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何を求めて生きるのか

2017年10月29日
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
ペトロの手紙一2章1~6節

Ⅰ.白黒はっきりしたキリスト教?

今日の聖書箇所の1節は「悪意、偽り、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」とあります。この手紙を書いたペトロは、その代わりに「霊の乳」つまり、「聖書の言葉」に従って歩きなさいと教えています。人間の悪意や偽りを捨て去るというのは、本当に難しいと思います。そして聖書の御言葉を求める生活を実践することもなかなか難しいと思ったりします。クリスチャンになる以前の「罪にあった生活」から、「新しくされた生活」へと、白黒はっきりと変われるものでしょうか。聖書の言葉は、時として曖昧さを許さない、厳しさを感じることもあるのではないでしょうか。
今年は宗教改革500周年の年。10月31日が宗教改革記念日で、500年前のこの日にドイツのマルティン・ルターは、カトリック教会の腐敗に対して、『95ヶ条の提題』を張り出しました。この時から、わたしたちプロテスタント教会は生まれました。ルターは教会の権威を退けて「聖書のみ」と、聖書だけに権威があるとしたのですね。 唯一、一つだと白黒はっきりさせます。
この手紙を書いたペトロも、イエス様に問いただされました。「わたしを愛しているか?」と3回も問われて、愛しているのか?愛していないのか?どちらなのか迫る厳しさがありました。キリスト教というのは、白黒がはっきりしていて、他の神様を認めないし、冷たく感じるという人の声も聞きます。しかし、今日の聖書箇所の2節のところでは「成長しなさい」と教えているのです。そうか、私たちが成長するのを見守ってくださるのだと、あらためて思いました。成長するまでの間、未熟な私も認めてくださるという、「幅」がある。未熟な自分でも、ここに居ていいのだと思ったのです。

Ⅱ.人間の善と悪

日本人は曖昧で融通のきくものが好きです。白黒はっきりさせない文化があると思います。わたしは時代小説の池波正太郎のファンです。『鬼平犯科帳』などの江戸時代を描いた池波作品の、どこが好きなのだろうか考えました。人間には善と悪があります。その矛盾した両面があって、人間は矛盾した生き物なのだということを肯定的に描いています。『鬼平犯科帳』の主人公は幕府の役人で、盗賊を捕らえるのが仕事ですが、役人の中にも「悪」があり、盗賊の中にも「善」があります。こんなセリフがあります。「人とは、妙な生きもの。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。心をゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする」。それが人間だと言うのですね。
聖書は、神様と人との関係の中で「契約」とか「律法」というものがあって、なにか白黒はっきりさせて、裁かれているように聞こえてしまうこともあります。しかし、父と子のような家族的な関係であるというのが、一番相応しい表現だと思います。ですから「悪意、偽り、ねたみ、悪口」という罪の性質を捨てきれないでいる、善と悪を持つ未熟なわたしたちの成長を待ってくださる、父のような存在。それが、神と私たちの関係なのだとあらためて思いました。

Ⅲ.アガペーの愛(ヨハネによる福音書21章15節―19節)

ですから、先ほど触れたペトロとイエス様の「わたしを愛しているか」というヨハネの福音書のところにも、ペトロがまだ信仰的にも弱かった時に、ペトロの信仰の成長を期待して待ち続けるイエス様の父のような眼差しがあったと気づかされます。先日、東京基督教大学学長の小林高徳先生が天に召されましたが、先生にこの聖書箇所を教わりました。
復活したイエス様が「わたしを愛しているか?」とペトロに問います。「はい」と答えているのに、また「私を愛しているか?」と3度も繰り返すところです。日本語では同じ「愛するか」という言葉を3回となっていますが、原文ではイエス様が「わたしを愛しているか?」と聞いた最初の2回は、ギリシャ語の「アガペ」という言葉でした。アガペは「神の完全な愛」という意味で使う言葉の「愛」でした。しかし、3回目は「フィレオ―」と言葉を変えたのです。神の完全な愛より少し落として、友だちとの友愛という意味です。アガペの愛はヨハネの福音書では、「友のために自分の命を捨てる愛」だと、先生は言っていました。しかし、ペトロはイエス様を知らないと言って、自分の命を惜しんで逃げました。ペトロは勿論その事を忘れられませんでした。命をかけてアガペの愛を示せなかったペトロに「わたしを愛しているか?」と問うたイエス様は、そんな裏切ってしまったペトロを、そのまま受け入れる愛を示されたのですね。イエス様は私たちのために、命をかけてくださいました。小林先生は、わたしたちは、そのキリストの愛には及ばない。それでもアガペの愛を示したくださった十字架の業(わざ)に、私たちの希望があると教えてくださいました。

Ⅳ.この主のもとに来なさい

わたしたちは「悪意、偽り、ねたみ、悪口」といった、罪の性質を捨てきれない、未熟な存在です。それでいて善をなそうとする、善と悪が一体となった矛盾した存在です。
クリスチャンと呼ばれる人は、成熟したからクリスチャンと呼ばれるわけではありません。罪の性質と不完全な愛をもったままで、それを、十字架で捨てられた方に持って行きなさいと言っているのです。
4節「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い生きた石なのです。」とあります。「主」というのはイエス様です。イエス様は、人々からは見捨てられて十字架で死なれました。その人に自分の罪の問題を持って行きなさいというのです。イエス様は、民衆から「イエスを十字架にかけろ、十字架にかけろ」と、罵られて十字架で死なれました。よってたかって十字架に架けろ!と叫んだ民衆の罪は、わたしたち人間の罪の象徴です。このイエスキリストが十字架に架かられた犠牲の上に、私たちの救いがあるのです。それはわたしたちの罪を背負って、十字架に架かられたからです。イエス様が死んで陰府に下るのと一緒に、私たちの罪も葬り去られた。しかし、イエス様は陰府の底から、死を打ち破って復活されました。今もこの世で私たちと共に存在している、そして「この主のもとに来なさい」と呼びかけているのです。

Ⅴ.隅の要石(かなめいし)

聖書では、いろいろな所でイエス様のことを「石」と表現していて、4節のところでは、「生きた石」「尊い石」と表現しています。日本では、家の建物の要(かなめ)になっているのは大黒柱ですが、当時のユダヤでは、家は石造りですから、家の要になるのが隅の要石(かなめいし)という石でした。建物の重みを支えるために、念入りにどの石にするのか、選ばれました。家を建てる大工さんが、別の工事で念入りに選んだ時には捨てられた石が、後になって別の家を建てるために立派に役立った、それも永遠に揺るぎない大事な石となったという、どんでん返しを、イエス・キリストの事に譬えています。
イエス様も、人からは捨てられ、侮られ迫害されましたが、十字架と復活を通して揺るぎないものとなりました。主イエスは人々から捨てられましたが、今は人々をしっかりと支える要石(かなめいし)です。
「この主のもとに来なさい」というのが今日与えられているメッセージです。仕事でも学校でも家庭でも、人との関係には難しさがあります。その問題の本質は人の罪の性質です。清く正しい人だけが、キリストの下に来なさいと、呼ばれているのではない。主イエスキリストのもとに、罪を差し出していくのが、わたしたちを新しい自分にしてくれる、唯一の道です。この道を歩くためには、混じりけのない霊の乳である聖書のみ言葉を、日々、毎日味わうしかありません。しっかり受け止め、大きく、豊かに、その無限の恵みを味わってください。
最後に6節を読みます。6節は、神様は御子イエスキリストを、やがて来る私たちの未来に置くという、イザヤ書の預言のみ言葉です。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石をシオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」お祈りしましょう。

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第一のものを第一とする生き方

2017年10月22日 夕礼拝
秋の歓迎礼拝
和田一郎伝道師
創世記1章26~28節
コロサイの信徒への手紙1章15~17節

Ⅰ.第一に優先しているものは何ですか?

教会に所属している人はクリスチャンと呼ばれますが、コロサイの信徒への手紙という手紙が書かれた時代に、クリスチャンという言葉が生れたようです。ギリシャ語で「クリスチャノス」と呼ばれました。イエス・キリストを、自分たちの救い主と信じる人はクリスチャンと呼ばれました。ある人が、「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と言いました。本当にそうだと思います。人生の目的、自分の生き方の行き着くところ、何を第一として求めて生きていくのか。それを変更することが、クリスチャンになることだというのです。人生の目的が変わってくれば、生活の中でも優先順位が変わってくるはずです。みなさんは何を第一として過ごされているでしょうか。わたしは信仰をもつのが遅くて、大人になってからクリスチャンになりました、ですから社会人になった頃は仕事中心でした。家に帰ってきても仕事のことが頭から離れないという生活をしていました。仕事で成果をだせるにはどうしたらいいか。仕事で認められることが最優先順位。そうだったと思います。
コロサイの信徒の人々も、当時いろいろな思想や宗教を信じていたようです。自分を第一とした自分に都合の良い思想、自分に都合の良い神様を選んでいたということです。当時流行りの神様、ニーズに合った神様を崇拝して生活をしていたようです。その中の一つがイエス・キリストで、イエス様はいくつかある信頼できるものの一つのように、思っている人も多かったのです。

Ⅱ.コロサイの信徒への手紙

しかし、クリスチャンと呼ばれるわたしたちもそうですし、今日の聖書箇所の手紙を書いたパウロという人も同様に、イエス・キリストを沢山ある神様の一つなどとはしていませんでした。唯一の救い主、唯一の神であると信じていました。今日お読みした聖書箇所15節から17節の所は、イエス様がどのような神であるのかを説明しているところです。
15節「御子は、見えない神の姿」とあります。御子とはキリスト、イエス様のことですが、見えない神の姿とあるように、イエス様は十字架に架かって死なれて、復活した後に天に昇られました。ですから今は目には見えません。見えないけれども、今も生きてわたしたちに関わって下さっている、そしてイエス・キリストは神の姿、神そのものであると言われるのです。当時の信仰者の中には、イエス様のことを神様と人間の間に立つ、預言者ですとか、天使のような存在だと勘違いしている人たちがいました。しかし、そうではなくイエス・キリストが主なる神様であることが、ここではっきりと書かれているのです。そして、キリストはすべてのものが造られる前に在ったと書かれています。創世記の最初に天地創造の物語が書かれていますが、この世の中すべてが造られる前から存在した、すべての根源の方。すべての最初に在った方だというのです。
そして、天にあるものも、この地上にあるものも、造られたのはキリストです。目に見えるものは勿論、この世にある目には見えないものも含めてすべてを治め、主権をもっているのがキリストです。例えば、日本の国では国民に主権がありますから、主権在民と言ってわたしたち国民に主権がありますが、根源的にはこの世は、神の摂理の中にあって、神に主権があるのです。
さらに、この世の中にあるものはキリストによって、キリストのために造られたと書かれています。「この世がキリストのために造られた」と大胆に書かれています。先ほどは聖書の最初のページ、創世記で天地創造の以前からキリストが在ったと話しましたが、聖書の最後のページの黙示録には、「わたしはアルファであり、オメガである。最初のものにして最後の者。初めであり、終わりである」とあります。アルファであり、オメガはギリシャ語でアルファベットのAからZを意味しますから、キリストは最初であり最後である。天地創造の時から、この世の最後であるキリストが再び来られる時までも、この世の主権者です。創造の主であり、わたしたちの目的もこの方にあります。
はじめに「クリスチャンになるということは、人生の目的を変更することだ」と話しましたが、わたしたちがキリストにおいて造られたように、その目的もキリストに近づいていくことにあります。キリストの教えを守り、キリストに似た者となっていく、それを目的としていくのがクリスチャンの生き方です。

Ⅲ.イエス・キリストの教えは、神と人との関係が軸になっている

万物はキリストによって創造された、わたしたち人間も神であるキリストによって創造されたと話しをしました。さらに、わたしたち人間を造った目的をキリストのためだとも話しましたが、このわたしたち人間を造られた神様の思いというのは、どのようなものであったのでしょうか。次の三つのことが考えられると思います。
一つ目は、神様が語りかける対象として、話しかける相手として創造された。
二つ目は、神様の言葉を聴くことができる存在として人間を創造された。
三つ目は、神の語りかけを聞いて応答することができる存在として人間を創造された。
ですから、神は人に語り掛け、聞く者として、そして神の声に応答する者であることを求めておられるのです。
話すこと、聞くことはコミュニケーションの基本です。それで終わってしまっては不十分です。聞いたことに応答して行うことで、相手の信頼を深めることができます。神様とのこの関係は、そのまま人と人との関係も表しています。みなさんは、どのようなことを気にかけて周りの人と話し、聞き、行動しているでしょうか。例えば一番身近な家族との関係があります。夫と妻の関係、親子の関係、兄弟の関係、祖父母や義理の親との関係もあります。 職場にもいろいろな関係があります。上司との関係、同僚や部下との関係、お客さんや仕入れ先との関係があります。学校に行っている人は、先生と生徒の関係、先生同士、生徒同士、保護者との関係などさまざまです。他にも沢山の関係の中で過ごしていますが、それらの関係をどのように扱って生きていけばよいのか。その指標となるヒントが聖書には書かれています。
聖書の中にもさまざまな人間関係が描かれています。それも順調な人達ばかりではありません、いや家族関係などでも、問題のある家族がほとんどです。アダムは、神様との約束を破って、木の実を食べてしまいますが、自分の過ちを妻に責任転嫁をしたのですね。ヤコブは12人の子どもがいましたが、一人の子を特別扱いして、贔屓にしたことで兄弟の仲が悪くなってしまいました。そんな明らかに問題のある親や家族が、聖書にはたくさん出てきます。
今の世の中は、人と人との関係が難しい時代だと思います。ニュースを見ると耳を疑うような出来事がいっぱいです。わたしもそうですが、顔と顔とを合わせない、顔を見ないコミュニケーションが増えましたね。スマホやパソコンでコミュニケーションをとる事が圧倒的に多くなりました。人との付き合いを合理的に、スピーディに、短く、手っ取り早い付き合いにしようと思う人も多いと思います。しかし、キリストの教えは隣人を愛しなさい、という手間がかかって面倒な事を優先させます。隣人の為に祈ったり、助ける為に準備したり、時間をかけてその人と一緒にいなさいなどと言います。そして、さらに最優先にするのは神との関係だと教えています。自分と神との関係を整えるのが最優先です。

Ⅳ.十字架の真理

教会には十字架があります。十字架はキリスト教のシンボルです。十字架には横の棒と縦の棒があります。横の棒は人と人との関係の大切さを表しています。縦の棒は神様と自分の関係の大切さを表しています。この縦の関係、神様とわたしの関係が最優先です。なぜでしょうか? 神がどれだけわたしたちのことを愛してくださっているかを知り、わたしたちも神を愛することによって、自分自身を愛し、隣人を愛する術を知ることができるからです。どうぞ一人でも多くの方に、キリストの教えを学んで頂きたいと思います。
キリストが十字架で死なれたことは、赦しであり、愛であったこと。十字架の真理を知って、みなさんが自分の生きる道として歩んでくださることを、心から祈っております。

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しっかりとした土台のある人生

2017年10月22日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24~27節
ルカによる福音書19章1~10節

Ⅰ.価値観とは― 家と土台のたとえから

ある時、イエスさまは建物と土台のたとえ話をなさいました。
2つの新築の家がありました。2つとも見た目には立派な美しい家です。ところが、災害が襲ってきた時に片方は守られ、もう片方の家は倒壊し、しかもその倒れ方がひどかったのだと語られたのです。
ここでイエスさまは人生を「家」にたとえて話されたのです。どんな家にも例外なく雨が降り、川が氾濫し、風が吹きつけるような「逆風」の時があるのです。逆風とまでは行かなくても、節目を迎える時があるでしょう。ただそれによって受ける影響の度合いは異なるのです。片方の家は守られ、もう片方の家は倒れてしまうのです。
ではどこが違うのか? イエスさまの答えは「土台が違うからだ」というものでした。
普段は隠れている土台です。だから、何もない時には意識されません。でも人生の節目節目に、例えば進路選択、結婚、子どもが誕生し、子育てや教育の問題、大きな買い物をする時にも、「土台」すなわち、その人の物の考え方、価値観が問われます。
そのように、人生を支える土台となるような価値観とは、いったいどこから来ているのでしょう。

Ⅱ.心の物語を書き換える

あるクリスチャンが語った言葉を思い出します。「考えという種を蒔けば、行動という実を刈り取り、行動という種を蒔けば、習慣という実を刈り取る。習慣という種を蒔けば、品性という実を刈り取り、品性という種を蒔けば、運命/人生を刈り取る。」という言葉です。
私たちの行動の背後には、何らかの物の見方や価値観、「心の物語」が働いています。物事をどう見ていくか。それらが変わらなければ人は変わらないのです。「心の物語の書き換え」が起こらなければ、私たちの人生は変わりません。聖書には、キリストとの出会いを通して変えられた人がたくさん出てきます。その中の一人がザアカイという人です。

Ⅲ.ザアカイとイエスとの出会い

ザアカイは、エリコ在住の徴税人の頭でした。ローマ人の信頼を勝ち得ていた反面、地位を利用して私服を肥やしていたようです。
ところで、福音書はザアカイの身体的な特徴を伝えます。「背が低かった」のです。「背が低かった」がゆえに、ある種の劣等感を持っていたかもしれません。そして、彼はそれをバネにして生きていたのではないかと想像されます。
そのような彼にとっては、「お金が私を幸せにする」という価値観が支えとなっていたのではないかと思います。
しかし、「お金持ちになりさえすれば慕われ、友だちも増え、心にも満足が得られる」という物語が、実は「偽りの物語」であることに、ザアカイは薄々気付いていたのです。何故なら、彼は孤独だったからです。いくらお金を手に入れても幸せを感じない。頑張って来た結果、徴税人の頭にまで出世した。しかし出世に反比例するように、仲間は彼から離れて行ったのです。
この時、イエスさまは、失われた羊を捜すようにして、ザアカイに出会ってくださったのです! 彼に向かって「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい!」とおっしゃったのです! もう興奮し、混乱し、何が何だか分からなかったと思います。
今までは、金持ちになれば世間は自分を認めるだろうと思っていました。でも、その逆です。ザアカイにとって世間は物凄く冷やかでした。冷たかった。彼は孤独でした。
でも冷静になって考えてみれば当然です。「どのように生きるか」ではなく、「何をどれだけ手に入れたか」という観点から成功を計ろう、と考えていたのです。だから、場合によっては手段を選ばなかった。ですから誰からも尊敬されないし、慕われません。それどころか、みんな自分から離れて行ってしまいました。本当に寂しい思いで生きていたザアカイでした。
ところが、です。何と、いちじく桑の葉陰に隠れていたところを発見され、離れていたところから呼び出されてしまったのです。
ザアカイは、イエスさまに認めてもらうために木登りしたのではありません。背が低く見えないと困るので、いい歳をして木に登ったのです。ですから、どちらかと言えば、そんなことをしている自分を見つけてほしくはなかったでしょう。
でもイエスさまはそのザアカイを見つけられました。そしてザアカイの家の客となったのです。
この時代、ユダヤ人にとって、主イエスのような聖書の教師を客としてお迎えすることは最大の栄誉を意味していました。誰もが、イエスさまを自分の家の客としてお泊めしたいと思っていたのです。
そのイエスさまが、よりによってエリコで一番の嫌われ者の家の客となった! それは全ての人の期待を裏切ることでした。ですから、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と、みんながつぶやいたのです。
でも、ザアカイにとって、人が何と言おうと、そんなことはどうでもよいことでした。彼は生まれて初めて無条件の愛というものに触れたのです。モノでは満たされなかった大きな喜びを、主イエスとの出会いを通して経験しました。主イエスは、そのザアカイをご覧になり、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されたのです。

Ⅳ.しっかりとした土台のある人生を選び取る

いかがでしょうか? イエスさまとの出会いは、ザアカイの人生に大きな変化をもたらしました。大袈裟な言い方かもしれませんが、彼の全てを変えてしまったのです。
ユダヤ人の宗教哲学者マルチン・ブーバーは、『我と汝(私とあなた)』という本を書いています。ブーバーによれば、私たち人間は大きく分けて2種類の関係の中で生きていると言います。「私とあなたの関係」と「私とそれの関係」です。
人間である「私」と、人間である「あなた」との関係を「私とあなたの関係」と呼び、また一方で、人間である「私」は食べたり飲んだり、また生活するのに様々な道具や物を使って生きています。その「モノ」との関係を「私とそれの関係」と呼んでいます。
当たり前ですが、人間は、「それとの関係/モノとの関係」なしに生きることはできません。生きるためには、多くのモノを必要とします。着物、食べ物、住む場所など。健康を維持し、良い働きをなし、また人生を喜び楽しむためにも、ブーバーの言う「それ」は大切な意味を持っています。
しかし、もう1つの側面がある。それはいかにモノに恵まれ、モノを自由に使えるようになったとしても、この人生に「あなた」と呼ぶ相手、つまり「私とあなた」という人格的な関係がなければ、本当に味気ないものになってしまう。
ザアカイは、主イエスという「あなた」との出会いを通し、初めて、モノでは満たされない心の中の渇きを癒されたのだと思うのです。
その証拠となる言葉が8節に出て来ます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。
今まで、何よりも誰よりも大切であったお金。その半分を貧しい人々に施す、と告白しているのです。そのために生きて来たような男です。「お金が私を幸せにする」、「どれだけ富を築いたか」で成功を計ってきた男にとっては、「どう生きるか」なんて関係ありませんでした。
ところが、どうでしょう。彼は、だまし取ったことを悔い改め、しかも旧約聖書の律法の要求に従った償いを約束したのです。
ザアカイは変えられました。新しい人にされました。それは主イエスとの出会いによって、一番大事なお方との出会いを通して、彼自身の価値観、物の考え方が改まっていったからです。彼は、人生にイエスさまという確かな土台をいただいたのです。
聖書に次のような言葉があります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(新改訳―Ⅱコリント5:17)
私たちは過去を変えることはできません。過去の出来事は石に刻まれたもののようで、やったことをやらなかったことにすることは出来ません。でも、これからどう生きるかについては、私たちの選択にかかっています。
主イエスは言われます。しっかりとした土台のある人生を選び取りなさい、と。
ぜひ、聖書の言葉を、また言葉ご自身であるキリストを人生の土台とする生き方を選び取っていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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決して言ってはならない言葉

2017年10月15日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一
12章14~27節

Ⅰ.決して言ってはならない言葉

「おいちゃん、それを言っちゃおしめえよ」というフーテンの寅さんの有名なセリフがあります。皆さんは、「あの時、あんなことを言わなければよかった」とか、「あれは絶対言っちゃいけない言葉」だったなどと、その事を思い出すと、今でも悔やまれるという経験はないでしょうか。
今日は説教のタイトルに「決して言ってはならない言葉」と付けました。実は、聖書の中にも、「それを言っちゃ、おしめえよ」に相当する言葉が紹介されています。それは21節に出てくる「お前は要らない」という言葉です。

Ⅱ.要らない人などない

パウロは、人と人とのつながりのことを人間の体にたとえて説明しています。そしてその交わりを形作る個々の人を、体を構成する器官にたとえています。そうした上で「体の中でほかよりも弱く見える部分」に向かって「お前は要らない」とは決して言ってはなりませんと戒めているのです。このことは教会の中の交わりだけではなく、人として、私たちが他者と絆を深めていく上で本当に大切なことなのではないでしょうか。
私はこの箇所を読むたびに眉毛のことを思い起こします。子どもの頃、朝起きて眉毛を書いていない母親の顔を見て、「あれ?」と思ってしまうことがありました。また、弟が母親の安全カミソリでいたずらして自分の眉毛を両方ともそり落としてしまったことがありました。顔の表情が全く変わっただけでなく、遊んでいると汗が直接目に入ってくる、ということで、弟は泣きながら訴えていたことを思い出します。こんな経験は私だけのものかもしれませんが、あってもなくてもいいように思ってしまう眉毛1つ取ってみても、その眉毛をほんの少し変えるだけで顔の雰囲気全体が変わってしまう。そしてそれだけではなく、実際におでこを伝って流れてくる汗を、眉毛が防波堤のように機能して、大切な目をしっかりと守っている。専門家に言わせれば、この眉毛にはもっと他にも大切な役目がたくさんあるのかもしれません。
このように考えて来ますと、体には全く無駄というものがありません。ですからパウロは、ここで、人と人とのつながりを人間の体にたとえて、人は誰ひとり「要らない」と言われるような存在はないのだ。だから「お前は要らない」とは、決して言ってはならない言葉だ、と戒めているのです。
でも、現実の生活においては、何か問題が起こると心の中で〈お前は要らない〉という呟やきが出てくるのではないでしょうか。〈問題を起こしたお前なんか、もう要らない〉。
次に、別の人が何か仕出かした。すると今度はその人も要らなくなる。そのようにしていくと、最終的には誰も要らなくなってしまいます。そして最後の最後に、〈お前は要らない〉〈そっちのお前も要らない〉と、批判力旺盛な目をもって周囲を見ている、一番自己中心で高慢なこの私だけが残るのです。そこには救いはありません。
周囲の人を見て〈お前は要らない〉との思いが心に起こって来たならば、それは神さまから出てきた思いではない、ということです。神さまからの思いならば、私がその人の問題に共感するように、そして〈私はこの人のために何ができるか〉と、その人に仕えるようにと導かれるからです。
〈お前は要らない〉とはサタンからの囁きです。しかも〈あの人は要らない〉と思わせるだけではなく、サタンは〈この私も要らない人間なのだ〉と思わせてしまうのです。〈私も価値のない人間なのだ。生きていてもしょうがない。何をしても失敗する。こんな私を誰が大切にしてくれるだろうか。だれもいやしない〉。そこまで持って行こうとするのがサタンの狙いです。
しかし、聖書の視点で考えるならば、イエスさまというお方は全ての人を祝福したいと願っておられ、〈あの人は要らない〉と思われる人のために、〈自分自身も要らない〉と思う私のために十字架にかかられたのです。

Ⅲ.神は私たちをどう見ておられるのか

ある時、イエスさまはたとえ話をされました。「『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」(ルカ15:4-7)
ここでイエスさまは、神さまのことを「見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し求める羊飼い」にたとえてお話になりました。「見失われた」、別の表現を使えば「迷子になった」この羊は、どちらかというと自分のせい、自分の愚かさの故に迷子になってしまったのです。
でも神さまの側からすると、そのような羊であるにもかかわらず、「見つけ出すまで捜し回るほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです! ある人は思います。「百匹もいるんだから、一匹くらいいなくなってもいいでしょう。百分の一に過ぎないのだから」、と。しかし、イエスさまが例に挙げた当時の羊飼いたちはそうではありません。彼らは羊一匹一匹に名前を付け、自分の子どものように大切に世話をしたそうです。
我が家にも「コロ」という名前の犬がいます。時々、いたずらをしたりします。そんな時は、名前を呼んで叱るわけですが、そのコロに向かって間違えて、「光也!」と息子の名で叱ってしまうことがあります。逆に、息子に向かって「コロ!」と呼びかけてしまったこともあります。犬を飼って初めて知ったのですが、家族の一員のような存在です。ましてや当時の羊飼いと羊の関係は運命共同体のような関係だったと思います。その羊が1匹でもいなくなったら、見つけ出すまで捜すでしょう、とイエスさまは言われるのです。このたとえ話を聞いていたユダヤ人たちはみんな、「そうだ、そうだ」と頷きながら聞いていたことだと思います。
1人の人が失われる。1人の人が居なくなる。それは神さまからすると大きな喪失、痛みが伴う悲しみだ、とイエスさまはおっしゃるのです。
悲しみの理由は、羊に対する羊飼いの愛、神さまの愛の心です。逆に、見つけることが出来たら、大きな喜びです!
ある小学校に手を焼く子どもがいたそうです。ちょっとしたことで騒ぎ、席を離れ、暴れ、部屋を飛び出してしまう。担任の先生は、1年間かけてこの子のことをよく知り、研究したいと心に決めて、お世話になった大学の先生に相談に行きました。大学の先生は「まずは、その子の行動をよく観察するように」とアドバイスをしたそうです。
担任の先生は、そのアドバイスを元に、観察を開始しました。自分1人では目が届かないと考え、学校中の先生たちにお願いし、情報を寄せてもらうように頼みました。「〇〇君が廊下の窓から外を眺めていた。何を見ているのかと思って横から見ていたら、外の木に鳥が止まっている。それを見ているようだった」。
そうした情報が来るたびに、それを全体の教師会で分かち合っていきました。すると、どうでしょう。観察を開始して間もなくして、その子に変化が起こって来たのです。以前のように暴れたり跳び出したりがなくなってきました。1年間かけて取り組もうとしていたこの研究は、始めた途端に、もうその必要はなくなってしまったそうです!
先生の研究が始まって、この子の周りに起こったことって何だったのでしょう? それは、その子に関心を持ち、関わるようになったことでした。教師たちが自分に目を向け、心にかけてくれるようになったことを、彼は感じ取ったのです。すると間もなく、その子の行動が安定して来たのです。それ以前は、その子が落ち着いている時には教師は注目せず、騒ぎを起こした時にだけ目を向けて叱っていたのです。

Ⅳ.あなたは神に捜されている

私たち大人は、このような状況に出くわすと、「この子をどうしょう?」と考えます。それも困ったことをする時ばかり・・・。でも子どもが求めていたのは、「ボクに注目して。ボクをよく見て!」だったのです。
大人がそれに気づいて応答してくれたら、子どもは変わる。そうです。聖書は、要らない人など1人もいない。だから、口が裂けても「お前は要らない」などと、決して言ってはならないと教えています。いやむしろ、神さまが本当に知ってほしいこと、言いたいことがあるのです。それは、「あなたは神に捜されている。」「あなたは大切な人です」ということです。
「あなたは神に捜されている」、「あなたは大切な人」。この神からのメッセージをしっかりと受け取る時、私たちは初めて変わってくる、変わることができるのです。神はあなたを愛しておられます。
お祈りします。

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何をして欲しいのか? と聞かれたら

2017年10月8日
松本雅弘牧師
マタイによる福音書20章20~34節

Ⅰ.親の願いの背景にある価値観

イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか? 私たちは、誰もが幸せを願っています。親でしたら子どもの幸せを願うものでしょう。
そして、しばしばその願い、期待の裏側には、その人の価値観が反映されています。それは、生きる上で何が大切なのか、どのようなことが幸せにつながるのかという、その人の考え方です。

Ⅱ. 何をして欲しいのか?

イエスさまが都エルサレムに向かって旅をしていた時でした。ゼベダイの息子たちの母親がやって来ると、主イエスは彼女に対して「何が望みか」と質問されました。
そして、ここには、もう1つの話が出て来ます。道端に座っていた2人の盲人が、イエスさまが来られたことを知ると急に立ち上がり、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。主イエスは、その2人に対して「何をしてほしいのか」と問われました。
「問いかけ」られることは、私たちにとってとても大事なことです。
私は、子どもや家族のために、私自身のために、何を願っているでしょうか。何を求めて生きているのでしょうか。
ここでは、母親も盲人たちも、主イエスに「何をしてほしいのか」と訊ねておられますが、興味深いことに、その結末が正反対なのです。母親の願いは退けられたのに対し、盲人たちの願いは叶えられました。
退けられた、この時の母親の願いは一言で表現すれば、息子たちが「人よりも偉くなること」だったのです。イエスさまはこれに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われています。
「目を開けていただきたい」という盲人たちの願いは受け入れられたのですが、母親に対しては退けられました。一体、この違いはどこにあるのでしょう。

Ⅲ.問われる価値観

こんな話があります。一人の男の子がいました。
お父さんは一流大学を出て一流会社に勤務し、その会社でどんどん出世していきました。典型的なエリートサラリーマン家庭です。母親はそうした夫を誇りに思っていましたので、息子に対して、父親のようになることを期待して育てました。
その結果、「勉強して、お父さんのように偉くなりなさい」が、母親の口癖となりました。小学生のその子はお母さんのことが好きでしたから言われるままに勉強に励みました。
ところが、中学生になって躓きを覚え、勉強することに意味を感じなくなりました。それだけではありません。母親にも暴力を振うようになったのです。彼はとれも荒れました。
丁度その頃に、弟が生まれることになりました。両親は期待外れの長男に代って、この次男へ期待を寄せていきました。
でも、その赤ちゃんは重度の障碍を持って生まれてきたのです。一日中よだれを流し、笑顔も見せず、ただ天井を見上げて寝ているだけでした。母親は失望し、次第に赤ん坊の存在をうとましく思うようになり、ベッドも汚れたままに放置されるようになりました。
ところが、母親はある日思いがけない光景を目にします。長男が、赤ん坊のベッドのそばに居て、タオルでよだれを拭いているのです。拭いても、拭いても流れ出るよだれを、忍耐強く何度も何度も拭き続けているのです。
母親は、さらに驚くべきことを目撃します。それは、荒れて、キレていた長男が赤ちゃんに向かって微笑んでいるのです。あやしているのです。そして何と、赤ちゃんの顔にも、母親の自分が見たこともないような微笑みがこぼれていたのです。
彼女は大きな衝撃を受けました。長男のためにと思って、「勉強して、偉くなれ」と言い続けてきた。でもその結果、長男の心を滅茶苦茶にしてしまった。そしてまた、期待することができないことが明らかな赤ん坊の存在自体をうとましく思ってしまう自分がいたのです。赤ちゃんからも微笑んでもらえない母親になってしまっていたのです。
そういう自分の誤り、行き詰まりに気づかせてくれたのは、手におえなくなってしまったと思っていた長男でした。
母親は長男に言いました。「お母さんは、とっても大きな間違いをしていた。気づかせてくれて本当にありがとう。本当にごめんなさい」と。
昨年から高座教会ではマリッジ・コースというカップルを支える学びを開始しました。そのテキストに、子どもに対して、親や家庭が提供できる良いこと、親や家庭の役割が基本的に4つあると書かれています。
1つは、「衣食住のような、子どもが感じる基本的ニーズを満たすこと」、2つ目は「子どもたちに楽しみ、喜びを提供すること」、3つ目は「してもよいことと、してはいけないことのガイドラインを提供すること」、そして最後4つ目は「人間関係の築き方を教えること」とありました。
これらが、親や家庭が提供できる基本となるというのです。その理由は、子どもの幸せな成長にとって、この4つが土台となるからです。
「偉くなること」、「よい成績をとること」が目標となる家庭でしたらどうでしょう。本来家庭が子どもたちに提供しなければならない大切な4つの内の1つも十分に満たされないのではないでしょうか。

Ⅳ.何をして欲しいのか?

子育てを例に考えてみましょう。子育てにとって本当に大事なこと、それは、幼児の内から色々なことが良く出来ることであり、学校に行ったら良い成績で、良い学校に進むことであり、名前の通った会社に就職し、安定した生活ができることでしょうか?
勿論、そのようなことも、また経済的な安定も、とても大切なことです。ただ、それら1つひとつを獲得できたとしても、あの年の離れた2人兄弟の家庭は本当の意味で幸せだったのだろうか? あるいは、あの家庭の父親は、母親が言うように、本当に「偉い」のでしょうか?!
先日このような言葉に出会いました。「今、あなたが子育てでしていることや、その中で考えていることは、あなたが老後を迎えた時に、そっくりそのまま、あなたが、我が子からどう扱われるかという形になって返って来るものなのです。自分の老後をどのように扱ってもらいたいかの答え作りを、実は今、している。それが子育てというものなのです。」
子育て真っ最中の方たちにとっては、自分の老後を考える以前に、今、実際に目の前にいる子どもとのかかわりで、精一杯でしょう。
ただ、色々なものを買い与えられ、色々な習い事で明け暮れし、友だち同士、また人との心の通い合いもない子ども時代を過ごせば、たぶん、その子は老後を迎えた親に対しても、お金で色々と買い整えてあげることこそ、親孝行の最良の方法だと思うことでしょう。
そして、そのためにお金が必要。だから、そのためには偉くならなくては、と忙しい毎日を送ることになることでしょう。それが本当の幸せなのだろうか、と思います。
今日のイエスさまの「何をしてほしいのか」という問いかけは、そして、先ほど紹介した家族の話は、人の価値、子どもの価値って何なのかを、もう一度、私たちに考えさせてくれます。
先ほどの話に出てくる父親と母親にとっての「偉さ」の基準は、人の上に行くことでした。勉強の成績も、学校も勤め先も役職も、全て人よりも上であることが価値あること、「偉い」ことでした。でも、その偉いことで、この家庭は幸せだったでしょうか? そうではなかったと思います。
逆に、中学生になったこの長男は、彼の両親に別の「偉さ」、「尊さ」があるということを教えてくれたように思います。
重い身体障碍の弟のベッドのそばで、繰り返しよだれを拭き続ける。これは人の上に行くこととはまったく逆方向にある「尊さ」を示しているように思うのです。
2人の息子の出世の願いを叶えてもらえなかった母親に対して、イエスさまは何と言われたでしょうか?
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」
先ほどの家庭の話も、そしてこのイエスさまの言葉も、上に行く「偉さ」とは別に、下に行く「偉さ」があること、しかもその下に行く「偉さ」の方がずっと価値が高いことを私たちに教えているのではないでしょうか。先ほどの話のお母さんが知ったのはこのことでした。
上に行く「偉さ」は、みんなをダメにするかもしれない。でも下に行く「偉さ」はみんなを生かすことになるのです。
イエスさまは、私たちに「何をしてほしいのか?」と訊ねられます。
この問いかけに、一度、立ちどまり、私たちが求めているものの先に、本当の幸せがあるのかどうか、神さまの前に吟味させていただきたいと思うのです。
お祈りいたします。