日お話したことは、聖書のメッセージです。私たちの神さまが、私たちに与えてくださった最大の贈物が愛だ、と聖書は語ります。私たちがその神さまの愛に触れる時に、初めて自分を愛する人になり、自分をあるがままに受けとめることの出来る力をいただくのです。そして、それが、子どもたちに対しても、周囲の人に対しても、祝福へとつながる不思議な力となるのです。この神さまの愛という名の贈物を、ぜひ、ご自分のものとして受け入れていただけたらと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

神のことばが持つ力

2016年6月5日
松本雅弘牧師
イザヤ書55章8~13節
マタイによる福音書8章5~13節

Ⅰ.ガリラヤ湖畔の町カファルナウム

今日の聖書箇所の舞台はカファルナウム、ガリラヤ湖畔の町です。今年1月のイスラエル研修旅行の際に、このカファルナウムにも行ってきました。そこには1つのユダヤ教の会堂跡がありました。イエスさまが安息日に説教をされた会堂です。そこから道を隔ててすぐ近くに民家の遺跡があり、そこから漁の道具が発見されたということで、その家が漁師ペトロの家である可能性が高いと言われていました。今日の聖書個所は、そのカファルナウムで起こった出来事です。

Ⅱ.あらすじ

ここに1人の百人隊長が出てきます。カファルナウムはユダヤ人の町なのですが、当時はローマ帝国に支配されていた関係上、ローマ兵が駐屯していました。ここに登場する百人隊長はその小部隊の隊長として任務についていた人だったと思われます。
その百人隊長の僕が中風で家に寝込んでいて、ひどく苦しんでいたのです。百人隊長もイエスさまの噂を耳にしていたのでしょう。そのイエスさまが自分たちの町、カファルナウムにいらっしゃる。そのお方だったら僕の病気を何とかしてくれるに違いない、そうした信頼をもとに、彼はイエスさまに懇願したわけです。
すると、イエスさまは百人隊長の求めに応じ、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言ってくださったのです。ところが、百人隊長はイエスさまの申し出を「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って断ってしまうのです。
これには、少なくとも2つの理由があったと思います。 まず第1の理由は、彼自身が謙遜な人だったということでしょう。ルカによる福音書にある同じ出来事を記した箇所を読みますと、ユダヤ人の長老がイエスさまとこの百人隊長の間に入って、仲を取り持つかたちになっていました。カファルナウムの長老が彼に代わってイエスさまにお願いに上がるというわけですから、この百人隊長は、駐屯地カファルナウムの人々から受け入れられていたことが分かるように思います。それは裏を返すと、敵国ローマ人であったにもかかわらず、助けてあげたいと思わせるような人物、それが今日ここに登場する百人隊長だったということでしょう。
そして2つ目の理由は、この百人隊長自身が異邦人であったということです。ご存じのように、当時、ユダヤ人と異邦人との間には私たちの想像以上に大きな隔てがありました。勿論、この地域を実質的に支配していたのはローマ帝国であり、この百人隊長はこの時、その権力をバックにカファルナウムに駐屯していた部隊の長です。でも、カファルナウムにおいて百人隊長はあくまでもマイノリティーでした。しかも異邦人に対して宗教的優位性を信じて疑わないカファルナウム在住のユダヤ人と接する時に、自分たちローマ人はイスラエルの神の前に、第2級の人間に過ぎないかのような錯覚を持たされていたのではないかと思います。
この時お願いした相手はユダヤ人であるイエスさま、そしてお願いしている自分は異邦人です。ですから、百人隊長としては、願いを受け入れてもらう意味でも、「皆さんの基準からしたら、私は異邦人であり、祝福の外にいる者なので、イエスさまをお迎えするような値打ちなどない者です」と語ったのだと思います。
このように百人隊長は、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者」ではないのだと分かっていても、一方で、僕が死にそうなのです。そうした中で、彼はイエスさまに何と願ったのでしょうか。それは、「ひと言おっしゃってください」ということでした。
つまり、「神さまの権威の下にあるあなたが、神さまの言葉を、権威をもって語られるならば、私の部下の病気は必ず癒される」と、彼は確信していたということなのです。イエスさまは、この百人隊長の信仰を賞賛します。そして聖書を見ていくと、この百人隊長の信仰のとおりのことが起こったのでした。

Ⅲ.神のことばが持つ力

さて、今日の聖書箇所を通して何を教えられるのでしょうか。第1は今日のテーマ、「神の言葉が持つ力」です。
今日お読みした旧約聖書イザヤ書には、次のように書かれています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす(55:10~ 11)。」これが神の言葉が持つ力です。この力を信頼できるかどうか、それが、私たちの側に与えられている課題です。
今、私はとても大切なことをお伝えしたと思います。私たちの側の受け取り方次第で、神の言葉が力を発揮できないことが起こり得る、と。
それはどういう時でしょうか? そのヒントがイエスさまの、「あなたが信じたとおりになるように」という言葉にあると思うのです。
この事との関連で思い出す聖書の出来事があります。ある時、イエスさまは故郷ナザレに里帰りされました。その日はちょうど安息日でしたので、イエスさまも会堂に入り、そこで聖書から教えを始められました。すると、人々は驚きました。何に驚いたのかと言えば、小さい頃からよく知っている「イエス」が、こんな立派な教えを語るようになった、そのことに驚いたのです。自分たちが知っているイエスと、今、自分たちの目の前に立っているイエスが、余りにもかけ離れた存在であることに驚いたのでした。
人々は言いました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」(マタイ13:54~56)
ナザレの人たちは、自分たちの理解の範囲内にイエスさまを押し込めようとしたのです。この結果、他の町や村とは違い、イエスさまはナザレにおいて力を発揮することができなかったのです。

Ⅳ.執り成しの力

そして、今日の箇所からもう1つのことをお話したいと思います。それは、執り成しの祈りの力ということです。ここでイエスさまは百人隊長に何とおっしゃったでしょうか。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われたのです。
そのように主が力あるお言葉をかけられると、本当に不思議なことなのですが、物理的に遠く離れたところにいた僕の病気が癒されたのです。つまりイエスさまのお言葉どおりになったのです。
ここで私たちが注意しなければならないことがあります。僕の癒しが僕自身の信仰によったのではなく、百人隊長の信仰によって引き起こされた点です。つまり、僕の癒しが百人隊長の「執り成しの祈り」によったということです。
今日のイエスさまの言葉によれば、他の人の悩み苦しみのために私たちが真剣に祈る時、その本人が信仰を持っているか、持っていないか、そのことに関係なく、主はその祈りを聞いてくださる、ということです。
この事実は、信仰を持たない人に取り囲まれて生きている今の私たちにとって、大きな慰めであり、励ましなのではないでしょうか。しかも聖書によるならば、内に宿る聖霊が、私たちの本当の必要を知って、今、このタイミングで、一番適切な執り成しの祈りをしてくださると約束しているのです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)
そして、そればかりではありません。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)
イエスさま自らが、今も、父の右の座におられ、執り成しておられることを、聖書は伝えています。
私たちは、力ある神の言葉を信じ、御子と御霊、そして主にあるお互いの執り成しに支えられながら、この新しい週も健やかに祈りの道を歩むことが許されている。その恵みに感謝しながら、新しい1週間へと派遣されて行きたいと思います。お祈りします。