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主日共同の礼拝説教

実を結ぶ種

2017年9月24日
松本雅弘牧師
詩編119編105節
マタイによる福音書13章1~23節

Ⅰ.たとえが持つ2つの側面

イエスさまはたとえ話の名人でした。身近な題材を使って、常にピタッとはまるたとえ話をされ、それによって神の国の深い真理を教えられました。
たとえにはもう1つの側面があります。それは、分かる人にだけ分かるという側面です。分かり易くするのではなく、どこか煙に巻くように、分かりにくくするためにもたとえが用いられる場面があるのです。

Ⅱ.種を蒔く人のたとえ

このように考えて来ますと、この個所は3つに分けて考えることができると思います。まず1節から9節で、大勢の群衆に向かって語られた「種を蒔く人のたとえ」です。そして10節からは、たとえそのものが持つもう1つの側面、すなわち分かる人には分かるということについてイエスさまは語っておられます。そして3つ目の部分が18節からで、群衆に語られた「種を蒔く人のたとえ」の説明の部分です。
今日は「種を蒔く人のたとえ」の意味を私たちに結び付けて考えてみたいと思います。種は神さまがお語りになる御言葉です。そして種が蒔かれた地とは、御言葉の受け取り手である私たちのことです。

Ⅲ.「種」の小ささ

イエスさまが、御言葉を種にたとえられたのは何故でしょう? 種はとても小さなものです。その小さな種から美しい花が咲き実もなります。種だけを見たときに、そうした花や実は想像もできないでしょう。でも実際に、種には花を咲かせ実を実らせる可能性と命が備わっているのです。そのように御言葉には力があります。
ただ種ですから、命を宿す種が芽生えるために、また、種の持つ可能性と力が生かされるのには、その種がまかれた土地の状態にかかってくるのです。まずは実際に芽を出すことができるか。芽が出たとしても順調に育つのか。育った後、実るのか。さらにその実りはどれだけのものなのか。こうした1つひとつのことは、今日のイエスさまのたとえ話によると、種が蒔かれた土地によって大きく違ってくるのだ、と言われるのです。
以前、ある幼稚園の園長先生が「時代とともに変わる教育」というテーマでこんな話をされていました。戦時中の子どもたちは、敵を憎み戦うことを教えられ、国のために死ぬことが良いことだと信じ込まされた。そして戦争が終わり、今度は食うや食わずの生活が始まり、大人たちは食べる心配に奔走した。そうした中で、子どもたちは放っておかれた。次に高度成長期の時代がやってきて、子どもたちは将来を保障することにつながる切符として、我も我もと有名校への入学を目指した時代がやってきた。確かに「他人を殺して戦え!」と言うかわりに、「命を大切にしよう!」と大きな声で言ってあげられる。価値観が多様化し個性尊重の時代の中で、「自分らしく生きよう!」と伝えることもできる。でも以前に増して子育てに疲れを覚え苦闘しているお母さん方が多いと、その園長先生はお話されていました。
そして、その原因を2つ挙げておられました。1つが、「情報過多」、もう1つは「より所の喪失」でした。2つに共通していることは「何を信じてよいか分からない」ということです。
親たちは自分で考え、自分で決めることを求められるが、情報過多の中、そうしたことが上手く出来ずに振り回されてしまう。その結果、疲れを覚え不安になる。でもこれは子育てに限ったことではありません。今は様々な面で情報が溢れている時代です。私たちクリスチャンも、そうした周囲の情報の中で、いつの間にかそちらの情報、そちらの考え方や価値観の方が大きく、大切なことに感じてしまい、御言葉を表面的にしかとらえることができなくなる。そこで御言葉の本来的価値が小さく見え、その結果、神の言葉の価値が小さく思える。それが「悪い者」の誘惑です。
イエスさまは、御言葉の種の受け止め方、その代表的な4種類を「土地」にたとえて話しておられます。最初の種は道端に蒔かれます。最初から全く耳を貸すこと、興味を示すこともしない心の状態です。「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」とあります。こうした状態の時は、奪い取られたことにすら、気付かないでいるかもしれません。
第2は石だらけの所です。そこは残念ながら土が薄いのです。神の言葉には力と命がありますから、ある程度は芽を出します。でも根を張るだけの土がないので太陽が照りつけ、間もなく枯れてしまう。最初は喜んで受け入れるのです。でもちょっとした困難に出くわすと諦めてしまいます。3番目の種は茨の中です。そこは、根は張れるのですが、この世の誘惑やまどわしが、成長を阻止するのです。ところが、多くの種が駄目になって行く中で、良い土地に落ちた種の中には100倍の実を結んだ種もある、とイエスさまはおっしゃるのです。

Ⅳ.主イエスの命をかけた働きに支えられて

聖書によれば、本来、神の口から出る1つひとつの言葉によって生きる、と言われている人間が、その命の言葉を下さる神さまから離れてしまったのだと言われます。
御言葉である種をしっかりと受け止めることが出来ない場合、どうなるかと言えば、結局、御言葉以外の別の何かをもって自分を満たそうという行動に出ます。物で心を満たそうと思ったり、周囲の人に、私の心のニーズを満たしてもらおうとしたりするのです。
しかし現実は、私が助けを求めるその人自身も、神さまから離れ、本当の満足を味わっていないならば、その人の内側にも満たされるべきニーズが存在するでしょう。ですから、場合によっては、互いに利用し合う、共依存関係になるのです。
これに対して主イエスは言われます。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
イエスさまは御言葉を聞いて悟ることの大切さを説いています。どうもこれは一般的な意味で、理解力があるとかということではないようです。
ある牧師は、御言葉を聞いて悟るとは、その言葉に捕えられてしまうということではないだろうかと語っていました。つまり、聞いた言葉が、その人の内で、何か決定的な関わりを持ち始めるのです。
いかがでしょう。同じような経験をしても、ある人は何も感じず、ある人はそこに神が生きて働いておられることを受け止める、ということがあります。
絨毯を、裏側からいくら眺めてみても、その絨毯に描かれている模様は見えてこないでしょう。神さまとつながりながら、絨毯を上から見る経験をさせていただく、その時に初めて、そこに不思議な神さまの恵みを、私たちは見てとることができるのです。その時、その混乱の中に、悟る目と耳が与えられるのではないでしょうか。その幸いを、この時すでにイエスさまは説いておられます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」(16節)
しかし、最後の最後に、ここでもう1つ心に留めたいと思うのです。それは、もともとの私たちはどうか、私たちはどのような土地か、ということです。
御言葉に対して、最初から良い土地のような受けとめ方が出来る人はそう多くないのではないかと思います。しかし、逆に、どんなに悪い土地であっても、不可能を可能にしてくださるのが神さまです。その神さまが、私たちの心の土地を耕してくださるならば、きっと実を結ぶ。私たちは、そう信じることが許されているのではないでしょうか。
この後、イエスさまが十字架にかけられた時、この場に居合わせた弟子たち、たとえの説き明かしを聞くという特権に与った弟子たちが、それこそ一人残らず、イエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。イエスさまが、噛んで含ませるようにして、丁寧に教え、蒔かれた種は、みんな枯れてしまったのでしょうか。
イエスさまは、13章のこの時点で、そのことを見ぬいておられたのではないでしょうか。しかし、そのことを御承知の上で、復活という思いもよらないなさり方で、死んだ種から芽を出させ、文字通り、30倍、60倍、100倍、いやそれ以上の実を結ばせられたのです。
何故なら主イエスご自身がこう言われました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)
種が実を結ぶようになるために、主イエスの命をかけたこの働きがありました。十字架と復活があったのです。私たちはこの恵みに支えられ、良い土地であることを祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 敬老感謝礼拝

人生を完成へと導かれる神

2017年9月17日
敬老感謝礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書43章1~5節前半
フィリピの信徒への手紙1章3~11節

Ⅰ.敬老感謝礼拝の意義

高座教会では、75歳以上の、信仰の先輩、人生の先輩の方々を守り、導き、祝してくださる神さまを礼拝し、また、これからもお一人ひとりに祝福があるようにと願って敬老感謝礼拝を行なっています。今日はその敬老感謝礼拝です。
ある時、イエスの母マリアと兄弟たちが、主イエスを呼びにやって来ました。大勢の人たちが集まっていましたので、すぐに会うことができません。そのために近くにいた人に呼びに行ってもらいました。頼まれた人はイエスさまにそのことを伝えます。するとイエスさまは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。・・見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われたのです。「神の御心」とは、人がイエスさまを信じ従うようになることです。そうした「神の御心を行う人」が、自分にとってお母さんであり兄弟なのだと、イエスさまは大切な真理をお話しされました。
ですから、イエスさまの教えによるならば、キリストを信じる者同士は、血縁の家族を超えて、霊で結ばれた神の家族の一員になったということです。今日の週報にお名前が掲載されている方々は、私たちにとってのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、ということになるでしょう。そして、こうしてお祝いできますことを、本当に嬉しく思うのです。
私は牧師をしていますので、色々な機会に教会員の方たちの「家族の物語」を聞く機会に恵まれています。そして「家族の物語」は、主にある物語でもあるわけですから、必ず「神の家族の物語」につながり「聖書の物語」と響き合うのです。
聖書には、年を重ねることに関する示唆深い言葉がたくさんあります。その1つが、箴言16章31節です。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」。またレビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」とあり、聖書は、高齢者に対する固有の美しさや価値を語っています。
聖書が教えていることで、特に心に留めたいこと、それは、人生には四季があり、四季にふさわしい生き方があるという教えです。

Ⅱ.賛美することは、私の生きる力

さて、今日も私たちは、キリストの復活を記念する「主の日」に集い、神さまをあがめ、「私たちが信じ従う神さまは、このようなお方なのだ」と確信して、新しい1週間の歩みを始めます。このようにして、健康が守られ、ゆるされて主の日の礼拝に集うことが出来る、これは、どんなに豊かな恵みかと思います。
聖書の詩編には、「神をほめたたえなさい!」とか、「神さまを礼拝しなさい!」という勧めの言葉が多くあります。それは、神さまが礼拝されるにふさわしいお方であると同時に、「主をあがめ、賛美することが、私たちの生きる力になる」からです。
イエスさまと3年間寝食を共にしたペトロは、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださるからです」と勧めています。
私たちは、1週間の最初の日に、こうして神さまの御前に礼拝をささげるために集うこと、そして、日々の生活のどこかで、神さまの前に静まって、神さまはいったいどのようなお方で、今、自分が抱えている問題、直面している困難や課題にどう関わってくださるお方なのかを思い巡らすこと、そして、神さまをあがめ、賛美をささげることを大切にしていきます。
それがペトロの教える、「神の力強い御手の下に自分を低くし、思い煩いを何もかも神さまにお任せする」ということです。何故、お任せできるのでしょう。それは、私たちの神さまが、私たちのことを心にかけてくださるお方だからです。

Ⅲ.神はどのようなお方? その神にとって私はどのような存在?

2つ目のことに移りたいと思います。聖書は、神さまがどのようなお方なのか、神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。
今日、お読みしたイザヤ書は、神さまのことを「あなたを創造された主」、「あなたを造られた主」と呼んでいます。そして、そのお方は、私たちの名前を呼んでくださり、また「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる」、だから、「大河の中を通っても、あなたは押し流されない」し、また、そのお方が共にいてくださるが故に、「火の中を歩いても、焼かれ」ることはなく、「炎はあなたに燃えつかない」とあります。このようなお方が、私たちの主なる神さまです。
今日は敬老感謝礼拝ですから、75歳以上の兄弟姉妹が多く集まっておられます。今年の名簿には新たに22名の方たちが加わりました。
人生の先輩のお一人ひとりが、これまでの歩みを振り返る時に、水の中を通るような経験、また火の中を通るような経験を味わってきたという方もおられることでしょう。いや、先輩だけでなく、どの年齢の人にとっても、日々の生活の中で、私たちは、水の中や火の中を通るような出来事に遭遇ことがあるかもしれません。そうした難しい出来事に遭遇すると、当然、恐れをなし、尻込みしてしまうのが私たちです。そして、その季節にふさわしい生き方をするようにと言われても、そうできない。あるいはできてこなかったかもしれません。しかし神さまは、そうした私たちに対して「恐れるな。恐れることはない。私はあなたを離れることなく、いつも共にいるのだから。そして救い出すのだから」と言われるのです。
今日のイザヤ書の御言葉は、そのような意味で、とても励ましに満ちた聖書の箇所ではないでしょうか。イザヤ書43章のこの御言葉は、神さまがどのようなお方なのか、また神さまにとって私たち一人ひとりはどのような存在なのかについて教えています。そのことが4節によく表現されています。この個所を、新改訳聖書は次のように訳しています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
神さまはこの私をご覧になり、「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。どれほど愛しているかと言えば、「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。それほど愛しているというのです。
もし、この事実を私たちの心の深いところで悟り、常に受け止めることができたら、どんなに心安らかでしょう。
そして、どうでしょう。事柄に着手されるお方は、事柄を完成されるお方でもある、と聖書は教えています。創造者なる神は、被造物を完成へと導かれる御意思と御力を持ったお方なのです。ですから、私たちは、このお方に、安心して私の今を、これからのこと、私の家族のこと、仕事のこと、子どもたちのこと、1つひとつを委ねることができるのです。

Ⅳ.人生を完成へと導かれる神

聖書は、私たちに「人生の諸段階」、もしくは「時期」にあった生き方があるのだと教えているということをお話させていただきました。
今、自らの歩みを振り返ってみる時、私たちは、「春」になすべきことが出来ずにいたために、その「しわ寄せ」が「夏」に持ち越され、そして「秋」へと引き継がれ、今がある。まさに「蒔いた種の刈り入れ」をすることがたくさんあるのではないでしょうか。
しかし、どうでしょう。私たちの神さまは創造主なるお方です。事を始めると共に、事を完成へと導いてくださる意思と力をお持ちのお方である、ということです。
私たちは不完全で、種まきも、刈り入れも、その働きそのものが人生の諸段階で十分には出来ていないという負い目を持っております。しかし、創造主なるそのお方は私たちを造り、そして完成へと導いておられるお方であります。
フィリピの信徒への手紙1章6節に次のような言葉がありました。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
時として、私たちは、自分の人生に納得いかないこと、あるいは、現実の年齢を受け入れることに困難さを覚えることなどがあるのではないでしょうか。
しかし、私たちは主にあっていつしか完成される、「工事中」、「プロセス途中」のものであるということ。そして、完成してくださる、創造者なる神さまが、共におられることを信じたいと思うのです。
この恵みの中に生かされていることを覚えつつ、一つの区切りとして、75歳を迎えられた方々の上に、主からの祝福を祈り求めたいと思います。
お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

与えられた関係で生きる

2017年9月10日
松本雅弘牧師
創世記2章18~25節
ルカによる福音書2章41~52節

Ⅰ.「三つ子の魂、百まで」

誰もが色々な弱さを抱えながら生きています。父親、母親も同じです。私の両親も同じように、弱さや限界を感じながら、私を育ててくれたのだと思います。
そして思春期になった私は、両親の姿を見て、その良い面というよりも、むしろ弱さの部分が気になり、それが全部、子である私に引き継がれているように感じたものでした。その結果、〈どうして俺の親はああなんだ〉、〈なんでこんな家庭に生まれて来たのだろうか?〉などと、勝手に考えて、悩むことがありました。

Ⅱ.神さまが預けてくださった

考えてみますと、生きていく上でのこのような悩みは、小さなものから大きなものまで、さらには、もっと深刻な悩みもあるでしょう、誰もが、そうした悩みを抱えながら生きていると思うのです。
今、自分自身をふり返ってみますと、このような悩みがあったからこそ、「聖書を読むようになった」のです。そして、聖書を読む中で、その都度、み言葉によって支えられ、導かれてきたのだと思うのです。そうした中で、支えとなった聖書の言葉の1つが詩篇22編10節と11節でした。
「わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」
神が、私をこの両親に託したのならば、私がどのような性格の持ち主になるのかを百も承知の上で、また、何かしらの意図をもって、この者をこの環境に誕生させ、生きることを求められたのだ。この詩篇の言葉と出会い、そして、支えられた、クリスチャンになって間もない頃の思い出です。

Ⅲ.イエスさまの経験

では、人はどのようにみ言葉に支えられるのか。イエスさまの経験から考えてみたいと思います。今日の箇所には、成人式を翌年に控えて、青年期特有の悩みを抱えたイエスさまが登場します。
この時イエスさまは、自分の両親の元から失踪するようにして神殿にこもり、父なる神のみ前に、心の中にあった疑問や葛藤を注ぎだしていたのではないかと思います。
その結果、イエスさまは「自分の本当の父親は神さまなのだ」と、深い意味を悟ることができたのです。
それが「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2章49節)いうイエスさまの発言となって表れたのだと、ルカは私たちに伝えています。
聖書はイエスさま誕生の経緯を伝えています。マリアの婚約者のヨセフは、最初、マリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦しみました。その後人口調査のため、身ごもったマリアと一緒にベツレヘムへの長い旅をし、やっと到着したベツレヘムです。そこはヨセフの故郷、親戚も多く住んでいたはずです。しかし、ベツレヘムの人々は彼に対して物凄く冷たかったのです。福音書を記したルカは、その事実を「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と表現しています。こうした彼らの冷たさは、そこまで届いていたマリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれない、と聖書学者は語ります。
仮にベツレヘムでそうだとしたら地元のナザレの人々はどうだったでしょう。婚約者ヨセフですらマリアの妊娠の事実を受け入れるのに困惑したほどの出来事です。だとすれば赤の他人であるナザレの村人たちが真実を理解することは難しいことだったと思います。
ある聖書学者は、マリアの妊娠はナザレの村においてスキャンダルとして受けとめられたのではないか、と語ります。そんな心ない噂を耳にしながら、主イエスは成長されたかもしれません。確かにマリアは実の母親です。でも生物学的にヨセフは実の父ではありません。そのことをイエスさまはどう受けとめておられたのでしょう。
そうした中で、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」というイエス様の言葉は、何かを悟ったような、確信に満ちた言葉として聞こえて来るのです。
これは、「肉親を超える神という存在との関係から、今の自分を受け取り直す」こと、「神との関係において、私が置かれている関係をとらえ直す」こと。つまり、自分の人生に「神さまとの関係」という「縦軸」を受け入れた時に、初めて可能となることです。これが、この時の主イエスの経験だったのではないでしょうか。
そしてこのことこそ、私たち1人ひとりが生きていく上で本当に大切な、聖書が教える知恵ではないかと思います。
私たちは、一人ひとり異なる経験を経て、今の自分になっています。人から愛されること、時には、人から傷つけられること、人を傷つけてしまうこと。また、それぞれの家庭の事情や、家族構成も皆ちがいます。
そうした中で1つだけ共通することがあります。それは、両親や周囲からもらえなかった最も根本的な愛、それが、肉親を超える大きな存在、すなわち神さまから来るということです。何故なら私たちは神に造られ、神に愛されている存在だからです。
私たちは皆、ある親から生まれ、育てられます。時には別の誰かによって育てられるということもあるかもしれません。けれども、根本的には神さまから生まれ、育てられたのです。そして、また、現在、育てられつつある、それが私たちです。神さまこそが私の本当の親であり、私は神さまの愛する大切な子どもなのです。
これが聖書の教える基本的なアイデンティティーです。イエスさまは神殿の中で、そのことを知ったのです。神さまとの関係の中で、それを受け止めることができた、そのことを聖書は私たちに伝えています。
だからこそ、私たちも過去の境遇を嘆く必要はありません。神さまに造られ、神さまに育てられた神の子なのです。この神さまにおいてこそ本当の意味で満たされる経験ができる。本当の意味で自分を見出すことができる。
神においてこそ、本当の意味で大人として、1個の人間として歩み、生きることが許されているからです。

Ⅳ.万事を益とされる神さま(ローマ8:28)の御手の中で

今日は、旧約聖書の創世記2章のアダムとエバの結婚の箇所も読ませていただきました。よく結婚式で読まれる聖書の言葉の1つです。
ここまで、イエスさまの例を挙げながら、親子の関係を中心に見て来ましたが、実は、自分の意思だけで相手を選んだと思いがちですが、人生を共にしているパートナーとの出会い、夫婦の関係も、聖書によれば、「神さまに与えられた関係」であることを知らされるのです。
創世記2章18節をもう一度ご覧ください。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」
この言葉を注意して読む時、〈人が独りでいるのはよくない〉と考えて、〈アダムにふさわしい助け手、伴侶を造ろう〉とお考えになったお方は神さまなのです。
アダムやエバが最初に思いついたのではなく、あくまでも主語は「主なる神」です。つまり、出会いを備え、導かれたお方は、神さまなのです。神さまから贈り物として与えられた関係なのです。
勿論、私たちは、責任を持って関係を豊かにしようと努めます。でも、共に生きるその関係の中に、縦軸すなわち神さまとの関係をいただき、「与えられた関係」として受けとめること。そのことがとても重要なポイントだと思うのです。
私たちが、様々な人間関係の中に、縦軸という神さまからの視点をいただく時に、今までマイナスとしか見えなかったことが、実は、私たちの歩みを豊かに彩る、神さまからの賜物であることを知らされるのです。
水が半分入ったコップを見た時に、ある人は、「半分しか入っていない」と見ますし、別の人は「半分も入っている」と見ます。「半分しか入っていない」との見方をする人の方が多いかもしれません。不満や欠乏感で、つまらない気持ちになり、不幸になってしまうことが、私たちにはよくあるのではないかと思います。
しかし聖書に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)とあるように、自分にとってマイナスと思えるような事柄も、苦い経験も、万事を益とする神さまのみ手に包まれる時に、それは、必ず祝福に変えられていくというのです。
私たちの心の目を開いていただき、すでに置かれている環境、関係の中に、神さまが良き贈り物を備えておられることを信じ、神さまが与えて下さり、支えて下さっている関係、また賜物を発見しながら、歩んで行きたいと願います。
お祈りします

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主日共同の礼拝説教

主にある家族

2017年9月3日
松本雅弘牧師
イザヤ書5章1~12節
マタイによる福音書12章41~50節

Ⅰ.空の家

私たちは「木と実のたとえ」に耳を傾け、内側から清くされることの重要性についてイエスさまに学びました。その続きの教えを読みます時、実はそこにもまた落とし穴があることに気づかされます。
私たちは、悪霊が好む場は汚れたところと考えるのが普通でしょう。ところが、主イエスさまは、悪霊の好むのは綺麗に掃除され整えられた家、しかも空き家だというのです。
ある人の表現を使えば、当時のファリサイ派の人々は「神の家」と表札を掲げているような存在でした。「神の家」と表札を掲げていても、主人である神さまが不在、いや主人をお迎えする心になっていなかったのです。そうしたファリサイ派の人々に対して、主は警告し、「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(マタイ12、45)と言われたのです。

Ⅱ.ニネベの人々とシェバの女王

ですから、問題はどんな表札が掲げられているかではなく、実際に、家の中にイエスさまを主人としてお迎えできているかどうかということです。そして、このことこそ「悔い改め」ということなのです。「悔い改め」の例として、ここで主イエスさまは、旧約聖書にでてくるニネベの人々と、シェバの女王を取り上げました。そして、この二者の悔い改めの出来事を話された後に、それぞれの話の終わりに「ここに、ヨナにまさるものがある」、そして「ここに、ソロモンにまさるものがある」と言葉を添えられたのです。「まさるもの」とは、もちろんイエスさまご自身のことです。
このように心からの悔い改めをもって、主イエス・キリストを心にお迎えしなさい、そのように主イエスは、私たちに促されるのです。

Ⅲ.主イエスの身内

さて、この時、イエスさまは群衆に取り囲まれ、その会堂には大勢の人が集まっていました。そこにイエスの母親と兄弟たちがやって来て、会堂の中に入らず外に立ち、入り口の近くに立っている人に話しかけ、イエスを呼びに行って欲しいと頼むのです。
イエスさまの家族のこうした態度は何を意味するのでしょうか。「息子イエスと話したい。私はあのイエスの母親である」、「兄のイエスに用がある。自分たちは弟である」。このような思いの中で、〈母親であり弟である者たちが「話がある」と言っているのだから、家族であるイエスが出て来るのは当たり前だ〉という暗黙の前提があったのでしょう。家族が呼んでいると言われれば、普通でしたら外に出て行くでしょう。主イエスはどうなさったのでしょう? 外に出て来ないのです。外に出て来るのが当然と思う「私たちの当然」と「イエスさまの当然」、私たちの常識と主イエスのお考えの間に開きがあることが分かります。
この点について少し考えてみたいと思います。すでに、イエスさまは28節で「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます。神の国はもう到来している。神の支配がもうここに始まっている、と主は宣言されました。この場(会堂内)において、神の国はもう、すでに起こっている、実現しているというのです。
ところが、その神の御業、主イエスがなさっているその御業に、血のつながりのある家族は関わりを持とうとせず、外に立っているのです。イエスさまの血縁の家族は、この時、主イエスが明らかにしようとなさった神の国の現実、神のご支配に対して、まったく無理解なのです。神の国の現実に心の目が開かれること、神のご支配のもとに立って生きることなど、これっぽっちも考えていないのです。
これが、この時この場で起こっていた出来事でした。自分たちは肉親で家族です。だから外から呼び出しをかけることもできる。他の人には出来なくとも身内だからできる。身内の特権としてそれができる。だから中には入らないのです。そして中にいた人たちも当然のこととして、家族のそうした思いをそのまま受けとめたのです。

Ⅳ.主にある家族

このような出来事の中で、イエスさまは口を開かれました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。そして、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12:49、50)と。
ある説教者は「これは1つの宣言である。ここに新しい家族がある、との宣言なのだ」、と語っていました。
今日この後、私たちは聖餐に与ります。最後の晩餐の席上で取り上げたパンを指し、「これはわたしの体である」と宣言し、そしてまた杯にも「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と、主イエスは宣言されました。この主イエスの宣言があったので教会に聖餐の歴史が始まったのです。
最後の晩餐でパンと杯を指して主が宣言なさったように、今日の箇所のこの場面においても、ご自分のそば近くにいて、ご自分を取り巻いている弟子たちを指さして、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と宣言なさったのです。これは、とてつもなく重みのある主イエスの宣言の言葉です。この時この瞬間、イエスさまは血のつながりを超えた主にある家族を指し示されたからです。
ところで、ここでイエスさまの口から突然飛び出した「私の母とは誰ですか」という言葉を聞いたマリアは心傷んだかもしれません。あるいは、自分の立場が分からなくなったかもしれません。
福音書の中に登場するマリアの姿を見ていくと、マリアはかなり最後までイエスさまのことを理解できずにいたように思います。でもイエスさまは、母親や弟たちをお見捨てになったわけではないのです。
ご存じのように十字架の場面で、主イエスはヨハネに向かって母親マリアを託されました(ヨハネ19:26、27)。また、あの2千年前のペンテコステの日に「父の約束」なる聖霊の降臨を祈り求めるために集まっていた中にマリアの名前を見つけることができます。そして主イエスの兄弟の名前も見いだすのです(使徒言行録1:14)。
このように、理解できずにイエスさまを連れに来たマリアも弟たちも、最後にはイエスさまを救い主と信じて救いをいただき、聖霊の降臨も経験できたのです。
大切なことは、ここでイエスさまは母親マリアや弟たちのつながりを、ただ生まれながらの血筋によるものとして満足しなかったということです。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、宣教を開始されたイエスさまは、この場面で、母親も弟たちも、ご自分が命をかけて取り組んでおられる神の国に生まれることができるように、はっきり宣言されたのです。今ここに神の国、神のご支配が現れた、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。だから、その神の支配の許に自らを委ねなさいと言って、神の家族の絆に入るように招かれたのです。
だいぶ前のことですが、日曜日の夜、まぶしいような青ジャージ姿の中学1年生が、部活を終えて夕礼拝に駆けつけてきました。体力的にも、つい先日まで小学6年生でしたから、中3年生と一緒の部活の練習はきつかったことでしょう。疲れた体を押して夕礼拝にやって来る、間に合ったと安心して腰掛けた瞬間、睡魔に負けていました。礼拝が終わって、照れ笑いをしながら「眠っちった」と帰っていきました。
父なる神さまは、その子の全てをご存知で、疲れた体を引きずるようにして礼拝にきたことを喜んで祝してくださっていると思います。たとえ眠ってしまったとしても、駆けつけて来た彼に対して「来てくれてよかった。お前が居てくれて嬉しい」と喜ばれるのです。
主イエスさまが洗礼を受けた時、天が開け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が鳴り響きました。それと全く同じ御声を、父なる神さまは子である私たち1人ひとりに掛けておられるのです。
神さまは、罪を憎みます。しかし私たちを愛しておられます。神さまが罪を憎むのは、罪が、神の子たちを傷つけ不幸にするから、神さまと私の関係を断絶するからです。
神の子たちのことを思い、的外れの生活から解放したいと願っておられる神さまは、罪の支払う報酬である死を、十字架の上で、私たちの身代わりとなってご自分の身に受けてくださったのです。
神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、私たちを見ておられます。放蕩息子の父親が息子の帰りを待ち、戻って来た時に「ああ、よかった!」と喜んだように、私たちの存在を喜んでくださるのです。それが、神さまの家族になったことの恵みです。
主イエスは宣言なさいました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。この恵みの宣言を心の中に響かせながら歩む1週間でありますように。
お祈りします。