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主日共同の礼拝説教

ふり返る主のまなざし

2016年9月25日
松本雅弘牧師
詩編77編2~21節
マタイによる福音書9章18~26節

Ⅰ.喜びを襲った悲しみ

イエスさまが、「花婿が共におられる喜び」の話をされている時、カファルナウムの町のある指導者が、「わたしの娘がたったいま死にました」と言って、その喜びの食卓に死の知らせを持ち運んできたのです。
さらにマタイはもう1人、喜びとはほど遠いところに置かれていた、出血が止まらないという病に苦しむ女性が、イエスさまとの関わりを求めにやってきた出来事を伝えています。喜びの後に悲しみが襲う。私たちの日常は、こうした喜びと悲しみのコントラストに彩られているようにも思います。

Ⅱ.立ち止まるイエスさま

娘の死の知らせを持ってやって来たヤイロは、カファルナウムの共同体の指導者、会堂長という役割を担う人物でした。彼は本当に頼るべきお方としてイエスさまを選び、そのお方に賭けていきました。
イエスさまは、そうした彼の信仰に応えて立ち上がり、彼について行かれたのです。ところが話はそれで終わりませんでした。その途中、イエスさまは別の悩みに苦しむ一人の女性と出会い、立ち止まられたのです。
この女性は、12年間、出血が止まらないという病気に悩む女性でした。律法ではこうした病気は汚れたものとされ、この病気を患った者は人に近づくことも、場合によっては家族と接触することも禁じられていました。
しかし彼女は、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じ、後ろから行って、そっとその衣の房に触わりました。するとイエスさまは、すぐに気づき、ふり返られたのです。そして彼女をとがめるのではなく、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださったのです。イエスさまは、藁にもすがるような彼女の行動を「信仰」という言葉でもって受けいれ、彼女を励まされたわけなのです。

Ⅲ.私たちの葛藤

説教を準備しながら、もし私に特別な癒しの賜物があり、病気の方に手を置いて祈ったら、癒されるのだとしたらどんなに素晴らしいかと思いました。でもそうした賜物は与えられていません。むしろそうした私たちに神さまが与えて下さっている導きとは、祈り求めるようにということです。その結果、私たちは祈りが聞かれる経験をし、また、時には聞かれないということもあります。
ただここで私たちの心に1つの葛藤が起こるということがあるかもしれません。それはイエスさまの癒しの力を信じる一方で、その御力が私の病に臨むかどうかは信じ切れないという葛藤です。
今日の聖書箇所でもイエスさまは病気の人を癒しておられます。それが当たり前という前提で、私たちは聖書を読みます。
でも今、私たちはそうした癒しをイエスさまに期待することができるのだろうか。期待していいのだろうかと思います。問題はそれだけではありません。今日の聖書の箇所には、病気の癒しにとどまらず、人が甦っています。私たちはそうした願いを主にぶつけていいのでしょうか。
ここで、私たちが聖書を読む時に冷静になって受けとめて行かなければならない、もう1つの大切な事実があるように思います。それは、イエスさまでさえも、私たちが歳を重ねていく時計の針を逆戻りさせ、また人が誰しも、死を経験するということを決して覆すことをなされなかったという事実です。
死の床から起こしてもらったヤイロの娘も、これから後、何年、生きることになったか分かりませんが、やがて死んで行ったと思います。もう1人の女性も同様でしょう。だとすれば私たちが祈り求める病の癒し、さらに踏み込んで、死んだ娘を生き返らせて欲しいというような求めとは、何を意味しているのでしょうか。

Ⅳ.必ずふり返り私たちの傍らに来てくださるお方

最近、歳をとることの関連で「アンチ・エイジング」という言葉をよく耳にします。これは年齢という時計の針が先に進むことにストップをかけ、場合によっては逆戻りさせ「若返り」をはかるような営みのことです。しかし果たしてそうした人間の営みは、神さまの御心に適っているものなのでしょうか。
確かに私たちが、歳を重ねる中で切に願うこととは、弱らず、衰えず、長生きすることでしょう。しかし、もう一方で聖書は、私たちの生物的な意味での死を免れるとは一言も保証していないのです。ヤイロや、この女性に申し訳ないのですが、ここまで考えを進めて行きますと、ここに登場するヤイロもこの女性も、特に気の毒で、特別に不幸な境遇に置かれている人たちではないように思えて来ます。何故かと言えば、ヤイロが直面している死の問題は誰もが味わう死そのものです。そして私たちや私たちの家族や友も、今現に、この女性と同じような、いやそれ以上に重い病と闘っている方がおられるのです。
では、そうした私たちに聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。それは、イエスさまが、こうした私たちの悲しみや、死の現実とどのように向き合ってくださったのか。どのように受けとめてくださっているのかということだと思うのです。マタイは、こうした出来事を通して、そのことを私たちに伝えようとしているように思うのです。
聖書に戻りますが、イエスさまのところにヤイロがやって来て、娘の死を伝えると、イエスさまは立ち上がってヤイロの後についてきてくださったのです。その理由は、ヤイロが直面していた死の現実を、イエスさまも現場で立ち会いながら受けとめてくださるためです。
この点に関し、ある牧師がこんな話をしていました。キリスト教会が誕生したのは何故か、と問いかけた後で、教会が誕生したのは、病を癒す力を教会が神さまから授かったからではなく、イエスさまが復活されたからだ、というのです。
死んだヤイロの娘を立ち上がらせること。女性の病気を癒すこと。つまりいのちの時計の針を逆戻りさせることを、イエスさまはご自身のお働きの中心とは考えておられなかったように思うのです。その証拠に、生き返った娘も出血の病を癒していただいた彼女も、いつか必ず死を迎えたわけです。
それでは、イエスさまが復活を通して、私たちにしてくださったことは何でしょうか。ある牧師曰く、「それは、いのちの時計の針を逆に前に戻すのではなく、むしろそのいのちの時計の針を先に進めること。死を超えてもっと先に進めてしまうことにある」というのです。
聖書を読みますと、私たち1人ひとりには、いのちの持ち時間があることが分かります。そうした意味で、みなそれぞれ、いのちの時計を持っているようなものでしょう。そしてその時計は死の時点で止まります。
でもどうでしょう。イエスさまは、そうした私たちのいのちの時計が、死をもって止まる時に、そこで止まらないでもっと先に進めるようにしてくださる。先に進めてくださるのです。それがキリストと共に復活することの恵みです。
私たちの究極の救いは、病の癒しの先にある、罪の支払う報酬といわれる死の解決の問題だからです。聖書が語るのはこの福音です。
聖書に戻りますが、イエスさまは、恐る恐るご自分の衣の房に触れた彼女のために立ち止まり、ふり返って見てくださいました。探してくださったのです。ここにイエスさまの愛があります。
「この時、イエスさまが前を真っ直ぐに向いて歩いて行かれたならば、おそらく十字架について死ぬことはなかったと思う」とある先生は語っていました。イエスさまは立ち止まり、ふり返られたので死んだのだ、というのです。イエスさまはふり返えられたので殺された。ふり向いて徴税人や罪人と一緒に食事をするようなお方であったからこそ、人々はイエスを亡き者にしようと躍起になったのです。それがイエス・キリストというお方です。
この女性はそのイエスさまに自らの全てを賭けて信じて行ったのです。私たちは、イエスさまがこのようなお方だから、そのお方に願うのです。諦めないで祈ることが出来るのです。
悩みの中で、病のために苦しむ私たちのために立ち止まり、ふり返り、傍らに居ていてくださる愛のお方ゆえに、そのお方に祈り続けることができるということです。
時に、神さまは癒しをもって祈りに応え、そして時には、そうでないこともあります。でもそのお方は必ずふり返り、私たちの傍らに来てくださるお方なのだ、だから、そのお方を信じ、このお方に期待しなさいと聖書は教えています。
イエスさまは言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(マタイ10:29~31)。
私たちはこのようなお方に守られています。このお方のお許しがなければ、この私に何も起こらないのです。このイエスさまと共に歩む1週間でありたいと願います。お祈りします。

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花婿が共にいるので

2016年9月18日
松本雅弘牧師
エレミヤ書31章31~34節
マタイによる福音書9章14~17節

Ⅰ.断食をめぐっての躓き

今日の聖書箇所の出来事を、この福音書を書いたマタイは、「そのころ」という「時」を表わす言葉で始めています。「そのころ」とは、いつの頃でしょうか?
実は、この「そのころ」と訳されている言葉は口語訳では「そのとき」、さらに新改訳では「するとまた」と訳しています。つまりイエスさまに招かれたファリサイ派の人たちがそこへ行ってみたら、マタイを初めとする徴税人や罪人たちが、すでにその食卓に招かれていたのです。そこで彼らは躓いて、弟子たちに質問したのです。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。そのすぐ後の「そのころ」ということです。
洗礼者ヨハネの弟子たちも躓きました。そこで、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言っているのです。この「よく断食しているのに」という言葉は、直訳しますと、「いま、断食している/断食の最中である」と訳せる言葉です。
当時、断食は特別な場合を除いて、日が昇っている間だけ食事をとらないという限定的なものでした。断食する人々は、自分や他人の堕落した生活を憂い、罪を悲しみ、週に1度ないし2度、定められた日に断食を行ったそうです。ですから、この時のヨハネの弟子たちの断食は、特別な機会と云うよりも、通常行っていた断食だったのではないかと思います。
この時の情景を思い浮かべてみましょう。イエスさまが宿としていたペトロの家の近くに、ヨハネの弟子たちがいて断食をしていたのでしょう。ところがイエスさまがおられる家の中からは楽しそうな声が、ときには歌声まで聞こえてきたりしたのでしょうか。
イエスさまは公生涯の最初に洗礼者ヨハネから洗礼を受けています。研究者によれば、イエスさまは何らかの仕方でヨハネや、ヨハネの弟子たちから影響を受けていただろうと言われます。ですからヨハネの弟子たちからすれば、イエスさまは自分たちの仲間のような存在です。それが、こともあろうに自分たちが断食しているこの時に、イエスの弟子たちは、イエスを真ん中にして本当に楽しく飲み食いしている。これは一体どういうことなのかと躓いたのです。
ここで注意しなければならないことは、イエスさまは決して断食という行為そのものを否定されていたわけではありません。山上の説教でも、断食について実際に勧めをしておられますし、何よりもイエスさまご自身が公生涯にお入りになる直前に、荒野で40日40夜の断食をなさったことが聖書に出て来ます。
ですからこの時、ヨハネの弟子たちと共に断食されなかったのは、決して、イエスさまがこの世の罪や堕落に対して無関心であったからではありません。むしろ、イエスさまがこの世に来られたこと、それ自体が、この世の罪や堕落を決して野放しにはなさらない御心の表れに他ならないという、福音の教えそのものを思い出す必要があると思うのです。

Ⅱ.古いものと新しいもの

それでは、何故彼らのように断食されなかったのでしょうか。結論から言えばイエスさまは断食とは別の仕方、根本的な解決の手段を選ばれたからです。
それは一言で言えば、人間の努力で自らを清くし、神に義と認めてもらう道ではなく、神の子イエスさまにお世話になって救っていただく道を、イエスさまが開いてくださったということなのです。
これは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々には想像もつかない道でした。イエスさまは、その道を説き、その道を示され、その道を実現するためにこの世に来られたので、そうしたイエスさまの1つひとつの言動自体が、彼らヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の「古い」考えをはるかに超える、あまりにも斬新で「新しい」道であったが故に彼らは躓いたのです。
それを表わす言葉が次の言葉です。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
ここでイエスさまはご自身が示された道のことを「新しい布切れ」、また「新しいぶどう酒」と表現されました。ご存じのように新しい布をそのまま古い服に継ぎ当てようとすると、古い布地は簡単に引き裂かれてしまいます。ぶどう酒の場合もそうです。新しいぶどう酒だって柔軟性のない古い革袋に入れたならばその発酵力で古い革袋は引き裂かれてしまい、ぶどう酒も革袋も両方がダメになってしまう。つまり、それほど新しい布切れや新しいぶどう酒は「強い」のです。それと同様、いやそれ以上にイエスさまの示された救いの道は、今までの考え方を根本的に覆してしまう程の強烈なインパクトを持って迫るものだったのです。
その新しさとは、今の時代に聖書を読み、福音書に示されたイエスさまの教えと御姿に触れる私たちにとっても同様に、まったく新しく斬新で、自分たちのこれまでの生き方をそのまま続けるのではなく、まさに回心を迫るような意味での新しさなので、時には本当に大きな躓きとなるのではないでしょうか。

Ⅲ.恵みによる救い―信仰義認

普通、清くない私たちが神さまに認めていただくためには、自分を律して、自分の力や努力によって清めていただこうと考えるものでしょう。ですから、その常識にとらわれている人々の目からみれば、イエスさまがなさっていることは非常識に見えました。いや、ある人の言葉を借りれば、「非常識ではなく、超常識だ(常識を超えている)」というのです。自分たちの考え方、常識の延長線上にはない救われる道です。私たち日本人は、人様に迷惑をかけることや、世間様のお世話になることを極力嫌い、また避けることが多いように思いますが、イエスさまが拓いてくださった救いの道、つまり神さまに義と認められる道とは、まさに初めから終わりまで神さまにお世話になって救っていただく道なのです。
「いや、そんなことはない。私たちにだってできることがあるだろう」と反論される方があるかもしれません。しかし、そうした私たちの主張の息の根を止めるように、聖書は、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と言います。アウグスチヌスが言うように、私たちはもともと曲がったナイフのような存在ですから、一生懸命まっ直ぐ切ろうと思っても、いつも曲がって切れてしまう。的を外してしまうのです。
その曲がったところ、これを罪と言うわけですが、これが解決されない限り、断食をしようと、何をしようと、それは神さまの清さの基準には程遠いというのです。ですからパウロは、私たちを「生まれながら神の怒りを受けるべき者」だったと呼ぶのです。
でも本当に幸いなことに、神さまは私たちを憐れんでくださいました。このまま、罪の問題が解決されないままで死を迎えたならば、滅びに行くしかない。その私たちを救い出すために、私たちの罪の贖いとして御子をこの世に送って下さったのです。
本当に人間らしい生き方とはこういう生き方なのだと、神の子として生きることを示してくださり、神の愛を説かれ、そして、御子ご自身が愛の生涯を送られたのです。

Ⅳ.花婿が共にいるので

実は、このことをイエスさまは「花婿が一緒にいる」という言葉をもって表現されました。婚礼の食事と一般の食事の大きな違いはご馳走の豪華さではなく、その食事の席に花嫁と花婿がいるかどうかです。それが食事の喜びの源泉であり、仮に食事が質素であっても、新郎新婦がいてくれれば立派な喜びの祝宴になるわけです。同様に、イエスさまが私たちの間におられるならば、それは喜びの祝宴です。
ただ、イエスさまの教えはさらに続きます。「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」と。
「花婿が奪い取られる時」とは十字架の時を指し示し、この後、花婿は十字架へと奪い取られて行きます。でも私たちは知っています。花婿は奪い取られたままではなく、3日の後に復活し、天に上げられ、あの二千年前のペンテコステの日に約束された聖霊を降し、より確かなかたちで、いつも私たちと共にあることを、主は実現してくださっているのです。
イエスさまが言われる、「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とはまさに、このイエスさまと共に生きる中にこそ、本当の新しさがあるという意味です。ちょうど、新しい革袋に新しいぶどう酒を注ぎこむように、私たちも主イエスさまと共に歩みを進めていきたいと願います。お祈りします。

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呪いから祝福へ

2016年9月11日夕礼拝
和田一郎伝道師
ハバクク書2章2~4節
ガラテヤの信徒への手紙3章10~14節

Ⅰ.はじめに

前回の箇所でパウロは、アブラハムの信仰を例にして、ガラテヤ地方にいる人々に、正しい信仰理解を説明しました。アブラハムによって、すべての国民が祝福される、割礼でも律法でもなく、信じる心「信仰」こそがアブラハムの子孫のしるしなのだ。 「信仰」こそがアブラハムに約束された祝福を手にすることができる。そうパウロは説明しました。
今日の箇所では、アブラハムから少し離れて「祝福」と、その反対「呪い」が取り上げられています。旧約聖書において「祝福」とは、神様が私達に与えられる、繁栄や幸福をもたらす恵みのことですが、それとは反対の「呪い」は神様に背くことへの裁きでした。

Ⅱ.旧約聖書からの引用

今日聖書個所の10節から14節の短い箇所でパウロは旧約聖書を4つ引用して説明しています。前回の箇所ではユダヤ人なら誰でも知っているアブラハムの話でしたが、今回はユダヤ人なら誰もが学んでいる旧約聖書からの引用です。
10節の「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている。」これは申命記27章26節の引用です。間違った教えを広めているユダヤ人主義者たちは、律法、律法と言うけれど申命記をはじめ、旧約聖書では律法を守らない者は呪われると書いてある。けれど「すべて守れる人はいるのですか?すべて守れなかったら『呪われる』と、書かれていますよ」と言うのです。
ユダヤ人の律法学者が、律法を完全に守っていたかというと、そうではありませんでした。祭司やレビ人も同じです。人間ですから当然といえば当然です。せいぜい8割から9割といったところでしょうか。しかし、10節にあるように「すべてのことを絶えず守る」というのですから、律法は100%ことごとく守らなければゼロと同じであるわけです。例えば、ここから新宿駅に来てください、そこで会いましょうと言われていて、一つ手前の南新宿に行っても意味はないのです。行かなかったのと同じ訳です。律法に書かれている一切の事を守らなければ、「律法を守りました」とはならない訳ですから、それは「呪われている」ことになります。パウロが引用した申命記の27章の箇所はモーセが約束の地カナンを目前にして、イスラエルの民に語りかけた箇所です。荒野をさまよう40年間にエジプトを脱出した第一世代は死に絶えました。信仰に忠実であったヨシュアとカレブだけが生き残り、他の者たちのように神様に不従順であれば、呪いが降るとモーセは警告した、この言葉をパウロは引用しました。
続く11節ではハバクク書からの引用があります。「正しい者は信仰によって生きる」というハバクク書2章4節の引用です。律法では不十分で呪いの対象になってしまうが「信仰によって生かされるのだ」という事を示している大事な箇所の一つです。
12節は「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」というレビ記からの引用です。レビ記では律法を守れる者の祝福を指していますが、パウロはこの前のハバクク書の「信仰によって生きる」と対比させることによって「律法の定めによって生きる」者も、それを全て守れない訳ですから、律法の支配下で囚われた人間のように生きる事だと指摘しました。
13節は、私たちを律法の呪いから贖い出してくださる、キリストの出来事が取り上げられます。申命記21章22~23節で「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」と決められていました。ですから、イエス様が十字架という木にかけられた事実は、ユダヤ人的には、イエス様は呪われた者としか映っていませんでした。確かにイエス様は、十字架の上で呪われた者として死なれました。しかし、それは自らが招いた呪いではなくて、ユダヤ人が律法の呪いの下にあってその呪いを、イエス様が肩代わりしてくださったのです。異邦人であるガラテヤの信徒たちが、信仰だけではなく、やみくもに割礼を受けて律法を守ろうとするならば、かえって呪いを身に招くことを指摘しているのです。
こうして14節にあるように、アブラハムに与えられた祝福が、イエス様の十字架において、異邦人に及ぶことになりました。

Ⅲ.アベルの信仰

11節にある「正しい者は信仰によって生きる」というハバクク書の言葉について、考えたいと思います。ヘブライ人への手紙11章4節によると、旧約聖書のカインとアベルの兄弟がいましたが、弟のアベルが義人(正しい者)であると書かれています。創世記4章でアダムは、その妻エバを知りました。二人のあいだにカインと、弟アベルが生まれます。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となります。ある時、カインは、大地の作物から主へのささげ物を持って来ましたが、アベルもまた彼の羊の中から肥えた初子を持って来ました。神様はアベルの献げ物に目を留められました。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せました。
ちなみに、アベルの献げ物が神に受け入れられたことを妬んだ兄のカインに対して、神はこう言いました。「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せている」と言われました。
献げ物が神に受け入れられるのは、献げ物それ自体ではなく、その献げ物をささげた者の「心」にあります。献げ物はその心の表現と言えます。アベルの献げ物が神に受け入れられたのは、「羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」からでした。
私たちの新共同訳ですと「肥えた初子を持って来た」とあって分かりにくいのですが「肥えたと」訳されたヘブル語の「テレブ」という言葉は「肥えた・脂肪・脂」という意味と合わせて「最もよいもの」「最上のもの」とも訳される言葉です。へブル人の中では、牛や羊の肉の中で「脂」の部分は最上の部分とされていて、神様に捧げるために、脂肪の部分は祭壇で焼かれて、人間は食べる事を禁じられていました。ですから、「肥えた初子を持って来た」というのは、アベルは自分の羊の中から最上の物をささげ物として持って来たことを、意味しています。しかしカインの献げ物には、そうした記述がありません。とすれば、献げ物が最上のものではなかったようです。
アベルは自分にとって最上の物を捧げましたが、神様はその最上の物、そのものを喜ばれたのではありません。その心のうちにあるものが大切です。その「心のうちにあるもの」とは「信仰」のことです。アベルの献げ物が「信仰によって」なされ、その「信仰によって義とされた」。では、アベルの信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。
アベルの生き方というのは、神様は良いお方であって、自分に恵みを与えて下さっているのは、この神様なのだと信じる生活だったのではないでしょうか。
つらい事や災難があったとしても、神様は私たちの理解を越えて、必ず私たちにとって良い事のために働きかけてくださっている。それが神様に対する感謝の表われとして、「最上の献げ物」「肥えた初子の献げ物」となって捧げられました。神様がどのようなお方であるかという信頼が、その応答としてアベルの献げ物に表わされました。自分の「正しさ」とか、自分の「善い行い」とかではなく、神様をどのようなお方として信じているかが、神様の関心事です。

Ⅳ.まとめ

神様は異邦人である私たちにとっても、良いお方です。その方を求めようという信仰がなければ、いつも感謝をささげていくことはできません。ましてや神様に喜ばれる献げ物をすることはできません。信仰がなければ「呪い」から「祝福」へと変えてくださる神様と、良い関わりを築いていくことはできません。この神様に感謝を表して、私たちにとって最も良いものを、献げていきましょう。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

聖書に学ぶ―歳をとることの意味

2016年9月11日 敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
コリントの信徒への手紙二 3章18節

Ⅰ.お誕生日カードを書きながら思うこと

高座教会の牧師の務めの1つに、教会員の皆さまにお誕生日カードを書くというものがあります。1歳になった赤ちゃんから、ご高齢の方に至るまで、たぶん、毎月100枚ほどのカードを書かせていただいていると思います。そのカードには「お誕生日、おめでとうございます」と初めから印刷されているのですが、ふと私は、自分のことと重ねあわせながら考えることがあります。「お誕生日、おめでとうございます」と他人から言われることは嬉しいのですが、でも歳を重ねることがおめでたいことと思えない自分を発見し、カードを書きながら少し複雑な思いになることがあります。それは歳を重ねるということは、一体どういう意味なのだろうかと最近思うからです。
今日は敬老感謝礼拝です。聖書から「歳をとることの意味」について、ご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.聖書における子ども・若者と年長者

聖書全体を眺めてみるとき、そこにはたくさんの若者が登場します。例えば、モーセは若くして神さまの召しを感じました。その後継者のヨシュアもそうです。ダビデについては言うまでもありません。若き日の彼らの活躍が聖書に記録されています。新約の時代に入っても、12人の弟子たちも若い時代に召された者たちばかりですし、パウロもテモテも若い時にイエスとの出会いを経験した者たちばかりです。
しかし一方でまた聖書は実に多くの重要な場所で老人を描いていることも否定できません。洪水の直前に選ばれたのは既に年老いたノアでした。アブラハムとサラが祝福を受け、約束の子イサクを授かったのは夫婦ともに老人になってからです。
少年ダビデを見いだし、将来必ずイスラエルの王になるべき器として油を注いだのは、既に年老いた預言者サムエルです。新約の時代に至っては、幼子イエスの誕生を喜ぶ輪の中にはザカリアとエリサベトの老夫婦がおり、年を重ねたシメオンやアンナもイエスの誕生を祝福している姿が出て来ます。
私たちカンバーランド長老教会は長老派の教会ですが、私たちの教会における「長老」の職務は、特に初代教会の時代から尊ばれ、その職務に就く人を敬うという伝統がありました。「長老」とはギリシャ語で「プレスビテロス」という言葉ですが、それは単に「歳を重ねた者」というだけではなく、信仰の年輪を刻み、信仰の経験を深めている者を呼ぶ呼び名であったことは間違いないようなのです。
さらにこの「長老」という言葉が出てくる箇所を調べれば、「町ごとに長老たちを立ててもらうためです」(テトス1:5)とか「弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し」(使徒14:23)などの聖句があり、こうした聖句を通して教えられることとは、牧師や伝道者の主なる務めが、実に町々に長老を立て、そのようにして教会という信仰共同体を形成することにあったことが分かるのです。
教会は、「天国は幼子のような者の国だ」と、幼児性の大切さを教えられつつ、同時にもう一方で、教会とは長老を敬うことによって成り立つ共同体であるということを、聖書は明確に説いているように思います。パウロもコリントに宛てた手紙で、「悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(Ⅰコリント14:20)と勧めています。さらに「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」(Ⅰコリント2:6)と言って、歳を重ねるということは「信仰に成熟」していく道を進むことなのだと教えるのです。
このような聖書の教えの中に、私たち信仰者が歳を重ねていくことの意味や目的が教えられているように思うのです。

Ⅲ.聖書における歳をとることの意味

ところで、ここで1つ考えてみたいことがあります。それは、歳を重ねることが、信仰に成熟していく道だとしても、それがなぜ一足飛びに実現するのでなく、1年1年というプロセスを経ながら起こって来ることなのかという点です。
この問いかけに対する結論から言うならば、それは私たちの主イエスさまご自身が、この地上において1年1年と歳を加えて歩んでいかれたから。それがイエスさまの歩まれ方だったからだ、というのが聖書の答えです。
例えばヘブライ人への手紙5章8節に、イエスさまが地上での年月を歩まれたことの意義を示す御言葉が出て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」。こうした聖句を読む時に、そこにはイエスさまが一瞬に、あるいは一足飛びにではなく、日々、あるいは1年1年というプロセスを経ながらその歩みを深めて行かれた様子が出て来ているように思います。
つまり、イエスさまは年齢を増しつつ、「多くの苦しみによって従順を学ばれ」た。それも十字架に至るまで従順を学び通されたわけです。ですから、ある人が語っていましたが、イエスさまのご生涯、イエスさまの人生は、クリスマスから一気に十字架に飛躍するのではなく、そこには1日1日、1月1月、1年1年という、年月を刻みつつ深まっていくご生涯があったのです。そして、イエスさまにあってもそうだったとすれば、私たちの人生も、このプロセスを経ての成熟ということが当てはまるのではないか、ということなのです。

Ⅳ.「今」と「そのとき」の間をキリストに倣って生きる

そのようにしてイエスさまに倣う私たちの歳の取り方について、いや、歳を重ねていく意味について、ある人の表現、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事」を借りるならば、それについて、使徒パウロは、次のように言い表わしているのです。それが今日お読みしました、コリントの信徒への手紙第2の3章18節に出てくる教えです。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:18)
ここでパウロは、「1年1年と年月をかけながら一生を通してする仕事、神さまから与えられている仕事・務め」とは、「主と同じ姿に造りかえられていくこと」だ、と語っているのです。
そうです! 年月をかけて、キリストに似た私へと変えられていくこと、それが歳を重ねていくことの意味であり、私たち1人ひとりに神さまから与えられている、一生を通して取り組むべき仕事なのです。
繰り返しますが、信仰は一度に完成するのではなく、1日1日、1年1年、イエスさまと共に歩む歩みを通しながら、イエスさまに学び、イエスさまに支えられて取り組んでいくのです。
有名なイザヤ書46章4節に「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」とありますように、場合によっては、イエスさまにおんぶしていただきながら、キリストに似た者へと成長させていただく、それが、私たちが1年ごとに歳を重ねていくことの目標なのです。使徒パウロは、そのプロセスを次のように教えています。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12)。
パウロは、ここで「今」と「そのとき」と2つの時を表わす言葉を使っています。パウロによれば、まさに私たちは、この「今」と「そのとき」の間の一瞬一瞬、1日1日、1年1年を生きているのです。そして、「今」私たちは神さまに愛され、神さまに知られていて、そこには喜びや成功や勝利もあるかもしれませんが、それと同じくらい失敗や恐れや悩み、不安もあります。そうしたときは、例えてみれば、絨毯の裏側から眺めているようで、1つひとつの出来事の意味も分からず、それがどこにつながるかも分からずに、不安や心配の心が募ります。
しかしパウロが言う「そのとき」が来ると、それまでは鏡におぼろに映ったようなもの、一部しか分からないようなものも、その時には、はっきりと知るようになるというのです。
神さまの用意されたご計画、神さまが書いてくださった「シナリオ」の素晴らしさ、豊かさに震えるような感激、感動をもって感謝する時が必ず来る。
まさに、そのようなプロセスを経て、私たちは、神さまの愛の中で、キリストに似た私たちへと造りかえられているのです。このことこそ、私たち、信仰を持つ者たちに与えられている、歳をとることの意味、歳を重ねることの目標なのです。
そのような意味で、クリスチャンは、召されるその時まで、生涯現役なのです。今日も明日もキリストに従い、キリストに倣って歩んで行きたい。そのようにして、キリストに似た私へと、日々、導いていただきたいと願います。お祈りいたします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛すること、愛されること

2016年9月11日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ルカによる福音書10章25~37節

Ⅰ.中川李枝子著、『子どもはみんな問題児。』

『ぐりとぐら』を描いた絵本作家の中川李枝子さんが子育ての本を書きました。『子どもはみんな問題児。』。表紙の絵が素敵ですし、タイトルがいいですね。私はこの本を、銀座の教文館に行った時に買ったのですが、帰りの電車で読み始めたら、ほんとうに引き込まれるように読んでしまいました。この本を読みながら、幾つか教えられることがありました。その1つは、子どもの逞しさです。
私たち夫婦に長女が誕生したのは、妻が働き、私が神学校の学生の時でした。少し特殊な環境だったと思います。長女が生まれた時、すぐに本屋に行って、子育ての雑誌を買い求めたことを覚えています。私の育った家庭は、子どものことはほとんど母親任せでしたので、私もそうした父親の影響を受けて、今思うと、あまり子育てには関わってこなかったように思います。ただ、そうではあっても、オムツを替えたり、哺乳瓶でミルクを飲ませたり、お風呂に入れたり、たまに絵本を読み聞かせたり・・はしたと思います……。
いずれにしても、そうした中で感じていたのは、子どもは柔らかくて、生きていく上で私たち親の手がなければ死んでしまうわけですから、ほんとうにガラスを扱うような慎重さが必要だと思いました。時に、私たち親の側で神経質になりすぎてしまうようなところがあると思います。そのような中で、この中川李枝子さんの本を読みますと、ほんとうに逞しい子どもがたくさん出てくるのです。
中川さんは初めから絵本作家だとばかり思っていましたが、長い間、保育士をしていた方なんですね。この本の最初の方に出て来るのですが、「目の前にいる子どもたちを何とか喜ばせたいと、おはなしを作ったのがきっかけで作家になりましたが、私の目指したのは日本一の保育をすることでした」と書いています。
中川さんはこの本の中で、子育て真っ最中のお母さんたちに対して、「焦らないで、悩まないで、大丈夫だから。子どもは子どもらしいのがいちばんよ」と励ましのメッセージを伝えています。
目次のところの各章のタイトルを読むだけでも面白いです。著者の中川さんは、この本の冒頭で、何で子どもはみんな問題児なのかについて、こんな説明をしていました。「子どもへの最高の褒め言葉は、『子どもらしい子ね』ではないでしょうか。『よい子』でも『賢い子』でも『聞き分けのいい子』でもない、『子どもらしい子ども』。では『子どもらしい子ども』とは、どんな子どもなのでしょう。子どもらしい子は全身エネルギーのかたまりで、ねとねと、べたべたしたあつい両手両足で好きな人に飛びつき、からみつき、ほっぺたをくっつけて抱きついてきます。大人からすれば『ちょっと待って!』と言いたくなるときでも、子どもらしい子に『待った!』のひまはありません。いつだって自分がこの世で一番と自信を持っていますが、それだけに自分より小さい子にはとても寛大で、大人が何も言わなくとも、小さい子を守ろうという優しさを持ち合わせています。面白いおはなしが大好きで、時にはチャッカリと、大人でも信じてしまうほどの作り話を披露することもあります。
子どもらしい子どもは、ひとりひとり個性がはっきりしていて、自分丸出しで堂々と毎日生きています。それで、大人から見ると、世間の予想をはみ出す問題児かもしれません。だからこそ、かわいいのです。子ども同士で集まると『お母さん自慢』をして喜び合い、大好きなお母さんが本当に困った時には、ちゃんと気配を察知する力も持っています。」
確かに、ここで紹介されている子どもの姿は、どこか覚えのある姿です。いずれにしても簡単に読める、それでいて結構深い話です。励まされると思いますので、紹介させていただきました。

Ⅱ.善きサマリア人のたとえ話

さて、今日、お読みしました聖書の箇所は、一般に「善きサマリア人のたとえ話」と呼ばれる、イエスさまによって語られたたとえ話です。
かいつまんでお話の内容をまとめるならば、エリコ街道に、追いはぎに襲われた旅人がいて、そこを通りかかった祭司やレビ人はその人を助けなかったのだけれども、サマリア人はその人を助けた。これが隣人になるということなのだ、とイエスさまが語られたお話です。
このたとえ話を読む時に注目したい点があります。それは、サマリア人が自分のものとしていた2つのことです。1つは、この旅人を見た時に動いた愛の心。そしてもう1つは、その愛の心を形に出来たスキルや力です。
聖書には、瀕死の重傷を負って倒れている旅人を発見した時の、この人の様子が出て来ます。この人はどうしたか、と言いますと、「そばに来ると、その人を見て憐れに思」ったとあります。
この「憐れに思う」という動詞は特殊な言葉で、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語で、「内臓」という言葉から出来たギリシャ語です。その意味は、自分の体に影響が出てしまうほど、その人の身になって気の毒に思うという意味です。ですから、言い換えれば「愛する」ということです。
そしてもう1つ。彼がこの人を助けるために身に着けていたスキル、持っていた物が出て来ます。まずは、油やぶどう酒、包帯、この人のために支払った宿賃です。さらにそうした薬類があったとしても手当てするためには、ある種の救急法を習得していなければなりません。彼はそうしたスキルもありました。
これに対して祭司やレビ人はどうかと言えば、彼らにも応急措置ができる技術や知識もあったかもしれませんが、肝心要の愛の心がありませんでしたので、結局、そうした知識や技術や力を生かすことにはならなかったのです。

Ⅲ.キリストに愛していただく

さて、私たちはこのたとえ話をどのように読んで行くのでしょうか。たとえ話を読む時のポイントは、そこに登場する登場人物の誰と、自分とを重ねあわせながら読むかだと神学校で教えられたことを思い出します。私たちの多くはサマリア人のようでありたいと思いますが、現実的には難しい。それでは誰かと言えば、祭司やレビ人のような自分ではないかと思う現実があります。最後に残った瀕死の重傷を負って倒れている旅人、この旅人と自分を重ねながら読む人は少ないと思います。
実は、宗教改革者ルターは、このたとえ話を読む時に、旅人と自分を重ねながら読むべきだと教えています。先ほど「憐れに思う」という言葉について説明しましたが、ルカによる福音書の中で、この動詞はこの箇所以外では、神もしくはイエスさまを主語とする時しか使われていない動詞です。その言葉がサマリア人の心を表現する言葉として使われているということは、言い換えれば、イエスさまが、ご自分のことをサマリア人にたとえて語っているということになります。
ですから、ルターはイエスさまが善きサマリア人で、私たちはそのイエスさまから介抱されている旅人なのだと理解しました。
つまり、私たちが愛の行動を取り、身につけている技術やスキルを、ほんとうの意味で人の役に立てるように用いることの出来る者となるためには、私たち自身が、十分にイエスさまから介抱される経験、大切にされる経験、愛される経験を積み重ねることが大切なのだ、ということをルターは伝えたかったのです。

Ⅳ.愛される経験を親自身が積み重ねる

私たちは、小さかった頃、どんなときに親や家族からの愛情を感じたでしょうか? 聖書の教える大原則は、愛される経験をすると愛する人になる、ということです。
ここでイエスさまは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と言われました。つまり、「隣人を愛する」前提に、私たち自身が「自分を愛する/自分自身をそのあるがままの姿で受けいれる」ことの大切さを教えてくださっているのです。
聖書が教えるところの「愛する」とは、「好きになる」というよりも、「大事にする」というふうに言った方が分かり易いかもしれません。愛されて育った子は、自分を大事にするのです。自分を粗末にしません。そしてお友達を粗末にしない。
逆に、愛されることが少ない時、本当の意味で自分が自分であることに不安を覚える。自分を受け入れることが難しい子になると言われます。そして、このことは、私たちの実感ではないかと思います。
冒頭で紹介した中川李枝子さんも、そのことをこの本の中で繰り返し語っていました。
そして、今日のたとえ話が教えています。私たち自身が愛をもって生きる人になるためには、私たちの心が善きサマリア人であるイエスさまの愛、神さまの愛に充電される経験をすること。これが始めであり、これが全てであるように思うのです。お祈りします。