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主日共同の礼拝説教

逆転の祝福

2016年8月28日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記12章1~7節
ガラテヤの信徒への手紙3章6~9節

Ⅰ.はじめに

ガラテヤ書が書かれた当時は、キリスト教が生まれて20年という、まだ信仰理解や教理が未熟だった時期です。旧約聖書という壮大な歴史の中に現れた、ナザレのイエスという人を巡って、パウロは、地中海周辺を奔走し、間違った福音理解、まだよちよち歩きのキリスト教の福音理解を正しく伝えるために、手紙を書いて、各国の信徒に手紙を書いていました。
パウロは3章の前の節で、ガラテヤ地方に宣教旅行に行った時、信仰によって聖霊が降った体験を思い出させました。自分と一緒にいた時に、善い行いをしたとか、しなかったとかに関係なく、信仰によって聖霊が降った出来事です。ガラテヤの人達に、その事を思い出して、忘れないように、この手紙の3章の冒頭で、熱心に諭しています。

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主日共同の礼拝説教

罪赦されて帰る―礼拝において経験する恵み

2016年8月21日
松本雅弘牧師
ホセア章11章2~9節
マタイによる福音書9章1~8節

Ⅰ.共観福音書が取り上げている出来事

マタイによる福音書9章1節に、「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた」とあります。イエスさまの帰りを待っていたかのようにして、1人の中風の人を床に寝かせたまま、人々がイエスさまの許に連れて来たのです。今日の出来事はそこから始まります。

Ⅱ.イエスさまのご覧になった「人々の信仰」

「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」と続く今日の聖書個所ですが、私たちはここで幾つかのことを知らされます。
まず1つは、「イエスはその人たちの信仰を見て」とありますが、「中風の人その人の信仰」ではなく、その彼を寝かせたままイエスさまのところに「連れて来た人たちの信仰」をご覧になったというのです。
ここで、イエスさまがご覧になった「人々の信仰」について考えてみたいと思います。
ここに出てくる「人々」とは、中風の人を床に寝かせたままイエスさまのところへ運んで来た人々のことです。ガダラ人の地からイエスさまが戻ったとのニュースが伝わるやいなや、彼らは、中風の人を床に載せたままイエスさまの所にやって来たのです。
ところが、人があまりにも大勢で、その家の戸口にまで溢れていました。そこで彼らは屋根に上り、屋根をはがして中風の人をつり下ろしたのです。
1人の大人を床に載せたまま吊り下ろすのも大変な作業だったと思いますが、彼ら4人が、1つの目標に向かって力を合わせ、祈りつつ、呼吸を合わせるようにしながら、イエスさまの前に吊り下ろしたのです。そして、それは成功しました。1人ではできないことも、4人そろったので実現できたとも言える作業だったと思います。
イエスさまはそうした型破りの行動に表わされた彼らの信仰をご覧になりました。そして、彼らの信仰に動かされたイエスさまご自身が、中風の人の罪の赦しと、病の癒しに関わってくださったのです。

Ⅲ.罪の赦し

このようにして連れて来られた中風の人に対して、イエスさまは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。この場面を想像してみましょう。
これは中風の人にとって、そしてまた、彼をここまで運んできた友人たちにとっても不意打ちを食らうように意外な言葉だったのではないでしょうか。
考えてみれば、ここまでやって来たのは、あくまでも中風の人の癒しが目的です。ところが病の癒しの前に、「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪の赦しを宣言されたのです。イエスさまは、何よりもそのことを第一になさったのです。
ところで、ここで言葉の説明をしておきたいと思います。ここに「罪」と出てくる言葉は、原文では複数形が使われています。日本語に直すならば、「もろもろの罪」という言葉です。多くの罪です。
多くの罪が重なり合っている。放っておけば、私たちの人生に祝福はなくなります。イエスさまの言葉に戻りますが、ここでイエスさまは、この人に対して、「あなたのもろもろの罪が赦される」と言われたのです。原文通り丁寧に訳しますと「あなたのもろもろの罪が赦されてしまっている」となります。
そうです。全く無条件に、「もう、あなたの罪は赦されている」と、済んだこととしてお語りになっているのです。しかも興味深いことに、いや、大事なことと言った方がよいかもしれませんが、ここでイエスさまは「ご自分が罪を赦した」とは言われずに、「罪は赦されてしまっている」と、一方的な赦しの恵みを宣言されたのです。
くどいようですが、ここでイエスさまは、「これから罪を赦すから、そのために懺悔しなさい」とは言われません。「病気を治してあげるけれども、その前に、片付けなくてはならないことがある。それはあなたの罪だ。しかも、その罪を片付けるのに、もう1つしなければならないことがある。それは、あなたが自分の罪に気づくこと、自分が悪かったということを本当に謝ることだ」と、そのようにも言われませんでした。全くの無条件なのです。
では、ここでイエスさまが、この中風の人に願っていたことは何だったのでしょうか? 結論から言いますと、それは、自分がもう罪赦されている人間だということに気づくこと。それを受け入れることだけだった、ということなのです。
ところで、イエスさまは、絶望のどん底にあるこの人に対して、「元気を出しなさい」と言われました。
彼にしてみれば、「元気を出せ」と言われた時、驚いたのではないでしょうか。というのは、何を理由に元気を出せるのか、分からなかったと思うからです。でも、その後、続けてイエスさまは、「あなたの罪は赦される」と宣言されました。
それは「罪の赦し」がそれほど私たちにとっては根本的な問題であり、それゆえ、赦された者にとって大きな力になるということを、イエスさまはご存知だった、ということなのではないでしょうか。
イエスさまはここで罪のことを複数形で表現されました。「もろもろの罪」です。彼の半生に積み重ねられてきたもろもろの罪です。しかし、そうした罪の赦しが、なぜ根本的な問題だと言われるのでしょう。
ある牧師は言います。罪一つひとつがみんな神に関係しているからだ、と。一番深いところで神と仲直りしていないからだ、と。
また、ある牧師は罪のことを、私たちの人生にマイナスを掛け算するようなものだ、と語っていました。私たちの人生のすべての働き、営み、実績、歩みを大きなカッコでくくり、最後にマイナスを掛け算すると、全部がマイナスになってしまいます。どんなに善いことをしたとしても、人生の一番深いところの根が、神から断ち切られ、主イエス・キリストから断ち切られている時には、どんな善行も、罪を重ねるということ以外の何ものでもないからです。そのマイナスが処理されなければ、どうにもならないのです。ですから聖書は「罪の赦しのないところには、いのちはない」と教え、パウロも「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)とはっきりと語るわけです。
この時、イエスさまは、彼の「中風」という病気に深く同情を寄せておられることは確かです。でも、もっと問題にしておられることがある。それが罪の処理の問題です。
よく考えてみれば、人は遅かれ早かれは死んでいきます。もしも病気の癒しがイエスさまの究極的な目的であるとすれば、癒された人が死んでいく時に、そのイエスさまのお働きも虚しく終わることになるでしょう。
でも本当に大切なこと、それは「死に至る病」と呼ばれる罪に勝利する命、イエスさまの十字架の贖いによる赦しから来る命なのです。

Ⅳ.罪赦されて帰る―礼拝において経験する恵み

最後にもう一度、聖書に戻ります。ここで、「あなたの罪は赦される」というイエスさまの発言に違和感を覚え、イエスさまが神さまを冒涜していると思った律法学者の心を、イエスさまが見抜かれたことをマタイは伝えています。
確かにイエスさまが神でなければ、この発言は自らを神とするような発言内容なので、イエスさまを神と考えていない律法学者にとっては、神を冒涜していると考えたのも無理はないと思います。そこでイエスさまは「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『(あなたの病気は治ったから)起きて、歩け』というのと、どちらが易しいか」とおっしゃったわけです。
律法学者は思ったでしょう。〈罪を赦す権威など持っているはずがないイエスが、「あなたの罪は赦される」といくら言っても、それは口先だけだから簡単だ。でも、このイエスが中風の人を癒すためには、特別な力を必要とするのだから、その方が難しい〉、そう考えたのだと思います。
そこで、その罪の赦しの権威を持っていることを証明するために、イエスさまは、目に見て分かる病気の癒しをもって実証されたわけです。
いかがでしょう。今日、ここに出てくる中風の人の姿は、私たち自身が、礼拝の中でいただく恵みを表わしている出来事、まさに、私たちが礼拝において経験することを語っているのではないかと思うのです。
私たちが礼拝に集うということは、イエスさまのこの、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」という、主イエスの宣言を聞いて新しくされ、困難を自ら担う勇気を与えられ、もとの家へと帰って行く恵みに与ることです。
マイナスが、十字架と言う絶対的なマイナスと掛け合わされ、万事が益、つまりプラスとなって、イエスさまの許から派遣されていく出来事です。
それも、神に畏れを抱きつつ、神を賛美するように変えられて帰って行く恵みです。礼拝の中で、こうした恵みが繰り返して起こる私たちの信仰生活でありたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

霊なる神

2016年8月14日夕礼拝
和田一郎伝道師
エゼキエル書11章17~20節
ガラテヤの信徒への手紙3章1~5節

Ⅰ.物分かりの悪いガラテヤの人たち

1節で「物分かりの悪いガラテヤの人たち」と、実に厳しい言葉でパウロはガラテヤの人達に呼びかけています。いくら信頼関係がある人達であっても、ここまで言うのだろうか?と感じてしまいます。「物分かりの悪い」というギリシャ語は他の訳では「愚かな」という意味で使われます。ですが、そのように言ってしまうパウロの気持ちも分かる気がします。パウロからすれば、あれほどキリストの福音を繰り返し語って聞かせたのに、また以前のような信仰に戻りかけている。しかし、ガラテヤの人達のような信仰の浮き沈み、高まったり下がったりするブレが私たちの中にあることも否定できません。洗礼を受けて数年は熱心だった、しかししばらくして、信仰の理解を履き違えてしまうということが、私たちにもあるのです。律法を守るように、何かの決まりを守らないとクリスチャンとは言えない、と思ったり、割礼を施すように、目に見えるしるしがないと確信が持てない。

Ⅱ.十字架

福音と言えば、その中心はキリストの十字架です。パウロが異邦人の土地ガラテヤを訪れて伝道した時も、イエス様の事、とりわけ十字架に架かられたイエス様の事を大胆に語ったことだと思います。十字架のシンボルを見れば、礼拝に来た事のない方でも、教会とかキリスト教を連想すると思います。皆さんの中にも、何か十字架のしるしの入った物やアクセサリーをお持ちかもしれません。その十字架を、ふと見た時、何を思い起こすでしょうか?
パウロは十字架にスポットを当てて「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で、はっきり示されたではないか」と1節で訴えます。先々週にも話しましたが、イエス様が十字架に架かられた時、同時にペトロやパウロもそして、この私たちも十字架につけられた。罪びとであったかつての古い自分は、十字架につけられて葬られたのだ。十字架のシンボルを見る時、このことを心に留めたいものです。

Ⅲ.霊なる神

2節のところで、「霊」という言葉が、このガラテヤ書の中で初めて出てきます。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」と、パウロはガラテヤの人達が聖霊を受けた時の体験を振り返ります。
私たちも信仰を持った時に、誰かに何かを聞いたり、読んだりして信仰を持つきっかけが与えられたと思います。それは厳密に言うと福音を受け取る、柔らかい心がその時与えられたということ、信じる心を与えられて、受け取ることができたと言ってもいいと思います。それは、私たちが聖霊で満たされていたのです。ガラテヤの人達もそうだったでしょう?聖霊に満たされて、信仰を受け取る柔らかな心に満たされたのは、律法を守ったからですか?福音を聞いて信じたからですか?どちらだったか思い出してください、というわけです。
ガラテヤの人達のように、異邦人に聖霊が降ったという事実について、使徒言行録の中で、ペトロがコルネリウスに伝道した経緯を描いています。コルネリウスは百人隊長で、つまりローマ帝国の軍人です。民族や出身は定かではありませえんが、ユダヤ人ではない、異邦人でした。しかし、ユダヤ教に高い関心があって礼拝に出たり、祈りを捧げて、会堂建築のために献金をしたりしていました。そんなコルネリウスに、ペトロからイエス様の話しを聞く機会が与えられましたが、そこには問題がありました。当時はまだユダヤ人のクリスチャンには、少なからず、異邦人に対して偏見がありました。
ユダヤ人は、神様はアブラハムとその子孫、いわゆるユダヤ人を選ばれた特別の民族と解釈していました。他の民族、異邦人たちは選ばれていない。ですからペトロも、百人隊長コルネリウスのもとに伝道に行くことを躊躇しました。異邦人であるコルネリウスは選ばれた者ではない。そのペトロの偏見を取り除くために、神様は夢の中で幻を示され、ペトロはコルネリウスの所に出かけて行って、福音を語る事になりますが、語っていると不思議な事が起こりました。聖霊が異邦人のコルネリウスに降ったのです。私たちは聖霊とか御霊と言ったりしますが、コルネリウスに降ったのは聖霊なる神様です。神学用語で言いますと「父なる神」が第一位格、イエス様は第二位格の「子なる神」、そして第三位格の「聖霊なる神」と呼びます。この三つの位格が三位一体となって一つの神とします。ユダヤ人にしてみれば、神に選ばれたユダヤ人に聖霊は降ったとしても、神様に選ばれていない異邦人に聖霊が降るはずはないと固く信じていました。ところがペトロが福音を語っていると、それを聞いていたコルネリウスに聖霊が降ってしまったのです。割礼も律法も守らないままで聖霊が降ったわけです。ユダヤ人たちはただ驚くばかりでした。この出来事はまさにペンテコステの再現でした。ペンテコステの出来事は、エルサレムにいたユダヤ人たち一同が一つになって集まっていた時に、聖霊が降ったのです。
さらに、ペトロはこの出来事の後に説教しましたが、それは旧約聖書のヨエルの預言の中で、異邦人に聖霊が降ることが記されている箇所でした。
ヨエル書3章1節~2節「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。」と、聖霊をすべての人に注がれると預言されています。「奴隷の男女に霊を注ぐ」とありますが、当時多くの奴隷は異邦人でした。その異邦人へも聖霊が降るという旧約聖書の預言です。
整理しますと、この旧約聖書ヨエル書で預言され、この預言が新約の時代になって、ペンテコステで実現、その後、コルネリウスなど各地で異邦人の上に聖霊が降っていきました。
パウロがガラテヤに伝道している時にも、聖霊が降る出来事が起こったのだと思います。使徒言行録14章にはパウロがガラテヤ地方のリストラという町に行った時、一度も立ったことのない、足の不自由な人の癒しや、その後に迫害が起こったことが書かれています。今日のガラテヤ書の4節で「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。」と、こうして聖霊の体験が無駄にならないことをパウロは訴えます。

Ⅳ.まとめ

パウロが、3節で「あなたがたは、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と訴えているように、私たちはイエス様の十字架の出来事という福音を、聖霊の助けによって、受け取ることができました。ところが、パウロが「物分かりが悪い」とか「愚かな」と言ってしまうように、私たちの信仰は弱いものです。神様の愛を信じられなくなるくらいに落胆したり、罪を認めるのを拒否して、神様の前から立ち去ったりすることがあるのです。そんな時、聖霊は、私たちがどんな状況にあってもしっかり神様のもとにとどまって、神様の愛を信じられるように、私たちを助けて下さいます。聖霊は罪の自覚を持つ私たちを神様の前で弁護して下さるでしょう。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたと分かって、イエス様を救い主として信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と弁護してくださるでしょう。さらに聖霊は私たちにも向かって、「あなたの心の目を、十字架に向けなさい。あなたの赦しは、キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されています」と言って下さいます。神様に罪の赦しを願う時、果たして赦して頂けるだろうか?などと心配する必要はありません。洗礼を受けて聖霊を受けた私たちには、聖霊という素晴らしい弁護人がついているのです。神様は私たちに対して「もう分かっている。あなたが信じている、わたしの子イエスの十字架の死に免じて赦します。もう罪を犯してはいけません」と言って下さいます。その時、私たちは感謝に満たされて、もう神様のもとを離れまいと、思うでしょう。キリスト者としての信仰生活の歩みを、聖霊に満たされて始めた私たちは、聖霊の導きに従って、最後まで歩みたいと願います。祈ります。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

受けいれること

2016年8月14日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
詩編130編1~8節
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.「ありがとう」の一言の力

保護観察中の女子中学生がいました。彼女が学校の授業で高齢者施設の介護体験をしたそうです。彼女は最初、嫌々やっていましたが、ボランティアを終えて帰ろうとした時に、入所しているお年寄りが近寄って来て彼女の手を握って、「ありがとう、明日も来てくれるでしょう」と言ったのです。その一言を聞いた瞬間、本当に不思議なことに、それまで冷めていた、その女子中学生の心に言い知れない感動が湧いてきて、彼女の眼から思いがけずに涙がこぼれて来ました。そうして、その経験がきっかけとなって、彼女は介護福祉士になることを決心し、今、その職にあるのだそうです。
その時の感動を、後に、彼女はこんな風に表わしていました。「ああ、こんな私でも必要としてくれる人がいるんだ。こんな私にも『ありがとう』と感謝してくれる人がいるんだ」と。
それまでは、「お前なんかいないほうがましだ」というような、周りからの視線を痛い程感じながら、いつも突っ張って生きていました。自分を苦しめる、そうした内なる声を断ち切ってくれたのがお年寄りの「ありがとう」の一言だったそうです。自分が受け入れられたという体験をし、それが、彼女にとっての物凄い力になったのだと思います。

Ⅱ.子どもと接するイエスさまの姿

ある時、イエスさまに自分たちの子どもに触れてもらいたいと願って、子どもを持つ親たちが子どもたちを連れて集まって来ました。当時のユダヤ社会の価値観からすれば、子どもは人数にも数えられない存在でしたから、このような場に子どもたちを連れて来ること自体が許されない行為でした。
当然、弟子たちは親たちを叱ったのです。ところがこれに対してイエスさまは、子どもの祝福を願う親たちの素直な気持ちを受け止められました。そして、それ以上に子どもたちの存在を、そのあるがままの姿を喜んで受け入れ、祝福されるイエスさまの姿がそこにありました。この時、子どもたちを迎えるイエスさまの瞳に、そうした子どもたちの姿はどう映っていたでしょうか。

Ⅲ.自分自身を受け入れることの出来ない私

学生の時、忘れることの出来ない1冊の本との出会いを経験しました。ウォルター・トロビッシュという、牧師でありカウンセラーの先生がお書きになった『自分自身を愛する』という本です。その本の冒頭に、こんなエピソードが紹介されていました。
ブロンドの髪の美しい女性がトロビッシュ牧師のもと来て、「自分を愛せないのです」と告白するのです。傍から見たら、美しい、とても恵まれた女性です。
ところが、彼女の悩みは、どうしても自分を好きになれない、自分を愛せない、というものでした。
この女性が訴えた問題は、もちろん程度の差はありますが、私たち1人ひとりの心の内にもある大事な問題であり、取り組むべき課題であると、この本を通してトロビッシュは問題提起をしているのです。
以前、ファミリーチャペルで精神科医師の古荘純一さんがお書きになった、『日本の子どもの自尊感情はなぜ低いのか』というタイトルの本を紹介しました。その本を読んで、私は衝撃を受けたのです。その本の中に、各国で子どもを対象にアンケート調査をした、その結果、日本の子どもの幸福度は世界最低レベルだ、という話が紹介されていました。
そうした子どもたちを育てる家庭や社会をつくっているのは私たち大人です。日本で暮らす私たち大人、その私たち自身が「自分を肯定できない」、「自分は自分でいいと感じられない」でいるのではないでしょうか。その結果、「今の自分ではない、もっと別の自分に変われたら」とか、「何かが出来るようになったら」とか、「何かを手に入れられたら」というような、ある種の変身願望で一杯になっていますので、現状を肯定できない。すなわち、自分を愛することの出来ない大人が、子どもたちが育つ社会を形成しているということになるのです。
今日の説教のテーマとの関連で言うならば、自分をそのありようのままで、そのままの姿で心に受け入れることに問題を感じている人の多くは、子どもの頃から、自分にとって大切な人から受け入れてもらう経験をしてこなかったと言われます。
当然のことですが、生きていく上で、この「受け入れられている」という感覚は不可欠だと言われます。別の言葉を使えば「自己肯定感」です。ですから、私たちは心のどこかで、「自分が自分のままであってよいか?」を自問するのです。
そして、その際「ああ、自分は自分のままでいいんだ」という確信や答えが得られない場合に、私たちは不安を感じるものです。
私たち人が、「自分が自分のままであってよいか?」という問いに最初に出会うのが幼児期だと専門家は言います。一般に3歳までの子たちは天真爛漫で何かをするにしても、ちょっとくらい他の友だちのように出来なくても気にしません。でも、この天真爛漫さは4歳ごろには消えていきます。何故ならその頃から周囲が見え始めるからです。世界の中心は自分でないと気づき、自分も、たくさんいるみんなの中の1人であることに気づいてくるのです。
この時期になると私たちは、先ほどの「自分が自分のままであってよいのか?」という問いを問い始めます。つまり、見方を変えれば、ちょうどその頃から「自分は自分でいい」という「自己肯定感」を得たいと求めるようになるのです。
子どもとの関係で言うならば、「自分は自分でいいのか」という問いを持ち始めた時、一番にして欲しいこと、それが「大丈夫、あなたを愛しているよ」という身近な人からのメッセージです。そのメッセージを受けた時子どもは安心します。これが幼児期の自己肯定の確認方法なのです。特に身近な人がくれるこの自己肯定の保証が、その子の、一生を生きる力として人格の中に深く蓄えられるのです。
ところが、現実はどうでしょうか。私たち誰もが、これがなかなかできないでいるのではないでしょうか。

Ⅳ.神に愛されている者として生きる

では、ここから抜け出せる道はあるのでしょうか? 今日の聖書箇所には子どもたちを受け入れ、愛するイエスさまの姿が紹介されています。
実は、子どもたちとこのように接するイエスさまご自身が、受洗の場面で、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者である」と、父なる神さまの御声を聞き、ご自分の存在自体を受けとめていただいた経験をしていました。
親たちに連れられて、イエスさまの御許に集まってきたこの子どもたちをご覧になったイエス様の瞳には、子どもたちの存在自体を喜ぶお気持ちが溢れていたことだと思います。
「あなたたちは父なる神さまに愛されている子どもです。そのことを決して忘れてはいけませんよ」と、愛と期待に満ちた眼差しを彼ら子どもたちに注ぎながら、1人ひとりを抱き上げ、手を置き、祝福してくださったことだと思います。そして子どもたちにも、そのイエスさまの思いがよく伝わったことでしょう。
冒頭でご紹介した女子中学生の手を握り、「ありがとう、明日も来てくれるでしょう」と声をかけたお年寄りの愛の心が、頑なだった中学生の心を柔らかにし、若い彼女の人生を変えて行ったように、この時、自分を受け入れ愛してくれるイエスさまと接することによって、この子どもたちは、イエスさまの愛の思いにその心が励まされたはずです。
私たちが受け入れられる経験とは、愛される経験であり、それは、その後の人生を大きく左右するほど、大きな力になるということです。
子どもたちを受け入れてくださったイエスさまは、私たちに対しても同じようにしてくださっているのです。
そのような存在として私は生かされている、ということです。ですから、私たちは、子どもたちを、また周囲の人たちを受け止めるその前に、1人ひとりが、自分は神さまの愛をもって受け入れられている存在であると、まず第1に味わっていただきたいと思います。
「あなたがたは神に愛されている子どもですから」というメッセージに、まずは心を傾け、神さまご自身が私に向かって、「大丈夫、あなたを愛しているよ。あなたはあなたで、いいんだよ、」と肯定してくださっている御声を聞きとっていきたいと思います。
その「大いなる肯定」を、シャワーのように心に浴びながら、そうした上で、次に「神に倣う者になりなさい」と言われる神さまに応えて、子どもたち、家族、周囲の方たちと接する私たちでありたいと願います。
大切なこと、それはこの事実をいつも心に思い起こし、リマインドされることです。そのためには、そうした環境に身を置き続けることが何より大事です。
そのことを確認する場、環境が、この日曜日の礼拝であり、新しい方々にとってはファミリーチャペルの時なのです。
ぜひ、聖書を通して語りかけてくださる神さまの愛の呼びかけに耳を傾けながら、その同じ語りかけをもって、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

キリストにある希望をもって

2016年8月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書32章15~20節
マタイによる福音書8章28~34節

Ⅰ.主イエスに従う道

先の見えない状況の中でも、主が先だって舟に乗り、主が先だって歩んでくださる。この主の歩みに、弟子たちはいつも後からついて歩いて行きます。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われますが、主が歩まれる道こそ、私たちを生かす道なのです。

Ⅱ.主イエスが歩く道に立ちはだかる悪霊に取りつかれた2人

主イエスと弟子たちを乗せた舟は、嵐の中をようやくガリラヤ湖を渡り切って、向こう岸に着きました。すると悪霊に取りつかれた2人の男が、主イエスの歩いて行こうとする道の真ん中に立ちはだかっているのです。
彼らは非常に狂暴でした。周囲の人々の力では抑えられません。そして、彼自身の内側にあっても、自制やコントロールがまったく効かない状態です。聖書はその原因が悪霊だったというのです。
その2人が、突然、太く低い声をノドの奥から絞り出して、威嚇するようにイエスさまに向かって叫んだのです。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と。
悪霊が叫んだ言葉の内容を見ると、とても興味深いことが分かります。1つは、悪霊がイエスさまのことを「神の子」と呼んでいる点です。
ここで注目したいこと、それはマタイによる福音書で最初にイエスさまを「神の子」と認識し、そう呼んだのが、信仰を持った人ではなく悪霊であったという事実です。
マタイによる福音書では、8章以前に誰ひとりイエスさまのことを「神の子」と呼んだ人はいません。16章16節で、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しますが、それが最初の告白で、それまで全く出て来ていないのです。

Ⅲ.悪霊に勝利するイエス

このことから、少なくとも、悪霊が誰よりもイエスさまの正体を見抜いていたということでしょう。信仰を持った人間ではなく悪霊です。
そしてもう1つ大切なことは「まだ、その時ではない」という言葉です。「その時」という言葉は、聖書の中ではとても大事で、極めて神学的な言い回しの言葉なのですが、分かり易く言えば、「世の終わり」「終末の時」という意味です。
ここで、彼らは「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と言っています。裏を返せば、悪霊たちは世の終わりの時が自分たちの滅びの時、自分たちが滅ぼされる時なのだ、ということを認識していたのです。ですから彼らからしてみたら、こんなにも早いタイミングで神の子が登場してきては困るわけです。だから慌てました。
舟が岸に着くやいなや、彼らの方から会いに来るように墓場から出てきて、「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と叫んだわけです。
いかがでしょう。この悪霊が人の身体を利用し、イエスさまと弟子たちの歩いて行こうとする道を塞いでいるのです。道そのものであるお方の前に立ちはだかっています。この道とは村から湖につながる道。漁に出かける時、また漁を終えて帰って行く時に通る道でもありました。イエスさまも舟を岸に着け、その道を、生活の道を通って行こうとしていたのだと思います。ところが、その前進を拒んだのが悪霊に取りつかれた人だったのです。
ところで、私たちの歩む道を塞ぎ、立ちはだかっている、言わば「ゴリアテのような存在」とは何でしょう。ある人にとっては病であるかもしれません。経済的な厳しさや、面倒で複雑な人間関係、また他人には話せない自分自身が抱えている悩みや弱さかもしれません。あるいは、まさに、今、世界のそこここに発生する、話が通じない理屈を超えた暴力やテロかもしれません。
私たちが前に進もうとする道を、そうした「ゴリアテのような存在」によって立ち塞がれる時、私たちはお手上げ状態になり、希望が持てなくなり、絶望的になります。悪霊たちの頭であるサタンは、そのようにして私たちの心を萎えさせていくのです。
でも、どうでしょう。今日の聖書の言葉にもう一度耳を傾けていきたいのです。「ゴリアテのような存在」を操る、背後にある滅びる力、つまり悪霊自身が、実は私たちと共におられる神の子、主イエスさまのことを恐れているという事実です。私たちは、このことを決して忘れてはなりません。それが、どんなに滅ぼす力の強いものであったとしても、そうした力を持つ悪霊自体が、実は、私たち以上に、私たちの側近くにおられる主イエスさまの正体を見抜き、主イエスを恐れているからです。そして、主イエスが本気になって悪霊に向かってお命じになりさえすれば、彼ら悪霊はその命令に逆らうことができないのです。
ここで、神の子イエス・キリストに出会った悪霊は恐れおののきました。そして彼らなりに必死になって助かる道を探ります。それが31節に出てくる言葉です。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」。つまり、イエスさまにお願いして、はるか遠くにいた豚の群れの中に住処を移させて欲しいと頼んだのです。
その結果、物凄いことが起こりました。豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み溺死しました。実は、この箇所をギリシャ語原文で見ますと、面白い表現が使われています。「崖を下って湖になだれ込み」という言葉が単数形で表現されているのに、「水の中で死んだ」というのは複数形になっているのです。
通常「豚の群れ」は集合名詞です。ですから、集合体を1つの塊と捉えて単数形で表わしているのは間違っていません。ところがマタイは、その同じ豚の群れが溺死したことを複数形で表現しているのです。つまり文法的な誤りを冒してまでも、マタイが強調したかったことは何かと言えば、それは、豚の群れというよりも悪霊たちが滅んだということなのです。
悪霊たちからしたら滅びの時は、まだ先だと思っていました。でも現実に彼らは死んでしまい、主イエスが勝利されたのです。私たちが忘れてはならないこと、それは、悪霊たちは、今はまだ自分たちの時だと思っているのに対して、神の子が出現したことによって、世の終わりの時は既に始まっているという現実です。

Ⅳ.キリストにある希望をもって

その結果、面白いことが起こりました。町中の人々が来て、「ここから出て行ってもらいたい」と頼んでいます。悪霊に取りつかれていた人によって閉鎖されていた湖への道が開放され、この2人が悪霊から自由にされて自分たちの許に帰って来ることができたのです。それはすべてイエスさまのお蔭です。感謝のもてなしをしてもよい程でしょう。でも彼らはそうしませんでした。逆に、「あいつのお蔭で、豚が死んでしまった。大損だ」と目先の損失に目がくらみました。
また、この後「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という言葉が出て来ますが、まさにこの一連の出来事を、そうした視点で受け取ったのかもしれません。
私たちは、毎週「派遣の言葉」をもって送り出されて行きます。生活の場で、勇気を持ち、善を行うよう努め、悪をもって悪に報いず、気落ちしている者たちを励まし、弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助け、全ての人を敬いながら生きていこうと努めます。でもふと思うことがあります。「派遣の言葉」のような生き方って、得な生き方なんだろうか、いや、損な生き方じゃないか、と。あるとき、教会学校の先生が生徒に「いくらバイト代、出るの」と訊かれたそうです。バイト代を貰って教会学校の先生をしている学生はいません。
ですから、町中の者もイエスに、「ここから出て行ってくれ」と頼んだのです。イエスさまに従う生き方は、確かに損な生き方かもしれません。でも、誤解を恐れずに言えば、損をしてもよいのです。
「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と言われる道をイエスさまの後について歩む者だからです。
いや、その道は損な道どころか、実は命に通じる道であり、神の国につながる道、本当の意味での勝利の道でもあります。
主イエスは、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われます。
オセロゲームを想像していただきたいのですが、キリストの十字架と復活において、その4隅にキリストの石が置かれているような状態です。そうした上で、生活の中で私たちは、序盤、中盤と戦っていく。ある時は損をし、負けが続くような状況があります。でも最終盤、すなわち再臨の日にキリストが再び来られ、最後の石を置かれる時に、一瞬の内にすべての石の色がキリストの恵みの色にひっくり返って行く。
そのような戦い、そのような歩みこそ、イエスの歩かれた道を後からついていく歩み、命に通じる道を選ぶ歩みなのです。お祈りします。