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主日共同の礼拝説教

御霊によって歩みなさい

2017年2月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
詩編143編7~12節
ガラテヤの信徒への手紙5章16~24節

Ⅰ.御霊によって、信仰によって

パウロは、御霊によって歩むということを、信仰によって生きるということと同じものとして語っています。5章5節「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいる」と、霊と信仰を並列においているのです。これまでパウロは律法と対比させて、信仰だ、信仰によって義とされるのだと語ってきましたが、その信仰に生きることと、霊によって生きることを同じように勧めています。そうすれば肉の欲望を満足させることはないのだと。ガラテヤ書の5章でパウロが霊と対比して肉と言っているその「肉」という言葉の意味は、罪の奴隷となり、本能的な欲望のままに生きる「人間」の本質を指してます。ですから聖書において、肉は人間の罪との関係において語られます。罪の性質をもった肉的な存在の人間と、神様が送ってくださった聖霊とを今日の聖書個所は比較しています。

Ⅱ.肉と霊

当時のユダヤ教の教えなどと、パウロが教えていたこととの違いは、聖霊である御霊の存在です。イエス様が天に昇られた後に、神様が送って下さった聖霊が、私たちの中に生きていることです。そもそも生まれながらの罪人である私たちが、救われたいと願ったり、イエス様を信じたりすることが出来ること自体がまさに、聖霊が私たちを内側から変えてくださった結果にほかなりません。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3)
しかし、17節でパウロが言うように「肉と霊とが対立し合っているので、私たちは自分のしたいと思うことができない」と言うのです。
私たち人間には、神から与えられた生理的欲求があります。食欲や性欲や、人に認めてもらいたい、自分が必要とされたいなどの欲求もあります。これらは神様が与えられたものであり、それ自体は悪いものではありません。しかし、私たちには罪を持った肉の性質が残っています。そういうわけで、神の御霊によって与えられたものと、自分の肉から出てきたものと、どちらもがあり、私たちの中で対立しているのです。
具体的に肉と霊とはどのような形で、人に現されるのか?パウロは生活の中で現われる「肉の業」と「霊の結ぶ実」を19節から23節で並べて示します。
19節の「肉の業」はギリシア語では複数形で書かれています。ですから、ここに書かれているように、さまざまな形で現われます。しかし、22節の「霊の結ぶ実」は単数形で、その本質は一つです。最初に書かれている「愛」がその本質です。この愛には様々な側面があると、このリストから分かります。
肉の業とされていることは、誰でも良くないと思うはずです。そのような性質を変えたいと思うはずです。そう思っていてもほとんど失敗してしまいます。新年に決めた抱負のほとんどは1月末で破られます。それは肉の業を自分の意思を奮いたたせて変えようと努力しているからではないでしょうか。そんな時、自分は意思の弱い人間だという思いだけが残ります。実際には、人間の意思は脆弱なものです。意思は何かを選択する能力はありますが、人を変える力には乏しいものです。人間の意思に影響を与えるものには3つの要素があります。「心」と「身体」と「環境」です。私たちの感情は浮き沈みがあるものですが、高まったり沈んだりする感情は「意思」に影響を与えます。身体に不調や疲れが蓄積すれば、身体は感覚をとおして「意思」を揺るがします。そしてなにより、社会状況や人間関係などの環境の変化によって「意思」は振り回されます。そのような不安定な「意思」に頼って肉の性質を変えようとしても、失敗に終わるのは、その人が弱いのではなく、方法が悪いのです。自分は変わりたいと宣言することによっては、決して変わる事ができません。「霊の結ぶ実」とはイエス様に似た者の姿です。自分の意思でイエス様に似ていくことは出来ません。キリストに倣おうとする者は「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:2) と勧められています。

Ⅲ.霊的な訓練

イエス様は弟子達との生活の中で見本となるように、朝一人で、静かな場所で祈っていました。一人で祈っている時、それは一人ぼっちで祈っているのではありません。聖霊がわたしたちに祈るように働きかけ、祈りの中で私たちを導き、そして私たちのことを執り成して祈ってくださいます。静かな時間を確保して、短く聖書を読み、心を静めて、神様に心を向けることをディボーションと呼びます、生活の中でディボーションの時間をとる事で、わたしたちを霊的に造り変えてくださるのは聖霊の働きです。
もう一つ大切なことはクリスチャン同士の交わりを保つことです。パウロとバルナバはクリスチャン同士の交わりから、宣教旅行に送り出されました。彼らが礼拝し、断食をしていると聖霊が語りました。断食というのは霊的訓練です。食事を断って静まって、神様に心を向けていました。その彼らに聖霊が働いて、パウロとバルナバを宣教へと送り出しました。クリスチャン同士の交わりから離れては、信仰生活を守っていくことはできません。自分の「意思」に頼るのではなく、聖霊が働かれる生活を続けることが必要です。12使徒がイエス様と過ごした3年程の訓練期間は、そのような日々であったことでしょう。24節にある「キリスト・イエスのものとなった人たち」という人は、そのような生き方をして喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制そのような「愛」のさまざまな側面を、人々に現わしていきました。

Ⅳ.「何を求めているのか?」

今高座教会で行っている「エクササイズ」というプログラムは、そのような霊的な訓練を学んで実践するプログラムです。その中に次のような話しが書かれていました。それは肉の業に生きていた人が、教会の小グループの集まりの中で、次第に変えられていった、ある男の人の話しでした。
その男の人は、ある日出張で同僚と二人で飛行機に乗って帰るところでした。しかしフライトの予定が遅れるというアナウンスがありました。数時間が経ってから、ついにその便が欠航になったと聞かされました。それは、こんなに待たされたあげく、家にも帰れずにその地で一晩をつぶさなければならないことを意味していました。さらに彼らは乗り換え便の予約の為に、長い列に並ばなければならなかったのです。長い列で待ちながら応対している女性職員に人々がきつく当たっている様子を見ていました。誰もが不満を誰かにぶつけたかった、そんな思いを、その職員は一人で受けていました。そしてその男の人に順番が回ってきました。すると彼はその職員を見て、まずこう言ったのです。「あなたにきつく当たることはしませんから」と笑顔を向けて言いました。職員はそのとたんに表情が穏やかになって「有難うございます」と答えました。そのやり取りは、はたから見ていて気持ちの良いものだったそうです。さらに彼は手続きを終えた後も、リラックスして過ごしていました。彼と一緒にいた同僚は言いました。「僕たちの付き合いは長いけど、以前のキミだったら激怒して職員に怒鳴っていたじゃないか」と言いました。彼は答えました。「まったくそのとおり。実はボクは変わったんだ。自分は何者なのか、こんな時にどうあるべきか、どこに立って生きるべきかを知ったのだ。ボクの中にキリストが宿っていて、そのお方に生かされていることに気づかされた。もちろん思い通りにならないこともあるけれど、欠航になった飛行機は、どうすることも出来ないよ。」
彼が空港で見せてくれたものは「霊の結ぶ実」以外の何物でもありません。彼は歯を食いしばってがんばって、笑顔をむけたのではありません。自分の「意思」を奮い立たせて、親切な人になったり、寛容な態度をとれたのでもありません。これらはあくまでも聖霊が結んでくださった「実」なのです。彼は今日の聖書個所24節にあるように、肉の欲望を十字架につけてしまって、キリスト・イエスのものとなったのです。

Ⅴ.まとめ

ハイデルベルク信仰問答の第1問は「あなたのただ一つの慰めは何ですか。」です。答えは「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました…そうしてまた、御自身の聖霊により…この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」
それが、キリスト者である私たちの、ただ一つの、そして完全で限りない十字架の慰めです。今週の水曜日、3月1日は「灰の水曜日」です。苦しみの末に架かられたイエス・キリストの十字架が、わたしたちの唯一の慰めであることに感謝して、御霊の実を生活の中で現わす者として歩んでいきましょう。お祈りをします。

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主日共同の礼拝説教

ふたつの宝、ふたつの目、ふたりの主人   ―クリスチャン・スチュワードシップを考える

2017年2月26日
松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
マタイによる福音書6章19~24節

Ⅰ.消費主義社会を支える偽りの物語―モノが幸せを運んでくる

私たちの身の周りには広告が溢れています。その商品を手に入れたら、お腹の脂肪が消えてなくなりますよ、とか、そのクリームを塗れば10歳若返った肌があなたのものになる、とか。このクルマのハンドルを握り、アクセルを踏めば、人生最高の瞬間を手に入れることになる、とか。もう様々です。
専門家によれば、私たちは60歳になるまでに2百万以上のコマーシャルを見るそうです。それを計算すると、ざっと6年間にわたり、1日8時間、毎週7日間、ただテレビでコマーシャルを見ている時間に匹敵する。これは物凄い時間です。そうした広告に洗脳された私たち現代人が生み出した文化を、一般に「消費主義文化」と呼びます。
脳の専門家に言わせますと、私たちが欲しい物を手に入れた時に、脳の中に「ドーパミン」と呼ばれる、人間に喜びの感覚をもたらす化学物質が分泌され、その結果本当に幸せを感じるというのです。ただ問題は、その人を行動に駆り立てた物語は残るのですが、モノを手に入れた時の幸福感は時間と共に消えて行くということです。

Ⅱ.消費主義文化を支える(虚栄心と)貪欲を理解する

今日の聖書箇所を見ていきましょう。イエスさまの教えに耳を傾けていく時、イエスさまはこうした消費主義文化を支える私たちの心には、実は虚栄心と貪欲という欲望が隠されていると、指摘しているように思います。
「虚栄心」とは、周りの人々をハッと思わせたいと思う欲求。一方、「貪欲」とは金銭や物質に対する過度の欲求です。満たされているのに、それ以上に何かを欲する思いです。一般には、倹約家と浪費家は対照的な人たちと考えられますが、実は同じ信念、同じ物語を生きているというのです。それは「使うにしろ、貯めるにしろ、要はお金こそが人を幸福にする」という信念です。倹約家と浪費家は、両者とも「貪欲」に陥っているということです。
世界一の富豪と呼ばれていたジョン・D・ロックフェラーは、ある時、新聞記者に「自分は幸せでもなく、また満足もしていない」と語ったそうです。それを受けて記者が、「では、いくら手に入れれば幸せになれ、また満足しますか」と質問したそうです。ロックフェラーはその質問に対して、「あともう少しあれば…」と答えました。
私たちをモノやお金に向かわせるのは、心の中にある不安感や恐怖心だと、イエスさまは教えます。それは「自分は独りぼっち、孤独だ」という思いです。
確かに生活の中に神さまを見出すことが出来ない、つまり神のご支配の外で生活しているのであれば、私たちは孤独であり、自分の手でどうにかしなければなりませんから、当然、不安や恐れが心を支配することでしょう。
そうした私たちの心に、サタンは囁くのです。「お金があなたを幸せにします。安心を保障します。お金はあなたを成功者にし、力をもたらしますよ」と。確かに、通帳の残高が多い方が安心は安心です。綺麗な服を着、かっこいいクルマに乗り、素敵な家に住むことは幸福感をもたらすでしょう。そのために必要なのはお金ですから、「お金が幸せにします」という物語は、ある面、当たっています。
私たちが新しい服や家電、クルマを買うならば、確かに脳の中でドーパミンは分泌されるでしょう。しかし、その喜ばしい感覚も、しばらくすると薄れてしまいます。ただ私を突き動かす、心に刷り込まれた「お金が全て」という物語だけは残っていますから、その偽りの物語に私自身は追いまくられて行くのです。

Ⅲ.イエスの物語-宝と目と主人

では、イエスさまは何と語っておられるでしょうか。今日の聖書箇所を見ますと、ここでイエスさまは、3つの例を挙げながら、「お金や物が安心や幸福をもたらす」という「偽りの物語」に代わる「福音の物語」、新しい生き方を説いておられます。
まず2種類の宝と、その宝の積み方です。その2つとは、「地上の宝」、「地上に宝を積むこと」、そして「天の宝」、「天に宝を積むこと」です。
地上の宝とはお金やモノです。それらは地上に積まれるために、盗まれたり、虫に喰われたり、錆びついてダメになることがあります。つまりその価値は一過性です。これに対してもう1つの宝が「天の宝」です。天に宝を積む時に、それは永遠に残ると言われます。
またイエスさまは対照的な、「澄んだ目」と「濁った目」の例を挙げてお語りになりました。イエスさまの時代、ケチで嫉妬深い人のことを「濁った目」と表現し、寛大さや気前の良さを「澄んだ目」を持った人と表現として使われたそうです。
イエスさまはさらに「2人の主人」の話もしています。この世の富と、神の国の両者を同時に追い求めることは不可能だ、というのです。

Ⅳ.貪欲への癒しをもたらす神の国の経済原則

このようにイエスさまは、天に宝を積むように、澄んだ目で神さまをしっかりと見、そして、神さまに信頼して生きていくようにと勧めておられます。正しい生き方を選択するようにとの勧めです。
それでは、私たちに預けられた時間やお金、また様々な賜物をどのように用いることを、神さまは願っておられるのでしょうか。
「エクササイズ」の著者は、その本の中でこんな体験を証ししていました。
ある人に3百ドルを貸したのですが返ってこないのです。私たちも経験することですが、借りたことは簡単に忘れてしまうものです。ところが不思議なことに、貸したことは決して忘れないのです。
著者も、貸したお金のことが気になって友人に相談をしました。「彼に電話して私に借金があることを伝えた方がいいと思うか」と。すると「きみ、そのお金が必要なの?」と、友人から問い返された、というのです。
確かに、今、そのお金が手元になくても、自分の生活は守られている。そう考える中で、「神さまはそれぞれに預けられたお金を動かし、必要としている人、困っている人を助けさせて下さるのだ。そして、賢い識別力をもって捧げられたお金は決して失われることはない。自分は3百ドルを失ったのではなく、それを捧げたのだ、神の国のために投資したのだ。しかも、投資した私自身が損をすることがないように、その後も引き続き私の生活を守り導いてくださっている、と知らされた」と証しをしていました。
この証しには後日談がありました。その後、お子さんの病気で多額の治療費が必要となり、貯金を崩しても、なお5百ドル不足していることに気付いたのです。ところが、不思議なことに、その日一通の手紙が届きました。匿名の手紙です。
封を切ってみると、メモと共に5百ドルの小切手が入っていたのです。そして「あなたがたのために祈っていて、これが役に立つと思って送りました」とメモに書かれていたのだそうです。
スミス先生は、「心配する暇すらなかった。神が私たちのお金を用いられる時、お金を入れ替えるようなものです。これが神の国の経済です」と、その著書に書いておられました。
神さまがお金や様々な資源を動かす時、それを預けている人々に、神さまご自身が働きかけられることを、聖書を読んでいくと知らされます。神さまの働きかけに応答した人が、進んでお金やモノを差し出す時、神様は、その人の生活に不足や必要が生じた時、必ずその必要を満たすように働いてくださるということです。
まさに、パウロがコリントに宛てた手紙の中で、「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(Ⅱコリント8章14節)と記したように、です。
ダラス・ウィラードは、「神の国の解決法は、倹約家になることでも、また周囲の必要に無頓着になることでもなく、むしろシンプルになることだ」と語っています。そのシンプルさこそが、何を手元に残すか、何を手に入れるかを選択する上で、影響をもたらす心の態度なのだ、というのです。そして、シンプルさを求めるライフスタイルは、実は、私たちの心の在り方の表れでもあるのです。
富は神から預けられているもので、富を神のように扱ってはならない、とイエスさまは教えておられます。
神さまは、神の国と神の義を求めるために、信仰の冒険をもって、聖書の教える用い方によってあなたの富を用い、私が神であることを試して御覧なさい、とおっしゃるのです。
富についての正しい物語、その福音の物語を、私たちの心の深いところにしっかりといただいて歩んで行きたいと思います。
神さまから預けられている金銭や時間、また賜物の忠実な管理者、クリスチャン・スチュワードとして生きることを通して、ぶどうの木であるキリストにつながり、実を結ばせていただきたいと心から願います。お祈りします。

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来なさい。そうすれば分かります

2017年2月12日夕礼拝
和田一郎伝道師
エゼキエル書36章26~27節
ガラテヤの信徒への手紙5章13~15節

Ⅰ.キリストにある自由

ガラテヤ書5章13節で、「ガラテヤの兄弟たちよ、あなた方は自由を得るために、キリストによって救われたのですよ。」と、キリスト者の「自由」についてパウロは語ります。私たちは、「仕える」とか「従う」という言葉を聞くと、束縛されたような気持ちになります。そうしたものから自由にされることこそが、自由なのではないか?と思うのです。けれども、そもそも人間は、神によって造られた者ですし、今も神の摂理の中にいるのですから、その神を信頼して生きることが、もっとも自由な状態です。教会に行かなくてもいい、神に背を向けてもいいというのが自由なのではありません。神から離れては、罪の中で生きる奴隷状態です。罪を清め、贖う力は神の業でしかありませんから、キリストと共に歩むところに、自由があるのです。
「神を信頼して生きることが、もっとも自由だ」と言いましたが、そういう意味では、イエス様が最も自由な方です。イエス様は父なる神と一つになっておられて、この方の命じられることを行なっておられました。その関係は愛に基づく自由があることを知る必要があります。
「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。・・」(ヨハネ福音書 5:19~20)
この父なる神、子なる神の固有な関係があるからこそ、イエス様は、愛と従順の関係において、本当の自由を私たちに与えることができる。私たちは本当に自由になれるのです。
「だから、もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(ヨハネ福音書8:36)
キリスト者の自由とは、神との愛の関係がベースにあり、神に仕えるという関係の中での自由があります。これは人間の本来の姿です。人間が罪を犯す前の状態にあった、人間らしい自由の状態です。

Ⅱ.生き方

律法主義というのは、律法を守ろうとする事が、律法主義者を作り上げるのではありません。たとえば、私たちは十戒の中の戒めにあるように「父と母を敬う人」や「盗みを働かない者」や、「偶像礼拝」の戒めを守って、神社参拝を拒んだ人を批判することはありません。また日曜日を礼拝する日として、一生懸命努力することを律法主義だとして批判したりはしないでしょう。 律法主義者とは、律法を守った自分自身の行いを、自らを正しいと見なしたり、神の救いを受けるにふさわしい者だと、自分で定めることです。
また同時に自分の力、自分の正しさを誇る人は、他人の行い、他人の良し悪しを裁く目を持ってしまいます。キリストによって得られた自由なのに、自分自身を義として、他人を見て裁いてしまいます。まさしく、イエス様を陥れようと裁いていたファリサイ派や律法学者たちの姿です。律法を守るのが悪いのではない。律法によって人の罪が明らかになってしまう。それがガラテヤの教会にもあったようです。「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」(5章15節)と、パウロはガラテヤ教会の問題を指摘しています。
律法が悪いのではない、といいましたが、ではどうしたら良いのでしょうか? パウロは14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と、律法の本質をまとめています。イエス様は、マタイ福音書22章で、神を愛することを第1とされ、隣人を愛することを第2とされました。
「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ福音書22:37~38)
このように、第1に重要なのが「神を愛すること」第2に重要なのが「隣人を愛すること」としています。しかし、それは隣人愛が神への愛に劣っているという意味ではありません。神を愛することなしには、まことに人を愛することはできないと、イエス様はおっしゃっているのです。
私たちは、自分が神から愛されていることを自覚すべきです。弱さや欠点があり、神に対しても人に対しても罪深いのが私たちです。しかし、神様の私たちに対する愛は深く、確かなものです。独り子であるイエス・キリストを、十字架にかけてまで、私たちを愛し、罪と死から救ってくださったのです。そのように愛してくださっている神を、信頼して、その神に従って生きることが本当の自由です。パウロがこの5章で訴えている、キリスト者の自由です。

Ⅲ.「何を求めているのか?」

先日、映画の「沈黙」を見る機会があって、このキリストの自由について考えるところがありました。幕府による激しいキリシタン弾圧のあった長崎に、ロドリゴという司祭が来るのですね。当時としては司祭の地位にあった宣教師は皆、追放されるか殉教していたので、隠れキリシタンたちは、カトリックの中で重要な罪の告白をする告解をする相手の司祭もいませんし、正しいキリスト教の教理も教える人がいませんでした。しかし、命がけで信仰を守って、多くの人が「踏み絵」を拒んで殉教していきました。その中で殉教するのが怖くて、踏み絵を踏んでは逃げてばかりいる、キチジローという気の弱い男がいるのです。
キチジローは親兄弟が信仰のために拷問にあって死んでも、自分は踏み絵を踏んで逃げおおせるのです。そんなキチジローをロドリゴ司祭は許してくれて、告解もさせてくれて信仰を導いてくれようとするのですが、そのロドリゴたちを密告して、お金をもらいます。ユダのような存在です。仲間が信仰を守って惨殺されても、自分は踏み絵を踏んで、十字架に唾まで吐いて、生き延びる。自分の命惜しさに逃げるのなら逃げておけばいいのに、やっぱり信仰を捨てきれずに、何度も舞い戻ってくるのです。戻って来て、司祭のロドリゴに求めるのは告解です。罪の赦しを乞うのです。
キリスト教史の専門家の中には、当時の隠れキリシタンを、クリスチャンとは認められないとする人もいるようです。正しい教理を分かっていない。土着の宗教と混合して異教化していたとする解釈です。確かにキチジローは、十字架に唾を吐きかけるし、踏み絵は踏んで逃げる、どうしようもない信仰者です。しかし、彼に間違いなくあったのは「自分には罪がある。自分は罪人だ」という罪の意識です。正しい教理は分かっていなくても、神を愛し隣人を愛することが出来ていない自分を「ダメな人間だから憐れんで欲しい、この罪を赦して欲しい」そんな心の叫びが、キチジローの姿から、聞こえるようでした。神の喜ばれること、神が嫌われることを知らなければ、罪の意識は生まれません。もし、キチジローがキリストに「お前の罪は赦された」と言われたならば、彼は本当の自由を得たのです。
5章14節の「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は、ガラテヤ書でパウロが、なんども繰り返してきた、「信仰によって救われるのだ、律法ではない」という議論を、「この一句で全うするのだ」と言って、ここで結論を出しています。そしてこのあと、救われた者の生き方を説いていきます。その生き方の根っことなっているのも、この「隣人を自分のように愛しなさい」という、偉大な一句に基づいています。
沈黙という映画の「沈黙」の題名の主語は”神様”です。信仰を持つ民衆が、殉教しても神様は彼らを助けない、声をかけない。黙っている。沈黙している。という意味です。いついかなる時も、行いによっては神の言葉を聞くことはできませんが、信仰によって、聖霊の力によって、神の言葉を聞くことができるのです。
わたしたちは、キリストの十字架によって、この自由と希望を与えられました。キリスト・イエスに結ばれていれば、失うことがない、沈黙されることもない、自由と希望があります。この一週間も、神の言葉を聞くことができますように、隣人を愛する生活の中で、耳を傾けたいと願います。お祈りをします。

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主日共同の礼拝説教

生活の全ての領域で 主の恵みを味わう

2017年2月12日
松本雅弘牧師
創世記25章19~34節
エフェソの信徒への手紙5章31~33節

Ⅰ.イサクとリベカ夫婦の現実―子がない現実

今日の箇所にはイサクとリベカが結婚してから、およそ19年の歳月が流れた頃の出来事が記されています。その間、この夫婦には子どもが与えられないという現実があり、一方、イサクの異母兄弟イシュマエルの家庭には次々と子どもが誕生していました。
イサクは心配したのではないでしょうか。イサク自身、神の奇跡によって生を受けた存在でしたけれど、時間の経過と共に、次第にその確信も薄れていったのです。
そこでイサクがしたこと、それは妻のために主に祈ることでした。主はその祈りに答え、リベカは身ごもっていくのです。

Ⅱ.イサクの信仰

ところで創世記は、イサク本人の結婚であるにもかかわらず、一から十まで父親アブラハムが主導権を執っている様子を記しています。結婚の後も、その新家庭を守るために、アブラハムはイサクの兄弟たちをイサクの周囲から遠ざけています。「父母を離れる」ことが結婚の大前提です。父親アブラハムは関わり過ぎのように思います。
そのためでしょうか、これまで主体的に自分のこととして神さまと交わった経験が乏しく見えたイサクでしたが、子どもが与えられないという現実を通して、つまり、問題と取り組むことを通して、神さまとの祈りの格闘を始めていくことになったのです。イエスさまが言われる、「もっと豊かな実を実らせる目的を持ってなされる、神さまの枝の刈り込み、お手入れ」です。
私たちは弱い者です。だからなかなか祈ろうとしません。弱い者であるならば、なお、強いお方である神に向かってもっと祈ればよいのですが、でもそうできないし、また、そうしないのが私たちです。
そこで私たちを愛する神さまは、具体的な祈りの課題を私たちにお与えくださり、それを通してご自身との交わりへと、私たちを導こうとされるのかもしれません。
この時のイサクも「子どもが与えられない」という現実を抱え、神さまの御前に跪いて祈っていきました。これこそが祝福でした。

Ⅲ.イサクとリベカの夫婦

神さまはイサクの祈りに応えてくださいました。「めでたし、めでたし」です。しかし創世記には、「ところが、胎内で子どもたちが押し合うので」(創世記25:22)とあり、誕生した双子はイサクとリベカにとっての悩みの種となるのです。
それに対して彼ら夫婦はどうしたでしょうか。イサクはイサクで、そしてリベカはリベカで祈っているのです。夫婦そろって神さまの前に出ることがありませんでした。
二人のこの祈り方は、たまたまの出来事ではないように思います。何故かと言えば、この後、イサクとリベカの夫婦は、自分たちの好みによって、二人の子どものうち、それぞれ片方の子どもを偏って愛していくことが起こっているからです。
聖書は、「父母を離れて夫婦が結ばれ一体となる」と教えます。一体となるために父母を離れるのです。ですから父母を離れることが難しい時、夫婦が一体となることも非常に困難だということでしょう。
一体とならなくても平気、と感じる時、もしかしたら本来、夫婦間でしか満たすことの出来ない心の隙間を、全く別のもので満たしている自分を発見するかもしれません。イサクとリベカは、互いに交わりを深め、愛し合うようにと教える、聖書の生き方をしていたのだろうか、と思います。
自分のニーズを満たしてもらうために、相手の存在は好都合だったかもしれません。しかし、相手のために、自分の都合を変えるというところまでいっていなかったのでしょうか。そうした、夫イサクに対する苛立ちや怒りが、リベカの、夫に対する反発になり、足の引っ張り合いに発展していったのではないでしょうか。
その表れとして、エサウとヤコブという二人の子どもを、夫婦がそれぞれ、一人ずつ、別々に競争するように大事にしていきました。代理戦争のようにして、偏って子どもを大事にする行為になっていったように思います。
つまりこの夫婦は、根本的なところで不一致です。このような夫婦の許で育っていくエサウとヤコブは、結局、そうした大人たちの「負の遺産」を引き継いで大人になっていきました。その決定的な出来事が「長子の権利」を巡る事件です。

Ⅳ.生活の全ての領域で神さまの恵みを味わい知る

さて、これだけで物語が終るならば、単なる「悲劇」でしかありません。そこには「救い」も「福音」もありません。
でも、これだけでは終わらないのです。神さまが、この家庭の1人ひとりを愛してくださるがゆえに、この家庭に介入してくださるのです。創世記の物語はこの後、主人公がイサクから息子のヤコブに移っていきます。
最初、ヤコブは兄エサウを押しのけ長子の権利を奪い取る人物として登場します。誰も信じない、いや、信じられない、最終的には頼りになるのは自分だけという物語で生きてきた人物です。
そうしたヤコブが、エサウから命を狙われ逃亡し、叔父ラバンの許に身を寄せるのです。実は、そこもある種の地獄でした。叔父の許での厳しい労働。そして、叔父の2人の娘と結婚することになります。結婚することで、さらに人間関係も複雑になっていきました。
とうとうヤコブはラバンの許からも逃亡します。2度目の逃亡です。しかし、これから向かう地には命を狙う兄のエサウがいるのです。かといって逃げ出して来た義理の父親ラバンの許に帰ることもできません。八方塞がりの状況で、ヤコブは生まれて初めて、神さまとの出会いを経験したのです。自分のこととして、神さまと指しで向かい合う経験へと導かれました。
その出来事が創世記32章に記されています。ヤコブは生まれて初めて真剣になって神さまに祈りました。この時、その祈りの答えとして、ヤコブに「何者か」が襲い掛かり、夜明けまでヤコブと格闘したということが書かれています。
負けず嫌いのヤコブですから、倒されまいと必死に頑張りました。これに対して相手は、強引に屈服させようとし、彼の腿のつがいを打ったのです。体全体を支えていた片方の足に耐え難い激痛が走りました。と同時に、突然、力が抜けてゆくのを感じました。ヤコブは、とっさに自らの体を相手の胸に預けることしかできませんでした。
ところが、その瞬間、「ハッとするような経験」を彼はしていくことになります。ちょうど、水に体が浮くような経験です。それは、自分以外のものに自分の全存在がグッと受け止められるということであったと思います。
ヤコブは、小さい頃から、自分だけしか信用せずに成長してきた人物です。持ち前の賢さを武器に、人を蹴落とし、自らの運命を切り開いて生きてきました。しかしこの時、頼みにしていた「自分の力」がスゥーと体から出て行ってしまうような経験をしたのです。そして次の瞬間、今度は、自分以外の存在にしっかり支えられる確かさと力強さ、そして心地よさを、生まれて初めて身をもって実感していったのです。
人は無意識のうちに多くの持ち物、資格、力、経験によって自分の弱さを隠し、武装しています。そして、そうしたものによって自分は支えられていると思い易いのです。しかし、どうでしょう。この時のヤコブは、それらの武装がすべてはがされ、裸にさせられているような感じだったのではないかと思います。頼りにしてきた足場を失う喪失感を味わったことでしょう。
このようになったヤコブに対して、神さまは初めて祝福をするのです。それは新しい名前、「イスラエル」をもって表現されました。その意味は「神が戦う」という意味です。「お前が戦うのではない。ここは神の陣営である。私が戦うのだ」と。
ヤコブは、自らの弱さを通して真に頼るべきお方と出会っていきました。もはや、自分の人生は自分で勝ち取るのではなくて、主が戦ってくださるゆえに、このお方に依り頼もうとする信仰が与えられたのです。
自分の力では、どうすることも出来ないような状況に追い込まれ、結局、神さまに依り頼まざるを得ないのです。しかし、それが彼にとっての恵みでした。そのことを通して神さまとの出会いを経験しました。初めて水に体を任せ、水に浮く経験をしたのです。ヤコブは真剣になって祈り、慰めを求め、必死になって神さまに向かったのです。
今日は、イサクとリベカの結婚からスタートし、彼らから生まれ、彼ら夫婦に育てられたエサウとヤコブ、特にヤコブに注目して見て来ました。
私たちにとっての恵み、私たちにとっての福音は、神さまが愛のお方であり、神さまの愛から離すものは何もない。生活の全ての領域に神さまの恵みが満ちているということです。そのことを通して、私たちは神に近づくように召されているのです。
ですから、私たちにとって必要なこと、それは、生活の全ての領域で主の恵みを深く味わうことなのです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

主よ、お話しください ―信仰生活の基本③

2017年2月5日
松本雅弘牧師
サムエル記上3章1~21節
ペトロの手紙一 2章1~2節

Ⅰ.「祈る少年サムエル」

昨年のクリスマス賛美礼拝のポスターは、18世紀の画家ジョシュア・レイノルドによって描かれた『祈る少年サムエル』という作品を模写してデザインされたものでした。この絵に描かれている少年をイエスさまと間違える人も多いそうです。
その表情、肌の色つや、視線、ほんとうに透き通るように、神さまに向けて一直線に思いを集中している幼いサムエルの姿は、神さまの恵みの中で健やかに育った少年の姿を伝えているように思います。
ただ実際には、少年サムエルの成長は必ずしも、ひと筋縄ではいかないものでした。特にサムエルが置かれていた生活環境は子どもの成長にとって決して好ましいものではなかったのです。

Ⅱ.サムエルの育った環境

サムエルがお世話になっていた祭司エリは、当時、シロという町に置かれていた聖所に仕える大祭司でした。祭司エリのもとには、「ならず者」と呼ばれた、エリの2人の息子ホフニとピネハスがいました。つまり、サムエルが預けられた祭司エリの家とは、幼いサムエルにとっては最悪の教育環境だったのです。
E・ピーターソンは著書『若者は、朝露のように』の中で「聖書をよく読んでいくと、意外にも手本とすべき家族が出て来ない」と語ります。世界中どこを捜しても問題のない家族など1つもないというのです。
実は、サムエルが生まれた家庭もそうでした。サムエルを身ごもった時から、母親ハンナは悩んだことだと思います。夫にはもう1人の妻がいたからです。ですから、ハンナは、子どもを授かる前に神さまに祈った祈りを思い起こし、息子をエリのもとに預けました。でも先ほども触れたように、そこにはエリの息子たちがいたのです。

Ⅲ.ある決定的な出来事

ある日、決定的な出来事が起こりました。主の御声がサムエルにくだったのです。サムエルに語られた御言葉の内容は驚くべきものでした。それは祭司エリの家に対する裁きです。
当時、このエリ家はイスラエルにおいて最も重要な家系だったはずです。エリは大祭司であると共に、最後の士師です!!
「士師」とは、サムエル記の前の「ルツ記」その前に出て来る「士師記」の「士師」です。「武士の士」と「教師の師」の2つの「し」をあわせて「士師」と呼ばれ、特別な役割を持つ人のことです。
その役割とは、戦いのある時は野武士のように民をまとめ、敵から守り、平和の時は民の教師として律法の教えに従って民を治める役割を果たしていました。
ご存じのように、当時のイスラエルには、まだ王様はいませんでしたから、宗教的にも政治的にも最高の権威者は大祭司であり、士師であったのです。まさに、このエリという人物がその人でした。
ですから、この日、この晩、その大祭司エリに仕えるサムエルは、はっきりと悟ったことだと思います。大祭司をしのぐ権威者がおられる。また権威がある。それは他でもない主なる神であり、主なる神さまの御言葉であると。
大祭司という役割も、士師という務めも、そしてまたシロにある聖所も、それどころか、その中央に安置される「神の契約の箱」も。そこには十戒を記した2枚の板と、芽を吹いたモーセの杖と、荒野の食物マナの入った壺が収めてあったわけですが、その「神の契約の箱」さえも、神さまの御言葉を離れては何の権威もないということです。
実に歴史を支配し、歴史を動かすお方、それが主なる神さまであり、そのお方の御言葉の権威こそ、サムエルが拠って立つ権威であることを、この出来事を通して、幼いながら、その心の中にはっきりと焼き印されたのです。
この後、サムエル記の出来事は動き始めるわけですが、成人した後のサムエルの果たした役割について、3章20節に次のように記されています。「ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。」
「ダン」とはイスラエル最北端の町、そして「ベエル・シェバ」はイスラエル最南端の町です。たとえて言えば、「北海道から沖縄まで」という意味です。ダンからベエル・シェバまで、イスラエル全域で、そこに住む全てのイスラエルの民が、このサムエルこそが、神がお立てになった預言者であり信頼に足る神の人だと認めたというのです。
預言者とはどのような人でしょうか。預言者とは、その字のごとくに、神から御言葉を預かって伝える人のことです。そして伝えるためには、まず預かる御言葉を聴かなければなりません。サムエルは預言者として、全身全霊をもって神さまの御言葉を聴きました。そして、それを人々に聞かせる人として生き抜いた人でした。その出発点が、今日ご一緒に見て来た「この晩の出来事」に始まったのです。

Ⅳ.「主よ、お話しください。僕は聞いております」

さて、今日は「信仰生活の5つの基本」の第3番目「御言葉と祈りに生きる」を考える上で、サムエル記上3章を読んできましたが、サムエルは、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈り始め、その後、だれにも勝って神さまに聴く人となり、そしてまた、人々に対しても、王に対しても、御言葉に聴くことを求めた人であったといえます。
ある聖書の専門家が、聖書に綴られているイスラエルの民の歴史を、「Human confusion and Divine providence(人間の混乱と神の摂理)」と呼びました。
1つひとつの出来事は混乱の連続です。サムエルが生まれた家庭も複雑な人間関係がありました。サムエルが預けられた祭司エリの家にはホフニとピネハスという「ならず者」がいました。完璧な家庭、最高の環境などありえないのです。どこにも様々な混乱があるのです。
私たちの目は批判力旺盛です。問題点や欠点、足りないところを見つけるように、と言われれば、次から次へと指摘することができるでしょう。そして、「人間の混乱」しか目に入らず、その結果、自分が置かれている環境は最悪で、どうにもならないと絶望的になったりします。
けれでも、そうした中で、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と祈るようにと、聖書は私たちに勧めるのです。
そのようにして、聖書と祈りによって、神さまから新しい視点が与えられる時、混乱としか見えない中に、実は、すでに愛と慈しみに富む神さまの摂理の御手の業が始められていることをしっかりと見ていくことが出来るのです。
絨毯を思い出していただきたいのです。絨毯の裏側を見ている時、その絵柄はまさに「混乱」そのものではないでしょうか。しかし、御言葉と祈りの生活を通して、神さまの視点、神さまの価値観、神さまの物の見方を教えられ、そのレンズを通して物事を見ていく時に、本当に不思議なのですが、混乱の中に神さまの摂理の御業、愛の御業を見出すことができる。つまり、絨毯の表、神さまの愛と恵みが織りなす、素晴らしい絵柄を見せていただくことができるのです。
いかがでしょう?! 日々の生活は「こんなはずではなかった」と思う出来事の連続です。今日のサムエルもそうでした。そしていつも例に出しますが、あの創世記のヨセフの人生を思い出していただきたいのです。ヨセフは、兄弟の反感を買いエジプトに売られ、売られた先の主人から信頼されたところまではよかったのですが、暇を持て余した主人の妻に、濡れ衣を着せられ、投獄されてしまいます。
獄で出会った高官の夢解きの報いに、獄から解放されると思っていたのに、解放された高官がヨセフのことを忘れてしまう。その結果さらに2年間、獄からの解放はお預けとなりました。
〈やってられない!〉とふて腐れてもおかしくない状況です。でもヨセフは「ふて腐れる」という選択肢を選びませんでした。別の選択肢を選んだ。それが御言葉と祈りの生活です。
私たちクリスチャンにとっての特権は「こんなはずではなかった」と思う出来事の背後に、摂理の神さまの確かな御手があることを確信できることなのです。絨毯を裏側からいくら眺めても、そこには無秩序な模様しかありません。でも絨毯を表から見せてくださる時が必ずやってくるのです。
「こんなはずではなかった」と思えるような出来事の背後で、摂理の神さまは確実に働いておられる。そしていつか最高のタイミングで、全ての糸がつながり織りなされ、鮮やかな恵みの御業を目の当たりにさせられるのです。
その結果、私たちは、その神さまを賛美したい。その神さまに感謝したい。その神さまの恵みに応えて生きていきたいという思いが必ず与えられていくのです。
御言葉に聴く中で価値観が変わり、時間やお金の使い方、人との接し方、物事の判断の仕方が変わっていくのです。つまり人生そのものが変えられていくということです。
その最初の一歩が、少年サムエルが祈った、「主よ、お話しください。僕は聞いております」から始まるのです。
私たちもサムエルのように、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、祈りをもって御言葉を聴き、ぶどうの木であるキリストにしっかりとつながって歩んでまいりましょう!
お祈りします。