カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

神に栄光、地に平和

2016年12月25日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書33章2~6節
ルカによる福音書2章1~20節

Ⅰ.導きの不思議さ

クリスマス、おめでとうございます。考えてみれば信仰を持つことはとても不思議なことのように思います。何故なら2千年も前に生きていた1人の人、それも遠く離れたパレスチナで生きたお方と時空を超え、ある意味で自分の家族よりももっと深いかかわりの中に生きることだからです。これは本当に不思議な導きです。

Ⅱ.世界で最初のクリスマスを祝ったのは神だけ

今日の聖書箇所でルカはクリスマスの出来事を記録しています。そのルカが、まず伝えたかったこと、それは住民登録のためにヨセフが向かったのが「ダビデの町」だった点です。その町で生まれたイエスこそ、私たちの真の王なのだという信仰を明らかにしています。
しかし、王の王であるイエスさまがお生まれになった時、当時の人々はその誕生を誰も知らなかったのです。ルカはその事実をも淡々と伝えます。
この後、羊飼いは御子誕生の知らせを受けますが、それは全くの例外です。世間一般の人々は誰一人、イエスさまの誕生を知りませんでした。ですからお祝いもしなかったのです。お祝いしたのは父なる神さまだけでした。
さらに、ルカはイエスさまの誕生をもう1つ別の視点でとらえ、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」と伝えています。
ここに当時のローマ皇帝の名前が出て来ます。彼こそ、数多くのローマの皇帝の中でも、特に「名君」と呼ばれた人です。アウグストゥスの時代、かなりの長い間平和が続きました。それを「アウグストゥスの平和」と呼びます。
この時代の人々は、「このような平和は皇帝アウグストゥスのお蔭なのだ」と語り、彼を「救い主」と呼び、「神」と崇める人々も出てきたのです。そしてローマのある地方では、この皇帝の誕生日を「福音」と呼んだそうです。「福音」とは元々は「良き知らせ」という意味ですが、「イエス・キリストの福音」の「福音」と同じ言葉を、アウグストゥスに当てて使っていたのです。
この後、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という天使の言葉が出て来ます。ここで言われる「告げる」というギリシア語は「福音」という言葉の動詞的な使い方です。つまり天使の言葉を直訳すれば、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを喜びとして告げる」となります。日本語に直すとしつこい翻訳になるために、単に「告げる」とだけ訳しています。
ここでルカは、その誕生日を「福音」として祝われている皇帝アウグストゥスの治世に生まれたイエスさまの誕生こそ、実は本当の「福音」として人々に語り告げられたのだと語っているのです。
そうした上で、2章11節には、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と記し、皇帝アウグストゥスを呼ぶ時に使っていた「救い主」という呼称を、敢えてイエスさまに当てて用いているのです。
天使がイエスさまを指さしながら「アウグストゥスではない、こちらこそ本当の救い主・メシアなのだ。ダビデの町に誕生し、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子こそ、真の救い主なのだ」と語るのです。

Ⅲ.世界の片隅に生まれた救い主

ところで、イエスさまの誕生の出来事は当時のローマ史にほとんど記録されていないと言われます。特に18世紀以降の聖書学者による福音書研究ではその歴史的信憑性が疑われてきました。
しかし、後にその学説はひっくり返ります。決定的理由は、後の時代の考古学の発掘やエジプトと他の地域で発見された碑文などの研究の成果によりました。
現在、聖書外の文献や最新の考古学の裏付けによって分かってきたことですが、この時の住民登録がシリアで実施されたのは紀元前7年、もしくは紀元前4年頃なのではないか。したがって、イエス・キリストは紀元元年を遡ること、7年前、もしくは4年前にベツレヘムで誕生されたのかもしれないと考えられるようになってきました。
さらに通説として、この時代、皇帝アウグストゥスの名による住民登録が行われ、しかもそれが40年の歳月を要して実施されたと考える学者も出て来ています。つまり、「40年もかかった」ということは、裏を返せば、それだけローマの領土はとてつもなく広大で、そこに住む民の数も多かったということでしょう。まさに皇帝アウグストゥスの偉大さを示す証拠にもなる歴史的な事実だと思うのです。
ここで私たちが決して見落としてはならないこと、それは、アウグストゥスによる世界規模の歴史的人口調査が実施されるという出来事の最中に、ひっそりとした夜に、世界の片隅で、もう1人の王である、いや真の王である救い主イエスが誕生したのだ、ということをルカが私たちに伝えているということです。
この時代の人々は皇帝アウグストゥスの力を称賛し、彼がもたらした平和を喜びました。そして彼の誕生日を「福音」と呼んでお祝いしていました。
その同じ時、同じ世界にもう1人の王、いや真の王である「イエス」という名のメシア・救い主が誕生したのです。本当にひそやかに、当時の人は誰も知らない、それ故に誰からもその誕生を祝われない仕方で誕生しました。それを歴史的出来事としてスクープした新聞記者のように、ルカは、自らの興奮を抑えつつ、しかし確信をもってここに記録しているわけなのです。

Ⅳ.「神に栄光、地に平和」

ルカは、イエスの誕生を「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と伝えています。そして、この出来事を最初に知らされたのが羊飼いたちだったと、この後の記述を通して私たちは知らされるのです。
ところで、羊飼いとは住民登録の対象外の人々でした。ですからその最中にも、いつもと同様に羊の番が出来たのです。ではなぜ神さまは彼らを選び御子の誕生を知らせたのでしょうか?
それは彼らこそが誰よりもイエスさまを必要とする人たちだったからです。ルカは、主イエスの誕生に飼い葉桶が使われた理由として「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と伝えていますが、「場所がなかった」とは「迎え入れてはくれなかった」ということです。これは、まさに羊飼いたちが日ごろ経験して来たことでした。
「お前なんか、居ても居なくてもいい」と人々から見られ、それ故に、心深く傷つく経験を何度もしていたのが羊飼いです。その彼らに、神さまは御子誕生の最初の知らせを伝えてくださったのです。彼らが神に愛されている尊い存在として、胸を張って生きて行って欲しいと神さまは願っておられました。
ある人が言っていました。「クリスマスの出来事を1つひとつ考えてみると、クリスマスの物語の中には、本当はそうあって欲しくない話、そうあってはならないという話が幾つも含まれている」と。
そうです。「決して、そうあってはならない」と、神さまは熱い愛をもって、寂しく片隅に追いやられた人々の所に御子を送ってくださったのです。イエスさまがおられた場所は、きっと動物臭かったと思います。使用中の飼い葉桶に寝かされたわけですから。でも、よく考えてみれば、その臭いこそ羊飼いが身にまとっていた「香水」です。ホッとできるような香りだったでしょう。
恐れを感じている羊飼いたち、いや私たちが、恐れることなく近寄ることができるように、イエスさまは、赤ちゃんとして誕生されました。羊飼いがやって来た時に、「場違いなところに来たなぁ」と感じないように、しっかりと「野原の香水」を浴びるように飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
イエス・キリストは、ほんとうにひっそりとした仕方でお生まれになりました。それはひっそりと、片隅にしか居場所を見つけることができない人の救い主になるために、本当に静かに生まれてくださったのです。
羊飼いたちに喜びの知らせを告げた天使たちは、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と歌いました。
クリスマスの夜に、飼い葉桶の中に、オムツにくるまって、誰に認められることもなく産声をあげているイエスさま。そのイエス・キリストの誕生によって、神さまの恵みの支配が、この世界に始まっているのです。全ての人の救い主となり、全ての人の顔から涙を拭おうとする神さまの闘いが、この時から始まったのです。
私たちは、この主イエスの平和を実現する闘いに参与するように招かれています。その光栄と喜びをもう一度、共に分かち合い「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しながら、歩みを進めて行きたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

マリアの賛歌

2016年12月18日
第四アドベント
松本雅弘牧師
詩編147編1~11節
ルカによる福音書1章39~56節

Ⅰ.アドベントの主役としてのマリア

先週の水曜日、クリスマス会を翌日に控えた幼稚園の年長さんが、ホッとスペース虹の部屋の前で遊んでいました。「明日は、クリスマスなんだ。劇をやるんだ」と話しかけてきました。「誰の役?」と訊き返すと、「マリアさん」とその子は答えました。そしてもう1人の女の子に「あなたは?」と尋ねますとその子も「私もマリアさん」と答えました。
〈さすが、みどり!〉と心の中で幼稚園を称賛しながら、「ところで、マリアさんは何人いるの?」と尋ねますと「8人かな、でもイエスさまは3個しかないの…。」と答えたのです。お人形のイエスさまが3つしかない、という意味だったと思います。改めてクリスマスの主役はマリアさん、と思ったことでした。

Ⅱ.喜びに溢れるマリア

さて今日の聖書個所にはそのマリアさんが登場します。彼女は20歳にもならない娘です。その彼女にとって「受胎告知」は大事件でした。その経験を受けて、マリアは急いでエリサベトの許に向かったことをルカは伝えています。
それは彼女の心が不安で一杯だったためではありません。それを解く鍵が「マリアの賛歌」の歌い出しの言葉にあると思います。ここには「わたしの魂は主をあがめ」とあります。
この「あがめる」という動詞の形は現在形で表わされています。「わたしの魂は主であるあなたを、今もずっとあがめ続けています」という意味です。
ところが、それに続く「喜びたたえる」という動詞は不定過去形で「神を喜んでいた」という意味です。つまりもう喜んだというのです。このニュアンスを大事にしながら、ある人はこの個所を次のように訳していました。「神さまはもう、私の方に顔を向けてくださった。その時に私の心も、すでに喜びに溢れていた。そうです、神さま。あなたに顔を向けていただいた喜びに、私の心はもう溢れているのです。ご覧ください、この私を。この後の人々はみな、ああ、あの人は神の喜びに満たされた人、幸いな女と言うようになるのです」。
この時マリアはすでに喜んでいました。その喜びに急き立てられていたのです。それが、ここでルカが強調していることなのです。

Ⅲ.マリアのエリサベト訪問

喜び溢れたマリアを迎えたのが親戚のエリサベトでした。エリサベトは、神の恵みを共に数え、共に賛美し、祈りをささげました。
ところで不思議なことがあります。それはマリアがエリサベトと会う時点まで、心の中にあった喜びが歌にはならなかったということです。ところがエリサベトに挨拶され、共に抱き合って喜んだ時、初めて賛美の歌が生まれました。こうして生まれた歌が「マリアの賛歌」でした。
今日、詩編147編を読みました。朗読を聞かれて、〈あれ、マリアの賛歌に似ているな〉とお感じになった方もあるのではないでしょうか。そうです。このマリアの賛歌は、全く白紙の状態からマリアが歌い上げたものではなく、マリアの心の中で詩編147編の一部が賛美となって整えられたことは明らかなようです。専門家によれば他にも幾つもの聖書の言葉が、この賛歌にはちりばめられていると指摘します。
マリアは、祭司アロンの子孫エリサベトの親戚でしたから、マリアの家も祭司の家だったかもしれません。きっと日常的に詩編を唱え、祈る家庭の中で、先輩たちの祈りの言葉によって自らの信仰を形作ってきたのでしょう。
ここで覚えておきたいこと、大切なことは、マリアは自分だけの言葉で歌を歌おうとはしなかったということです。神の子イエスを産むという恵みを独り占めしようとは思わなかったのです。
先輩たちの信仰に育まれ、旧約聖書で歌い継がれた神さまの恵みに、今、自らも与っている1人の信仰者として、こうしてエリサベトと一緒に、同じ神様からいただいた恵みを感謝しながら、喜びの歌を歌おうとしているのです。
みどり幼稚園にマリアさんがたくさんいるように、「私だけではない、あなたにも共に、このように神さまの恵みが与えられているのだ」と、その恵みを数えながら、信仰の歌を、昔から歌い継がれてきた賛美の歌を、新たな思いを込めて歌った、それがこの「マリアの賛歌」でした。
マリアとエリサベトの出会いの中に、次のような素晴らしい言葉が出て来ます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
ある専門家は、このエリサベトの言葉をこんな風に訳していました。「マリア、あなたは幸せです。何故ならあなたは信じることができたから。信仰を持っているから。信仰を持っていたら、何故幸いなのでしょう。それは神があなたに約束されたことを、神が必ず実現してくださるからです。神の手の中にあるあなた、あなたは幸せ者ですよ。」

Ⅳ.厳しい現実の中で、主を賛美することができる

以前用いていた口語訳聖書では、新共同訳が「神を喜びたたえます」と訳す部分をただ「神をたたえます」と訳しています。原文ではただ一語「喜ぶ」という言葉です。
聖書の教えによれば、神さまをたたえることは、神さまを喜ぶことです。こうしたことを踏まえて、今日、礼拝に集って来た私の心の中に喜びがどれだけあるのだろうか、神を喜んでいるだろうか、と考える時、この「喜ぶこと」は、当たり前のことのようで、実は、必ずしもそう簡単ではないことに気づかされます。
私は牧師ですが、カンバーランド長老教会では牧師を「みことばと聖礼典に仕える者」と定義しています。つまり教会の「説教係」が牧師です。毎週説教の準備をし、日曜日ごとに講壇に立ちます。夕礼拝が終わり牧師館に戻ったその時、重荷が取り去られる瞬間です。
そして、月曜日が終わって火曜日が来ると再び戦いが始まります。特に高座教会の場合、週日の諸集会があり、また牧師としての責任の中で、落穂拾いのように時間をかき集めながら「説教係」としての責任を果たさなければならない物理的な面での困難さもあります。
しかし「説教係」にとっての一番の難しさとは、牧師自身が常に喜びに溢れているかと言えばそうではないという現実があるということです。
ある牧師が「神の存在を十分に信ずることができる理由を探すより、神の存在を疑わせる理由を捜す方がたやすい」と語っていましたが、まさに実感です。私たちは、「神がおられるのに、何故?」と訴えたくなるような現実や出来事に囲まれています。
そうした日々を送りながら7日経つと主の日がめぐって来きます。ただいつも思うのですが、本当に不思議なことに、そのルーティンのような取り組みの中で、不思議と恵みに満たされていくのです。日曜日の朝になると信仰が与えられ、「説教係」としての務めを果たさせていただくのです。「強いられた恩寵」という言葉がありますが、まさに説教の準備こそ牧師にとっての「強いられた恩寵」なのだと思います。
そしてこれは牧師だけではないのです。すべての信仰者にも「強いられた恩寵」があります。それは礼拝を守るという務めです。信徒も神を礼拝するために召された者として礼拝に集えるように祈り、体調管理をし、予定を調整し、様々な工夫をするのです。その時、不思議と恵みに満たされ、必ず神を喜ぶ者へと整えられていくはずです。何故なら礼拝を守ることは喜びの源泉である、ぶどうの木であるキリストにつながることだからです。
「マリアの賛歌」に戻ります。マリアは、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。神さまを礼拝することは、神さまを喜ぶこと。神さまを礼拝することにより、私たちの心は喜びに満たされるのです。
マリアの喜びの源泉はここにありました。身分でもない、性別でもない。今まで、偉大な神さまは偉大な人々にしか目をお留めにならないと思っていたのに、そうではなかった。この私に目を留めてくださった。そして偉大なことをしてくださった。そのようにして神さまは、この私を愛してくださった。マリアはそれを実感したのです。そして、そのことが、彼女にとっては驚きであり、そしてまた大きな喜びとなったのです。
そして、私たちもその同じ神さまの恵みを数えつつ生きるのです。神さまに目を留めていただいている現実の中に私たちも置かれているからです。
この恵みの現実の中にしっかりと身を置いて、その恵みがつま先から髪の毛の先までも浸透し、実感することができるように、しっかりと受け止めて行くことです。なぜなら、「神に愛されていることを知ることにより、私たちが喜んで生きる」ことができるからです。
マリアとエリサベトはこの神さまの愛を深く受け止め、喜びに満たされました。
たとえ、喜べない厳しい現実、悲しい出来事に囲まれていたとしても、神さまに愛されている恵みに浸り、その恵みに立ち返ることによって、私たちもマリアやエリサベトと一緒に、主を賛美し、主を礼拝して生きることが許されています。この恵みの中、クリスマスに向かって歩む私たちでありたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

産みの苦しみ

2016年12月11日 夕礼拝
和田一郎伝道師
イザヤ書1章2~10節
ガラテヤの信徒への手紙4章17~20節

Ⅰ.はじめに

前回の箇所でパウロは旅の途中で病気が悪くなった事で、ガラテヤという町に滞在することになり、人々の心を信仰へと動かすことができました。それを見ますと何が益とされるか分からないものだと思います。一見つらい出来事も、神様はそれを超えたご計画をもっています。パウロの熱心には感染力がありました。しかし、同じ熱心でもそれがどこから来たものなのか?パウロがガラテヤを離れた後、パウロの教えとは違うユダヤ主義の伝道者がやって来ました。
17節「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」

Ⅱ.「熱心」に惹きつけられてしまう誘惑。

私たちの人間的な目から見ると、自分に対して熱心に接してくれる人がいると、ついつい嬉しく思ってしまいます。ですから、その「熱心」に惹きつけられてしまう誘惑があります。そのような熱心さには、一見、自分の満足を満たしてくれるようなものがあるからです。そういった熱心さに向き合った時、私たちは試練として試されているのかも知れません。イエス様も荒れ野でサタンと誘惑に遭いました。
「この世のすべての国々とその栄華を見せて、もし悪魔を崇拝するなら、この世の栄華を全部あなたに差し上げましょう。」という誘惑です。私たちにも、目の前にあること、すぐに得られる結果を見せて、イエス様の言葉を気にしなくてもいいと誘い込みます。けれどもイエス様に従う道は、得てして患難があります。キリストの教えとこの世の価値観は反対であることが多いのです。ですから忍耐を必要とします。それらを通して練られた品性、希望が与えられるものです。
18節にあるように、パウロと一緒にいる時は正しい信仰があったのに、パウロのような指導者がいなくなると、途端に別の行動を取ったのです。信仰者は、自分が福音の真理に従って歩んでいるのかを吟味する必要があります。
19節は、パウロの正直な思いが現されています。自分とガラテヤの人たちを、親子の関係にたとえて「もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいる」と言っています。これはもう一度、救われていないという前提で福音を語らなければいけない、初めからやり直しだということです。

Ⅲ.聖徒の堅忍  キリストを主として歩む“道”

一度イエス・キリストを信じて、信仰を持った人が、まったく信仰生活から離れてしまうことがあります。「以前はクリスチャンだったけど、今は違う」と言ったりする人がいます。しかし、これはカルヴァンが主張したことですが「聖徒の堅忍」といって、一度救われた人は絶対に滅びないのです。イエス様は「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ福音書10:28 )と、おっしゃった通りです。しかし、信仰をもって日々生きている人と、そうしていない人とは、歴然とした違いがあります。善い交わりや御言葉からの養いがないわけですから、恵みの違いは明らかですし、歩むべき道が分からなくなってしまう。ガラテヤの信徒は、そういった間違った道を歩もうとしていたのです。
「道」という漢字は、「首」という字に「しんにゅう」がついてできた漢字です。「しんにゅう」は人が歩いて行く姿を表しているそうです。「首」とは何かと言うと、「かしら」ですから、すなわち私たちの頭、イエス・キリストが共に歩いて下さる人生になります。そしてその人生が、「かしら」なる「主」によって歩くときに、本当の道ができるといいます。
20節でパウロは、どうしていいのか「途方に暮れている」と言わしめる状態でした。以前、一緒に語り合った時のように親しい語調で、懇切丁寧に教えたいところですが、彼らは信仰理解だけではなく、パウロの使徒としての権威も疑ってしまい、パウロとの関係自体も危うくなっていました。すぐさまガラテヤに飛んで行って話しをしたい。パウロの苛立ち、ジレンマが現れています。

Ⅳ.「クリスチャンの交わり」

ガラテヤの信徒は、かつてパウロのことを、まるで神の使いでもあるかのように、接してくれていました。それなのに、今度は熱心に言い寄るユダヤ主義者の教えに傾いて、パウロの事を信頼しなくなっていました。
ボンヘッファーという、ドイツの神学者は『共に生きる生活』という本の中で、信仰者の交わりは、あくまでキリストにあっての友だと言うのです。その友を、自分の愛をもって規制したり、強制したり、支配したりする誘惑から、友人を自由にしなければならないのです。その友はキリストに愛されています。私と出会う前からイエス様は友に対して、決定的に行動されていたのですから、私は友人をキリストのために自由にするべきですし、規制したり、強制したり、支配したりする誘惑から友人を自由にしなければならない。私たちはキリストの為にある者として、出会うべきであると、ボンヘッファーは言うのです。それがキリストにあって友であるという意味です。

Ⅴ.「産みの苦しみ」 19節

私たちは、本当の主を信じたことで、新しい命が与えられ、生まれ変わりました。イエス様はニコデモというファリサイ派の議員と、ある晩、こんな事を話されました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。しかし、ニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができましょうか?」という、ちょっとちぐはぐな会話をしました。罪の中に生きていた、古い私たちが、新しく生まれることができる。その為の、産みの苦しみを担ってくださったのはイエス様です。イエス様は神の身分でありながら、私たちの救いの為に、産みの苦しみを担いに、この世に、来てくださいました。それがクリスマスの出来事です。神の身分である方ですから、わたしたちの罪を、言葉で宣言すること、「赦します」というみ言葉で、一瞬で赦すこともできたかも知れません。しかしイエス様は、そうはしませんでした。私たちの中で生きることを選ばれ、私たちの為に苦しむ事、そして死ぬことを選ばれました。なぜでしょう?
それは、そこに神の愛が示されているからです。苦しみや痛みの中に、神の愛が示されています。神様はあらゆる力を備えた全能の神です。それと同時に愛の神様、愛そのものが神です。愛なる神様は痛みや苦しみを知らなかったり、無関心であったり、まして痛み苦しみを感じない方ではありません。十字架の痛み苦しみ、そして死の恐怖を、人が感じるのと同じように担うという、救いの道を選んでくださいました。人を支配したり統治する力ではなく、痛み苦しみという弱さのうちに完全に現わされました。私たちの命を新しく産みだす十字架の苦しみ、これ以上に大きな愛はありません。

Ⅵ.まとめ

パウロはガラテヤの信徒たちに、感情を込めて、自分の心情を訴えました。それは、信仰をどうか失わないで欲しい、新しい命を得るために、イエスキリストが担ってくださった、痛み、苦しみを知れば知るほど、信仰から離れた兄弟姉妹への思いは強くなります。教会から離れている、尊い命。その命にもイエス様の、優しい眼差しが、注がれています。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22:32) アドヴェントのこの時期に、イエスさまのご降誕と私たちの救いの為に、産みの苦しみを担ってくださった事を覚えながら過ごしたいと思います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

神を教える―人生に確かな土台を築くために


2016年12月11日 第三アドベント
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24~27節

Ⅰ.「全人的成長」-「高座みどり幼稚園ミッションステートメント」から

高座みどり幼稚園は「ミッションステートメント」の中で、「子どもたちの全人的な成長を祈り求め」ることを謳っています。この「全人的な成長」という言葉ですが、例えばルカによる福音書2章52節には「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」とあり、ここに幼子イエスさまの知的、身体的、社会的、そして霊的成長ぶりが報告されています。

Ⅱ.人間の霊的側面―聖書の人間観

「霊的成長」と言った時の「霊的」いう言葉はあまり聞きなれない言葉のように思えます。ところがWHO(世界保健機関)は「健康の定義」に、この「霊的」という言葉を使っているのです。このことは、人間が身体的、精神的、社会的存在であると共に霊的な存在でもあるという考え方が世界基準になっているということでしょう。
ではこの人間の霊的な側面とは何を意味するのでしょうか。
ギリシア語で「人間」を意味する「アンスロポス」は、元々「上を見上げる存在」という意味です。そして当然、上を見上げる時の「上」とは永遠なる生ける神のことを意味します。つまり「人間が霊的な存在である」とは「上を見上げる存在だ」と言う意味なのです。
聖書によれば、神は人間を良いものとして創造されました。神さまから「あなたは大切な人です」と語りかけられている存在、それが私たちです。ですから、人間はそうした者として生かされて、神さまからの「あなたは大切な人です」という語りかけを受けて生きる時、本当に人間らしい生き方が出来るのです。
ところが、その神さまとの関係が途切れると、本来、神さまからの愛をもって埋めなければならない心のすき間を、私たちは別の何かをもって埋めようとするのだと、聖書は教えます。その別の何かとは、マタイによる福音書4章で、サタンがイエスさまを誘惑した時に提示した3つのものがそれを表わしています。1つはパンに代表される様々な持ち物、2つ目は人々からの称賛や評価、3つ目は権力、力です。そうした代用品によって心のすき間を埋めようとしてしまうのが私たち人間です。でもそれらはあくまでも代用品にしかすぎません。心のすき間を埋めることができるのは、神さましかおられないのです。聖書はそのように教えています。

Ⅲ.土台をはっきりとする

今日の聖書箇所でイエスさまは2種類の生き方を示しています。1つは賢い人の生き方で、岩の上に家を建てるような生き方です。もう1つは愚かな人の生き方、砂の上に家を建てるような生き方です。
家を建てることは人生の大事業です。ですから一度限りの掛け替えのない人生のことをイエスさまは「家」にたとえてお話されたのです。ここで賢い人も愚かな人も、共に家を建てました。新築の家、そのどちらにも雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かりました。全く同じように、です。
ところがその結末は全く正反対です。片方はびくともしない。もう片方は倒れ、しかも倒れ方がひどかったのです。両者のどこが違うのかと言えば、それは土台でした。片方の土台は岩だったのに対して、もう一方は砂だったからです。
ところで、土台というものは普段は建物の下に隠れていて目には見えません。でも、いざと言う時に物を言うのが土台なのだと、イエスさまは言われるのです。
ここでイエスさまは、ご自身が話された教えのことを第一義的に土台として語っておられるのですが、その教えを丁寧に読んでいくと、その土台とは、神さまとの正しい関係、また聖書に基づく夫婦の関係、親子関係、人間関係、さらに自分自身との関係について、語っておられることが分かります。
「関係」そのものも、実際は目に見えないものです。しかも、生きていく上で非常に大切なのです。例えば、仕事において何年か経つと必ずといってよい程、責任が増えて来ます。当然忙しくなります。次第に仕事の楽しさも分かってきます。そのように目に見える働きや世界が拡がって来るのです。イエスさまはそれを家にたとえておられます。そして、その家を支えているのが土台です。その土台が、目に見える働きの世界が拡がって来るのと比例して地中深くにしっかりと根を張っていなければ、大きくなる建物を支えきれずに、何かの拍子に倒れてしまうことが起きますよ、というお話です。
教会では結婚するカップルのために、『二人で読む教会の結婚式』という本を課題図書としています。その本の中で著者がこんなことを言っていました。「よい夫婦になるための秘訣というようなものを、簡単に言うことはできないと思いますが、でもそれに近いものはあると思います。それは、『いつまでも夫と妻でいること』です」と。
ここで言う「よい夫婦になるための秘訣」とは、今日の表現を使えば、「しっかりとした土台としての夫婦の関係を築くための秘訣」と言い換えられると思います。そして、それを一言で言えば、「いつまでも夫と妻でいること」だと言うのです。
確かに「夫」という言葉も「妻」と言う言葉も関係を表わす言葉です。夫は妻がいるから夫ですし、妻は夫がいるから妻です。「妻はいませんが、私は夫です」という人はいません。当たり前ですが、夫というのは必ず「誰々の夫」ですし、その人が妻であるならば、「誰々の妻」となります。とすれば妻が自分を妻であると意識することができるのは夫の存在があるからで、その夫が遠くに行ってしまったら、もちろん物理的な距離ではなく精神的な距離のことを問題にしているわけですが、その夫が遠い存在となり、妻は自分を妻として意識できなくなることが起こり得ます。
そうなると妻はふと考えるかもしれません。「私は何なのかしら」と。そして周りを見回すとそこに子どもが居る。「ああ、私はこの子の母親なんだわ」と思います。そして良い母であることに自分の存在価値を見い出そうと努め、こうして母になった妻は子どもに全力投球し始めるのです。そして、これは「子どものため」と言いながら実は自分が良い母親である、という評価を得たいがための努力かもしれません。これは子どもにとってはとても迷惑なわけです。
また、夫が会社で仕事の責任が大きくなり、そこにまた喜びや充実感を感じ始める中どうしても仕事を第一にして物事が進むことが起こります。ここで夫は完全に会社員になります。その結果、「妻」が「母」になると言われます。
これは関係性の変化です。そして前と変わらず2人は同じ家に住み、同じように暮らしながら、夫婦が一緒に生きているのではなくて、会社員と母が同居しているだけになる。その結果、互いが「空気のような存在」になると言われます。
「関係」とは、元々は建物の土台に当たる部分ですから決して目に見えません。生活全体を支えるはずの夫婦という目に見えない土台が「空気のような」関係ならば、何かが起こった時に、簡単に崩れてしまうのではないでしょうか。そしてその崩れ方、倒れ方はひどいのです。
今まで、このファミリーチャペルで何度もお話してきましたが、子どもにとって一番幸いなことは、お父さんとお母さんが互いを大切にし合っている状態です。お母さんが、いくら子どもである自分のことを大事にしてくれたとしても、お母さんにとっての夫、子どもにとっての父親をないがしろにしていたら、子どもは少しも幸せになれないのです。いや、安心できません。心の中で、「ボクのことは後でいいから、お父さんのことやってあげて!」と言いたくなるでしょう。土台が危ういから、子どもは不安になるのです。

Ⅳ.賢い生き方を選び取る

今日の聖書の箇所でイエスさまは、この世界には賢い生き方と愚かな生き方の2つがあるが、あなたは賢いほうの生き方を選び取りなさい、とはっきりと勧めています。
今までに、神さまとの関係も含めて、夫婦の関係や家族の関係など、その関係を大事にしてこなかったことがあったかもしれません。もちろん、そうした過去にやってきたことを書き換えることは出来ないでしょう。やったことをやらなかったことにすることは不可能です。
でも、これからのことについては、これからどう生きるのか、そのことは私たちのこれからの選択にかかっているのです。その選択の結果、私たちはどのようにでも変わり得るのです。
イエスさまは、賢いほうの生きかたを選び取りなさい。聖書の言葉を行う人、生きる人になりなさい。それこそ岩の上に家を建てた賢い人なのだ、と教えています。ぜひ、こちらを選び取って行きたいと願います。お祈りいたします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

神のご計画


2016年12月4日
第二アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書30章15~22節
ルカによる福音書1章24~38節

Ⅰ.「神にできないことは何一つない」

今日、私たちに与えられている聖書箇所には、有名な「受胎告知」の出来事が記されています。ここには、汲みつくすことの出来ないほど多くの恵みが隠されているのです。
今日は、天使ガブリエルとマリアとのやり取りを通して、2つのことを考えてみたいと思います。

Ⅱ.マリアが示した信仰者としての模範―主のはしためとして生きる

まず第1は、マリアは自分のことを「主のはしため」と見ていた点です。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」(2:38)
今日の箇所を読んで改めて教えられたこと、それは神さまのご計画、神さまのお働きは、私たち主の僕、主のはしためたちの参加を必要としているということです。
「あなたのご計画通りに私をお用いください。私を生かして用いてください」、「私たちを通してあなたの御心が実現しますように」という祈り、願いに導かれて初めて、神さまの御計画が実現する道が拓かれていくということです。
誤解を恐れずに言えば、マリアのようなはしためたち、また僕たちの参加や手伝いなしには、神さまのご計画は実現しないと言えるのかもしれません。
マリアはそのような信仰者としての模範を私たちに示してくれたように思うのです。つまり、マリアは、自分の願い通りに生きることを明け渡しました。言葉を添えるならば、「私も自分の人生のシナリオを描いて来ましたが、でも、主よ、あなたのシナリオが私にとって最善です。ですから、あなたのなさる通りで結構です」と、ここでマリアは告白しているのです。
そしてその結果、ある意味で、自分の思い通りにはいかないという経験をしていきました。
この時のマリアのことを思い巡らしてみたいのですが、彼女は婚約期間中でした。自分のこれからのことについて、さまざまな願いを持っていたことでしょう。ところが、そのような時に、「そうはいかない」神さまの言葉が入り込んできたのです。
その御言葉に応答し、その御言葉が自分の人生において実現するようにという祈りが、マリアの心の中に生まれたのです。

Ⅲ.冒険としてのマリアの決断

2つ目のことは何でしょうか。「お言葉どおり、この身に成りますように」という祈りは、大きな決断を前提とした祈りだったということです。
私たちの毎日は計画と決断の連続だと思います。今日はジュニアチャーチの皆さんも礼拝に来ていますが、例えば、ジュニアチャーチの皆さんでしたら、中学、あるいは高校を卒業した後のことを思い描くでしょう。中学を卒業したら、どこの高校に行こうか。あるいは行きたいか。高校を卒業したら、どういう進路に進もうかと計画を立てます。そして決断をします。
学校を卒業すると、今度はどういう職業に就こうかと考えます。また、結婚のことも考えるでしょう。そのようにして、私たちは人生の節目、節目で計画と決断を繰り返しているのです。
進学や就職、結婚といった大きな決断もありますが、毎日の生活の中でも、小さな幾つもの決断をしながら生きている面もあるでしょう。
仕事をしている人で、とくに責任のある立場に立たされれば、自分で決断しなければならない場面にしばしば出合うことでしょう。そして、決断には、その結果を委ねる側面が必ずあるように思うのです。言い換えると、決断する私たちは、常にある種の冒険を強いられるということです。
以前、高座教会に来られたK先生が「神の冒険としてのアドベント」という言葉を使われました。実は「アドベンチャー・冒険」は、この「アドベント」から来ている言葉だそうです。
「飼い葉桶と十字架は初めから一つである」と言われますが、神さまの冒険の結果が、飼い葉桶であり十字架でした。
とすると、この神さまに従って歩んで行く私たちには、時に、アドベンチャーと言われる冒険のような歩みが強いられるかもしれません。
マリアの決断はまさに冒険だったと思います。この時のマリアの年齢について聖書は沈黙しています。ただ聖書学者によれば、たぶん10代の娘だったろうと語ります。まだ世間のことが分からない、若い娘だったことでしょう。これから結婚しようとするヨセフに頼り、彼に全てを任せて生きていこうと考えていたのではないでしょうか。そうしたマリアにとって、夫となるヨセフも知らないのに子どもを授かってしまう。それはマリアにとっては想像もつかないような世界に足を踏み入れることになるのです。
私がもしマリアの立場に立たされたとしたら、「それは、困る」と思います。まずは、ヨセフが理解してくれるかどうか。そして、世間から何と言われるか分かりません。でもマリアは実に自由に、神さまに対して従順に決断していきました。
それは1つの冒険だったでしょう。しかしそうしたマリアの決断があったからこそ、私たち人類の、そして世界の救いのための御計画が実際に大きく動き出していったのです。一人の、まだ二十歳にもならない娘の決断によって始まった出来事でした。
天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけています。この「恵まれた方」とは「すでに恵みを受けた方」という意味です。
ある人は、この「恵まれた方」すなわち、「すでに恵みを受けた方」という天使の「呼びかけ」は、すでに神さまがマリアをお選びになっていること、マリアの決断に先立って、もうすでに神さまの決断があったことを示す言葉なのだと語っていました。
ちょうど何かの賞を受ける時のようです。まずは選ばれることが先です。その結果、「おめでとう」という挨拶が語られるのです。
この「おめでとう」という言葉も、ギリシア語を直訳すれば、「喜びなさい」という意味になります。「あなたに喜びがありますように。おめでとう!」という意味です。
ルカは、「マリア、神さまの愛の中に選ばれている者よ、おめでとう。あなたも喜びなさい」という天使の言葉によって、「喜びなさい」という神さまの思いを、このところに記録しているのだと思うのです。
「おめでとう」、「めでたい」という日本語、この「めでる」という言葉は、「実際に自分の目で見て本当にいとおしい」という意味があるのだそうです。神さまがマリアを、すでに慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださっているということでしょう。神さまが慈しみをもってマリアを選び、めでられたのです。
御子を宿すということは、この時のマリアにとって、必ずしも喜びであったとは言い切れません。
この先、マリアとヨセフが幼子イエスさまを連れて神殿に行った時、シメオンという名の老人が、幼子を見るなり神さまを賛美し、そして預言をしました。「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。』」(ルカ2:34)
シメオンは、苦しみと悲しみの預言を語りました。マリアは、この預言の言葉のもとに、御子の子育てを始めなければならなかったのです。
この福音書を書いたルカは、そうしたことを承知の上で、しかも、それにもかかわらず、この苦しみの預言に先立つ、「おめでとう、恵まれた方」という天使の呼びかけによって、マリアが「神さまの愛の中にすでに選ばれている者」であることを記します。
神さまの恵みの決断、神さまの喜びを知らせる決断、その神さまの決断がまず最初にあって、私たち信仰者はそれを受けるように、神さまの恵みに応答し、決断していくのです。
私たちがどのような決断をする時にも、マリアと同じように、「お言葉」が先だってあるということです。そして、お言葉に心の耳を澄ませて聴いた者が、「あなたのお言葉どおりこの身に成りますように」という祈りをもって応答していくのです。

Ⅳ.神さまの決断に支えられ

神さまがお始めになられたお働きは、神さまの定めた時に必ず実現する。世界の片隅で始まった小さな幼な子の物語、これが世の終わりまで揺らぐことなく続いていくのです。そして、救いの完成にまで至るのです。
その最初の1頁、おとめマリアの決断をもって、神さまの救いの御業は実行へと移っていきました。
マリアを見るように、神さまは私たちをご覧になっておられます。慈しみをもって、いとおしいと感じながら見ていてくださるのです。
そして、私たちのために御言葉を用意し、家庭や学校、職場、地域で、神さまの救いのご計画の一端に参加するようにと私たちを召しておられます。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、マリアのように、その召しに心から応答する者として生かされていきたいと願います。お祈りします。