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社会人と信仰の問題点


2016年10月30日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一 2章13~25節

Ⅰ.はじめに

今月は歓迎礼拝で「社会で働くクリスチャン」というテーマでメッセージをしております。
昔と違って今は仕事をする環境も、大きく変わったと思います。人との繋がりもインターネットの普及で、大きく広がりました。今の時代はルールをしっかり守らなければならないという法令遵守が厳しくなってきて、社会も明らかに不寛容になりつつあるように感じました。そのことを「不寛容社会」などといったりする時代です。

Ⅱ.ペトロが手紙を書いた時代

今日の聖書個所のペトロが手紙を書いた時代も、不寛容な時代でありました。この手紙はローマにいたペトロが、一世紀末に迫害の中にある教会に宛てて書いたものです。迫害の中で、キリスト者としてどう生きるべきか? このことをペトロはここに記しています。
13~14節には「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと・・・総督であろうと、服従しなさい。」とあります。ペトロは手紙を読んでいる、迫害の中にいるクリスチャンに対して、「人間の立てた制度、皇帝や総督達に従いなさい」と勧めています。一般的な考えでは、これとは反対に自分達を苦しめる政府や企業や上司に従うことなどできるものか? と思うのが正直な思いです。
また、続く15節で「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。」と記しています。先ほど、今の日本の世の中が不寛容だと申し上げましたが、少し前の時代までは、ヘイトスピーチのような人種差別的な発言や、障碍者の存在を否定するような不寛容な考えが、これだけ表にでることはなかったように思います。「愚かな者たちの無知な発言」これを封じることは、神様の御心だとしています。それにはまずこの社会の一員として、国や会社や組織の中で、その制度に従い、善を行うように勧めているのです。「そうは簡単に言うけれども、難しい」と言いたくなることが書かれています。
しかし、これはペトロだけではなくて、パウロも同じように指摘していることです。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。・・・」「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ書13章1~2節)
このパウロとペトロの教えは、イエス様から教わったことを反映しています。イエス様は
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。これは、信仰者は抑圧されているローマ帝国に対して、税金を払うべきか?との質問にイエス様が答えたものです。私たちは神の民だから、神の御心に適うようにいきなさい、しかし税金は税金で所属している国に対して払いなさい、というものでした。
これは、この世の中で権力をもった人々との付き合い方について、ひとつの示唆を与えてくださった言葉です。イエス様は「この世の権威に従うな」とは決して言っていません。パウロもペトロもこの教えを受け継いでいます。キリスト者としての生き方を、しっかり定義しています。
先ほど話しましたとおり、当時はクリスチャンに対する迫害がありましたが、その時彼らは反乱を起こすのではなく各地に散っていきましたが、ユダヤ人はローマに反乱を起こしました。エルサレムが陥落した後も、ユダヤ人達は反乱を続けました。また他の地域でもローマ帝国の圧政に対する反乱は絶えずありましたが、その中でも当時のクリスチャンは政治的反乱、反逆をしなかったのです。ただ迫害があるたびに、各地に散っていきました、それはなぜか?
先ほどの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とイエス様が言わんとされていることは、キリスト教の世界観はローマ帝国を超越しているからです。税金を払う義務は守るように、しかし国籍は天国にあるのです。
先ほども触れましたローマ書13章1節「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」
私たちの住む国や会社やあらゆる組織は、すべて神様の権威に由来したものです。この国の政治家も経営者も、あらゆる管理者も神の権威の基(もと)にあります。
イエス様がもたらした神の国は、この世の被造物すべてを覆うものです。その中に、ローマ帝国が、ギリシャや日本も、会社も学校も入っているのです。その中に私たち人間は、置かれており、自由の身です。どこの国、どこの人種、どこの職場や家庭においても神の国に住む、自由な者とされました。

Ⅲ.キリスト教世界観

しかし、せっかく自由の身となっている私たちも、かつてのユダヤ人が、ローマ帝国に抵抗するように、「自分と職場」、「自分と学校」、「自分と世の中」を、それぞれ対峙させてしまう、過ちをしてしまう事があります。「教会と職場」「教会と学校・家庭・政治・地域社会」とを分けてしまう。神の国と、そうでない国があるかのように分けてしまうのは、神様ではなくて、私たちです。ペトロの手紙2章16節にあるように、神の国に住むわたしたちは、神の僕であり自由な者です。
先ほど、神の国は、この世の被造物すべてを覆うもの、その中に職場も学校もあるのだと、いいました。これが「キリスト教世界観」という世の中の見方です。この「キリスト教世界観」をもう一つ身近な視点で見たいと思います。
例えば、今日教会の門を入って直ぐ右側の花壇に目を向けましたら、ブルーの花が咲いていたのですね。「ああ綺麗だな」って思うのです。でもそこまででしたら、神様を知らない一般の人達と同じです。私たちは信仰の眼差しで見た時、神様が造られたデザイン、不思議な秩序の中にある色合いや形に、思いを馳せることができる。そうすると、私たちが人生で出会うことになったお一人、お一人にも同じ眼差しを向けることができるはずです。
他の人から見れば、よくあるような人との出会いも、偶然ではなく、神のご計画の中で備えられた大切な出会いであると思うのです。ペトロの手紙に戻り2章18節のように、人間関係の中で、無慈悲に感じる時、私たちクリスチャンはどのように生きるか?この事が問われます。愛によって善を行い、しかし相手の言葉や態度によって苦しむこともある。しかし、ペトロは語りかけるのです。周囲の人達は分からなくても、イエス様は知っておられる。神様が望んでおられることを自発的にするだけだ、そう確信することによって、私たちは、自分の人生を肯定的に生きることができます。これがペトロの言う「自由」です。
この新約聖書が書かれた時代、ローマ帝国が栄えた時代にキリスト教は、瞬く間に広まっていきました。その要因はいくつかありますが、各地にいたキリスト者が善良で、周囲にたいへん好意をもたれていたことが、あったそうです。地の塩・世の光となって広がっていきました。社会の中で小さくとも光を放つことができれば、やがて他の同じ光と繋がって、光の輪は世の中を変える力となります。
先日、本屋に行きましたら渡辺和子さんの『置かれたところで咲きなさい』という本が目にとまりました。置かれたところで咲く、というのは、そういうことかも知れません。その場に置かれたのは、神様の御心、神様のご計画があるはずです。

Ⅳ.まとめ

私たちは、「自分の信仰生活」と、「この世の社会生活」を区別してしまうという問題を作ってしまいます。その対立軸からは、世の中に光を放つことはできません。世の中の「不寛容」に「不寛容」で報いてはならないからです。私たちは不寛容には「赦し」をもって、それぞれ、置かれている場所で咲くだけではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの罪の為に、イエス様がかかられた十字架、それは「赦し」だからです。
今月は「社会で働くクリスチャン」というテーマで、4人の方が証しをしてくださいました。みなさんも、それぞれ置かれた場所で、十字架の証し人として、歩んでいきましょう。

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わたしの願いと神さまの願い


2016年10月23日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章46~52節

Ⅰ.願いを持って生きる私たち

私たちは誰もが願いを持って生きています。私たちが口にする願いや、心に浮かぶ願いとは、とても不思議なもので、よくよく考えてみますと、結構あいまいで、場合によっては、本当に何を願ったらよいかも分からないということもあるのではないでしょうか。

Ⅱ.バルティマイ

今日の箇所には盲人バルティマイが登場します。彼ははっきりとした願いを持っている人でした。ある日、イエスさまが歩いて行かれることが分かると、イエスさまに向かって、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と呼びかけ、叫び続けたのです。周りに居た人々は、そうしたバルティマイを叱りつけ、黙らせようとしています。ところが、そうされても彼はますます激しく叫び続けました。
いかがでしょう。こうしたバルティマイの姿は、悩みを持つ私たちに、もう一度、真剣になってイエスさまに向かって訴え続けるように、イエスさまに向かって祈りを捧げるように励ましを与えている姿のように思います。
今日もこうして礼拝に集いました。目に見ることはできませんが、私たちは、ここにご臨在なさる神さまに向かって賛美を捧げ、聖書の言葉と、説教を通して私たちに語りかける神さまに、心の耳を傾けるために集ってきたのです。そして同時に、私たちの心の中にある願い、それも切実な願いを、イエスさまに向けて祈るために集ってきたわけです。
確かに、私たちの捧げる祈りが、すぐに叶えられるかどうか、神さまによって聞かれるかどうかは分かりません。ただ、イエスさまがお教えくださっているように、私たちの側で出来ることがある。それは、熱心に求め続ける、門をたたき続け、探し求め続けることです。そのようにして、私たちの願いを神さまに知っていただくために、訴え続けることだと思うのです。
今日の聖書の箇所を見ますと、そのように訴え続ける時、場合によっては、そこに妨害や障害物が入り込むかもしれない、ということが知らされます。
「そんなに叫んで何になるのだ」という声が、周囲から聞こえて来るかもしれません。また、「教会に通って、また熱心に祈っても、結局、無駄なんじゃないか」とか、「それはあなたの自分勝手な願いでしょ」など。何も言わないでじっと見ている周囲の人々の心の中の声が、彼らの表情や態度を通して、私たちに語りかけてくるように感じてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちの心の中でも、「これは困った時の神頼みではないか。自分の勝手な願いのために、神さまを利用していいのだろうか」とか。本当に様々な声が心に響き、もうそれだけで疲れてしまうことがあります。
聖書が教える信仰とは、いわゆる「ご利益信仰」とは異質のものです。自分の必要をかなえてもらうための信仰ではありません。ただ、私たちが決して忘れてはならないこと、それは、弟子たちが「祈りを教えてください」と頼んだ時に、イエスさまは何と、「日ごとの糧を今日も与えて下さい」と、毎日の必要を祈るように教えてくださったということです。
バルティマイは目が見えないという苦しみの中にありました。ですから、「主よ、憐れんでください」と叫び求め続けたのです。多くの人々が彼を叱りつけ、黙らせようとしました。でも彼は負けません。祈り、訴え続けたのです。するとどうでしょう。イエスさまが立ち止まってくださったのです。
イエスさまはこのバルティマイの訴えに立ち止まって、ご自分の予定を変更してくださったのです。ご自分の時間をバルティマイのために使い、そして、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。
呼ばれてイエスさまのそばに来た彼に向かって、イエスさまは「何をしてほしいのか」と聴いてくださいます。願い事があるならば、遠慮せず、隠すことをせずに、願うことを残らず話してごらんなさい、と励まし、促す言葉をお掛けになったのです。
バルティマイはそのイエスさまの眼差し、その励ましの言葉に背中を押されるようにして、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエスさまは、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って、彼はたちまち見えるようになったのです。

Ⅲ.「悩みの日にわたしを呼べ」

(詩編50:15、口語訳)
旧約聖書の詩編50編15節は、口語訳聖書では次のようになっています。「悩みの日にわたしを呼べ」。
バルティマイと出会ってくださったイエスさまのお姿がここに現われているのではないでしょうか。そして、神さまのお姿が現れているのではないでしょうか!
聖書は神さまの自己紹介の書です。今日の箇所で、イエスさまを通してご自身を示された神さまとは、まさに「悩みの日にわたしを呼べ」と言われるお方そのものでしょう。聖書が示している、私たちの神さまは、「悩みの時には自分のことを呼んでくれ、私が居ないかのようにして悩み続けるな。悩みの時にはわたしを呼ぶのだ」と、願い求めておられるのです。
時に、私の願いと神さまの願いがずれることがあります。ちょうど、子どもの願いと母親の願いがずれてしまうようにです。
でも、神さまは、聖書の中に神さまの願いをはっきりとあらわしておられます。それは、「悩みの日にわたしを呼べ」ということです。
悩みの日に、悩みの時に、あなたが本当に助けてもらいたいこと、してほしいことを、私に向かって祈れ、と言ってくださるのです。
「わたしを呼ぶ」、つまり、「神さま、主よ」と呼ぶということは、「祈る」ということです。あなたの心の中にある願いを、祈りとして表現しなさい。遠慮しないでいい、あなたの願いを私に向かって祈りなさい、と促しておられるのです。
何故、神さまは「悩みの日にわたしを呼べ」と言い、呼び求める者に、イエスさまが言われたように、「何をしてほしいのか」と、そのままに尋ねてくださるのでしょう。
祈る側の私の方に、その祈りを神さまに聞いていただくたけの資格はありませんし、神さまの側にも私の祈りを聞かなければならない義務もないはずです。それなのに、何故、神さまは、「悩みの日にわたしを呼べ」、「何をしてほしいのか」とわざわざ聴いてくださるのでしょうか?
この問いかけに対する聖書が語る答え、それはただ1つ、神さまが愛のお方だからだ、ということだけです。
神さまは、私たちを愛してくださっている。ご自身の独り子をさえ十字架にかけてくださるほどに、私たちを大切な者と受けとめてくださっている。それ以外に答えが見つからないのです。
ある人が語っていました。愛には理由がない、と。神さまは私たちの天のお父さんです。そのお方が「悩みの日にわたしを呼べ」と言ってくださいます。そして、私たちが本当に助けを必要とする時に、「主よ、わたしを憐れんでください」と呼ぶことが許されているのです。いや、神さまが呼ぶようにと願っておられるというのです。これこそが、神さまの願い、イエスさまの私たちに対する願いなのです。

Ⅳ.あなたの願いを祈りに変えて、主を呼び、主に従う人生

最後に、もう一度、今日の聖書箇所を見たいと思います。彼は「道端」にいたのです。社会が彼に与えていた居場所は、人が歩く道ではなく、その端っこでした。イエスさまを見つけ、道端から立ち上がり、「主よ、憐れんでください」と叫びながら道に立った途端、人々は彼を「道端」に引きずり戻そうとするのです。でもイエスさまは違っていました。社会が押し付けてきた「道端」から、道のど真ん中に招かれました。
人間の願いが、神さまの願いと1つになった時、彼の生き方に変化が起こりました。そして新しい、本当に人間らしい人生が始るのです。
盲目の彼が見えるようになったことそれ自体、大変なことなのですが、回復された目で、彼が何を見るか、それはもっと大切なことかもしれません。
この人は、その目でイエスさまを見たのです。道を進まれるイエスさまをしっかりと見て、そのお方から離れることなく、そのお方に従ったのです。
イエスさまに従う人生には、生きる意味があります。慰めと喜びがあり、使命が与えられます。それは、神さまの願いに応える人生であり、神さまの愛に守られる人生です。
あなたの願いを祈りに変えて、神さまに呼びかける人生を歩んでください。そしてイエスさまの歩かれる同じ道の上を、イエスさまに従って歩む人生を進んでください。
それが愛と恵みの神さまに良くしていただいた私たちに対する「神からの願い/神の願い」なのです。お祈りいたします。

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選ばれた人生を生きる

2016年10月16日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
創世記13章8~18節
ヨハネによる福音書15章16節

Ⅰ.はじめに

私たちは毎日の生活の中で何かを選びながら生きています。そして選んだ結果、幸せな歩みとなったり、逆に困難に直面することも起こります。またもう一方で、自分で選んだのではない様々な条件や環境の下で生きていかなければならない現実もあります。

Ⅱ.アブラムとロト

ある時、アブラムは神さまから「わたしが示す地に行きなさい」と言われました。アブラムはその導きに従って旅立ち、カナンの地にやってきました。甥のロトも一緒でした。
アブラムも、そしてロトも、2人とも神さまによって「与えられた旅」を歩んできたのです。ところが突如、彼らの前に別れ道が出現します。その結果、ロトはロトなりに行く道を選び、アブラムは神の与えて下さった土地に留まるのです。

Ⅲ.ロト的な生き方

ロトは、神さまが「わたしが示す地」と言って与えて下さった土地ではない方を選び取りました。では、この後、2人はどうなったのでしょうか。
今日与えられた聖書個所、創世記13章の場面で、ロトは神さまが彼らのためにと用意された土地を捨て、自分の判断で別の土地に移って行ったことが記されています。
ロトは、カナンの土地が神さまによって示されていた土地であることを知っていました。ところが、創世記12章を読みますと、彼らは、そのカナンの土地にいたばかりに、ある時、飢饉を経験しました。つまり、神さまが与えられた土地であるにもかかわらず、そこで不都合な目に遭ったのです。
ですから、彼は考えました。飢饉に備えて、もっと水場に近い地域に居を移したほうが安心なのではないか、と。
その結果として彼は、神さまが彼に与えた土地を捨て、別のところに移り住むことになったのです。勿論ロトにはロトなりの理由がありました。しかし神さま抜きで、自分の判断を頼りにして、常に良い方を、良い方をと選びながら生きる生き方が最終的には行き詰り、破綻していくことを、この後、創世記は伝えていきます。

Ⅳ.選ばれた人生を生きる―アブラム的生き方

さて、一方アブラムはどうしたでしょうか? 彼にも紆余曲折がありました。しかし、最終的に神さまが示されたカナンの土地に最後まで留まっていきました。
アブラムが選んだ土地は、見方によればロトが捨てた残り物です。しかし、アブラムは世間の基準を超えて、神さまとの関係の中で捉えていくようにしました。つまり、最善を願う神さまが私や家族のためにと準備してくださった土地こそ、本当の意味で祝福された土地なのだ。アブラムはそのことを前提に歩みを進めて行ったのです。
先日、アップル社を立ち上げたスティーヴ・ジョブズの生涯を扱う番組がありました。その中で、彼は多くの大学生を前に、「ひとの人生を生きる暇なんかない。そんな暇があったら、自分の人生を受け取り直し、自分の人生を生きようではないか」というような意味の言葉を語っていました。若い人はスティーヴ・ジョブズにあこがれるでしょう。でも、彼は世界でたった一人なのです。もし私たちが自分の人生を生きずに、一生懸命、スティーヴ・ジョブズのようになろう、彼の生き方をなぞるように生きよう、としても、神さまは、私がスティーヴ・ジョブズのクローンになることを願ってはおられません。私が私であることを願っておられるのです。
洗礼・入会準備会の中で時々、次のようなお話しをしています。「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら、訊かれた方は一瞬戸惑うことでしょう。勿論、「リンゴとナシ、どちらが好きですか?」なら、「リンゴが好きです」とか、「私はナシの方がいいな」と言えるかもしれません。でも、「リンゴとナシ、どちらが凄い?」と質問されたら困るわけです。
神さまがリンゴに期待していることは、リンゴがナシのようになることではないのです。ナシに願っていることは、リンゴのようなナシになることではありません。リンゴは見事なリンゴになればいい。ナシもそうです。本当にナシらしい、ナシになればいいわけです。このことは私に対しても全く同じです。
聖書に戻ります。神がアブラムのために、と与えて下さった土地であることを受け止め、アブラムはそこに留まる決意をしました。
自分に選ぶ機会が与えられた時に、神が、私にと与えて下さった人生を、私の方も責任をもって選び取り直して生きるという生き方があるのです。神が与えて下さった道を、私も選び取って生きる生き方がある、聖書が示している生き方とは、そうした生き方です。まさに「与えられた人生を選ぶ」という生き方、自分の人生を引き受ける生き方ですね。
いかがでしょう。私たちの周囲を見渡しますと、激しい競争があります。人よりも抜きん出ることが求められる社会です。謙遜さとか誠実さとかは、問題にされないようなことも起こっているかもしれません。良い方、得な方、利益になる方を常に優先して選び続ける、まさに先ほどご一緒に見たような、「ロト的な選択」が称賛され、そうした選択をする人が得をするかもしれません。でも、もっと本当の、自分自身の人生があるのではないでしょうか。大きな繁栄、経済的な豊かさを追求するあまり、神さまが私のためにと与えて下さっている特別な、私だけの人生を捨てて、「一か八か」の競争の中に身を投じるという「ロト的な生き方」ではない生き方が。
神さまが与えて下さっている、その人なりのユニークな人生を、自分の方から選び取る生き方があるのだと、そのことを創世記は私たちに説いているように思います。
アブラムはロトが捨てた方の土地を受け取りました。何故でしょう? それは、神さまがアブラムに与えて下さった、特別な土地だったからです。神さまは、その直後のアブラムに本当に興味深い言葉をお与えになっています。創世記13章の14節から17節をご覧ください。
「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。』」
これは、どういうことでしょうか。これはロトに代表される世間の目ではなく、神さまを信頼する目で、もう一度、選び取り直した場所、自分の生き方、自分の人生を見渡しなさい、というご命令です。神さまを信頼する者の足取りで、もう一度、あなた自身の人生を歩き直して御覧なさい、という導きです。
一見して取り残されたように見える人生、何か損をしているように見えてしまう歩みの背後に、実は、神さまの特別な選びの真実、また神さまの愛がある。それを決して見失わないように、という導きの言葉です。
ですから、アブラムはどうしたでしょう。彼はそこに「主のために祭壇を築いた」と書かれています。祭壇とは礼拝する場所です。そうです。礼拝の生活です。
確かにアブラムにとって、表面的な意味での、環境の好転はなかったかもしれません。でも、神さまが、この状況の中でどう働いてくださるのか、神様の前に静まることを通してそのことに気づき、神さまの真実な愛に触れる経験となったことでしょう。
今日、もう1つ、聖書の言葉を読ませていただきました。新約聖書のヨハネによる福音書 15章16節の御言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、……わたしがあなたがたを任命したのである。」
イエスさまは、私たちに人生を与えて下さっています。人生そのものを与えて下さったそのお方と共に生きる人生です。私の方からも人生を受け取り直して生きていく。そうした生き方へと、聖書は私たちを招いているのです。
こういう人生が、どこか他に見られるでしょうか。教会にはこういう人生があると思います。ご一緒に、神さまが与えて下さった人生を、私たちも選んで生きていきたいのです。そのことを通して、神さまの素晴らしさを味わい、証ししていきたいと願います。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

ほめられることから来る力


2016年10月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.生きる上で必要な、7つの基本的ニーズ

今日はファミリーチャペルです。この礼拝では、子育てのこと、家族関係のこと、夫婦のことなどを取り上げながらお話しています。
今年の4月からは、私たちが人として健やかに成長していく上で、何らかの仕方で満たされる必要のある7つの基本的要素があることを学んできました。
その7つとは、①大切な存在であることを知らせること/②安心感をもたせること/③受けいれること/④愛すること、愛されること/⑤ほめること/⑥しつけること/⑦神を教えること、です。
こうした基本的な必要が満たされない時に人は、心の内側に不安が募り、それを不健全な仕方で満たそうとします。その結果、さまざまな問題が生じるのだと言われます。
今日はその5つ目、「ほめること」について考えてみたいと思います。

Ⅱ.親たちに共通する過ちの1つ―子どもをほめないこと

ある心理学者が語っていました。私たち多くの親たちに共通する大きな過ちは、自分の子どもをほめないことだというのです。確かに、私たち自身の子ども時代を振り返ってもそのとおりではないでしょうか。何か失敗をすれば必ずと言ってよいほど叱られましたが、それに比較してほめられる経験は、意外に少なかったように思います。
アメリカで、母親が毎日の生活の中で、肯定的な言葉と否定的な言葉を子どもたちにどれくらいかけたか、という調査をしたところ、何と、否定的な言葉かけが、肯定的な言葉かけのおよそ 10倍であったという結果が出たそうです。そして、この調査を分析した学者によると、子どもにかけた1つの否定的な言葉の埋め合わせをするためには、4つの肯定的な言葉かけが必要だ、という結論が導きだされたというのです。
自分が認められていない、お母さんやお父さんに認めて貰えていない、そのように感じると、子どもは、そうした大人たちからの称賛を得るために、時に、奇をてらう行動に出ることがあります。場合によっては、本当に痛ましい行動へと駆り立てられてしまうということも起こるのです。

Ⅲ.イエスさまの子どもへの対応の仕方

今日はマルコによる福音書10章16節の御言葉をお読みしました。「そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて、祝福された。」
これは、みどり幼稚園の保育において、とても大切にしている言葉です。その理由はイエスさまが身をもって教えてくださった、子どもとの接し方、子育ての基本が説かれているからです。
ここには、子どもたちに対するイエスさまの接し方、その様子を表す3つの動詞が出てきます。「抱き上げる」、「手を置く」、「祝福する」ということです。
これは表現を換えれば、「イエスは子どもたちを愛された」、「子どものニーズに応えてくださった」ということで、その具体的表現が、抱き上げ、手を置き、祝福された、ということでしょう。
これは子育ての基本だと思います。「抱き上げる」とはスキンシップのことですね。子どもたちはスキンシップが大好きです。2つ目の「手を置く」とは、別の言葉で表現したら、「祈る」ということです。そして最後3つ目は、「祝福する」ということ。これはある意味で、教会特有の用語かもしれませんが、意味はその子の存在をほめることです。
こんな話がありました。毎日、お風呂にも入らず汗臭く、あまり清潔でない身体で登校する女の子がいたそうです。担任の先生は、この女の子が、手足が汚くてもそのままにしていることに気付き、この子の心を傷つけないように、ある時、こう言ったのだそうです。「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね。洗面所で洗って来て、あなたの手がどんなに綺麗か、みんなに見せてあげたら?」と。
今まで、家族からそんな言葉かけを一度も聞いたことのなかった、いや、ほとんど家族に相手にされていなかったこの子は、先生から「あなた、ほんとうに綺麗な手をしているわね」と言われたことが、あまりにも驚きで、しかも嬉しかったのでしょう。すぐに手を洗いに行き、嬉しそうに戻って来て、誇らしげに両手を挙げてみんなに見せたそうです。先生もすかさず、「まあ、ほんとうに綺麗。ちょっとの石鹸と水で見違えるようになったわ」と言って、その子をギュッと抱きしめたそうです。スキンシップしたのです。
この出来事があってから、この子は少しずつ変わっていきました。大きな変化は、お風呂に入るようになり、自分の体を清潔に保つようになってきました。言い換えれば、自分を大切にしていくようになったのです。そして学校の中でも周囲から一目置かれる存在に変わっていきました。
何がこの子を変えたのでしょうか? 答えは簡単です。ほめられたから…です。いかがでしょう? 逆に「駄目だ、駄目だ」と言われて大きくなると、自分を粗末にする子になります。何故でしょうか? それは、自分を大切な存在と思えないからです。どうせ自分なんか大事じゃないと、周囲から刷り込まれた物語をそのまま信じると、そうなってしまうのです。
ところが、身近な家族から毎日「駄目だし」をされて育った子が、逆に、とても「良い子」になる場合もあるのです。どうしてかと申しますと、母親、父親からの承認を得ようと一生懸命になり、大人の顔色を伺い「良い子」を演じ続けることしか、強烈な「駄目だし」を封じ込める方法が見つからないからです。こうした頑張りは「背伸び」をした行動ですから、必ず疲れ、プツンと切れてしまうのは時間の問題でしょう。
聖書の言葉に戻ります。ここで、イエスさまは子どもたちを祝福されました。つまり、ほめたのです。聖書によれば、元々、私たちは尊く、かけ替えのない存在として造られています。だからこそイエスさまはほめたのです。ほめられた子どもは嬉しかったと思います。イエスさまからほめられ、承認されましたから、自分をそのような者として受けとめるきっかけが出来たことだと思います。言い換えれば、そのままの姿で自分を受容できるようになるのです。
イエスさまが子どもたちに対してなさった3つの動作、「抱き上げ」、「手を置いて祈り」、そして「存在を祝福し、ほめること」。子どもたちが人として健やかに成長していく上での大切な基本的な要素であることを、そして、子どもたちに対する私たち大人たちの姿勢であることを教えられます。

Ⅳ.ほめられることから来る力

幼稚園のカウンセラーの大西百合子先生とお話をした時、十数年前に天に召されたお連れ合いのことを、「彼はかっこよかった!」と、本当に自然な言い方でおっしゃるのです。感動しました。その場にいた妻も同じことを感じたようで、帰りの車で2人になった時に、「お父さんも、かっこいいよ!」と言ってくれたのです。普段言われ馴れていないので、照れくさく変な感じなのですが、でも嫌な気はしません。すると本当に不思議なのですが、私の心も大らかになり、妻の良さに目が留まる余裕が出て来ました。
私たちは人にほめてもらうから、人をほめることができる。逆に人からほめてもらえないと、人をほめることが本当に難しいのです。私たちは、「おはよう」と気持ちよく声を掛けてもらうと、「オハヨウ」と返すことができるようになります。
でも、ここで問題があります。それは、私たちの力には限界があるということです。つまり、こちらに余裕のない時には、相手をほめることが難しいのです。ではどうしたらよいのでしょうか。
誰かから「ビタミン愛」を補給してもらう必要があります。それが神さまの愛なのです。
今日、礼拝のはじまりのところで、司式の長老が読み上げてくださった聖書の言葉がそのことを教えています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一 4:19)
聖書は、誰よりも先にまず神さまが、ありのままのあなたを愛してくださっている、と伝えています。誰よりもまず神さまが、私たちをほめてくださっているのです。イエスさまがそうしてくださっています。あなたに向かって「大丈夫、あなたを愛している」と言っておられます。「あなたの髪の毛の数さえ数え」るほどにあなたを大切に思っている。
「あなたはあなたでいい!」と肯定してくださっているのです。それが少しずつ分かって来ると、子どもたちや他の人に向かってそうできるのです。本当に不思議です。
秋の歓迎礼拝が始まりました。聖書を通して語りかけてくださる神さまのご愛に耳を傾けながら、その同じ語りかけをもって、子どもたちや周りの人たちと接していきたいと思います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

ダビデの子よ、憐れんでください


2016年10月2日
松本雅弘牧師
イザヤ書42章18~25節
マタイによる福音書9章27~34節

Ⅰ.福音書記者マタイの伝え方

マタイによる福音書8章から9章にかけては、イエスさまの御業が記録されています。マタイは極めてシンプルな仕方で記録していますので、今日の箇所に出てくる出来事などは、つい読み過ごしてしまうようなところでもあります。
しかし、この箇所を、前後の文脈の中で味わうとき、実に大切なことをマタイが伝えようとしていることが分かってくるように思います。

Ⅱ.この出来事を通してマタイが伝えたかった大切なこと

ではマタイが伝えたかった大切なこととは何でしょうか。そのことを考える前に、1つだけ注目しておきたいことがあります。それは2人の盲人がイエスさまに向かって、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ言葉です。
ここで彼らはイエスさまを「ダビデの子」と呼んでいます。ダビデとはイスラエルの2代目の王様で、旧約聖書に名を連ねる王様の中で、彼こそが特別な存在でした。
マタイによる福音書1章1節が、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始まりますように、ダビデの子孫から救い主・メシアが生まれることを人々は待ち望んでいたことがわかります。盲人である彼らは、イエスさまを「ダビデの子」と呼んでいるのです。つまり「メシア・救い主」と呼びかけたのです。
ところで、イザヤ書35章5節と6節に、メシアが現れるとこんなことが起こると預言した有名な聖書の言葉があります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
他の福音書に比べて、マタイがシンプルに奇跡の出来事を記録している理由がここにあると思うのです。つまり、マタイが一番伝えたかったことは他でもない、イザヤが預言したメシア、このメシアこそナザレのイエスなのですよ、ということだったのです。
今こうして、見えない人の目が開かれ、聞こえない人の耳が開いている、この1つひとつの出来事がその証拠なのだと、マタイは伝えようとしているということなのです。

Ⅲ.「だれにも知らせてはいけない」と言われた2つの理由

話しはそれで終わりとはなりませんでした。目が見えるようになった2人に対してイエスさまは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」とお命じになったのです。それも「厳しくお命じになった」と書かれています。ところが彼らはそれに従わず、「しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた」のです。
私の想像ですが、癒してもらった盲人たちに悪気はなかったと思います。逆に、素晴らしい働きを言い広めることは、他の人たちにとっても、そしてイエスさまご自身にとってもいいことだ、と信じて疑ってなかったのではないでしょうか。
でもどうでしょう。あの創世記3章で蛇の誘惑に負け、主なる神さまの命令に従わなかったアダムとエバを思い起こしてみた時に、改めて、私たちはイエスさまの言われたことを、正確に受けとめる必要があることを想わされるのです。たとえ、「何で、こんなことをおっしゃるのか」と、その時点では理解できなくてもそうすべきです。
この時、イエスさまが「だれにも知らせてはいけない」と言われたことには、少なくとも2つの理由があったのではないでしょうか。まず第1は、イエスさまご自身がファリサイ派の人々の敵意を知っておられたという理由です。
興味深いことに、群衆のイエスさま評価とファリサイ派の人々のそれとが正反対です。当時、口の利けないのは悪霊の仕業で、悪霊を追い出すことによって初めて癒されると考えられていました。その常識を前提にした場合、群衆はイエスさまこそが、その「悪霊を追い出す力」を持っておられたと賞賛したのですが、ファリサイ派の人々は、そのイエスさまの御業自体を悪霊の頭の力に帰し、非難したのです。しかもファリサイ派の人々による非難が、この後、「ベルゼブル論争」へと発展し、さらに、最終的にはイエスさまに対するその敵意が殺意として燃え上がり、十字架へとつながっていくことになるのです。だからこそイエスさまは、目が見えるようになった2人に対して「だれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じになった」、これが第1の理由だと思われます。
もう1つ、考えられる理由があります。それは群衆側の問題です。群衆のイエスさまに対する勝手な期待です。
イザヤの預言の言葉によれば「病気の癒しはイエスさまが一体誰であるのかを指し示すしるし」、つまりそうした「しるし」をなさるイエスさまこそメシアなんだ、ということを意味していました。ところが、そうした中で、イエスさまが怖れ、警戒なさったことは群衆の勝手な解釈によって「しるし」それ自体が一人歩きすることでした。
この時、群衆たちはイエスさまのことを、どんな病気でも癒し、どんな願いでもかなえてくれるスーパーヒーローのような存在として受けとめていたのではないかと思います。またそのような意味で賞賛し、チヤホヤしようとしたのではないでしょうか。
でもイエスさまは決してそのような存在ではありませんでした。私たちの側の心の願いを叶えるために、簡単に利用できるお方ではないのです。もしそのようなお方だとしたら、私たちの方が主人の立場に立つことになります。主人の座についた私が、イエスさまに向かって「こうしてください」「ああしてください」「こうしてもらっては困ります」と、「祈り」という手段をもって自由自在にイエスさまを動かしていくことを信仰のように思っていたら大間違いなのだ、とマタイは警告するのです。
イエスさまは、そうした彼らの心の姿勢を見抜いておられました。ですからこの後、群衆の勝手な期待と、イエスさまご自身との間にズレが生じ、群衆たちにとって、イエスさまというお方が、自分の願いを叶えるサンタクロースのような存在でないことが徐々に明らかになるにしたがって、イエスさまを絶賛していた彼らもまた、イエスさまを憎み始めるのです。彼らの勝手な期待でしたが、でもその期待が大きかっただけに憎しみも大きくなったのです。
そして最後には、「ピラトが、『では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか』と言うと、皆は、『十字架につけろ』と言った。ピラトは、『いったいどんな悪事を働いたというのか』と言ったが、群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び続けた。」(マタイ27:22~23)と聖書は記しているのです。
イエスさまは、彼らの心を見抜いておられました。だからこそ、そうした期待が助長するのを避けるために、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と「厳しくお命じになった」のでしょう。
このように考えて来ますと、マタイによる福音書8章からここまで続いたイエスさまの御業を締めくくる、今日の2つの癒しの出来事は、不思議な仕方ではありますが、十字架への道を方向づける出来事のように思います。

Ⅳ.暗い出来事の向こうを御覧になるイエスさま

まとめに入ります。今日、お読みしませんでした35節には、次のような言葉があります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」そして、そのすぐ後に、「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と続きます。
ここでイエスさまは、将来、ご自分にとっては難しい存在、言わば「敵のような存在」となる、この群衆の悲惨な姿、絶望的な姿を御覧になって深く心を揺さぶられる経験をしておられるのです。
この「深く憐れまれた」という言葉は、あの善きサマリア人が、追いはぎにおそわれ瀕死の重傷を負って倒れていた人を見た時、「憐れに思い」近寄ったと同じ言葉です。
イエスさまの御心も悟らず、その言いつけを無視し、自分勝手に言い広める群衆、愛される理由などないような群衆に対して、愛の心をもって主は深く憐れんでくださるのです。この御言葉の意味を味わいながら考えてみますと、この時の群衆の状況は絶望的です。ところがそうした状況を御覧になったイエスさまは、「収穫が多い」時だと言われたのです。
ある人の言葉を借りるならば、イエスさまは目に見える状況の、さらに向こうを見ておられ、「困難が大きい時こそ、それは収穫の前触れなのだ」と言われるのです。
そして、収穫の主の約束を先取りしながら、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言って、今、なすべき具体的な一歩を示しておられます。
私たちは今一度、主の語られる御言葉を注意深く丁寧に聴いていきたいのです。そして、目先の状況が厳しくても、その先を御覧になり「困難が大きい時こそ、それは収穫の前触れなのだ」と言われるイエスさまを信じて歩んでいきたいと願います。
お祈りします。