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主日共同の礼拝説教

まず感謝しなさい

2017年8月27日夕礼拝
和田一郎伝道師
ダニエル書6章1~11節
コロサイの信徒への手紙1章11~12節

この手紙は、パウロが獄中にいた時に書かれたとされている手紙ですが、コロサイの人々が間違った教えに従っているところもあった様子を聞いたパウロが心配して書いた手紙です。ですから、今日読みました聖書箇所を含めて、この手紙の1章9節のところからは、間違った考えに流されてしまわないように、心配しているパウロが、執り成しの祈りを祈っている部分です。

Ⅰ.執り成しの祈り

祈りにはいろいろあります。願いであったり、感謝であったり、罪を告白する祈りなどさまざまですが、誰か人の為に祈ることを「執り成しの祈り」といいます。自分のことではなくて他の人のことを神様に祈るわけです。パウロは神様と、コロサイの人々の間に立って、コロサイの人の為に神に祈っているのです。「父なる神様、コロサイの人々が神の力に従っていくことで強められますように。どんな苦労があっても根気強く忍耐して、キリスト者になったことを喜んで、感謝できるようにしてください。」と、祈っているところです。「神の栄光の力・・・あらゆる力によって強められますように」。この祈りの意味は、目に見える世間的なものに頼らないで、目には見えない神の力を信頼して欲しい、神の栄光は、直接目に見えるものではありませんが、それを信頼して生きる人というのは光り輝いて見えるものです。「あらゆる力」とあるように、神はあらゆる力をもっている方ですから、その力によって強められて欲しいとパウロは神様に執り成して祈っているのです。

Ⅱ.忍耐が成長させる

それとあわせて「どんなことにも、根気強く耐え忍ぶように」と、コロサイの人々に向けて祈っています。どんな時代でも苦しみや困難はあります。イエス様やパウロが生きた時代も戦争や紛争がありました。今もあります。人と人とが争ってしまうという性質は、人間のもっている罪の性質です。創世記のエデンの園で、人間が神様との関係に背をむけてしまったとおり、人が本来大切にしなければならない神様との関係も、人と人との関係においても、人は背を向けて自分の力を優先しようとする性質をもっています。神様との関係より自分自身のこと。神を信頼することより自分の力で自分は生きていけるのだと思ってしまいます。この世の中でものをいうのは、お金が十分にあることや、優位な立場にあれば、神に従って生きるよりも大事だと思い込んでしまう。そんな独りよがりな考えが争いを生んでいるのです。パウロの生きた時代も争いはありました。特にキリスト者の立場からすると迫害があった時代です。パウロ自身もそのために鞭で打たれたり、石を投げられたり、牢に入れられました。その恐れはコロサイの人々の周囲にもあったわけです。そういったものに対して、徹底して戦ったり、抵抗するようには言いませんでした。それらを神に委ねて「根気強く耐え忍ぶように」とパウロは祈っていました。コロサイの人々もキリスト者となってまだ年数も浅く、歴史も伝統も少ない人々です。そういった人々がキリスト者として成長していくために、「根気強く耐え忍ぶように」願っているのです。
パウロは忍耐することが、キリスト者として成長することであると、堅く信じていましたが、わたしは、このことを聞いて思い浮かぶのは、香港のカンバーランド教会です。今月AYGというアジアの青年が日本に集う集会がありました。そこに香港から沢山の若者たちが来てくれました。カンバーランドのアジア教会の中でも香港の教会はとても成長している教会です。しかし、こんな話しを聞きました。香港のカンバーランド教会は歴史的に二度危機を迎えたそうです。まず最初が今から20年前の1997年のイギリス領から中国へ返還された時。そして、今、中国本土の政府が香港社会に介入を深めている現在と、二度にわたって感じたそうです。中国は共産党の一党独裁政権で、個人の信仰の自由に関しても、イギリス領であった香港とは自由の度合いが違います。その信仰の自由を脅かす恐れがあった時期に教会が増え、イエス様に立ち返る人が多く起こされたと聞きました。現在は中国政府を擁護する人々と、民主主義の危機を感じる若い世代の間での分裂が問題となっているというのです。しかし、若い世代からは社会の中で教会の役割とは何かを考え直す運動が進んでいるということを聞きました。香港の教会が二度にわたる試練の中で、試練が忍耐を、忍耐は練られた品性を、そして品性が希望と成長をもたらしていることを感じました。
パウロ自身も同じだったのではないでしょうか。以前はキリスト者を探し出して迫害するような、攻撃的な人でしたが、キリストに出会った後は、試練を幾度も受けましたが、耐え忍ぶことで信仰者として成長していったのです。決して争うことをせずに、迫害に対しても忍耐することでパウロの教えは用いられたのです。

Ⅲ.ダニエルの信仰

12節に、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者」とありますが、キリスト者となったコロサイの人々に、その特権を、父なる神に感謝する者になって欲しいと祈っています。パウロは他の手紙でも、一貫してどんな時でも感謝することを勧めています。パウロ自身、牢獄の中でも、神に感謝することを忘れない人でした。
ダニエル書には、イスラエルの国を滅ぼされ、敵の国へ捕囚の民とされて連れていかれたダニエルの話しがあります。ダニエルは優秀な賜物があったので囚われの外国人であっても、その国の大臣に用いられました。6章4節には「ダニエルには優れた霊が宿っていた」とあります。それは、彼の「誠実」です。他の大臣たちは自分の利益のためには偽ることを何とも思っていませんでした。しかし、ダニエルは、自分の与えられた役割と信仰に関して誠実でした。自分の日常の仕事や生活の場にあって誠実に生きることができたのは、一日に三度、祈りと賛美を神に捧げていたからです。神に従うことが生活の中心にあったからです。パウロもどのような迫害にあっていても、常に神を賛美して祈っていた人でした。そうした人の生活には必ず感謝があります。感謝することが、忠実な人を造り上げ、人から信頼され神から守られた。感謝することが、その人の生活を変えていきました。その背景に祈りの習慣があったという事ではないでしょうか。

Ⅳ.まず感謝するイエス・キリストの祈り

感謝することにおいては、イエス様もまた見習うことです。感謝から恵みが生れることが分かるのは、5つのパンと二匹の魚の話しにも見られます。イエス様は五千人に食事を与えるという奇跡をなされました。五千人に対して、たったの五つのパン、たったの二匹の魚でしたが、その小さなものに落胆したり、文句を言ったりしたのではありません。
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
(ヨハネ福音書 6章11節)。
イエス様はパンをとって、感謝の祈りを唱えましたが、どんな感謝の言葉であったと思われるでしょうか。五千人に対して、たったの五つのパンと、二匹の魚でどんな感謝をしたのでしょうか?
わたしたち人間は、感謝を忘れてしまいます。あれだけ求めていた、あれほど願っていたものも、手に入れば感謝はその時まで。あとは当たり前のような顔をしてしまうのが私たちです。しかし、わたしたちが朝起きて、そこに生きていることは、あらゆる感謝すべき恵みの積み重ねの上になっているのです。イエス様がパンと魚をとって、まず感謝したように、感謝することから神の恵みは見えてきます。まず感謝することが、「恵み」を恵みとして受け取ることができる秘訣です。感謝は生活を変えます。感謝がその人の人生を祝福に導きます。パウロはそのように確信してこの手紙を書いていますが、私も本当にそうだと感じます。
わたしたちが聖書の言葉を神の言葉であると信頼できる恵み、キリスト者とされた恵みはイエス様の十字架の犠牲があったが故の恵みです。2千年前の、ただの過去のできごとではありません。十字架は私たちの問題、私たちの「恵み」です。
コロサイの人々のために、パウロが執り成しを祈ったように、わたしたちが苦難の中にあっても耐え忍ぶことができるように、今ある恵みに感謝できるように、執り成しの祈りをしてくださっているイエスキリストです。わたしたちのために、今も祈ってくださっています。

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主日共同の礼拝説教

木とその実

2017年8月20日
松本雅弘牧師
詩編51編1~28節
マタイによる福音書12章33~40節

Ⅰ.イエスがキリストである「しるし」を見せて欲しい

今日の聖書箇所を見ますと、ご自分の働きを神の霊の働きなのだと宣言するイエスさまに対し、何人かの律法学者やファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せてください」と迫ったことが出て来ます。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(Ⅰコリント1:22)と語っていますが、イエスがキリストであることは、この世の科学によって証明することは出来ません。ですから歴史の教会はこうしたキリスト教の信仰を「知解を求める信仰」と表現しました。それは、まず信じることが先にあり、その後、初めて理解がついて来るからです。

Ⅱ.ヨナのしるし

さて、律法学者たちの「しるしを見せてください」という問いかけに対して、主イエスは、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」とお答えになりました。
今日も、礼拝の中でご一緒に「使徒信条」を告白します。その中に、イエス・キリストが十字架で死に、三日間、墓に葬られ、陰府にくだることを告白いたします。神さまは、それを「しるし」として示されたのです。
ある説教者は、ここでイエスさまが示された「しるし」は逆説的だ、と言いました。この後、マタイによる福音書を読み進めて行きますと、十字架の場面で、まさに死を目の前にしていたイエスさまに対して、居合わせた人々は「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と言ったことが記されています。つまり、イエスが十字架から降りるという「しるし」を示したら、「自分たちはお前をキリストとして信じてやろう」と言ったのです。
イエスさまは十字架から降りませんでした。彼らの挑発に乗り、その求めに応えて、十字架から降りて見せることによってではなく、逆に十字架の上に留まり、全ての痛み、苦しみ、渇きを一身に引き受け、陰府にまでくだることによって、ご自身がメシア・キリスト、神の子であることを証しされたのです。
「しるしを見せろ」と迫る律法学者やファリサイ派の人々に、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と言われたイエスさまの言葉の通り、ヨナは、神さまの御心に背くという、自分の罪のために大魚の腹に閉じ込められ、主イエスは人の罪のために「大地の中」、すなわち陰府にまでくだられたのです。これこそが私たちのためにイエスさまが用意された「しるし」だったのです。

Ⅲ.キリストを知っていることの「証し」

律法学者やファリサイ派の人々は「先生、しるしを見せてください」と、主イエスに迫りました。また、十字架につけられたイエス様に向かって、そこに居た人々は「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と言って「しるし」を求めました。
イエス・キリストを信じるために、また、洗礼を受ける決心をするにあたって、私たちも神さまから何らかの「しるし」を求めることがあるかもしれません。今この時も、何らかのきっかけ、あるいは「しるし」が与えられることを期待している方もおられることでしょう。でも、どうでしょう。すでにイエスがキリストであることを示す「しるし」は与えられている、と福音書は語っているのです。
イエスをキリストとして指し示す「しるし」を、私たちが科学的真理を提示するように示すことはできないと、ある方が語っていました。
それでは、信じる私たちが、自分自身、主イエスのお働きをどのように受けとめたので信じるに至ったのか。さらにまた、イエスさまを知らない方たちに、イエスが救い主キリストである「しるし」を、どのように提示することができるのか。最後にそのことを考えてみたいと思います。
先週の聖書個所で、ファリサイ派シモンの家に突然現れた女性が、イエスさまの足を涙でぬらし、髪の毛で涙にぬれた足を拭き、その足に接吻し、香油を塗ったという出来事をご一緒に見てきました。
その女性を心の中で軽蔑し、裁いていた人物、それは、その家の主人シモンでした。主イエスはシモンの心を見抜かれ、「多く赦された者は多く愛する」というメッセージをお語りになりました。
先週の説教でお話しましたが、その女性にしろ、シモンにしろ、私たち全ての者はみな、神さまから多く赦され、多く愛されている者です。そうでない人間は誰一人いません。ただ、その事が分かっているか、分からずにいるかの違いなのだ、とお話しました。
アントニー・デ・メロという司祭が「ほんとうに知ることは、知っていることによって人間が変わることです」と語っていますが、この言葉は、神を知っていると告白する私たちにとって、とても大きなチャレンジの言葉として、心に響いてくるのではないでしょうか。
私を多く愛し、多く赦して下さったお方として、すなわち、生きたお方であるイエスさまと交わることで、私自身が「多く愛する者」へと変えられているかどうか、そのことにかかっているということなのです。
多く愛された者として、多くを愛する者へと変えられた私の存在自体が、家庭や職場、学校や地域で、まだキリストを知らない方たちに、そのお方、イエス・キリストを指し示す「しるし」となる、ということなのです。

Ⅳ.木とその木が結ぶ実

今日の聖書の箇所に戻ります。33節から35節を見ると、ここで主イエスは、「実」こそが、その「木」、その人の良し悪しを表わす「しるし」となる、と語られました。
12章に入ってから、ファリサイ派の人々とイエスさまとの間に起こった幾つもの議論を通して、ファリサイ派の人々の言動が、実は彼らの内実を示す「木の実」となって表れているのです。ですから、そうした「実」を実らせている彼らに向かってイエスさまは、「蝮の子らよ」と強い言葉をもって批判をなさったのです。そして、この「実」こそが、その「木」、その人の良し悪しを表わす「しるし」となると言われる主イエスの言葉は、私たちをもう一度、聖なる神の御前に立たせ、信仰の自己吟味を迫る言葉となるのです。
自らの「実」を見る時に、あの「多く赦されたがゆえに多く愛している女性」とはほど遠い、ファリサイ派シモンのように「貧しい実り」しか付けることの出来ない我が身であることを知らされるのではないでしょうか。
説教の準備の中で、何人かの説教者が、今日の聖書箇所と詩編51編を結び付けて説教していることを知らされました。
詩編51編はダビデの悔い改めの詩編と呼ばれています。この歌が生み出された背景について2節に、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています。それが詩編51編だと言われています。
ダビデは祈りました。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。12節のダビデの祈りの言葉です。神の御前に自らの罪を示され、自分自身に絶望したダビデが、最後の最後のところで、主の前に祈った祈りです。
神さまの御前における、この信仰の格闘は、個々人が、時間をかけて取り組むべき事柄です。そして、神さまが、一人ひとりに時間をかけて取り扱ってくださることです。
ここでただ私は、しみじみ思います。キリストにある私たちは、「本当に幸いだ」と。それはダビデが絶望の中で祈り求めた「新しく確かな霊」、「わたしの内に清い心を創造する新しく確かな霊」、すなわち聖霊を、私たちは洗礼を受け、神の子とされた時にいただいているからです。「アッバ、父よ」と、神を呼ぶことの霊を、私はすでに授かっているのです。ダビデが祈った、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」という祈りは、すでに主イエス・キリストによって実現している、ということなのです。
コリント教会に宛てた手紙の中で、パウロは次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
私たちは、キリストの霊を内側に宿しています。その新しい恵みの現実を心に留めながら、イエスをキリストとして指し示す「しるし」としての私たち自身が、「証し」の歩みを、日々進めさせていただきたいと願うのです。お祈りします。

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愛のために何を捨てますか

2017年8月13日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書15章13節
ルカによる福音書7章36~50節

Ⅰ.「アイ・ラブ・ユー」=「死んでもいい」

(by 二葉亭四迷)
昔、二葉亭四迷が、「アイ・ラブ・ユー」という英語の言葉を、「死んでもいい」と訳したそうです。イエスさまは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われ、愛ほど大きなものはないと教えてくださいました。
このイエスさまの言葉は私たちに命を捨てることを強制しているのではなく、「誰かを愛する」ということは、その人のために何かを捨てること、何も捨てずにいて人を愛することはできないと語っているのです。今日は、このキリストの愛について考えてみたいと思います。

Ⅱ.「罪の女」

このことをご一緒に考える上で、ルカによる福音書7章36節から50節に出てくる出来事を中心に見ていきたいと思います。
ところで、どの世界にも規則が好きな人がいるように思います。自分で考えることが面倒くさいので、規則を作って安心するということをします。また、役割や立場が与えられないと動けない人もいます。いずれにしても、規則を守ったことで、神さまを愛し、隣人を愛したことにしてしまう。それが律法と呼ばれる規則の落とし穴でした。
実は、こうした意味で律法を大事にしていた人物が、今日の箇所に出てくるファリサイ派に属するシモンという人でした。その彼が、ある日イエスさまを食事に招待したのです。
するとその食事の席に、この町で有名な「罪深い女」が入ってきたのです。この後の話の流れを見ていくと、彼女は、人前で髪の毛をすぐにでもさらすような状態で居ましたので、彼女が「遊女」であったことを、この福音書を記したルカは暗黙の前提にしていたようです。
その女性が律法に厳格なファリサイ派に属するシモンの家にやってきた。見つかれば「お前みたいな奴が来る場所ではない、出て行け」とつまみ出されるのが関の山だったと思いますが、彼女は危険を犯してやって来たのです。それはイエスさまにお会いしたいという一心からでした。
彼女はイエスさまの後ろから遠慮がちに近寄りました。手には、高価な香油の入っている石膏の壷がありました。感極まった彼女の目からは涙がボロボロと流れ落ちて来たのです。
ユダヤの習慣に習って、身を横たえ足を伸ばして食事をしていたイエスさまの足に、その涙がかかってしまったのです。すると、とっさに彼女は自分の長い髪の毛をさっとほどいて、それで涙をぬぐい始めたのです。
それに対してイエスはどうされたかというと、その足を引っ込めることもせずに、彼女のなすがままに任せました。涙を拭いた後、彼女はイエスさまの足に接吻し、さらに、高価な香油を塗ったのです。

Ⅲ.ファリサイ派シモンへの問い

足に落ちた涙を髪の毛でぬぐい、その足に接吻し、そして香油を塗る。これは考えれば考えるほど、異常な情景でした。この様子を見ていたファリサイ派シモンが、「もし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と、心の中で思ったのは当然のことでしょう。彼の考え方は、筋が通っていたと思います。シモンが言うように預言者は、「人の本質」を見抜く目を持っているのです。イエスさまはまさに、シモンが期待した通りに、預言者としての鋭さと清さをもって、この女性をではなく、シモンの心を見抜き、「シモン、あなたに言いたい事がある」と声を掛けられたのです。シモンは驚きました。
驚くシモンに、イエスさまは次のたとえを語られたのです。
ここに借金をしている者が2人いる。1人は5百デナリオン、もう1人は50デナリオンの借金です。この2人とも借金を返せないで困っていた。しかし金貸しは、両方とも、その借金を帳消しにしてやりました。
ここでイエスさまは、神さまを金貸しにたとえて話しておられます。ここまで話して、イエスさまはシモンに訊ねました。「2人のうち、どちらが多く、その金貸しを愛するだろうか」と。シモンは「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えました。実は、この言葉がシモンの実態を明らかにする物差しとなるのです。
まず女性の方を見てみましょう。彼女は自分の涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でそれをぬぐい、さらに高価な香油を塗ってイエスさまに対する愛を表しました。彼女がイエスさまの赦しを経験したからです。
これに対して、シモンはどうでしょう。シモンはイエスさまを食事に招きましたし、失礼な言動をしたわけではありません。しかし、イエスさまは、シモンに対して、最後にこう言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦される事の少ない者は、愛することも少ない。」
これはシモンに対する痛烈な批判でした。シモンがイエスさまの足を洗う水も提供せず、挨拶の接吻もせず、頭にオリーブ油を塗らなかったのは、シモンが善人で、彼のうちには赦される罪が少なかったからなのでしょうか!? 決してそうではありませんね。彼がそのような具体的な愛の行動を取れなかったのは、彼の心の内側に、イエスさまに対する感謝と愛が少なかったからです。
イエスさまは、この女性のために十字架にかかることの約束をもって彼女の罪を赦しました。また、自らを正しいとするファリサイ派シモンのためにも、十字架の上での贖いの死を遂げてくださったのです。
つまり、彼女の罪の赦しのためにイエスさまの命が必要であったと同じように、この正しい事をたくさんするファリサイ派シモンの赦しのためにも、主はご自分の肉を裂き、血を流す必要があったということなのです。
この女性はイエスさまとの出会いの中で、深い主の赦しの愛を経験しました。しかし、残念ながらシモンの方はそれを受け止めることができなかったのです。

Ⅳ.感謝と喜びをもって―愛されて愛する

私たちも主イエスさまの十字架の赦しを必要としています。そして私たちは、誰もが皆、神さまから多く赦され、多く愛されている者です。ただ、その事実を知っているかどうか、それが大きな違いをもたらすのです。
今日の箇所に戻りますが、イエスさまに近寄り、涙が出て、もう止まらなくなり、イエスさまの足に口づけし、高価な香油を注いだ女性は、悪いことをしたために、町の人々から責められ、いじめられていた人でしょう。でも、イエスさまは、その女性を責めませんでした。苦しめませんでした。全部を赦し、心から愛してくださったのです。考えもしなかったこの喜ばしい出来事のゆえに、彼女は自分に出来る精一杯のことを、イエスさまに捧げ、イエスさまへの愛を表したのです。
イエスさまに赦され、助けられ、愛されていない人はいません。ただ、そのことに気づいていない人は大勢いるのです。
それはちょうど、列車の乗客が、自分の乗っている電車の下で、命がけでその列車の安全のための働きをしている駅員がいることに気づかず、平気で旅を楽しみ、何事もなかったかのように生きている、その姿に似ているのです。
礼拝堂の正面に十字架があります。これがキリスト教のシンボルです。でも、よく考えてみると、十字架、これは人を処刑する時に使う道具です。
キリスト教がわからない。聖書がわからないという方、神の愛がわからないという方は、なぜ、キリストが十字架にかからねばならなかったのか、という問いを持ちながら、礼拝に出ていただきたい、聖書を読んでいただきたいと思うのです。
このことについて聖書ははっきりと教えています。イエスさまの命と引き換えに生かされているのが私たちだ、と。
この主の赦しの愛をいただいている私たちが、果たして「多く愛する者」に変えられているかどうか、聖書は、私たちに問いかけているのです。
本当の意味で十字架の愛を経験していたのなら、私たちは、もっともっと主を愛し、主に自らを捧げ、そして周りの人たちに仕えるキリストの弟子に変えられていくでしょう。何故ならば、本当の神さまの愛を知っている者は、それが、その人の生き方として現れてくるからです。
今日は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスさまの御言葉を読み、一緒に学んできました。イエスさまご自身の愛、神さまご自身の愛を、自分のこととして実感した時に、私たちの内側に起こる新しい出来事、それがこの御言葉そのものなのではないかと思うのです。
私たちも、多くを赦されたこの女性のように、徹底的に砕かれ、恥も外聞もなく主にお仕えできるほどに、主の赦しの愛を知らされ、その愛に生きる私たちであるように祈りたいと思います。
お祈りします。

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今、神の国が来ている

2017年8月6日
松本雅弘牧師
エレミヤ書23章23~32節
マタイによる福音書12章22~32節

Ⅰ.聖霊に逆らう罪

今日は、代々木オリンピックセンターで行なっている日本中会アジア青年交流会に参加するために、アジア各地から来られた6名の兄弟姉妹たちと共に礼拝を捧げています。
さて、今日の聖書箇所には「ベルゼブル論争」の結末として、イエスさまの口から「聖霊に逆らう罪/赦されることのない罪」という言葉が飛び出して来たことが記されています。これは、聞く私たちに大きな戸惑いを与える言葉です。

Ⅱ.事の発端

事の発端は、目が見えず口の利けないという二重の障がいを負った人を、イエスさまが癒された出来事からでした。
この人の癒しを目の当たりにした「群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った」のです。
ここで注目したいのは「驚いて」という言葉です。調べてみると、これは英語の「エクスタシー」の語源となった言葉で、「恍惚状態」で「我を忘れる」という意味だと分かりました。
群衆は、イエスさまの奇跡を目の当たりにした結果、我を忘れるほどに感心し、茫然自失してしまったのです。直感的に、「この人には神の霊が働いている。この人こそ、来たるべきメシアかもしれない」と思ったのです。そうした場面です。
しかし、我を忘れることをしない人々が、そこにはいました。ファリサイ派の人々でした。彼らは主の御業を認めようとしないのです。主イエスの背後に神の霊の働きを認めるならば、自分たちの立場を揺るがすことになりかねないと、警戒したのでしょう。けれども、そこに超自然的な力が働いている、そのことは認めざるを得なかったのです。ですから、その働きを、悪霊の力によるものだと断定したのです。
これに対して、イエスさまは、悪霊が仲間割れして、その国が分裂するようなこと、それは悪霊といえども願わないだろう。もしも、悪霊の力によって悪霊を追い払っているということになれば、その国は立ち行かなくなる。そんなことがあり得るだろうか、と反論されました。そして、本当に大切な視点、もっと積極的で正しい見方をお示しになりました。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」だから、こうした出来事が起こっているのだ、と言われたのです。わたしが、神の霊をもって、今、神の国をもたらしているのだ。それなのに、それに気づかないのかと、イエスさまは問うておられるのです。
今日は、「聖霊に言い逆らう罪/赦されることのない罪」の話題から始めましたが、聖霊とは、今、ここで働く神さまの霊です。聖霊は、私たちとキリスト、また私たちと父なる神さまを執り成し、結び合せるお方です。ですから、そのお方を、私たちの方で拒否することは、結果として、救いの道が閉ざされてしまうということでしょう。

Ⅲ.神の国とは

ところで、ここに「神の国」という言葉が出て来ます。マタイによる福音書は、ここまでは「天の国」と語られてきました。マタイ以外の福音書では「神の国」と語られています。
雑誌『舟の右側』に山口希生先生がこの点について書いておられましたので、それを参考にしながらお話しします。
マタイによる福音書では、今日の箇所以外では、「天の国」という言葉が当てられています。普通、日本人にとっての「天国」という言葉は、死んだ人の魂が憩う死後の世界のことを思わせます。「天国」とは「あの世」、あくまでもここではないどこか彼岸的な世界を指す言葉でしょう。しかし主は「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われる。
ここから分かることですが、イエスさまが説かれた「神の国」「天の国」とは、単なる「あの世」のことではないのです。「神の国」とは何か。それは「神の王国」、もっと厳密に言うと「王としての神による支配」のことです。したがって神が王として支配するところは、そこが「見える世界」であろうと、「見えない世界」であろうと、神が支配される王国に変わりがない。ですから、「ここには神の王国はない」ということは、「神はここにおられない、ここでは神は王ではないのだ」と言っているのに等しいわけです。逆に「神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われた場合、そこに神さまのご支配の現実があるとイエスさまは宣言されたということなのです。
アジア青年交流会では各国の課題が分かち合われました。また、コロンビア出身のヨハン先生はカンバーランド長老教会に生じている「グローバル化」について話されました。
キリスト教は最初ヨーロッパに拡がり、アメリカに渡り、アメリカ経由で日本に届けられた歴史があります。しかし今、カンバーランド長老教会では、新しくスペインでの働きが始まりました。かつて植民地にし、キリスト教を伝えて行った人々の国に、今、植民地出身の人々が出向いて行きキリストの福音を伝えるという逆転が起こっているのです。
アジア青年交流会では、ファシリテーターの柳沢美登里姉が、この現実を神さまの視点で見るようにと導いてくださいました。若者たちだけで小グループに分かれ、互いに母国語ではない、慣れない英語を駆使しながら、真剣な分かち合いが行われたのです。

Ⅳ.今、神の国が来ている

イエスさまは言われました。「神の国はあなたたちのところに来ている」と。
アジア青年交流会で若者たちが経験したことは、まさに「神の国はあなたたちのところに来ている」という神さまのご支配の現実だったのではないかと思います。
私たちは、神のご支配「神の王国」をさまざまな仕方で経験します。「神の支配」は、既に今始まっているのです。あの2千年前のクリスマスに、光なるイエスさまが誕生されて以来、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。……その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:5、9)と、ヨハネが降誕の出来事を表現したように、私たちのこの世界の只中に、神の国は現れています。
ただ問題は、その神さまのご支配が見えず、暗闇が覆っているような現実がたくさんあるということです。時に悪霊が支配しているようにさえ見えることがある、ということでしょう。
でも、今回、若者たちがアジア青年交流会で経験したことは、聖霊なる神さまに信仰の目をいただき、神さまの視点で見る時に、実は、闇のように見えるアジアの現実の中に、また私たち自身が遣わされている世界において、ほめたたえられるべき主の霊の働き、神さまのご支配が確実に始まっている、その事実を知ることでした。
今日は、72年前に広島に原爆が投下された日です。近頃の新聞を読むと、東アジア情勢の中で、「核弾道ミサイル」という言葉が平気で飛び交っています。「広島」や「長崎」の日が近づいても、アメリカの核の傘の下に守られている日本が、今さら何を、と国際社会の目は厳しいものがあります。
内閣改造もなされましたが、何を信用して良いのか分からない。嘘ではないか、と多くの人が感じていても、それを正す決定打がありません。
先日の日本中会の「平和講演会」で学びましたが、自民党の憲法改正草案を知れば知るほど、心配が募ります。闇が本当に深いのです。
でも今、主イエスは、「神の国はあなたたちのところに来ている。」と言われます。あのクリスマスの夜に、光なるお方が誕生されました。ローマ皇帝アウグストゥスが、そしてユダヤは、あのヘロデが治める暗闇の時代でした。そうした深い闇の中に光がぽつんと灯ったのです。
そのお方が、「神の国はあなたたちのところに来ている」と。そしてまた、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)とすでに勝利を宣言なさっているのです。
ですから、私たちの将来は、圧倒的に支配しているように見える暗闇にではなく、あちこちでぽつりぽつりと灯り始めた神の霊の働きのもとにあるのです。
今回のアジア青年交流会でもそうでした。ぽつりと灯る神の霊の働きでした。そして、やがてその灯の光が世界中を覆い尽くすようになる、とイエスさまは約束してくださっているのです。
アジア青年交流会の分かち合いのグループからは、それぞれに真剣さが伝わってきました。そして同時に、時に明るい笑い声が聞こえていました。私は〈これだ!〉と思いました。どんなに課題が大きく闇が覆っているように見えても、私たちはキリストにあって笑うことが出来る! 何故なら神の国が私たちのところに来ているからです。どんなところにも、必ずほめたたえられるべき主の御業があるはずだから、いや、必ずそこにあるからなのです。
主イエスの約束によれば、究極的には神の国が完成する。キリストが悪に打ち勝つ時がやって来る、ただ、今は、究極の一歩手前の時なのだから、闇が覆っているような現実もある。しかし、私たちは失望することはないのです。なぜなら、「定められた時に」神の国は、必ず完成するのだから、神さまのご支配が完全に現れる時が来るからです。
だから、今、そうした希望を抱きつつ、「究極以前」の「今の時」を、「究極の一歩手前の真剣さ」で取り組めばいい。肩の力を抜いて、笑いながら歩めばいい。何故なら、「今、神の国は来ている」と主イエスが宣言なさるからです。お祈りします。