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主日共同の礼拝説教

和解と平和

2017年11月26日夕礼拝
和田一郎伝道師
創世記2章15~17節
コロサイの信徒への手紙1章18~20節

Ⅰ.はじめに

コロサイの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から小アジアに住む、キリストを信じる信徒たちに向けて書いた励ましの手紙です。1章のここまでは、キリストがどのような人であるのかを丁寧に伝えているところです。キリストとはどのような方なのでしょうか。
まず、キリストは「見えない神の姿」であることです。そして「すべてのものが造られる前に生まれた方である」と伝えています。創世記1章には、天地創造の出来事がありました。海や空やこの世に存在するものが造られましたが、その前から存在していた方がキリストです。そして、そのキリストによって万物は造られました。それも、万物はこのキリストのために造られたと、パウロは言うのです。
しかしどうして、パウロは、このように詳細にイエス・キリストのことを説明するのでしょうか。パウロが手紙を書いた当時は、まだキリスト教が十分に普及していませんでした。ペンテコステの出来事で、キリスト教会ができてから30年程しかたっていなかったのです。残念なことに、イエス様のことを間違って解釈する人達も多かったのです。ですから、パウロは手紙を使って、そのことを繰り返し書き続けました。この手紙もそうです。そして今回の18節でも、イエス様の性質に関する言葉が続きます。

Ⅱ.教会のかしら

18節「また、御子はその体である教会の頭(かしら)です。」キリストは教会のかしらというように、教会を人間の体のように表すのは、パウロの独特の表現です。教会というのは、建物の教会ということではなく、キリストを主と信じる信徒たちが集うところです。そこには様々な人がいます。人種はユダヤ人もギリシャ人も関係ありません。個性もさまざまで役割も違います。そのさまざまな人達が一つになるには、リーダーが必要ですが、教会の頭(かしら)はキリストだということです。パウロは他の聖書箇所では、教会はキリストの「体」そのものだとも言っています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は教会の中に、いろいろな人をお立てになりました」(1コリント12:27) 。このように、教会の頭(かしら)がキリストだと言ったり、教会はキリストの体そのものだと言ったりします。この表現によってパウロが言おうとしていることは、キリストこそ、教会の命と力の源泉であるということです。なぜなら教会は、キリストが十字架に架かって死んでくださったから、その後復活されたから、そして、天に戻られて聖霊を、この世に送ってくださったから、そのことによって教会ができたからです。それは最初の教会だけではありません。次々と建てられていった教会はすべて聖霊によってキリストの名の下に建てられたものです。今も、この私たちの教会も同じキリストの体、キリストを頭とする、キリストをリーダーとする教会です。

Ⅲ.最初に復活された方

18節の「死者の中から最初に生まれた方」というのも、このキリストです。「死」は終わりを意味しました。暗闇とか絶望と表現されました。日本人の価値観の中にも「死んでしまったらおしまい」というものがあります。しかし、そこから死を打ち破って、最初に生まれた人。最初に復活された人がイエス・キリストでした。最初というからには、続く人がいるのか?というと勿論います。それは私たちクリスチャンのことです。私たちがキリスト者として救われて、新しい永遠の命を与えられるというのは、イエス様がまず、最初に復活されたことがあったので、その御業に続くことが可能になったわけです。パウロは別の聖書の箇所でキリストを「初穂」とも表現しています(1コリント15:20)。麦の穂を収穫する季節になると、収穫を祝います。収穫の初穂の束を祭司のところに持って行って祝ったそうです。そうして、初穂が神様に捧げられれば、これから多くの収穫が期待できるわけです。この初穂と同じように、キリストの復活は、それに続く私達の復活の先駆けであり、期待を膨らませるものであったとパウロは言うのです。
このように、イエス・キリストは天地創造の主であり、教会のかしら、そして復活の最初の人であるというように、神は「満ちあふれるものを、余すところなく、御子キリストの内に宿らせた」のです。

Ⅳ.キリストの平和

その、キリストがなさったことは、いったいなにか。それが、20節です。神は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」。
20節は二つのことを言っていると思いました。「キリストによって平和を打ち立てた」、そして、「キリストによって和解させた」ということです。キリストが「平和」と「和解」をもたらしたのです。これがどのようなものなのか。それぞれ見ていきたいと思います。
まず、「平和」というのは、どのような平和でしょうか。パウロはユダヤ人でした。ですから旧約聖書をよく読んで、真の神様を信じていました。しかし、パウロがかつてそうであったように、ユダヤ人は自分たちの神様は、自分たちユダヤ人だけを救ってくれる神だと考えていました。それどころか、外国に住む異邦人は汚らわしい者だとさえ思っていました。ですから、ユダヤ人はギリシャ人をはじめ、その他の異邦人と、一緒に食事することも避けていましたし、異邦人と結婚することも避けていました。そのようなユダヤ人は異邦人から見ても、嫌な存在でした。ですから、ユダヤ人と異邦人には大きな壁があったのです。しかし、キリストが十字架に架かられて、死んで復活されたことによって、その救いは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、国や人種の分け隔てがなくなりました。その二つの隔たりがなくなって、一つとされました。二つのものを一つにし、壁を取り壊したキリストの平和のことです。平和と言った時に、大切なことは、まず何よりも神との平和が必要であるということです。

Ⅴ.和解

次に「和解」ですが、20節で神様が「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」とあります。キリストを通して神様と人間との和解をしたことで、被造物すべてが神と和解した。平和になったとパウロは言うのです。「和解」という表現は、生きている者同士の人間的な関係を思い起こさせます。先ほど、「キリストは教会のかしら」であると話しましたが、この比喩は単に説明のための比喩だけではなくて、教会というものが本質的に人間的な存在であることをパウロは言っているのです。ですから、神様と教会の関係、神様と人間の関係は、契約や法律的な冷たい関係ではなくて、本質的には人と人との絆のような関係です。家族のような関係の中にあるのです。パウロは他の書で、「神の家族」とも表現しました。たとえば、家族であっても叱られたり、喧嘩したり、家族ならではの難しさもあります。それを取り繕うには、心を開いて相手の心に歩み寄る必要があります。家族であっても、そうやって信頼関係を取り戻す努力が必要です。人間は、創世記のエデンの園での生活は、神と家族的な平和な関係でした。しかし、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と神様は、人間に警告をしました。
これは、契約を破ったら死刑になるというような、恐ろしい命令というものではないのです。人間は神とは違うのだから、神様に造られた、か弱い、限りのある存在で、そのことを示す為に、親が子どもに教えるような愛の警告だったのです。その警告を無視してその実を食べてしまった。神と人との関係はこじれました。せっかくあった「神の家族」という関係がこじれたのです。
しかし、神様はイエス・キリストを地上に送るという、和解の手段を示して歩み寄ってくださったのです。十字架に架かった、神の御子イエス・キリストを主と信じたならば、また絆は回復する。これが「和解」の手段でした。イエス様を信じることによって、再び「神の家族」という絆を取り戻せるようになったのです。
神様が歩み寄ってまでした「和解をしたい」という気持ち。独り子を地上に送ってまでして、「和解をしたい」という、神の切なる願いを察してみてください。その切なる願いは、パウロがこの手紙を書いて、コロサイの信徒の人々に向けた思いと重なると思いました。
コロサイのみなさん、「神が差し出した和解の手段に感謝して、神との平和を保って欲しい。」まるで、親が子どもに向けるような家族へのメッセージです。
今日は、キリストについて、キリストが死者の中から最初に生まれ、今も教会のかしら、「平和」と「和解」をもたらしたという、パウロの手紙を読んできました。
この一週間、「あなたと和解をしたい」と切に願って下さった神に感謝して「神の家族の平和」を保って、一日一日を歩んでいきましょう。お祈りをします。

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報われないように思う時も

2017年11月26日
松本雅弘牧師
エゼキエル書14章21~23節
マタイによる福音書13章51~58節

Ⅰ.主イエスの弟子訓練の仕方

イエスさまは弟子たちと旅をし、生活を共にする中で弟子訓練をされました。ですから、イエスさまが「隣り人を愛せよ」と教えられた時に、互いに隣り人として召されていた弟子たちにとって、実際にそりの合わない者同士は、イエスさまのこの言葉によって本当に試されたと思います。そのようにして、弟子たちは、否が応でも信仰を働かせて御言葉を実生活に適用するというチャレンジをいただき、主に従う者として訓練されたのだと思います。

Ⅱ.天国のことを学んだ学者

そうした弟子たちに対して、一連の「天の国」のたとえ話を話された後で、イエスさまは「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われたのです。つまり主イエスは「あなたがたはもう学者だ。天国のことを学んだ学者、神の国についての専門家だ」と言われるのです。
では、天国のことを学んだ学者とはどういう者なのでしょうか。イエスさまによれば、本当の学者は「自分の倉から新しいものと古いものを取り出」せるのです。
イエスさまから初めて学んだ「新しいもの」も、主イエスよりも前の人によってすでに語り伝えられて来た「古いもの」も、学者とは、そうした「新しい教え」、「古い教え」すべてが自分の手の中にあって、自由に語り出すことができる。あるいは、そうした事をすべて心得ている者。それがあなたたちだ、というのです。
イエスさまの弟子たちは、律法学者のように立派な教育を受けてはいませんでした。しかし、イエス・キリストという最高の先生から直々に習うことができていたからです。

Ⅲ.つまずき

さて、イエスさまは、その後、そこを去って故郷のナザレにお帰りになりました。ナザレの人々は、「天の国」のたとえを聞いた弟子たちとは対照的な反応を示しました。それはつまずきです。彼らはイエスさまの言葉や業を、神からの権威と結びつけることをしていません。いや、それが出来ませんでした。
イエスさまの生い立ちや家族を知っていることが、かえって彼らのつまずきとなったのです。イエスさまの中に働いている神の力を認めることをせずに、人間的なレベルで、自分たちの考えの枠組みの中で、心の中に生じた驚きを解消しようとしたのです。ですから、「いや、あの大工の息子がそんな人間であるはずがない」という方向へ行ってしまったのです。そのようにして、ナザレの人々はせっかくのチャンスを無駄にしてしまいました。58節には、「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と、厳しい言葉を聖書は記しています。
この福音書を書いたマタイは、イエスさまの故郷ナザレの人々は不信仰だったと伝えます。
驚き、つまずいたこの人々は、この時、主イエスからの教えを会堂で聞いていたのです。ですから信仰のある人々でした。ただ、信仰があっても不信仰の状態が起こり得るということなのです。ここに、不信仰の恐ろしさがあるように思います。
では聖書のいう不信仰とは何でしょう。不信仰とは、自分の考え方の枠組みを変えずに、神の御力や御業を自分の枠組みにはめ込んで受け止めようとする信仰の姿勢のことを言うのです。信仰がないということではないのです。
ナザレの人々は、自分たちの枠組みの中に主イエスを押し込んで、せっかく神さまがそれぞれの心の中におこしてくださった驚きを、無難な仕方で落ち着かせようとする。解消しようとするのです。これが不信仰です。その結果イエスさまのナザレでの奇跡の業は、制限されて行ったということです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」とある通りです。

Ⅳ.報われないように思う時も

今日の箇所にイエスさまの母親は「マリア」と名前が出て来ます。その後兄弟たちの名前がありますが父親ヨセフの名前が出てこないのです。間接的な仕方で、「大工の息子」と記されているだけです。
男性中心の当時の習慣として、これは不思議であると言われます。ここで、多くの人が想像するのですが、父親のヨセフはイエスさまが12歳の時には生きていたのだけれども、家族を遺して死んでしまったのだろう。それも早い時期にそうなったのではないかと言われます。つまりイエスさまの家は母子家庭で、しかも子だくさん、女手一つで育て上げることは容易なことではなかったように思います。
聖書は、イエスさま誕生の経緯を伝えています。マタイによる福音書によると、婚約者のヨセフはマリアの妊娠の事実を、最初は受け入れられずに苦しみました。しかし、神さまの導きにより、ヨセフは神の御業を受け入れマリアと結婚します。
その後、皇帝アウグストゥスの勅令によりベツレヘムへの長い旅をし、やっとのことでベツレヘムに到着しました。そこはヨセフの故郷です。当然、親戚もいたはずです。ところが、ベツレヘムの人々がヨセフとマリアに対して物凄く冷たかったのです。敷居をまたがせないのです。
そのことについて聖書は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と表現しました。聖書学者は、ベツレヘムの人々の冷たさは、すでにベツレヘムにまで届いていたマリアの妊娠をめぐる噂のせいだった、と解釈します。
遠いベツレヘムにおいてさえそうだったとしたら、実際に生活をしていたナザレの人々はどうだったのだろうかと、私たちは想像します。
婚約者であったヨセフですら最初は疑っていたほどです。他人であるナザレの人々が、イエスさまの出生の真実を理解していたかどうかは怪しいものです。
「マリアの妊娠はナザレの村においてスキャンダルとして受けとめられたのではないか」との聖書学者のコメントがあります。「スキャンダル」と言う言葉は、57節にある「人々はイエスにつまずいた」という言葉の「つまずく」のギリシャ語、「スカンダリゾウ」という言葉が語源となっているのです。
イエスさまがベツレヘムで誕生なさった後、すぐにナザレに戻っては来ませんでした。ヘロデの難を逃れ、誕生したばかりのイエスさまは、両親に連れられて、政治難民としてエジプトに寄留したのです。
どれほどの期間エジプトに居たのかは分かりませんが、そうした中でひとつ言えることは、人間の生育にとっての大切な0歳から3歳までの期間、そのすべて、あるいは一部かもしれませんが、イエスさまはエジプトで生活されたのです。主イエスの「育ち」に少なからぬ影響をもたらしたことは間違いないでしょう。大切な幼少期を、必ずしも恵まれた環境とは言えない厳しさの中で送られたのです。
エジプト寄留の期間、イエスさまはご自分の家庭がエジプト人や他の家庭に比べて経済的に貧しいということを肌で感じとって行ったことでしょう。同時に、言葉も文化も異なる外国暮らしの中で、自分を育てるために、普通ではないほどの苦労をして懸命に働くヨセフとマリアの姿を、イエスさまはしっかりと見て育ったのではないでしょうか。
当時、エジプトにもユダヤ人のコミュニティーがあったと思われます。自分たちと同様、外国からやって来た、同じような境遇の人たちが経済的、社会的、精神的にも、とても過酷な暮らしをしている姿を、主は幼いながらもしっかりと見、ご自分の魂に刻んで成長されたのではないかと思います。
そのイエスさまが成人し、メシアとしての活動に入られ、貧しい人々、当時、「罪人」と呼ばれ、社会から疎外されていた人々、障碍を抱え、病に苦しむ人々と接していかれるのですが、そうした彼らに対するイエスさまの言動は、ほんとうに温かで優しい! のです。人々の痛みや苦しみに寄り添って、信じられないような深い愛情を持って関わっている主イエスの姿が、聖書のいたるところに出て来ます。なぜそうした生き方ができたのでしょうか。なぜそこまで温かで優しく接することができたのでしょう。
イエスさまが神の御子だったからでしょうか。そのとおりでしょう。しかし、それに加えて私は思うのです。エジプトでの子ども時代の苦労があったから。苦難の中で、自分のことを大事に育ててくれたお父さんとお母さんの懸命な姿を見ながら大きくなったからだと思うのです。そして、近所の貧しい人々と一緒に暮らしたエジプトでの「生きた経験」があったからこそ、弱い人、外国から来た人、障碍や病いを抱えた人、大きな失敗をしてしまった人々に対して、イエスさまの愛の心が、自然に溢れるように流れ出て行ったのだと思います。すべての経験が決して無駄ではなかった、むしろ、神さまの恵みの中で実を結んだのです。
私たちにも、「何故?」と訴えたくなるような出来事が起こることでしょう。報われないように思う時があります。しかし、それで御終いではありません。私たちの主イエスさまも、そうした経験をなさって来られたのです。その主にあって万事が益と変えられる時がやって来るのです。それが主の約束です。
絨毯の表側に、主が描いてくださった恵みの絵柄を見せていただく時が必ずやってくる。私たちはそのことを信じて歩むことが許されているのです。
報われないように思う時も、恵みの主は、私と共におられるからです。お祈りします。

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隠された宝

2017年11月19日
松本雅弘牧師
ヨブ記28章20~28節
マタイによる福音書13章44~50節

Ⅰ.はじめに―2つのたとえのちがい

最初の2つのたとえ話を比較しますと、この2つの話には、共通点と相異点があるように思います。1つ目の「畑に隠された宝のたとえ」を注意深く読むと、土の中に宝を発見したこの人は、初めから宝探しをしていたわけではなく、偶然、見つけたのでした。これに対して、2つ目の「良い真珠を探す商人のたとえ」では、この商人は必死になって良い真珠を探し求めています。積極的に、熱心に探しているのです。決して偶然に見つけたのではなく、熱心に探し求めているのです。これが相違点です。

Ⅱ.2つのたとえの共通点

それでは、共通点とは何でしょうか。宝を見つけた人も、真珠を探し出した商人も、どちらも、躍り上がるほどに大きな驚きと、喜びに満ちていたということです。この宝を手に入れられるなら、自分の持ちものをすべてつぎ込んでも惜しくないと思ったほどに喜んでいるのです。
私たちがイエスさまを信じる信じ方、イエスさまとの出会い方は一人ひとり違います。でも、イエスさまを知り、そのお方を信じる生活に入るということでは、みな同じく、喜びにあふれ、すべてをささげて惜しくない、そのようなことだと思うのです。
この2つのたとえに、もう1つの共通点があります。それは、その宝、すなわちイエスさまの言う「天の国」は、本当に見つけにくいものだということです。この「天の国」とは、「神の支配」と言い換えてもよい言葉です。このように、神の支配は隠された宝のように人目に隠されているものなのです。
これまでイエスさまは大勢の群衆に向かって、「天の国」についてたとえをもって話してこられたのですが、この時は、彼ら群衆を外に残して家に入り、そばに寄って来た弟子たちに向かって、3つのたとえ話をされたのでした。

Ⅲ.厳しいたとえ

そのような中で、3つ目のたとえ話がイエスさまの口から飛び出してきました。前の2つと比べてトーンが少し違います。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(47-50)
ずいぶん厳しい響きがある言葉です。〈もしかすると自分も燃える炉の中に投げ込まれるかも〉と、不安を覚えた方もあるかもしれません。
私が教会に通い始めた頃、まだクリスチャンになる前でしたが、「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という御言葉に出会いました。
当時、教会の中で耳にする説教は、世の終わり、もしくはイエス・キリストを信じないで人生を終わった後に待ち受けている神の裁きの恐ろしさ、そしてその裁きから免れるためにイエス・キリストを信じなさい、というメッセージでした。
今でも、時々、こうした伝道メッセージを耳にすることがあるでしょう。ある人は、これを、「永遠の裁き」というピストルを突きつけられ、「さあ、信じるか、信じないか、どうなんだ」と回心を迫る状態だと言っていました。
今、振り返ってみると、私がクリスチャンになった時の動機は、「信じなければ、永遠の裁きを免れないので信じる」という信じ方だったのではないか、と思います。ここにおられる方たちの中にも、そういう方がおられるかもしれません。
しかし、クリスチャンになりイエスさまと共に歩みを進める中で、そのお方に従う生活をすることは、世の終わりにおける裁きが恐ろしいからではなく、それ以上のこと、イエスさまのたとえで言うならば、むしろ大きな宝物を発見したから。だからこそ、持てるもをすべてつぎ込んででも、その喜びに連なりたいと願うからなのではないでしょうか。
ここまでの話の中で、心に留めたい点があります。それは、こうした厳しい「世の終わり」のたとえを、大袈裟に考えることはよくないのですが、決して簡単に聞き流してはならないということです。
全体的に主イエスが説かれた「天の国」の福音は喜びに満ちた知らせです。イエスさまご自身が、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と言っておられます。これこそが、福音全体を貫く根本的なトーンです。
このことを踏まえて、このたとえが言わんとしていることを考えるならば、それは終わりの日における神の完全な勝利です。「悪」が滅びるということです。
しかし、私たちの日常生活において、どうして悪がなくならないのかと訴えたくなる、そのような現実の中に生きている私たちではないでしょうか。私たちの神さまは、それを決して無視してはおられないのです。むしろ、キチンと「悪」を終わらせることを考えておられるということです。

Ⅳ.生活の中に見出す「天の国」

今日の説教に「隠された宝」という題を付けました。イエス・キリストにおいて現わされている神の支配は、本当に見えにくい、と思わずにはおれません。
なぜ、そんなにも神さまらしくない振る舞いをイエスさまはなさったのだろうか、と思います。私たちが見て、すぐわかるように、私たちが考えるような神さまらしい振る舞いやお姿があったならば、すぐに理解できたかもしれない。
しかし、実際に、この地上に来られた御子のお姿は、私たちの想像を超えて、いや私たちの思いを裏切るような仕方で来られたのです。
それはちょうど預言者イザヤが、真の救い主のことを、「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(53:1)と預言した通りです。
まさにその予告どおり、主イエスは赤ん坊として飼い葉桶に生まれました。全ての人が期待したように、逞しい成人男子として王宮に、という分かり易い姿で出現されたのではないのです。
イザヤの預言のとおりに、しもべのしもべとしての姿で、貧しいお姿でこの世に来られたのです。人間よりも、もっと深く、人間の弱さの中に、惨めさの中に、罪の恐ろしさの中に立ってくださったのです。ですから、この世の人々の誰1人として、真の救い主イエス・キリストに神の支配を見出す者はいなかったのです。
ヨハネはそのことを、「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。」(1:10)と語ります。
この世はイエスさまのものです。イエスさまがお造りになった世界です。そのお方が、ご自分のところにやって来たのに、この世の者は誰一人、イエスさまを受け入れなかった。拒絶し排除したのです。
その結果が、飼い葉桶でした。でも本当に幸いなことに、福音はそれでおしまいではなかったのです。ヨハネは続けます。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と。
隠された宝であるイエスを見つけた人がいたのです。畑の中に宝を見つけたように、偶然見つけた人もいるでしょう。あるいはまた、懸命に探し求める商人が素晴らしい真珠を探し当てたように見出した人もいます。
このたとえ話を聞いている弟子たちが、そして私たちがそうなのです。ですからイエスさまは弟子たちと共に、私たちにも言われるのです。「あなたがたは見つける。あなたがたは私において神の支配を見ている」と。
このたとえの解き明かしを聞いていた弟子たちは、主イエスに勧められたままに、家も財産も捨てて、イエスさまに従って歩んでいました。この先どうなるのか、その「先行き」について、よく分かっていなかったと思います。でも、主だけは信頼できました。ですから従って歩んで行けたのです。
イエスさまは弟子たちに向かって何かを命令しておられるのではありません。イエスさまのこれらの言葉には、命令形の文章は一切ありません。「真珠を探せ」とか、「さあ、畑に行って宝物を探せ」と命令なさったのではないのです。
ただ事実を語っておられます。「あなたは、わたしという宝を見出した。あなたがたはすでに天の国、神の支配の中に生きている」と。
ミッシェル・クオストというカトリックの司祭がおられます。彼は『神に聞くすべを知っているなら』という、有名な祈りの本の著者です。そのクオスト司祭はこう語っています。
「私がしたことは、生活の中で祈るということです。それを一緒にやろうとしただけです。なぜか。神がそこにおられるからです。神は天におられるのです。しかし、それだけではなくて、この地上にも生きておられるからなのです。そのことを、分かってもらいたかったのです。悩み、悲しみ、苦しむ人に、あなたは1人ではない。そこに神がおられるのだ、ということを言ってあげたかったのです。その神を知った以上、祈らないわけにはいかないのです。その神を知るのは、祈りにおいてしか、知ることができないのです。」と。
神は天におられると共に、ここにもおられます。私たちの生活の中にいてくださるのです。そこで「天の国」、主のご支配、イエスさまの守りを、日々発見したいと願います。お祈りします。

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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教 成長感謝礼拝

きみは愛されるため生まれた

2017年11月12日
成長感謝礼拝・ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
マルコによる福音書10章13~16節

Ⅰ.子どもの祝福を祈り求めて

先日、園庭を歩いていましたら幼稚園のお母さまに、「先生、息子が先生にお会いしたって、言っていました」と声をかけられました。その息子さんはプレイズチャペルに出席し、その後のファミリーバーベキューにも参加したそうです。その時、私と同じテーブルを囲んだのです。中3になり、背が高くなっていましたが、その顔を見た瞬間に〈ああ、この子のこと、覚えている〉と思ったのです。顔はその時のまま。まん丸の可愛いお顔をしていました。「久しぶりだね。本当に嬉しい…」としばらく話した、その子のことでした。その日帰宅するなり、お母さんに「今日、松本先生と会った。先生、大きかったけれど、小さくなっちゃった」と言っていたそうです。

Ⅱ.弟子たちを憤られるイエスさま

人々が自分の子どもたちを連れてイエスさまのところにやってきました。どこの親でも子どもの幸せを考えます。彼らも同じでした。様々な奇跡をし、教えをし、働いておられるイエスさまが近くに来ておられると聞き、わが子に触れていただきたいと御許に連れてきたのです。
しかし弟子たちは許しませんでした。その人々を叱ったのです。考えてみれば「叱る」とは強い言葉です。何故弟子たちはそうしたのでしょう。1つには、子どもたちは「役に立たない存在」と見たからだと思います。〈子どもなんか主イエスの高尚な教えを理解しない。うるさくて迷惑をかける〉。そう考えた。だから叱ったのです。
ところが、これに対するイエスさまの対応には、もっと厳しい言葉が使われています。イエスさまは、弟子たちを「憤られた」のです。あの優しい、柔和なイエスさまが「憤り」をあらわにされたのです。弟子たちの行為は、それほどにイエスさまの意に反するものだったのでしょう。
何が問題だったのでしょうか。弟子たちが子どもたちの存在を「役に立たない存在」と見ていたのに対して、イエスさまは全く違った視点でご覧になっていたということです。
それは「存在の喜び」という視点です。確かに子どもたちは大人から見て、何もできない存在かもしれません。時にやっかいなことを仕出かすこともあるでしょう。でもイエスさまというお方は子どもの存在を、そのまま喜んでおられるということなのです。

Ⅲ.存在の喜び

以前、友人の牧師が幼稚園の教育講演会に来てくださいました。講演の最後に、講師の先生は一枚のお札を高く上げて、「みなさん、欲しいですか?」と尋ねました。
戸惑っている皆を見て、今度は、それをクチャクチャにして靴の裏で踏みつけ、皺くちゃになったお札を広げて再び同じ質問をしました。「欲しいですか?」。
その時、見ていた人は誰もがハッとしました。いくら皺くちゃになって汚れが付いていたとしても、その価値に変わりはないのです!
私たちは、一生懸命皺がないように、また汚れないように生きようとします。勿論、綺麗な方がいいかもしれません。しかし、私たち人間の価値は、表面的な姿かたち、あるいは持ち物などによらないのです。もっと本質的なところで、すでに私たちは尊い者として生かされているのです。神さまに愛されるために生まれた者として。

Ⅳ.きみは愛されるため生まれた

私たちは「愛されるため生まれた」ということを、聖書ははっきりと語っています。そのことを、しっかりと受け止め、互いに伝えあい、祝福しあって生活していけたら、どんなに幸いでしょう。
今日の聖書の一番終わりのところには、イエスさまが、「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されています。
これは聖書が教える「子育ての3つの基本」と呼ばれているものです。
「抱き上げる」とは、スキンシップをすること、子どもを触ることです。教育の専門家は、抱き上げることを通して、子どもには人を信頼する能力が培われるのだと語っていました。この世界は信頼できる世界である。人を信頼してよいのだ、と。だから、自分を預けてもよいのだ、という信頼感です。そのように信頼する力が与えられて、はじめて冒険心がわいてきます。そして、自分を発揮していくことができるのです。
第2にイエスさまは、子どもたちの上に「手を置」かれました。これは「祝福」ということと関係しているのですが、手を置くということは、祈るということです。
聖書の中に、「私は種を蒔き、アポロが水を注いだ。しかし、成長させたのは神です」という言葉があります。子どもたちを愛する神さまは、その子の成長を願うと共に、その子を成長させる力をもお持ちのお方です。
私たちは親として出来ることを果たしていきます。けれでも、どんなに頑張っても、時として出来ないことも起こるのです。場合によっては、子育てで行き詰まってしまうこともあるでしょう。そうした時に、この「成長させてくださるのは神さまです」という聖書の言葉を思い出していただきたいのです。そして「手を置いて」、子どもたちを愛し、守り、そして成長させてくださるご意思と力をお持ちの神さまに祈るのです。それが私たちに出来る事です。
子育ての基本の3番目は「祝福する」ということです。これは「褒める」ことです。何かを見つけて褒める。その子が、その子であることを認めることです。何故でしょう? その子は、「神さまに愛され、人に愛されるために生まれてきた尊い存在だから」です。
この時、イエスさまのこうした子どもへの接し方を見ていた周りの大人たちも、様々なことを感じたことでしょう。今、私たちは、イエスさまの姿からこのように大切なことを教えられるのです。
1970年12月の「みどり会報」の中に、みどり幼稚園の先生だったSさんの、子どもたちとのやりとりを書いた「アンテナ」という題の素敵な文章がありましたのでお読みします。

アンテナ

「末っ子モーリー」というイギリスの昔話を読んであげた日のことです。お弁当を食べ終わった何人かの子どもたちがこんなことを話し始めました。「僕、末っ子だよ」、「僕は次男で末っ子だよ」、「○○ちゃんは長女だよ。先生も長女でしょ」。年長組になって、自分と家族とのつながりもはっきり分かり、友達の家族にも関心を示すようになってきた子どもたちです。
私は、子どもたちの話しをしばらく聞いた後で、こんなふうに問いかけてみました。「ねえ、みんな! みんなは1人ひとり名前も違うし顔も違うでしょ。でもね、本当はみんな神さまを信じる人は、みんな兄弟ですよって、聖書に書いてあるの」。
子どもたちはびっくりしたように、「へぇー」と顔を見合わせて言いました。するとその中の1人が、「ああ、そうか。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、だものね。イエスさまが一番上で、僕たちは下につながっているんだよね。だから兄弟なんでしょ。」と。大発見でもしたように、嬉しそうに言いました。
私は驚きました。この聖句はヨハネによる福音書15章5節で、一年前に、一房のぶどうをみんなで分け合いながら覚えたのです。この聖句が子どもの心の中に生きていて、このような会話の中に適切に、言葉になって出て来たのです。
幼い子どもの心は素直に何でも受け入れていきます。大人が意識的に、または無意識に与えるものすべてを。この大人にはない素直さは素晴らしいことで、ある時には羨ましさを覚えることもあります。しかしそのことは実に怖いことであることも思わずにはいられません。
子どもたちは私たち大人の言葉に耳を傾け行うことをよく見ています。また、時には心の動きを敏感に感じとることもあります。まさにアンテナです。そのことを思う時、神さまの前にあっては私たち大人も罪深い者であり、間違いを犯す者であることをも伝えなければなりませんが、それと共に、本当によいものをたくさん子どもたちに与えて行かなくてはならないと思うのです。
物質的な面でも精神的な面においても、豊かに多くの物がある中で、子どもにとって本当に必要な大切なものを、私たち大人は正しく選んで与えて行かなければならないと思うのです。大人は、子ども以上に、多くのことを敏感に感じ取ることの出来るアンテナでなくてはいけないかもしれません。

私は、この文章を読み、「幼子のようにならなければ、神の国に入ることは出来ません」と言われた主の言葉を思い出しました。大人である私たちに向かって言われた主イエスさまの言葉です。
今日は成長感謝礼拝ですが、聖書は私たち人間のことを「神の子」と表現します。神さまは大人になった私たちに対しても同じように、抱き上げ、手を置き、祈り、そして祝福してくださっています。そのことを経験するのが、日曜日の礼拝です。この礼拝の中で、私たちに対する、この神さまの愛を確認させていただきたいと願います。
お祈りいたします。

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主日共同の礼拝説教

高座教会の歩みを祈り求める

2017年11月5日
松本雅弘牧師
ペトロの手紙Ⅰ 4章7節―11節

Ⅰ.ぶどうの木につながる

ある人が、私たちクリスチャンは、信仰のことについて大きな2つの誤解を持つことがあると語っていました。
1つは「洗礼がゴール」という考え方。そしてもう1つは「『信仰生活の基本』を落ち度なく行うこと自体が信仰生活の目的である」という考え方です。
主イエスは、弟子たちにぶどうの木と枝のたとえを話され、主に繋がり続けることの大切さを説いておられます。ぶどうの木に繋がっていない枝は命の源から切り離されているわけですから、当然、実を結ぶことは出来ません。いや、それ以前に枯れてしまうわけです。
洗礼はゴールではなくキリストに繋がる出発点です。ですから、スタートを切ったとしても、ぶどうの木であるイエスさまから離れてしまっては、いのちや力から切り離されているわけですから、聖霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結ぶことは困難です。
私たちは、誰一人として聖霊の実の逆を行く、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争いなどの実を結びたいと思わないでしょう。怒りに燃え、敵意を抱き、人を羨み、どう処理して良いか分からないような嫉妬心を抱いて生きるのではなく、そうした思いから解放され、様々な難しい出来事に囲まれていても、希望を失わずに忍耐強く神を見上げ、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣けるような人になりたいと願っているのではないかと思うのです。
そうしたクリスチャン人生に導く信仰の秘訣について、主イエスは「ぶどうの木であるわたしに繋がりなさい。決して離れてはならない。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないから」と説かれたのです。
それでは、どのようにしてキリストに繋がり続けたらよいのでしょうか。一言で言えば、イエスさまとの関係の中に生きる、イエスさまとの関係の中に留まるということです。
高座教会では、このことのために〈「信仰生活の5つの基本」を通して、キリストに繋がり続けましょう。キリストとの関係の中に留まりましょう〉とお勧めしているのです。

Ⅱ.最後に問われる「キリストとの関係」

主イエスは「山上の説教」の終わりの部分で、次のように語られました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。……そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7:21-23)
「天の国に入る者は誰なのか」について語ってこられたイエスさまが、ここで、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と語られました。
「主よ、主よ」とは、祈りを通してイエスさまに呼びかけている言葉です。イエスさまによれば、そのように「『主よ、主よ』と言う者が全員、天の国に入るわけではない」というのです。
では、誰が天の国に入るのでしょうか。イエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)と教えているのです。これは私たちにとっては切実な問題です。天の国に入れるかどうかがかかっているわけですから。
このイエスさまの教えを読む時に、私たちは「天の父の御心を行う」という言葉に注目をして、ここで、イエスさまが教えておられることは、「神の御心に従うことへの招き」と読む場合が多いように思います。
しかし、この箇所を理解する上での大切なポイントは、23節にある「あなたたちのことは全然知らない」という主イエスの言葉です。
この言葉は、イエスさまと私たちとの関係を表わします。つまり、「あなたたちのことを全然知らない」とは、「イエスと全く関係がない」ということを語っている言葉です。
そのような時、皆、このように言う、と主はおっしゃいます。「いや主よ、私たちは、あなたのお名前によって預言したではありませんか」。また、ある人は、「御名によって悪霊を追い出したではありませんか」と主張するというのです。
しかし、そうしたキリスト教的な、信仰的な行いの背後にある事柄にイエスさまは注目なさるのです。つまりご自分と私たちの関係です。ぶどうの木であるキリストに繋がっているかいないか、ということです。
周囲の人から見て「何と立派な奉仕、何と力ある業でしょう」と、評価される働きをした人々に対して、場合によっては、主は「あなたたちのことは全然知らない」と言われることがあり得る、というのです。
この点について、『エクササイズ』の著者のスミス先生は次のようなことを語っています。
私たちが、人との関係を深めていくために、プレゼントを贈ったり手紙を書いたり、そうした「何かすること」で相手の好意を得ようとすることがある。確かに、その人に対する愛の表現として「何かをした」ならば、それは大いに意味あることでしょう。
しかし、「関係を深める」という視点で考えた場合、一番大事なことは、その人と一緒に時間を過ごすことです。話に耳を傾け、その人と直接心通わせることで2人の関係はより親密になるのです。
ぶどうの木であるキリストに繋がり続けることは、キリストとの関係が深まり、キリストともっと親密になる。そうした方向で信仰生活を生きていく、ということだ、というのです。そのためには、キリストとの時間を大事にしていくことが何よりも必要なことです。
洗礼を受けて何年も経って、主イエスとの時間を取ることなく過ごし、しかし、一方では教会の中で様々な働きに熟知し、場合によっては聖書の勧めもできる。そのようなこともあるかもしれない。でもその人の霊的実態はどうでしょうか。イエスさまが気にかけておられることは、「何をしたか(doing)」ではなく、「主との関係でどうあるか(being)」なのです。

Ⅲ.タラントンのたとえ

こうしたことを踏まえて、来年のテーマ「クリスチャン・スチュワードシップに生きる~主に結ばれて生きる」について考えてみる時に、神さまから授かっている恵みと賜物を、イエスさまの御心に従って管理し、用いることによって、どれだけイエスさまとの生きた関係を深められるか、ということになるでしょう。
与えられた主題聖句は次のとおりです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」(Ⅰペトロ4:10)
ペトロは、第1に「あなたがたはもれなく、それぞれに賜物を授かっている」と断言します。「いや、授かっていない」と思う人がいたとするならば、その人は主の御前に静まって、いただいている恵みや賜物を捜して御覧なさいと導くのです。私たちの責任は、神さまが「すでに与えた」と言われる贈り物を、主との関係の中で、まず受け取り直すことです。
「主よ、あなたは与えた、とおっしゃるのですが、与えて下さっている賜物って何ですか?」、「確かに、最近、難しい問題に直面しますが、これがあなたからの恵みなのでしょうか? 主よ、教えてください。私の生活の中にすでに働いておられる、主の御手の業に目を留めることができるように、主よ、どうぞ導いてください」と、祈るところから始まるのかもしれません。
第2にペトロは、「神さまのさまざまな恵みの善い管理者となりなさい」と勧めています。
私たちは、いただいた賜物の違いの方に心の目が向いて、周囲の人々を見回し、自分よりも才能に恵まれた人を羨ましく思ってしまうことがあるかもしれません。職場や学校、場合によっては教会の中にもいるかもしれません。
しかし、クリスチャン・スチュワードシップに生きることで、主の御心が前進し、イエスさまとの関係が深められていくことが、私たちのゴールですから、人の賜物を見て羨む心が、私のなかに起こったならば、そのことを祈りの課題にしながら、さらにイエスさまに近づき、語り合う時間を持って行くのです。
それぞれにふさわしく、また1人ひとりの「伸びしろ」を十分にご存じの神さまが、私の力に応じた賜物を預けてくださっているのです。神さまによって多くを任されたということは、それだけ責任も重大です。祈りによってイエスさまとの時間を豊かにいただき、導きを求めて行かなければなりません。
さらに、ペトロは第3のこととして「賜物を生かして互いに仕え合う」生き方を勧めます。

Ⅳ.クリスチャン・スチュワードシップに生きる

ことで主との関係を深める
神さまは、すでに賜物を授けてくださっています。そのことに私たちは気づかずに過ごしているかもしれません。まずは、「主よ、あなたが授けてくださっている賜物、恵みに気づかせてください」と、祈り求めましょう。
そして、そのことに気づかせていただいたならば、「主よ、このような恵みや賜物をどのように用いて、あなたと周りの人にお仕えしていったらよいでしょう。主よ、御心をお示しください」と、主に聴く静かな時をもちましょう。
このようにしてぶどうの木であるキリストに繋がり、主との関係を日々、より深く親しいものとしていけたらと願います。お祈りいたします。