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主日共同の礼拝説教

キリストを着る

2017年7月30日
和田一郎伝道師
創世記1章27節
コロサイの信徒への手紙3章5~17節

今日の説教の題は「キリストを着る」としましたが、日本語では服を着ることを「袖を通す」などと言ったりします。新しい服を着る時などに使う表現だそうです。ただ「服を着る」というのではなく、服に「袖を通す」と言うと、なんとなく新しい服を着る時の新鮮な気持ちが伝わってくる表現です。パウロは、「キリストを着る」という表現をよく使いました。今日の箇所でも「新しい人を身に着けなさい」つまり「キリストを身に着けなさい」と言うのです。日本風に言えば、「キリストに袖をとおす」と言ったところでしょうか?その「新しい人を身に着ける」ということを中心に話しをすすめていきたいと思います。

Ⅰ.古い人

コロサイ3章は、クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後の生き方についてパウロが教えている箇所です。信仰をもつ前と、その後の生き方にどのような違いがあるのか。パウロは信仰を持つ前は地上的なもの、特に「欲」と「怒り」に代表されるものに従って生きていると言っています。確かに今の世の中は、人一人の生活や仕事の環境よりも経済成長を前提に動いていますし、思いやりよりも、不寛容な「怒り」が目につく社会で生きています。しかし、私たちが信仰を持った時から、世の中の価値観からキリストに従って生きる生活へと変えられました。パウロは信仰を持つ以前の「欲」と「怒り」に従う自分を捨て去りなさい。と忠告しています。それは「古い自分」だと、捨てなさいということは、まだ捨てられないでいる自分がいるということです。
欲や怒りは仏教の用語でいうと煩悩と言うそうです。「煩悩を捨てなさい」とか「断ちなさい」といったりします。煩悩というのは簡潔にいうと、人間のもつ「欲望と、怒り憎しみの思い」を言うそうです。「欲と怒り」に執着しないことを「煩悩を捨てる」と言うようですが、パウロの表現では「欲と怒り」は「古い自分」です。「煩悩を捨てる」のではなくて古い自分を捨てなさいと教えています。そして仏教の教えと違うのは「新しい人」があるという事なのです。そのことをパウロは10節で説いています。「造り主の姿に倣う、新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」
「新しい人を身に着ける」というのは、キリストという「新しい人」があるのが、仏教とは決定的に違っていて、「新しい人を身に着けて・・・真の知識に達する」これが聖書の真理です。

Ⅱ.新しい人(キリストを着る)

「造り主の姿に倣う、新しい人を、身に着ける」というのは、私たちを造ってくださった父なる神様の姿に、似た姿を身に着けるという事です。これは創世記1章27節の言葉からきています。
「神は御自分にかたどって、人を創造された。神にかたどって創造された。」
「神に『かたどって』造られた」の「かたどって」というのは、何かの型に入れて、その「形」に造ったのではないのです。「神のかたち」を神学用語で「イマゴ・デイ」と言います。とても大事な神学用語ですが、「イマゴ・デイ」はラテン語ですが、英語では”image of God” という言葉を使っています。つまり、「神のかたち」は輪郭のようなものではなく、輪郭でしたら”shape of God”となりますが、”image”ですから霊なる神の「性質」に似せて私たちは造られたわけです。
神の性質というと思い浮かぶのは、愛という性質、聖なるきよい性質、正しい事を正しい、悪い事を悪いと定める「義」なる性質、父と子と聖霊からなるコミュニケーションをとろうとされる交わりの性質をもっています。寛容であり忍耐をもった性質、そのような性質に似せて造られたのが私たち人間です。
そして、「神のかたち」を考えた時、イエス・キリストこそが、神様が天地創造のはじめに、人間に期待した「神のかたち イマゴ・デイ」の本来の姿です。イエス様こそが、人間に期待されている本来の姿です。

Ⅲ.命の尊厳

「神のかたち」を考える時に大切なこととして考えなくてはならないのは、命の尊厳です。人間の命の尊厳性というのは、どこに起源があるのだろうかと言ったら、ここにあります。「神のかたち」として造られた創世記1章27節にあります。私たちクリスチャンにとって、本当に幸いなことの一つは、「命の尊厳の起源」というものをしっかり持っているということです。神のかたちに造られている、ということが命を尊ぶ意味と、はっきり言えることです。たとえば「人は人を殺してはいけない」というのは、誰でも知っている事です。しかし、その理由を考えて見た時に、「人は人を殺してはいけない」ことの理由を聞かれてどのように答えるでしょうか。
先週は相模原市の障害者施設で殺傷事件があってから1年がたったので、さまざまなかたちで報道されました。命の尊厳を考えさせられる事件であったのは、障害者に対する差別的な考えをもった犯人が、あたかもハンディをもった人たちの命の尊厳を無視するような発言をしていたことです。さらにそれに同調する人がいたことも残念なことです。
無駄な命は一つとしてない。人は人の命に、手をかけてはならないとする根拠をどう答えるでしょうか。
多くの人はその根拠を持っていないと思います。勿論それぞれの人の考えはあると思いますが、根源的な不変性というものはないでしょう。そうであるから、いったん戦争や紛争が起こってしまえば、人は簡単に人を殺めてしまうのです。根幹における命の尊さの意味づけというものがないからです。わたしたちは「神のかたち」である者として、たとえハンディを持って生まれたとしても、自分には欠けがあると感じている人も、認知症であったり、昏睡状態にあるような人であっても、命がある限りそこに尊厳があると言えます。それは人権という言葉を越えているものです。人権を守るという言葉も使われますが、特に「命」に関わることに関しては、聖書的には「尊厳」という言葉が相応しいと思います。その根拠が創世記1章の「神にかたどって創造された」という「神のかたち イマゴ・デイ」にあるのです。私たちクリスチャンは、命の尊厳の根源的な起源をもっているということです。わたしたちは、神のかたちに造られている、というのが人の尊い価値であり、命を大切にする不変的な意味です。

Ⅳ.神の愛を映す者として

コロサイ3章10節に戻りますが、パウロは古い人を捨てなさい、と言った後に「造り主の姿に倣う、新しい人を、身に着けなさい」というのです。先ほども言いましたが、イエスキリストこそが、人間に期待されている、本来の姿「新しい人」です。パウロはそれを「キリストを着なさい」などと言いますが、みなさんは毎日、キリストに袖を通しているでしょうか。それは日曜日だけとか、教会に行く時だけであったり、またはキリストではない、よそ行きの服を着たりしていないでしょうか。
そんなパウロは、イエス様に出会った日から、日々キリストを着てキリストに似た者へと変えられていきました。そのキリストに似た者の姿が12節以降に書かれています。
キリスト者は神に選ばれた者として、聖なる者として、愛を身に着けること。キリストを着るということは、愛を身に着けることです。愛という性質をこの身に溢れさせること、そのことに感謝して、詩編と賛歌と霊的な歌で、心から神をほめたたえるのです。
私たちは、キリストに似たものとされることを通して成長していきます。それは聖霊によってキリストの姿に日々、変えられていくという、人間本来の「かたち」になっていくことです。古い自分と新しい自分の境目には、キリストの十字架があります。そしてそこに神の愛と、赦しが現わされています。わたしたちが自ら、新しい姿を求めていくようにと神様は招いておられます。

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神を知って生きる

2017年7月23日夕礼拝

和田一郎伝道師
箴言1章1~7節
コロサイの信徒への手紙1章9~10節

Ⅰ.はじめに

わたしの両親はすでに天に召されたのですが、両親の葬儀や納骨、記念会などを通して、両親の兄妹、友人、教会のみなさんと話す機会ができるものです。その時に父や母の昔話しを聞くと、子どもの目から見た父や母とは違った、知らない部分がたくさんあったのだと気づくことがありました。あんなに長い時間を共に過ごしてきたのに、自分が知っているのは、父と母のある一部分なのだと思わされました。今日は「神を知って生きる」と題して御言葉に触れていきたいと思います。神を知るということを考えてみたいのです。
パウロは、コロサイ教会の人々についての良い報告をエパフラスから聞いて、神に感謝しないではいられませんでした。しかしまたコロサイ教会に異端の教えが侵入していると聞いて、彼らのためにも祈らずにはいられませんでした。今日の聖書箇所もパウロは祈っているのです、パウロは物事の始まりにも終わりの時にも祈っていました。彼こそはまさしく祈りの人でした。

Ⅱ.神を知る

このようにパウロが祈っている内容を見ますと、コロサイ教会の人たちの信仰がまだ完全でなかったことも、見ることができるのです。それは、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟る」ように言っているのです。つまりコロサイの人たちが、これからもっと神様のことを知るようにと願っているのです。もちろんただ単に、聖書の膨大な知識を蓄えて博識になるように言っているのではありません。パウロが言わんとしていた「知る」というのは、人格的に神を深く知るということです。9節では「十分悟り」と訳されている言葉ですが、このギリシャ語の「エピグノシス」は、ただ「知る」とか「認識する」とも翻訳される言葉ですが、ここでは「悟る」と訳されていて相応しい翻訳だと思いました。パウロが求めていたものは、一度「ああ神とはこういう方なのだ」と知れば、それで良いというものではなくて、そこからさらに深く神に近づくことによって、神との関係を深めて欲しいというものでした。認識するだけでなく、関係を深めていくということです。当時のギリシャ的な知識というのは理論的でしたが、ヘブライ的といいますか旧約聖書にアイデンティティをもつユダヤ的な感覚で知識といった時には、もっと人格的で現実的な意味となるのです。
神を深く知るということは、聖書に書かれている神について知るということですが、それだけではなく、今も霊的な存在として生きている神様を人格的に知っていくということです。ですから実際にその人の内面的な変革が起こるわけです。それがキリスト者として成長していくということです。そういうことを含めて、パウロはここで「神の御心を十分に悟り」なさいと言っているのです。

Ⅲ.「知恵」と「理解」

パウロは神の御心を知るためには霊による「知恵」と「理解」が必要なんだと言っているのです。霊によるのですから、自分の力ではなく聖霊なる、神の霊による「知恵」と「理解」です。ここで使われているギリシャ語はソフィアです。上智大学をソフィアと呼んだりしますが、上からの知恵というわけです。ですからどんな博識な人であっても、上からの神の知恵がなければ、学んだことも経験したことも、神の御心に相応しく活かされないということです。

Ⅳ.「実を結ぶ」ことを「深く知る」

そのうえで、主に喜ばれるように、主に従って歩みなさいという、コロサイの人々に実際の生活のことをいうのですが、今日の聖書箇所では、最初の二つの「実を結ぶ」ということ、「神をますます知る」ということを、パウロは「あらゆる善い業を行って、実を結びなさい」と言っていますが、「あらゆる善い行いをする」というのは、神を知るだけではないということです。神を知った上で善い行いをすることで、それが結実する、実を結ぶことになるとパウロは言うわけです。そうすると神を知るということは、とても活動的なのですね。知っておしまいなのではない、知ったからには、行ってこそ実を結ぶのです。わたしはパウロがエフェソ2章で言った「神が前もって準備してくださった、善い業のために、私たちが造られた」というみ言葉が好きです。自分の意思は弱くても、善い業を計画してくださった。その業を日々行って生きていく。やがて神様の姿に似ていくのではないでしょうか。
そのようにして10節の終わりでパウロは、「神をますます深く知るように」と言って結んでいます。聖書を通して神という方を知ること、そして日々の善い行いをしながら、その神と人格的に近くなっていく、いや近づけないと思わされながら、ますます神を「ああこういう方なのか?」と深めていくことになるのです。そんな生き方がキリスト者の生活というものではないでしょうか。パウロはそのように祈っているのですね、コロサイの人々が、神をますます深く知るように、そうして神と近い関係になって欲しいと祈っているのです。

Ⅴ.「主の祈り」を通して

先ほど、神様のイメージの話しをしましたが、その神様のイメージはいつも礼拝で祈っている「主の祈り」を通しても見ることができます。私たち高座教会で祈っている主の祈りは、他の教会の「主の祈り」とは違うと思った方もいると思います。「主の祈り」はマタイの福音書6章や、ルカの福音書11章でイエス様が教えてくださったお祈りのことですが、その箇所の「新共同訳」聖書の翻訳に合わせて造られたのが、この「主の祈り」です。
まず、「天におられる私たちの父よ」は、ここから父のような頼もしい存在なのだ、と神様をイメージできます。「御名が崇められますように」と崇めるような聖い方、聖なる方だと分かります。「御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも」ここからは、神様は天を統べ治める王様のような存在で力に溢れた方です。「私たちに日ごとの糧を、今日も与えてください」という言葉から、私たちに心をかけてくださり惜しみなく養ってくださる、飢え渇かないように備えてくださる方。さらに「私たちの罪を赦してください」と、罪を赦してくださるような、寛容で憐れみ深い方。そして「私たちを誘惑に遇わせずに、悪い者から救ってくださる」救い主です。最後に「国も力も栄光も、永遠に主よ、あなたのものです」というように、永遠の方であることが分かります。
この「主の祈り」は、イエス様が教えてくださった祈りですから、この祈りを通して父なる神様がどのようなお方なのかを、イエス様が祈りを通して明確に教えてくださったのです。同時にイエス様が示してくださった神様のイメージを私たちが知り、より深く知っていくにつれて、わたしたちが生きていくあるべき姿を、そこに見ることができるのです。
たとえば親とはどうあるべきかを考えた時、神様は父親としてだけではなく、母親はどうあるべきかも明確にして下さいます。父親は強くて頼もしい一家の大黒柱ですし、母親は優しくて包容力のある存在です。イエス様が「父よ」と示される神様は、父親や母親が持っているすべての性質が、完全なバランスをもって表されていることが分かります。子どもにとって父親、母親というのは強く頼りになる存在、必要な物を備え、惜しみなく与え、寛容であり、悪に傾いた時に救いの手助けをしてくれる、そして幾つになっても親は親、子は子として繋がりに変わりはありません。
私たちはそのような神様の性質を知ることによって、少しずつ自分達もそのように変えさせられていきます。パウロがコロサイの人々の為に祈ったように、今、私たちの為に祈ってくださっているのは、イエス・キリストです。
私たちの本質的な罪の性質である、背きの罪を執り成し、救う事ができるのはこの方の十字架の業によっています。私たちはイエス様を見ることを通して、父なる神様を見ることができるのですが、そうなるようにと、いつも私たちを見守り、執り成しをしてくださる、この方の祈りを忘れてはなりません。私たちはこのキリストのことを、どこまで知っているのでしょうか? 間違いないことは、私たち以上に、主は私たちのことを十分に知っていてくださるという事です。このことに信頼してこの一週間、神様のことを知り、この方に信頼し、この方が用意してくださった善い業を行っていきたいと願います。お祈りします。

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彼は傷ついた葦を折らず

2017年7月23日
松本雅弘牧師
イザヤ書42章1~4節
マタイによる福音書12章9~21節

Ⅰ.片手の萎えた人

麦畑での安息日論争に区切りをつけた主イエスは、弟子たちと一緒に会堂にお入りになりました。するとそこに片手の萎えた人がいました。同じ出来事を記したルカは、その手が「右手」だったと報告しています。
「右の手」とは「利き手」でしょう。糧を得るために使う手です。物を掴み、物を作り、生活を支えていく手が「右手」です。その「働き者」の「右手」が萎えて動かないのです。
イエスさまが会堂にお入りになった時、その人が信仰の仲間たちと礼拝を求めて会堂の中にいました。そこに、イエスを訴えようと思っていたファリサイ派の人々もおりました。
そして彼らは、イエスさまに向かって「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(10節)と尋ねたのです。ファリサイ派とは、「律法に違反してはいけません」と教えていた人たちです。彼らは、主イエスを訴える口実を見つけようと、イエスさまが人々の中で、律法に違反する言動をなさる、そのことを期待し、目を光らせていたのです。
一方、片手の萎えた人は生きることに必死だったと思います。不自由な右手、生活を支えることができない悩みを常に感じながらの生活でした。その萎えた右手の存在が、彼の体全体を、さらに心までも萎えさせ、常にマイナスに作用していたにちがいありません。
イエスさまを訴えようと隙を狙っていたファリサイ派の人々は、この人の苦しみ、悩み、将来への不安などには寄り添おうともせず、まるで釣竿の先にぶら下がった餌を見るようにして、イエスさまが、いつ、その餌に喰いつくか、いつ、その人にかかわりを持つかと、イエスさまが律法違反を犯す、その瞬間を待っていたのです。

Ⅱ.安息日規定

イエスさまは彼らの魂胆を見破り、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」という質問に対して、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」(11節)と語り出されました。
百匹の内の一匹ではありません。その人には、羊一匹しかいませんでした。百匹の羊を持っていた人の話より、もっと厳しい状況です。掛け替えのない羊です。1匹しかいない大切なその羊が穴に落ち、命の危険にさらされたとすれば、たとえ、その日が安息日であろうと、羊を助け出すのは当然ではないか、とイエスさまは語ります。そして、イエスさまは、手の萎えたこの人の悩みに心を留めて御覧になり、その手をいやすことができるのならば、今ここでいやすこと、そのことこそ、安息日にふさわしいではないか、と彼らに迫っておられるのです。
世界を創造された神さまが、人間を創られたのは第6の日でした。この6日目に創られた人間が、初めて迎える新しい日が第7の日、すなわち安息日です。ある神学者は、「それ故に人間は安息を味わうために創造されている」と語ります。
イエスさまの時代のユダヤ教は、本来の安息の意味を忘れ、「なぜ休むのか」を問うことをせず、「『休まなければならない』という命令のために休む」と理解をし、その結果として「してはいけない労働とは何か」、「してはいけない仕事とは何か」と考えていきました。つまり、目的と手段とが入れ代わってしまっていたのです。
このように、矛盾を引き起こしているファリサイ派の人々に対して、この時のイエスさまは、敢えて彼らの挑発に乗るようにして、この人の手をいやされたのです。それは、主イエスこそが「安息日の主」であることを表わすためでもありました。

Ⅲ.イエス殺害を企てるファリサイ派の人々

この結果、ファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうか」と相談をし始めたのです。このことを知って、イエスさまはそこを立ち去られました。そして、ご自分の後に従ってくる大勢の人々に対して、イエスさまは、まさに1匹の羊を探し求める羊飼いのようにして、1人ひとりの病気をいやされ、同時に、ご自分のことを言いふらさないようにと、戒められたのです。
なぜ言いふらさないように、と戒められたのでしょう。マタイによる福音書においては、すでに重い皮膚病の人をいやされた8章4節においても、二人の盲人が見えるようなった9章30節においても、イエスさまは「だれにも話さないように」と、同じように指示を与えておられます。
イエスさまは、この後にご自分がたどられる道、死に向かわれることについてご存知でした。その上で、しかし、まだその時ではない、と理解しておられたのです。何故なら、イエスさまには、まだなすべきこと、語るべきことがたくさんあったからです。
病人のいやしとは、ある人の言葉を使えば、「その人とイエスさまとの間に通った愛のしるしだ」と言われます。決して、宣教の道具、人集めの手段ではなかったのです。
この福音書を書いたマタイは、このようなイエス・キリストの姿を見て、イザヤ書42章1~4節に出て来る預言の言葉の成就と理解していったようです。
そこで12章8節以下に、マタイ独特の自由な引用の仕方で、そしてまた、マタイ自身の解釈を加えながら、イザヤ書42章を引用しています。
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」と。
「わたしの選んだ僕」、「わたしの心に適った愛する者」、「わたしの霊を授けた、この僕」と、ここに登場するこの人は、これまでの預言者とは違って大声で叫ぶことをしません。そして、不思議な愛の業を行っても、それを「言いふらすな」と言うのです。
そのようにして彼は、1人ひとりの魂を救うように人々と接していくのです。

Ⅳ.イザヤの預言の成就としてのイエス・キリストの出現

「この僕」といわれる彼は、「正義を知らせる」 (12:18)ために来た、とあります。この正義は一般的に考えられている正義とは違います。
正義という時、私たちは、普通、悪を打ち破り、力をもって勝ち取る正義、声を大にして戦い、獲得する正義を考えます。そのためには多少の犠牲を伴うことはやむを得ない、と思うのではないでしょうか。けれでも、人間の歴史を、また私たちの社会を見ていく時、そのような犠牲は往々にして、社会で一番弱い立場にある人の上に降りかかってしまうものです。
今回、アメリカに行かせていただいた時に、「ベテラン」という言葉を何度か耳にしました。その道で経験を重ねた人のことを「ベテラン」と呼びますが、もう一方で、退役軍人を指す時にも、この言葉を使うのです。
今のアメリカ社会の問題の1つに、ベトナム戦争、イラク戦争から戻った元兵士たち、また彼らベテランの社会復帰の問題、そして自死の問題があるそうです。
あのイラク戦争の時、無防備な市民、特に子どもたちが犠牲になりました。そして、実際に前線に赴いたアメリカの兵士、その多くがアメリカ社会におけるマイノリティーの立場の人だったそうです。ある人の言葉を使えば、「使命感でというよりは、何がしかの見返りがあるから、辛抱して兵役についた」兵士が多かったのが事実なのです。
マタイが記している預言者イザヤの言葉に注目しましょう。
18節と21節に2回、「異邦人」という言葉が出て来ます。「異邦人」とはユダヤ人から見れば、外国人、仲間ではない人を指す言葉です。信仰も価値観も、生き方も違う人々です。
「彼は異邦人に正義を知らせる」(18節)とあります。正義という時に、こちらにとっては「正義」であっても、相手にとっては「価値観の押し付け」だったりすることがあります。
ところが、この「わたしの選んだ僕」は、そうした異邦人にも分かる正義を知らせる、というのです。それは強制することによらない正義です。
そのことを預言者イザヤは、「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と表現しました。
つまり、そのような仕方で、「勝利に導く」正義でなければならない。そうした正義であって初めて、「異邦人は彼の名に望みをかける」ことができるからです。
私たちの主イエス・キリストというお方は、傷ついた葦を折り、消えかかっている灯心を吹き消してしまうようにして、正義をごり押しするお方ではありません。
逆に、そうした折れそうで消えそうな「弱さ」を一身に引き受けてくださり、ご自分が犠牲になることを選び取られたお方です。それがゴルゴタの十字架です。
神さまは、ご自分の愛する独り子を、ゴルゴタの道へと歩ませる決断をなさり、そのイエスを指して、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」(18節)と言われたのです。ある人の表現を使えば、「本当に大きな神さまの決断」でした。
私たちは、この「大いなる愛の決断」によって生かされ、守られているのです。
お祈りします。

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安息日の主

2017年7月16日
松本雅弘牧師
ホセア書6章1~6節
マタイによる福音書12章1~8節

Ⅰ.ファリサイ派の人々のこだわり

私たち人間は時に、神に勝って宗教的になるという言葉があります。その代表者こそファリサイ派の人々でした。
マタイによる福音書は12章に入って、ファリサイ派の人々と主イエスとの対立は決定的なものとなります。彼らはイエスの殺害計画を立て始めるのです。彼らの目から見てイエスさまは、全く世俗的な存在と映ったのです。それ故に、完璧な仕方でイエスさまを殺そうと計画していきます。

Ⅱ.事の発端

事の発端は弟子たちのとった行動にありました。空腹を覚えた弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んで食べてしまいました。その日が安息日だったのです。ファリサイ派の人々は、それを見逃しませんでした。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言って、主イエスを問いただしていくのです。

Ⅲ.安息日の主なるイエス

ファリサイ派の人々の、こんな言いがかりのようなことにむきになっていく必要なんかないのではないかと思うようなできごとです。ところが、イエスさまは彼らの問いかけに対して、一気にヒートアップし、激しく反論されました。
食べ物もなく飢えるダビデに「何か、パン五個でも手もとにありませんか」(サムエル記上21:4)と乞われた祭司アヒメレクが、神殿に供えられているパンをダビデに差し出したではないかと、サムエル記上21章に記されている話に触れながら、イエスさまは、ファリサイ派の人々に迫ります。さらに、畳みかけるようにして、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」(マタイ12:5)と言って、神殿の務めを果たす祭司が、安息日に働くのは当然ではないか、と反論するのです。
さらに、イエスさまは「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」と、決定的なことを言われました。ある神学者は、「この言葉は、新約聖書の中で語られている、最も大きな意味を持つ言葉の一つだ」と語っていました。
神殿とは、神が臨在される場所、神の住まいです。この時イエスさまは、自分こそが神殿を超えた存在、つまり神そのものなのだと主張されたのです。言葉を変えて言うならば、「このわたしが見えないのか、わたしにおける神が見えないのか」と、ファリサイ派の人々に向かって痛烈な問いかけをなさったのです。そして、「人の子は安息日の主なのである」と言い切っておられます。つまり「わたしこそ、安息日の主、すなわち、真に安息を与える者である」という主張です。これは大変な宣言です。
ところで、ここで一つ、心に留めたい点があります。それは冒頭に「そのころ」と出て来る、時を定めた言葉です。
普通「そのころ」と言えば、その前後の時期を含めた、「その辺りの時期に」というようなニュアンスのこととして受けとめるでしょう。ところが、原文では、「そのころ」、「その辺りの時期に」というような曖昧な表現ではなく、「その時」という意味であり、明確な時を示す言葉が使われています。ですから、今日の12章に出て来る話は、11章の出来事に続いて起こったことだということです。
イエスさまは、全く理解のない人々に囲まれ、そこでなお、父なる神さまの御心を一生懸命に読み取ろうと苦労し、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(11:25)と賛美を捧げた後、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28-30)と語られたのです。
疲れ果て、なお重荷を負ってあえいでいる人々に、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげるから」と言っておられるのです。主イエスご自身が、この「大いなる安息」を宣言されたのです。
まさに「その時」に起こったのが、今日の12章に出て来る話なのです。

Ⅳ.「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。

このことを踏まえて、今日の箇所を見ていきます。ここで主イエスは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と、預言者ホセアの言葉を引用し、「この言葉の意味を知っているのか、分かっているのか」と問うておられます。
ここでイエスさまが問いかけておられること、それは、いけにえを捧げるという宗教儀式だけにうつつを抜かすよりも、人を愛する業に励む方がどれだけよいだろう、ということではありません。ファリサイ派の人々に向かって、神殿の中でいけにえを捧げるような宗教儀式や行事に時間を取られるのではなく、もっと立派な人間になるために、そこから出て行って憐れみの業に励んだらどうか、とチャレンジされたのでもないのです。
そしてまた、イエスさまが弁護している弟子たちが、愛の業に励んでいたということでもありません。彼らは、そんなことを何ひとつしていないのです。むしろ、彼らがしていたことはと言えば、麦の穂をつまんでそれを食べたことだけです。もうちょっと我慢すれば食事にありつけたでしょうに、子どものようにつまみ食いをしてしまったのでした。
ここで主が願っておられること、それは、神殿よりも偉大な存在である主イエスの中にある神の憐れみに触れて欲しい。いや、「神そのもの」と呼んでもよい程の憐れみに気づいて欲しいということです。
人は、その神さまの憐れみの中にあって初めて、本当の憩いを味わうことができるのです。そして、人間として造られ、生かされていることを喜ぶことができるのです。イエスさまは、その恵みを示そうとなさったのではないでしょうか。
主イエスさまは、私たち1人ひとりに向かって、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、憐れみをもって「大いなる安息」へと招いておられます。私たちに問われていること、それはその招きに従って主イエスの許に行くかどうか、です。
先週、ヘンリ・ナウエンが書いた、『イエスの御名で―聖書的リーダーシップを求めて』という本を読み、その一文に目が留まりました。
「『年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?』
司祭になって25年になっていましたが、依然として、祈りにおいて貧しく、やや人々から孤立した生活を送り、自分をせきたてる目先の問題にすっかり心奪われていることに気づきました。人は、私が申しぶんなくやっている、と言ってくれました。しかし、心の内の何かが、私の築いてきた成功は、自らの魂を危機に陥れている、とささやくのです。私は、自問しました。観想的な祈りの不足、孤独な状態、緊急と思えることに次から次へと引きずられるのは、私の内で、御霊が徐々に消えつつある徴(しるし)ではないだろうか、と。」
ナウエンは、この後、大学での仕事を離れ、これまでの自分の学者としての実績や貢献について全く知らない人たちへの働きに赴きました。彼らは字を読むことができない人々でした。ですから、当然、ナウエンの著作を手にしたこともないのです。
彼らを相手に、まさに、ナウエンは「裸にされた自分というものに向き合う」経験をしていくのです。そうした中で、自分の真のアイデンティティーを再発見せざるを得ないところへと追い込まれていきました。
ナウエンが経験した、この「裸にされた自分というものに向き合う」こと、それは、私たちにとって本当に難しいことです。
そして、そうできなかった代表が今日、ここに登場するファリサイ派の人々だったのではないでしょうか。
彼らの信仰は、何か出来る自分、何かを示せる自分、何かを証明できる自分、何かを築ける自分を、神さまの前に差し出して、神さまに認めていただくこと。それによって神の好意を獲得することにありました。
しかし、イエスさまの福音、イエスさまの招きはその逆です。
心の破れや傷、弱さを覆い隠して生きる自分であること。そして、弱くて傷つきやすく、ただ愛を受けるだけの自分であることを、神さまの前に認めることです。
神さまは、私たちが何かよい行いをし、また何かを成し遂げたから、そのことの故に愛してくださるのではないのです。ただ、そのご愛のうちに私たちを創造し、主によって贖われたが故に愛してくださるのです。
主イエスさまは、父なる神さまが約束してくださった安息を、より確かな仕方で私たちに示してくださいました。
ですから、私たちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれるイエスさまの招きに応えて、イエスさまの懐に飛び込むこと、そのことこそ、私たちにとっての大いなる幸いであり、また、主イエスご自身が、一番願っておられることなのです。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

神のめぐみ

2017年7月9日夕礼拝
和田一郎伝道師
マラキ書1章11節
コロサイの信徒への手紙1章6~8節

Ⅰ.真理の言葉

今日の聖書箇所は、前回の説教で話しましたパウロが「神へ感謝する」と言っている内容が続いています。3-5節のところでパウロは信仰生活の基本となる「信仰」と「希望」と「愛」について述べました。そしてそれらはお互いに関連をもっていて、中でも「希望」というのは福音を通して知ったのだと語りました。「福音」というのは良い知らせという意味ですが、この良い知らせである「福音」を、パウロは真理の言葉と言いました。
真理というのは憶測でも、独断でもありません。わたしたち人類全ての者に当てはまるもので時代や国の違いに左右されないものです。ですから真理というものはいくつもある、というものでもありません。ある意味で真理は排他性をもっていて「何々であって、それ以外のなにものでもない」といった要素があるのです。パウロがここで「福音は真理の言葉だ」という時、当時広がっていたグノーシス主義という人間の知識を尊重する思想を意識していたと思います。しかし福音だけが真理なのです。人間の作ったあらゆる思想と、キリストによる福音とを分離しているのです。
続いてパウロは「福音」が世界的なものであると言っています。「福音」というのは、単に一つの民族、一つの国家、一つの状況にある人たちだけに通用する、というものではありません。真理は状況や時代に左右されるものではありません。当時、コロサイ教会のあった地方には民族信仰があったと言われています。御使いを礼拝したりする異教思想があったようです。もちろん今はそのような間違った信仰を持っている人はいないようですから当時に限って、一地方にしか通用しない民族信仰にすぎなかったのです。それに対して福音は当時の世界に広がりつつある、とパウロは言うのです。
しかし、広いローマ帝国の中でキリスト教会はまだまだ小さな存在でした。あちこちの町で教会が増えつつありましたが、社会に影響を与える存在になるのはもっと後のことです。ですがパウロはこの福音が世界性をもっていることに確信をもっていました。民族信仰や新興宗教は、大きくなっていく中で何回も変化したり、分離したりして最初のものからすっかり変わってしまうものですが、キリストの福音は最初から世界性をもっていました。どこの国にいっても通用する真理です。キリストの福音がパウロが宣教を始めたダマスコの出来事から30年ほど経っていました。30年というのは短いようにも長いようにも思えますが、その間、どこの国に広がっても揺るがない世界性を持っていることが、実証されているとパウロは言うのです。

Ⅱ.確信している事実

キリストの福音はユダヤ人だけに与えられた民族宗教などではありません。当時の世界のあらゆる民族、あらゆる階層の人々に通じる普遍性をもっていました。それをパウロは6節のところで間違いなく事実であると、確信をもって語っているのです。
それは「実を結んで成長している」と。ここでは二つのことを取り上げていると思います。「実を結んでいる」ことと、それが「成長している」ことです。「実を結ぶ」ということは人間の内面的なことですし、「成長している」のは外面的な意味です。
内面的な意味でキリストの福音が実を結んでいる。植物の種が良い地面に落ちて、育って実を結んで成長しているように、キリストの福音は実を結んでいる。これはもともと神様に背いていた人達が、キリストを主と信じた時、父なる神様の子とされた、親と子のような親しい関係へとされました。続いて私たちの中に住まわれる聖霊が御言葉を用いて人格的にも神に似た者へと成長させてくださいます。こうしてキリスト者は、御霊の実を結ぶようになります。つまり愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ書5章22節)。これは内面的なことですが、それにととどまらず、外面的にもあらわれてくることです。「成長している」という言葉は、福音を信じる人たちの人数が増えているということですし、広い地域に広がっているという意味でもあります。この二つのこと、主にある内面的なことと外面的なことは、切っても切れないものです。内面的な人間の変革というものは周囲の人に影響を及ばさずにはおかれないことです。そしてその事は初代教会でもそうでした。ペンテコステの出来事の時にペトロが説教をすると、その日に3千人の人に影響を与えて教会に加わりました。彼らは「熱心」になったと表現されていますが、内面的に変化が成されたのです。

Ⅲ.宣べ伝える人

このキリストの福音という真理は、誰かが宣べ伝えることによって伝達されることです。パウロはローマの信徒に向けた手紙でこう言ってます。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ書10章14節)
ここにあるように、私たちも教会に来るようになって洗礼を受けるようになったのは、誰かが自分に関わってくれたからです。その誰かがいなかったら信仰をもっていなかったという人がいると思います。ではコロサイの教会に福音を伝えたのはだれだたでしょうか? それはエパフラスという人です。パウロ自身は一度もコロサイの町に行ったことがありませんでしたから、この手紙を読んでいる人達と交流をもっていなかったようです。
この町に福音を伝えて、人々にキリストの真理を教え広めたのはエパフラスです。パウロはこの手紙を書く5~6年前に、エフェソで3年ほど滞在して伝道をしていました。その頃エパフラスが忠実な伝道者として用いられて、コロサイに行き宣べ伝えたのです。そうしてコロサイ教会が生れました。それでパウロは「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。」と書き記しているのです。
パウロは「わたしたちと共に仕えている愛する仲間」であるし「彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者」だと言います。これはエパフラスが伝えた福音が、正しい真理であるということ、真の伝道者であると太鼓判を押しています。それは「わたしたちと共に仕えている愛する仲間」という表現の中にあります。「仕えている」というのは、誰に仕えているのか?というと、言うまでもなく「キリストに仕えている者」ということです。ですからキリストの意思にしたがって動き、キリストの教えにしたがって判断することです。パウロは自分をそのような者として自認していましたが、エパフラスもまた同様だと言ってコロサイ教会の信徒たちに伝えています。これは逆に言えば、コロサイ教会にも近寄っていた、異端の宗教者のことを、キリストに仕えるものではないと暗に浮彫らせて、示していたのかもしれません。パウロはエパフラスへの信頼と愛を十分に表しておりますし、エパフラスはパウロの信任を受けていました。それは自分はコロサイに行ったことはないが、コロサイの町へ宣教の働きを託したエパフラスがキリストの福音をしっかりと伝えていた。

Ⅳ.まとめ

パウロはこの手紙の冒頭のところで、コロサイの人々が信仰と愛に満ちていたことを感謝していましたが、ここでも「“霊”に基づく、あなたがたの愛を知らせてくれた人です。」と言って文章を結んでいます。霊に基づくのですから、ただ単に優しい人たちと言っているのではないのです。聖霊に導かれた実としての愛ですから「いつも喜び、平和を成し、寛容であること、人に親切で、善意をもって接して、誠実に生きること、柔和な態度で、節制ある生活を生きる人です。これらの様子は歯を食いしばって忍耐強くなればできることではありません。強い意志を奮い立たせれば、喜んで柔和な態度がとれる、というものではありません。それらは自分の意思ではなく、あくまでも聖霊の力によって結ばれる、果物のような実なのです。ちょうど果樹に実がなるように、内側から外側へと自然なかたちで実っていくものなのです。