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主日共同の礼拝説教

キリストの真実

2016年7月31日
和田一郎伝道師
詩編100編1~5節
ガラテヤの信徒への手紙2章19~21節

Ⅰ.はじめに

広島の原爆の慰霊碑に書かれている言葉があります。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記されているそうです。逆の見方をすれば、人は過ちを繰り返してきました。過ちを繰り返す性質があるわけです。過去を思い起こすのは、二度とそのような過ちを繰り返さないためですが、私たちがイエスキリストを信じる前と、後とを、思い起こしたいと思いました。私たちがキリストを信じた、キリスト者とされた、新しくされた、ここに私たちの立つべき原点があります。皆さんが洗礼を受けたのは、いつの頃だったでしょうか?
宗教改革者のルターは「洗礼によって、古いあなたは死んだ」といいました。

Ⅱ.ガラテヤ書の中心テーマ「信仰による義」

ガラテヤ書のメインテーマは、この神様に、どうしたら義とされるのか? どうすれば、神様は私を救ってくださるのか? それは何か良い事をすれば、救われるのではない、ただ信じる心「信仰による義」なのだ。この信仰理解がガラテヤ書の中心テーマです。しかし、私たちには、過ちを繰り返す性質があるわけですから、洗礼を受けて、神様に正しいとされた者になったのに、以前の、自分を中心とした生き方を、繰り返してしまいがちです。
パウロがこの手紙を送った、ガラテヤの教会も同じでした。せっかくパウロとバルナバが第一回の宣教旅行で正しい福音を伝えていたのですが、しばらくすると、イエス様の十字架の出来事がなかったかのように、昔の信仰理解にもどってしまって、やれ割礼も守れ、やれ律法も守れと言って、正しい福音からそれてしまった。後戻りしてしまう過ちを犯していたのです。そのガラテヤの信徒たちを正す為に、パウロはこの手紙を書きました。

Ⅲ.信仰

旧約聖書はヘブライ語で書かれています。「信じます」と訳されたアーマンאָמַן(aman)というヘブライ語は、聖書においてはとても重要なことばです。アーマンが聖書で最初に出てくるのは創世記15章6節です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という箇所です。アブラムは「すべての人はあなたによって祝福に入る、あなたの子孫にこの土地を与える」と、神様は約束をして下さった。アブラハムはこの約束を、必ず守ってくださると信じたのです。だからこそ、それが彼の義とみなされました。これはアブラハムが割礼を受ける以前の事でした。ここは、救いにおける信仰理解を教えている大切な箇所です。
私たちは、お祈りのあとに「アーメン」といいますが、その語源が先程言いましたアーマンというヘブライ語です。「信じる」とか「しっかりした」という意味を持った言葉です。
ギリシア語ではアーマンが派生して出来た「αμηνアミン」という言葉が新約聖書に記されています。私たちがいつも使っているアーメンという言葉で「確かに」とか「真実」という意味があります。
イエス様がヨハネ福音書3章で「はっきりと言います よくよく言っておく」の所は、「アミン,アミンあなたに告げます」と表現するのです。このイエス様の語った独特な表現は、明らかにメシア的力を持っている特別な言葉です。ですから、私たちがお祈りの後でアーメンと言いますが、私たちが信じると言っても、その信仰を支えているのはイエス様の確かさです。それでなければ、私たちの信仰は、信念とか自分の作った信条と、なんら変わりません。アーメンと言いましたら、キリストの確かな真実によって与えられ、支えられている故の信仰です。この信仰に生きるということです。昔は自分の信念に生きていた、しかし、もうもどってはいけない。
パウロはこの事をガラテヤ書2章19節で主張しています「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。」律法という言葉が二つあって分かりにくい表現ですが、前者をモーセの古い律法、後者をキリストの新しい律法とすると、分かりやすいと思います。かつてモーセの古い「律法」に縛られて、誤った信仰理解をしていましたが、それは、キリストの新しい「律法」によって死んだのです、と言うわけです。
続いて19節後半「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と比喩的な表現をしていますが、イエス様が十字架に架かられた時、人間の目には、そこにはイエス様一人の姿しか見えないかも知れません。しかし、イエス様だけではなくペトロもパウロも、そして私たち一人一人もキリストと共に、十字架に架けられている。神様はイエス様と一緒に、罪人であった、かつての私たちも十字架につけてしまったのです。
ですから20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と、イエス様がこの、自分の体の中に生きていると言うのです。つまり、イエス様と一緒に十字架に架かって死んだ者たちは、そのままイエス様と一緒に、「いま」生きる者とされているのです。

Ⅳ.神の子に対する信仰

そして20節後半、それは、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた、『神の子に対する信仰』によるものです。」と書かれています。「神の子」に対する信仰ですから、「キリストに対する、私の信仰」というように新共同訳では翻訳されています。この20節後半には、『神の子に対する信仰』とあるので、「キリストに対する、私の信仰」「私」に主体があるような表現で違和感を感じました。
「エクササイズ」という松本先生が翻訳してくださった本の中にこの20節のことが触れられていました。英語の現代語聖書では、ここの『神の子に対する信仰』のところに、注意書きが付いていて「『神の子の信仰』と訳すことができる」と書かれているそうです。なぜかというと、ギリシャ語の原文に忠実でありたいと考える翻訳者は、この訳の方が、より正確な訳だと考えるからだそうです。そうだとするなら、なぜほとんどの聖書が『神の子に対する信仰』と訳すのでしょうか?この「エクササイズ」の著者は、イエス様に対する、私たちの信仰を強調する傾向があり、私に対するキリストの信仰ということは、今まで考えたことがない、というのがその理由だと書かれていました。

Ⅴ.宗教改革の信仰理解

さらに少し歴史をさかのぼってみたいのですが、宗教改革者のルター、カルヴァンなどが、このような訳し方の伝統を作ってきたようです。当時から、善い行いをしないと救われないと解釈する人達との間で、論争がありました。特に当時のカトリック教会がそのような傾向があって、贖宥状と言われるものを販売していたのですが、それに対してルターが信仰だけで救われる事を強調した経緯がありました。
ルターはこのガラテヤ書とローマ書、そして詩編から、正しい信仰理解を確信して、当時のカトリック教会のゆがんだ教理に異議を申し立てて、宗教改革を行いました。ルターは詩編を愛したことでも有名です。宗教改革が動き始める4年前に、ルターが大学で最初に授業の対象に選んだのが詩編研究でした。ルターが「人は行いではなく、信仰によって救われる」ことを見出したのは、詩編だったと言われています。ですから、ガラテヤ書2章20節「神の子に対する信仰によるものです。」という箇所は、「神の子の信仰」と訳す方が、しっくりくると言えます。この箇所を言い換えれば、パウロの中に住んでいるキリストが、イエス様自身の信仰をパウロの体の中に再現した。それはパウロの信仰ではなく、パウロの心に住んでいるキリストの信仰であるというのである。私たちは自分の信仰に目を注ぎがちですが、私たちが信じると言っても、その信仰を支えているのはイエス・キリストの信仰です。
21節は自分が立派な行いをすることによって、救われようとする事を、もう考えません、と言う事をパウロは伝えています。そうでないと、キリストの死は無意味になってしまう、救われた者として、私たちはキリストを内に抱いて生きることです。

Ⅵ.まとめ

人間は過ちを繰り返してきました。これからも繰り返すかも知れません。最近でもつらい事件や、心を騒がす不条理なできごとが、私たちの生活のすぐ近くにあります。不条理な出来事がなぜ善い行いをしている人にも及ぶのか? それらの事について知ることはできません。そんな時に、神様は本当にいるのかな?と信仰が揺らいでしまうこともあります。自分の行いにばかり、気持ちが向いてしまうことがあります。しかし、私たちの意思ではなくて、私たちの中にいる「キリストの信仰によって」私たちを、確かな道へと生かしてくださる事を信頼したいのです。お祈りをします。

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信仰による義

2016年7月24日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編27編13~14節
ガラテヤの信徒への手紙2章15~19a節

Ⅰ.前節までのあらすじ

前回、パウロのいるアンティオキア教会に、ペトロがやって来て、人々と一緒に食事をしていたという箇所を見てきました。ペトロはユダヤ人でしたが、異邦人とも一緒に、分け隔てなく食事をしていたのです。ペトロがアンティオキアに来て異邦人と一緒に食事をすることは、ユダヤ人と外国人に分け隔てなく、福音が与えられることを伝えるためには、大切なことだった訳です。それなのに、ユダヤ人主義者の目を気にして、食事の席から離れてしまったペトロ達を、パウロは厳しく問いただした事を、11節から14節のところで確認しました。パウロは外国人に、大事な事を伝えるなら、その外国人のようになって接します、ユダヤ人が相手ならユダヤ人のように、弱い人に対しては弱い人のようになって話します、どんな人にも、その人のようになって接します、なぜならそれは、福音を一緒に、分かち合いたいからだ、と考えていました。

Ⅱ.義とされる

しかし、15節の所でパウロは「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と書いていて、「おやっ」と思います。パウロはこれまで、「すべての人は罪人だ」とか「全人類が罪を犯した」と言っていたはずです。しかしここはユダヤ人主義だった立場から見た表現だと言えます。かつてはそのような見方を異邦人に向けていました。パウロやペトロのようなユダヤ人キリスト者は、もともと律法を守るように育てられましたから、偶像の神を崇拝している異邦人とは根本的に異なる、ユダヤ人は本当の神に選ばれた民族であると自負して育ちました。しかし、そのユダヤ人であるパウロもペトロも、キリストを信じて義と認められました。
16節には「義とされる」とあります。「義」と言っても、日常私たちが使う言葉ではありませんが、聖書の中では大事な言葉です。「正しさ」と言っていいと思います。「神様の正しさ」と「人が神様に正しいとされる」という2つの意味で使われます。ただ大事なことは、私たちが正しい事をしようと考えた時、善とか悪を行うというのは、神様との繋がりにおいて「正しい関係」となっているか?という正しさです。旧約聖書では「律法による義」などと使われました。律法を守る事によって、神に正しいとされる事を「律法によって義とされる」と言いました。新約聖書では、「イエス・キリストを信じる信仰による『神の義』、神に正しいとされる」と表現されていて、イエス様を信じさえすれば、父なる神様との関係において正しいとされる、「義とされる」という言い方をします。よく「神の義を求めなさい」と言いますが、「神様から正しい」と認められるように、求めなさい、と言う意味です。そこには何の差別もありません。ユダヤ人でもギリシャ人でも、すべての人がキリストを信じれば義とされます。

Ⅲ.「律法の実行」か?「キリストへの信仰」か?

この2章16節は、ガラテヤ書の中心テーマが書かれている箇所で、パウロがガラテヤ教会の信徒に向けて、言いたかった事の中心がここにあります。
大事な所なので読みたいと思います2:16「 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
なんとなく分かりにくい文章ですが、「律法の実行」か?「キリストへの信仰」か? 二者択一を示している文章です。もちろんパウロは、律法の実行ではなくて、キリストへの信仰によって正しい者とされるとしています。今を生きる私たちクリスチャンも同じです。律法を守ったわけではありません。ここでは要するに、パウロは何故、キリストを信じたか?と言う事です。先ほども述べましたが、パウロやペトロ達のユダヤ人は、もともと律法を守るように生きて来ました。しかし、それでは救われない、神様に義とされないことが分かったのです。だから「キリストへの信仰」によって義とされるのだ、と16節で伝えているのです。
17節では「キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。」とありますが、どういう意味でしょうか?アンティオキアで食事をしていた時を例としてみると、分かりやすいのではないでしょうか?アンティオキア教会ではユダヤ人も、異邦人と一緒に食事をしていました。もしユダヤ教の視点で見れば、異邦人と食事をする事は律法で禁じられていましたから、キリストを信じたが故に、律法を破って「罪に仕える者」となったように見えます。異邦人と同じ罪人となってしまったのか?キリストは罪を促す存在なのか?いや決してそうではない。先ほど、パウロは二者択一を迫ったと言いましたが「律法の実行」という古い信仰は打ち壊されたのです。もし、また古い信仰を付け足すなら、キリスト者として違反者になってしまう訳です。
パウロは旧約聖書に精通していましたが、イエス・キリストなど救い主でも何でもないと考えていました、ところがダマスコの途上で復活のイエス様と出会ってしまって、イエス・キリストを否定できなくなりました。これはどういうことか?
もう一度旧約聖書を確認して考えたことは、キリストの到来によって、以前とはまったく違う時代が到来したことになる。パウロはそれを悟りました。

Ⅳ.宗教改革者の信仰理解

この後、パウロの、この信仰理解は浸透していって、その後「キリストの真理」として、キリスト教の中心思想になりました。特にパウロがここで、異邦人にも分け隔てなく、同じように救われることを整えたことで、キリスト教はヨーロッパに広まっていきました。しかし、人間というのは同じ誤まちをするものです。500年、1000年もすると、「キリストの真理」に、いろいろと付け足していったのです。それが中世のカトリック教会でした。
かつてのカトリック教会は、政治権力とも結びついていて、教会は権力争いに満ちていました。贖宥状を販売して、信仰よりもお金で罪が赦されるようになってしまいました。お金のある一部の人たちが優遇され、お金のないその他の一般大衆は冷遇される、そんな時代になってしまったのですね。パウロの時代は、信仰以外にユダヤ教の習慣である「割礼」とか「律法」が必要だと言って付け足そうとしましたが、16世紀のカトリック教会は、信仰以外にお金を付け足しました。お金以外にも教会の権威が追加されていったのですが、そんな状況の中で、人が救われるには「キリストへの信仰のみ」ではないか?と、問いただした人がいます。それがドイツにいた、マルティン・ルターという宗教改革者でした。ルターはこの信仰理解を「信仰のみ」と言いました。私たちプロテスタント教会の信仰の根幹となっています。はじめて教会に来た人が、これを聞いたら「それだけでいいの?」と思うかも知れません。ルターの時代にも、そう思った人がいたそうです。
信仰者が信仰心を持つのは当り前だとしても、同時に良い人間でもある、少なくとも、そのように努力する人でなければならない、というのが一般的な感覚ではないでしょうか。勿論それはそうなのですが、パウロもルターも、信仰によって“のみ”救われると言って、それだけを求めるのです。すると自然な感情として“善い行い”はいらないのですかと尋ねたくなります。
良い例がパウロの生き方です。彼は以前、キリスト者を迫害することに熱中していましたから、とても、善を行って救われたとは言えない人です。しかし、彼は救われました。イエス・キリストと出会って、キリストを信じる信仰を持ったからです。
私たちもキリストを知って、キリストを受け入れたことによって、まったく新しい者へと、変えられています。パウロもキリストに出会ったことで、こんな罪深い自分を愛してくださった、神様の憐れみ深さを思い知ったのです。その応答として、イエス様に与えられた異邦人伝道という、困難で重要な働きで応える、という生き方をしました。

Ⅴ.まとめ

同時に、神様は正しい方ですから、「神様の義」とは、御自分の愛する独り子を十字架で犠牲にしなければ、決して全うできないものでした。人間の思いをはるかに越えた、想像を絶する神様の義が、キリストの十字架において成し遂げられました。そこに現された神の義・神の愛に私たちは生かされています。
「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義・・・」(フィリピ3:9)
これによって生きて行く、これ以外に“善い”道など人間にはありません。それがパウロの確信となりました。そして、私たちの確信として、この1週間も神の義を求めて、踏み出していきたいと願います。

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嵐を静めるイエス

2016年7月24日
松本雅弘牧師
詩編103編1~22節
マタイによる福音書8章23~27節

Ⅰ.主イエスの舟に招かれている私たち

教会の歴史の中で、信仰の先輩たちは、私たちの人生を航海にたとえて語ってきました。アウグスチヌスもその一人で、「私たちはこの世の海を航海しているのです。風が起こり、誘惑の暴風が起こる」と記しています。
確かに、日々の生活は航海のようなものです。それぞれの船に乗って社会の大海原をわたって行かねばなりません。そして、しばらくすると風が起こり嵐にも遭遇します。そうしたことを知っていますから、嵐に備えて、私たちは「出来るだけ頑丈でしっかりとした船」を確保したいと願うものです。
その「出来るだけ頑丈でしっかりした船」とは、ある人にとっては安定した仕事であり、また、十分な蓄えを持つこと、あるいは、人によっては健康体を維持することが「頑丈な船」となるでしょう。そうした上で、その人がクリスチャンであるならば、その船にイエスさまお迎えしているわけですから、ある説教者は、「この船にイエスさまが乗ってくだされば、まさに『鬼に金棒』、もうどんな嵐が来ようとも、いや悪魔が来ようとも、こわいものなしだ」と語っていました。しかし、果たして聖書はそうした生き方を奨励しているでしょうか。
23節に、「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。この聖句によれば、最初にイエスさまが舟に乗り込まれ、その後続いて、弟子たちがその舟に乗り込むという順番です。つまり信仰を持って生きるということは、私たちが自分で準備し、十分に整えた船に、さらに確かな「お守り」のようにして主イエスをお迎えすることではないのです。むしろ逆に、主イエスが乗っておられる舟に私たちが乗り込み、共に航海を始めることです。これが信仰生活です。
そして、彼らがイエスさまに従って舟に乗り込んだ直後、「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」とあります。私たちの方がイエスさまの用意した舟に乗り込むように招かれる。そして乗り込んだ結果、何が起こるかと言えば、突然、激しい嵐に襲われ、その舟が波に飲み込まれそうになるというのです。

Ⅱ.嵐の中の弟子たち

今年1月のイスラエル研修旅行のときに、ガリラヤ湖畔の博物館に展示されていたイエスさま時代の舟を見ました。弟子たちはこのような素朴な舟に乗って向こう岸まで行ったのか、としみじみと思ったことでした。
元々イエスさまは、「舟を信頼しなさい」というような招き方はなさいません。舟は簡単に外側からの影響を受けるものです。激しい風が起こることもあるのです。不景気の波が押し寄せ、会社が傾くかもしれません。病気という嵐が押し寄せてくるかもしれないのです。押し寄せてくる波や嵐の大きさによっては、舟自体が備え持つ力など、たちまちのうちに砕けてしまうほど、ちっぽけなものに過ぎないかもしれないのです。
ところが、私たちの傾向としては、どちらかというと舟を信頼する、あるいは舟さえしっかりしていれば大丈夫と思うものです。ですから、一生懸命に努力し、信頼に足る立派な舟を調達出来るように頑張るという、そうした舟に対する信仰で生きている場合が多いように思います。いかがでしょう。この時、イエスさまに従って舟に乗り込んだ弟子たちの中には、「こんなはずじゃなかった」と、イエスさまに従ったことを後悔した人もいたかもしれません。
この世の生き方は、神さま抜きの考え方によって成り立っています。そこでは、全てを統べ治める神さまは不在です。ですから、私たちの心の中に、しばしば「自分の力でどうにかしなくちゃ」という声が聞こえて来るのです。当然、そうした心の中に平安はなく、次から次へと心配や不安、恐れが起こってきます。そして、そうした思いを払拭しようと、一層、真剣になり、船の整備に努めていくのです。
私たちが、この世の海で航海を始めたら、そこには必ず風が起こり、暴風が起こります。そして、どうでしょう、イエスさまに従って歩む時、私たちはこの世の価値観とは異なる物の見方をいただくことになりますから、この世の追い風を受けるというよりも、逆に、向かい風の場面の方が多くなるかもしれないのです。

Ⅲ.嵐の中で眠るイエス

今日の聖書箇所を繰り返し読む中で鮮やかに浮かび上がってくる光景があります。それは嵐の中での弟子たちの姿と、イエスさまの姿のコントラストです。弟子たちが死の危険すら感じている状況の中、主は、乳飲み子が母親の懐で安らいでいるように眠っておられました。確かにお疲れもあったでしょう。でもそれ以上に、私たちが目を留めるべきこと、それは、この場面でイエスさまが睡眠をとることが出来たのは、心の内に平安があったからだということです。
昨年から始まった「エクササイズ」の最初の課題はまさに「睡眠」です。テキストの著者のスミスは、「睡眠は信頼の行為だ。私たちは委ねる。すべてが上手くいくという証拠も何もないのに、誰も私たちを傷つけないと信じて初めて出来ること、それが眠ることだ」と語ります。
よくよく考えるならば、私たち、平安がなければ眠ることなど出来ないものです。「眠っている場合ではない」と思うからです。委ねることが出来ないでいると、心は思い煩いで一杯になります。「何か出来ないか?」、「何か出来るのではないか?」、そして次に「じゃあ、どうしたらいいだろう」。そんなことを考え続けていたらゆっくりと眠ることも出来ません。
ここでイエスさまは眠っておられます。自分の座っている板の下は深い湖です。それも嵐の中、小さな舟の中で眠ることが出来たのは、イエスさまにとって、たとえ暴風雨の荒れ狂う湖の上であったとしても、そこは父なる神さまの創られた世界の一部に変わりなく、それゆえに、神さまの支配される所であるとの信頼があったからなのではないでしょうか。
そこが突風の吹き降ろすような湖の上であっても、イエスさまにとっては、父なる神さまの懐に変わりなかったのです。父なる神さまのご支配の及ぶ神の国の一部でした。これが信頼であり信仰です。

Ⅳ.イエスさまの眠りに支えられ、教えられる

そう言えば、イエスさまがお生まれになった時、舟ではない、飼い葉桶で眠っておられたことを思い出します。世界で最初のクリスマスの出来事が起こった年、この時も世界に大きな嵐が吹き荒れていました。ローマ皇帝による全世界規模の人口調査が起こった年でした。また、ユダヤには暴君ヘロデもいました。2歳以下の幼子を皆殺しにするという嵐が起こります。それを避けるようにして、彼らは難民となりエジプトに避難します。
今も、同じようなことが起こっています。今も、嵐が吹いています。でも、そうした嵐のただ中に主イエスがおられ、そして眠っておられる。この主イエスの確かで大きな眠りの事実に、私たちの目が開かれていくとき初めて、そのイエスさまの心の内にある平安に私たちも触れることができるのです。たとえ私たちを取り巻く状況がどんなに荒れ狂っていたとしても、です。
ある時、イエスさまは、この信仰に私たちを導くためにお語りになりました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10:29)と。
ご自身の独り子イエスさまと、父なる神さまがその独り子を与える程に愛している弟子たちの乗る舟が、どうしてそのお方のお許しが無くて沈没するでしょうか! 神さまの許しがなければ、1羽の雀も地に落ちることはないのです。
この神さまの無限の愛、無限の力に対する深い信頼が、この時の弟子たちにあったならば、弟子たちの態度はほんの少しだけでも変わっていたにちがいありません。
ある先生が、聖書の教える「回心」とは、見えるものが変わること、物の見方が変えられることだと定義していました。普通、私たちは肉眼で見えるものしか見ていない、見えない物は信じられないのです。しかし、私たちがイエスさまを通して教えられることは、眼に見ることは出来ないが、神がおられるということです。神の国が今、ここにある。愛の神さまのご支配が、今ここにも及んでいるのです。
だからこそ、キリストは、この現実、この状況の中でゆったりと眠っておられるのです。そして私たちも、私たちの世界に、また日々の生活の中に嵐が押し寄せて来ようとも、この主イエスの眠りに支えられ、この主イエスの眠りに教えられ、そして何よりも主イエス・キリストと共に、父なる神に委ね、平安の内に眠ることが許されているのです。
そして再び、このお方と共に目覚め、日々歩むことができるのです。お祈りいたします。

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安心感を築き上げるもの

2016年7月10日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ペトロの手紙一 5章6~7節

Ⅰ.ラビンドラナート・タゴール作、「迷い出た小鳥たち」より

ノーベル文学賞の受賞者、タゴールは、「迷い出た小鳥たち」という詩を書いています。

批判ばかり受けて育った子は 非難ばかりします
敵意に満ちた中で育った子は だれとでも戦います
ひやかしを受けて育った子は はにかみ屋になります
ねたみを受けて育った子は いつも悪いことをしているような気持ちになります
心が寛大な人の中で育った子は がまん強くなります
はげましをうけて育った子は 自信を持ちます
ほめられる中で育った子は いつも感謝することを知ります
公明正大な中で育った子は 正義感を持ちます
思いやりのある中で育った子は 信仰心を持ちます
人に認めてもらえる中で育った子は 自分を大事にします
仲間の愛の中で育った子は 世界に愛を見つけます

この詩を読みますと、私たちがどのように育てられたか、どのように接せられたかによって、私の人生を大きく左右することを知らされるように思います。
今日は、私たちが生きていく上に必要な、もっとも基本的ニーズの1つ、「安心感を築き上げるもの」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.Kさんの場合

Kという名の若者がいました。彼は19歳になり、物凄い不安感に襲われ、助けを求めてカウンセラーのところにやってきた青年でした。何回かカウンセリングを受けていく内に、Kさんについて幾つかわかってきました。
1つは、彼は全く幸せを感じていなかったということ。2つ目に何度か頑張って困難に立ち向かおうと努力するのですが、いつも弱気になって逃げ出してしまう傾向があること。3つ目に未成年であったにもかかわらず、すでにアルコールに頼り始めていたこと。そして4つ目に、現在彼は、全くの行き詰まりを感じていたということです。
担当したカウンセラーは、そうしたKさんの心の中にある叫びに気づいたと言っていました。その叫びとは、「安心感/心に平安が欲しい」という魂の叫びでした。
面談を重ねる中、彼は自分の生い立ち、特に家庭のことを語り始めていきました。彼は、家の中で両親が仲良くしている姿を一度も見たことがない、というのです。顔を合わせると、決まって口論が始まりました。両親の間には、常に緊張感があったのです。
Kさんにとっては母親も父親も自分の大切な親です。その大切な母親と父親が不仲で、いつもピリピリしている。家庭の中は本当に居心地が悪かったのです。そして、子どもとしての彼の心配は、いつか両親は別れてしまうのではないか、ということだったそうです。
自分の存在、自分の生活を支えてくれるはずの両親が、顔を合わせるたびに言い争っている。そんな姿を見ることほど、子どもにとって辛いことはありません。
さて、Kさんの家庭には、もう1つの特徴がありました。かなり頻繁に引っ越しをする家庭だったということです。仕事の関係で仕方がないことだったのかもしれませんが、このためにKさんは、〈またいつ引っ越すかも分からない〉ということで、落ち着いて友だちを作ることも出来ず、なおかつ、「心のふるさと」と呼べる場所を持つことが出来なかったようなのです。
さらに、面談を通して、こんなことも分かってきました。それは、Kさんの中に、「していいことと、してはいけないこと」の「境界線/バンダリー」が曖昧だった、ということです。
言い方を換えるならば、Kさんは「適切なしつけ」を受けずに育ってしまった、ということです。
両親は、機嫌のいい時には何でも大目に見て、甘やかせるようなことをしましたが、2人が険悪な状態の時には、その怒りのとばっちりがKさんに向かうことがよくあったそうです。
両親が、ルールや制約を設けて子どもと接することは、一見、不自由さや窮屈さを押し付けられたという印象を持ちます。ですから時に、子どもたちは、友だちの家と自分の家を比べて、親への不満をもち、親に要求を押し付けてくることもあります。しかし他方で、こうした、その家のルールがあることによって、子どもたちは、両親が自分に無関心ではなく、自分のことを真面目に考えてくれているという「安心感」の意識が与えられると言われています。

Ⅲ.安心感を築き上げるもの

もう一度、Kさんの話に戻りたいと思います。子どもの頃、Kさんの誕生日、またクリスマスなどに、両親は彼に本当にたくさんのプレゼントを与えたそうです。でも、全然嬉しくありませんでした。彼が一番欲しかったのは、プレゼントよりも、親自身の心、親からの思いやりだったからです。成長するにつれて、そうした親からのプレゼントは彼の心を白けさせていきました。
プレゼントや、友人と比べても多く貰えたお小遣いは、結局のところ、両親自身がKさんに与えることができない愛情、あるいは時間の「代用物」でしかなかったのだ、と気づいていたからです。このようにしてKさんは、小さい頃から不安感を募らせ、自分自身を受け入れることに困難を覚えてきました。その結果、自己否定から来る変身願望の強い子へと「成長」していったのです。

Ⅳ.神さまに愛されているように

いかがでしょうか? 私たち、特に親である私たちは、子どもが健やかに成長していく上に欠かすことのできない「安心感(心の平安)」というものをその心にもたらすために、子どもとどのように関わったらよいのでしょうか。答えはKさんの両親の逆を行くこと。それが正解です。ただ、ここでもう一度、立ちどまって考えて見る時に、実は、もう1つ最大の問題が残されていることに気づきます。それは正解を知っていても、実行に移せない私自身がいるという問題です。
タゴールが彼の詩で言っていること、それは、私たちは扱われたように人と接するということでしょう。今はやりの言葉を使えば「連鎖」ということです。
子どもたちが健やかに生きていく上で、心の安心感が必要なわけですが、そのためには、まず私たち大人が安心感をもって暮らしているかどうか、そのことにかかっているということでしょう。
もしかしたら親である私自身がKさんのような環境で育ってきたかもしれません。そうした者が今、子を持つ親になっているかもしれないのです。どうしたらいいのでしょうか? 今日の聖書の言葉を見ていただきたいのです。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。」
(Ⅰペトロ5:6-7)
神さまが私のことを心にかけてくださっています。だから、様々な不安を神さまに委ねなさいと、聖書は語っているのです。不安の原因が分かれば、それを神さまに委ねましょう。神さまがあなたがたのことを覚えて最善をなしてくださるのですから。
冒頭のタゴールの詩は一般論として真理です。その後半を見ますと、心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなります。励ましを受けて育った子は、自信を持ちます。褒められる中で育った子は、いつも感謝することを知るでしょう。公明正大な中で育った子は、正義心を持ちます。思いやりのある中で育った子は、信仰心を持ちます。人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大事に出来るのです。そして、仲間の愛の中で育った子は、世界に愛をみつけることが出来ます。
私は、この詩を読みながら、ああ、私に対して寛大であり、私に対して励ましを与え、私をほめ、祝福し、公明正大であり、思いやりを持って私を見、誰よりも私の味方になってくれた方、それは神さまだと思いました。勿論、私の両親も愛情を注いで育ててくれました。そのことは感謝しています。しかし、やはり神さまの力によって支えられてきたのです。
その神さまの愛に触れ続ける中で、不思議と、まず私自身の心に安心感が与えられていくのです。その結果として、安心感をもって、子どもや周囲の人と接する私へと変えられていることに気づかされるのです。
私たちのことを心にかけてくださる神様に委ね、お任せする中で、私たちの心に「安心感を築き上げていく」ために必要な一つひとつの要素が満たされていくことだと思います。お祈りします。