カテゴリー
主日共同の礼拝説教

ひとつの出会いー主にある交わりに生きる

2017年12月31日
和田一郎伝道師
エレミヤ書29章10~14節
コロサイの信徒への手紙3章16節

Ⅰ.主にある交わり

キリスト教会にとって、2017年は宗教改革500周年の年でした。1517年にルターが宗教改革の大きな一歩を踏み出しましたが、わたしたちの高座教会もこのルターからはじまった宗教改革の流れの中で生まれたプロテスタント教会です。宗教改革を源流とする教会はこの500年で世界中に広がり、70年前にこの地域を拠点として宣教のために生み出されたのが高座教会です。その節目の年に今年の高座教会は、信仰生活の5つの基本の中の「主にある交わりに生きる」ことを大切にしました。主にある交わりというのは、先ほどお読みしたコロサイの信徒への手紙の聖句にあるように、聖書の言葉に生きる者同士が、教え諭し合いながら、お互いに成長していく信仰生活のことです。
高座教会は、本当に祝福された教会だと思います。しかし、いまだに日本の社会の中では、クリスチャンは少数派です。神という存在を受け入れずに、人間の知恵を重んじる文化の中で、わたしたちは宣教の使命を担っています。そのような世の中で光を放つには、実は「主にある交わり」という、教会が豊かな共同体として輝きを持っていることが、光を放つ力となるのではないでしょうか。教会はキリストの体に譬えられますが、キリストの体なる教会が健康であり、力を発揮するには、一つの体として調和がなければなりません。「主にある交わりに生きる」という信仰生活が基盤となります。
今日お読みしました旧約聖書に出てくるエレミヤは、異教徒の町に住む信仰者に向けてメッセージを送った人です。旧約聖書の時代、ユダ王国はアッシリア、バビロンといった大きな国に翻弄されていました。エレミヤの時代に、ついにユダ王国は滅ぼされます。
「バビロンの王に屈服しなさい」というエレミヤの預言は、ユダ国の王様ゼデキヤにとっては、非国民のように思われたかも知れません。しかし、「主にある交わり」という信仰共同体として一致できずに、人間的な知恵に流されていたゼデキヤ王とイスラエルの民は、客観的に見てバビロンに屈服するしかありませんでした。
ユダ王国に住んでいた人々は、数回に分けてバビロンの国へ連れて行かれます。連れていかれたバビロンの町は他の神々を崇拝する異教徒の町です。真の神様を礼拝する神殿がない土地で信仰を保ち続けることが難しいと感じていたイスラエル人に、エレミヤは現実の世の中をしっかり見て、その土地で信仰生活を送るように手紙を書いたのが、今日の聖書箇所エレミヤ29章です。「将来と希望をもたらす神の計画」という希望に満ちた預言です。

Ⅱ.今住む土地で信仰生活を守ることは神のご計画

バビロンへ連れて行かれたイスラエル人は、偽預言者たちの影響を受けて、この捕囚から早く解かれて、エルサレムに帰れると言う淡い夢を抱いていました。それ故に、バビロンに馴染もうとはせず、定まった仕事も住居も求めずに、腰掛けのような気持ちで生活していました。偽りの預言者たちは、エルサレムが不滅であるかのような預言しました。その根拠は100年前のイザヤの時代に、奇跡的にエルサレムが守られたという事があったからです。ですから昔の勝利、過去の成功がもう一度ある。現在も大丈夫だというものです。しかし、ユダ王国の事実上の支配はバビロンの王によって管理されている政権でした。ですからバビロンに従うより他に道はなかったのです。
具体的にエレミヤが言ったことは、4-7節にあるとおり、バビロンの地で仕事も家庭も根を下ろして、信仰生活を守りなさいというものです。家を建てること、木を植えてその実を食べること、結婚して子どもを育てること、子どもには嫁をとり、家族を増やしなさいというものです。その土地で信仰生活を守り、家族を増やして繁栄することを考えなさい、と言うのです。さらに、それよりもっと踏み込んで、バビロンの国の繁栄を求めなさいと言います。つまり、あなた方自身が捕囚の地で繁栄するだけではなく、あなた方の存在によって、その地域が繁栄するように祈りなさい、というものです。
私たち、クリスチャンも地上の生涯というものは仮の住まいであり、本当の国籍は天国にあると信じています。ですから、この世の自己中心的な価値観に振り回されるべきではありません。しかし、それは世の中に対して否定的、消極的な態度をとることを勧めているのではありません。町内会や同窓会、政治のことに積極的になることも大事なことです。私たちと同様に世の中には罪があります。ブラックな企業やブラックな指導者、責任者もいるわけです。彼らが神に祈ることはないかも知れません。しかし、私たちは彼らの為に祈ることができます。私たちの存在を通して祝福されることを信じ、祈ることができます。
7節でエレミヤは言います「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」

Ⅲ.神の計画に目をとめる

私たちの住む社会に平安があり、周囲に住む人々にも平安があってこそ、わたしたちは平安です。ですから、バビロンの地での信仰生活は、暗い日々であってはならない。
12節、その生活で神に「呼び求める」「祈る」「心を尽くして・・求める」。これを守らなければならない。そうすればどこにいて、どんな悪い状況にあっても「神に出会う」ことができるのです。ダニエル書では、バビロンで毎日熱心に祈って信仰生活を送る、ダニエルとその友人たちの事が記されています。
これらの預言の根底にあるのは、神様の壮大で素晴らしい計画がありました。
11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
この聖句の最初に「わたしは」とありますが、11節から14節までの希望の預言には、「わたしは」という言葉が繰り返されます。これは強調表現になっていて、わたしの計画は、偽の預言者や、人間の知恵によるものではなく、神が主体的にご計画をお持ちなのだと強調しているのです。それは「平和」を与える計画です。

Ⅳ.計画の成就のために祈る信仰生活

神の素晴らしい計画が成されるために、私達がすべきことは、わたしたち高座教会の信仰生活の基本と重なっており、今年は「主にある交わりに生きる」ことをテーマにしてきました。神を中心とした兄弟姉妹との繋がりです。ダニエルもバビロンの地で、三人の仲間とバビロンの国の為に仕えながら、信仰生活を守ったことが記されています。
主にある交わりに生きる信仰生活。神を求めて祈る、教会の交わりに生き続けることが、やがて「わたしに出会うであろう」と、主は言ってくださいます。
70年前に、高座教会がこの地に置かれたのは偶然ではなく、神様の計画の一部です。
偶然ではなく、お一人お一人がこの教会に呼び集められました。それは平和の計画であって、将来と希望を与えるものであると主は言われます。そのことを信頼して、主にある交わりを強くして、この地域に光を放つ存在となっていきましょう。
この一年を振り返って、多くの兄弟姉妹との繋がりから与えられた、恵みと励ましを携えて、神様の素晴らしい希望と平和の計画に期待して、新しい年を迎えたいと思います。
お祈りをします。

カテゴリー
クリスマス礼拝 主日共同の礼拝説教

まことの命をもたらすために

2017年12月24日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
イザヤ書62章6~12節
ルカによる福音書2章1~20節

Ⅰ.あらすじ

今日の朗読箇所は2つに分けて読むことが出来ます。この福音書を書いたルカは、前半で、元々はナザレに居住していた妊婦マリアが、何故ベツレヘムで出産することになったのかの理由を説明しています。住民登録がその理由でした。第2の場面では、御子誕生の知らせがどのようにして伝えられ外の世界に拡がっていったのかが出て来ます。羊飼いたちがその知らせの担い手となりました。

Ⅱ.羊飼いのクリスマス

羊飼いは、初めから人口調査の対象外でした。ところが福音書を書いたルカは、神が御子の誕生の喜びを最初に伝えたいと思ったのは他でもない彼ら羊飼いたちだったと伝えるのです。それは、彼ら羊飼いこそが、誰よりもイエスさまを必要とする人たちだったからです。
数にも数えられない人、「お前なんか、居ても居なくてもいい」と人々から見られ、それ故、深く傷つく経験を何度もしてきた羊飼いたちに、神は、御子誕生の出来事を最初に知らせてくださいました。羊飼いたちこそクリスマスの良き知らせを誰よりも必要としているとお思いになられたからです。
イエスさまは、羊飼いたちが近づき易い家畜小屋に誕生されました。
知らせを受けた羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。ルカはイエスさまの誕生に飼い葉桶が使われた理由として、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と伝えています。「場所がなかった」とは「迎え入れてくれなかった」ということです。飼い葉桶のある家畜小屋、それは羊飼いたちにとって馴染みの臭いのする、ホッとできるところだったでしょう。
「近寄りがたい」という言い方があります。それは、相手がそうしたオーラを出しているということもあるでしょう。しかし、近寄る私たちの側に「引け目」や「恐れ」の思いがある時、なかなか近寄ることが出来ないものです。この時の羊飼いもそうでした。住民登録の対象外とされていた人たちでした。もし人々に近寄ったら「お前たち、臭いな! あっちへ行け!」と言って追い返されるような存在でした。
しかしこの時、ベツレヘムの羊飼いたちが育てていた羊は、神殿で奉納物として捧げられる羊でしたから、羊飼いたちは、自分たちを排斥している人々のために汗を流し、野宿をして羊を育てていました。本来ならば感謝されてもおかしくないはずなのに、嫌がられ排斥されていたのです。
御子イエス・キリストは、そうした「引け目」や「恐れ」の中にいる羊飼いたち、そして私たち誰もが、恐れることなく近寄ることができるように、赤ん坊として生まれてきてくださったのです。しかも、羊飼いがやって来た時に、恐れを感じなくてよいように、「田舎の香水」「野原の香水」をたっぷり浴びるようにして、家畜小屋の飼い葉桶に誕生されたのです。何と優しい神さまなのでしょう!
人は優しくされ、大事にされていることを実感する時、初めて自分と向き合う力が与えられ、自分を大事にすることが出来るのです。みどり幼稚園でよくお話しすることですが、子どもたち一人ひとり、人生の土台を据える大切な時期に、自分は神さまから愛されている存在なんだ、お友達も、みんな神さまから大事にされている一人ひとりなんだ、と知ること。そのことを、教師との触れ合いの中で、日々の保育を通して実感して欲しいと願っているのです。そうすれば決して自分を粗末にしませんし、お友達を大切にする人になります。そして、自分を心から愛してくださる神さまを愛する子どもとして成長していくのです。
そのことを今日の御言葉からも教えられます。神様は弱さや引け目を覚えるような私たちが恐れを感じないで近づくことができるように小さな赤ちゃんとして生まれ、その愛を示してくださいました。
繰り返しますが、本当に不思議です。私たちは愛されていることを知ると、人に優しくなれます。逆に冷たくされると相手を恨み、叩かれたら叩き返したくなる。殴られたら〈いつか見ていろよ!〉と復讐心に燃え、そこから悪の連鎖が始まり、闇は深まるのです。民族や国家のレベルでも同じです。

Ⅲ.闇の中に飛び込んで来られたイエス・キリスト

今年ほど、戦争を身近に感じた年はありませんでした。隣国の北朝鮮の動き、また、トランプ大統領の言動にはいつもハラハラさせられます。そして「平和憲法」と呼ばれ、私たちにとって本当に大切で、誇りでもある日本国憲法の改正の声が大きくなってきています。
今年、中会主催の平和講演会で学びましたが、自民党の憲法改正草案を見る時、国家権力を縛る目的で制定された「憲法」が、国民の権利を制限する内容になっているのです。本当に驚きを覚えます。本末転倒です。
新年度の防衛費も過去最高を記録しました。「抑止力」という言葉を耳にしますが、早い話、ピストルを突きつけて相手を脅し、動けなくしているに過ぎません。恐怖心、猜疑心、腹の探り合いです。
しかし聖書の神さまは、「剣を鋤とし、槍を鎌とし、洪水のように、正義を流せ」とお語りになります。隣国との軍拡競争の土俵から「一抜けた!」と降りてしまい、丸腰になって、相手の真実な心に忍耐強く訴えて行け、と語るのです。
まさに、そのようにして私たちの主イエスさまは、自ら剣や強さを身にまとう代わりに、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:11-12)とある通り、御子は布にくるまっていたのです。この布とは「おしめ」だと言われます。それが救い主メシアのしるしだ、と天使は羊飼いに告げたのです! このお姿の中に、平和の君なるイエスさまが示された、平和の道のモデルが表されているように思います。
「クリスマス」と言うと、何か牧歌的なイメージがあります。でも「現実は?」と言えば、イエスさまの時代も、まさに激動の時代だったと思います。冷静になって考えて見ればすぐ分かります。皇帝の勅令で、身重の女性も有無を言わせず長旅を強いられる時代です。旅先で生まれた嬰児が飼い葉桶に寝かされるような時代です。
また、時の為政者ヘロデの心に生じたちっぽけな「不安」のために幼児大虐殺が行われ、イエスさまの家族も「政治難民」としてエジプトに避難しなければならないような時代でした。そのような意味で闇の深い時代だったのです。その深い闇の只中に御子は誕生されました。
このことをヨハネは彼の福音書の冒頭で、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5新改訳)と書いています。

Ⅳ.まことの命をもたらすために

私たちの信じているお方は、「できないことなど、何一つないお方」です。イエスさまが十字架におかかりになる前日、ある家の2階座敷で、弟子たちの足を洗い、過ぎ越しの食卓を囲み、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「わたしにつながっていなさい。」「ぶどうの木から離れては、何も出来ないのだから」。そして「互いに愛し合うように」と一連のお話をなさいました。そしてその終わりに、イエスさまは次のように言われたのです。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33) イエスさまによる「勝利宣言」です。
私たちは、イエスさまの弟子として、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈り、そのように生活するようにと励まされている者たちです。確かに、この社会の現実、私たちの生活には、神さまの御心とは程遠い現実があります。様々な苦闘があり、苦戦を強いられます。でも、そうしたことを含め、全てをご存じのイエスさまが、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と勝利宣言をしてくださっているのです。
あの預言者イザヤが、預言者エレミヤが、そして預言者ミカが預言したとおりに、2千年前のクリスマスに、ベツレヘムに、ヨセフの家系に、マリアの胎を通し、神さまはイエスという名のメシアをお送り下さいました。聖書の預言、聖書の約束が実現したのです。
そして、これからも、主御自身が聖書に記されている1つひとつの約束を必ず実現してくださる。そのことが必ず起こっていくというのです。
2017年を後にして、私たちは新しい年に向かって行くのですが、神さまの御心が、少しでも私たちの周りに、家庭に、私たちのうちに実現する方向に選び取る生き方を求めて行きたいと願います。
来週が今年最後の主の日の礼拝、その翌日から新年です。新しい年、何が起こるか予測は不能です。でも最終的に歴史を支配されるのは、私たちの天のお父さんです。そのことを心に留め、安心して、新しい年を、そのお方の御手から恵みとして受け取らせていただきたいと願います。お祈りいたします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

イエス誕生の予告

第3アドベント
2017年12月17日
松本雅弘牧師
詩編89編2~5、20~27節
ルカによる福音書1章26~38節

Ⅰ.黄金のモスク=岩のドーム=モリヤの山

12月6日、トランプ大統領が、エルサレムをイスラエルの首都と認める宣言をし、波紋が広がっています。
国際条約において、エルサレムはどの国にも帰属せず国際管理の下に置かれることになっています。ですからアメリカが単独に宣言できませんし、それに呼応してイスラエル政府がその宣言を歓迎することも中東和平にとってはマイナスになる状況です。
そもそもエルサレムとはどういう場所なのか、エルサレムの中心にある1つの大きな岩の存在に注目したいと思います。
現在、そこには「黄金のモスク」が建てられています。その中は、岩がむき出しになっているため、別名「岩のドーム」とも呼ばれています。
実は、そこからモハメドが昇天したと言われている岩です。さらに、その岩は旧約聖書に出て来るイスラエルの神殿が建っていた場所でもあるのです。そして、さらに歴史を遡り、創世記を見ると、その岩はモリヤと呼ばれ、神がアブラハムに対して、独り子イサクを犠牲としてささげるようにと言われたその岩なのです。
そのように、そこはイスラム教徒、ユダヤ教徒、そして私たちキリスト教徒にとっても、間違いなく大切な場所です。とすれば、その岩のあるエルサレムを、一方的にイスラエルの首都と宣言する事自体、暴力的な発言に他ならないのではないでしょうか。
今日の御言葉、詩編89編4節から5節に、主がダビデ王に与えた約束、後に「ダビデ契約」と呼ばれる約束の言葉が出て来ます。「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った、あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々備える、と」。
この約束、メシア誕生の予告をいただいて以降、イスラエルでは、ダビデの家系に男子が生まれる度に、「もしかしたらこの子が、ダビデ契約で約束された油注がれたメシアかもしれない」という期待をもって、生まれてくる幼子を迎えたと言われます。
そして今から2千年前、イエスさまの誕生は、ダビデの家系に属するダビデの子、正にメシアとして、この約束に基づいて誕生なさった、と聖書は語るのです。

Ⅱ.戸惑いから

受け入れ委ねる心へと変える神の力
ところで、ユダヤ人たちがメシアを待望する、その心の思いは、イエスさまの到来とはかけ離れたものがありました。ですから主イエスをメシアと受け入れることに失敗したのです。
主イエスにおいて現された実際の神の国、神のご支配は、人間の知恵や理解からすれば、全く神の支配らしくなかったからです。
地上に来られた実際のメシアのお姿は、私たちの想像を超えて、いや期待を裏切るような仕方で来られました。何故、主はそんなにも神さまらしくない振る舞いをなさったのでしょうか。何故、誰もが考えるような神らしい姿でこの世に来ることをなさらなかったのだろうかと思います。
そのことを預言したのが有名なイザヤ書53章でした。預言者イザヤは真の救い主のことを「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」と語り、誰も信じない、誰の目からも隠されているメシア・救い主の姿を預言したのです。
まさにその予告通り、主イエスは赤ん坊として飼い葉桶に誕生されました。普通の人が考えるような逞しい成人男子として王宮に出現されたのではないのです。
東方の博士たちが王の王、主の主なるお方を求めてヘロデの宮殿に行ってしまったのは無理のない話です。それが普通です。
しかし、真の救い主は、正にイザヤの預言の通り、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(53:2)、しもべのしもべとしてのお姿で、貧しい姿でこの世に来られました。人間よりももっと深く、人間の弱さの中に、惨めさの中に、罪の恐ろしさの只中に立ってくださいました。
この世の人々は誰一人、真の救い主イエス・キリストの中に神のご支配を見出すことが出来なかったのです。ヨハネ福音書に「言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(1:11)とありますように、誰一人その方を受け入れませんでした。むしろ拒絶し、排斥したのです。その結果が飼い葉と十字架です。
マリアですらそうでした。彼女の想像を超えた神のご計画だったからです。考えたこともないような計画を知らされたマリアは当惑します。天使ガブリエルが、「おめでとう、恵まれた方」と言っても戸惑うばかりです。
その後、天使はかなり詳しくマリアに語るのですが、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と言って、彼女の戸惑いは変わりません。
しかし、そのマリアに対して神は決定的な御言葉を用意されていました。「神にできないことは何一つない」。これがマリアをハッとさせたのです。神とは一体どういうお方なのか。そのことに目を開かせる衝撃的な御言葉でした。マリアは降参し「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えていきます。

Ⅲ.「大きな暗闇を吹き払う小さな灯」として来られたダビデの子イエス

新聞によれば、トランプ大統領の発言の背後にアメリカ国内のキリスト教保守派の強い動きが推進力となっているとも言われます。
そうしたキリスト教保守派とは、一般に「シオニズム」と呼ばれる、ユダヤ民族国家をパレスチナに樹立することを目指した運動があり、クリスチャンの立場から、その運動に共鳴する人々だそうです。
ただそうした共鳴は、パレスチナは神から与えられた「約束の地」であるから、あそこにイスラエル国家を樹立することは神の御心であるといった、非常にナイーヴで短絡的な聖書理解から導き出された共鳴でしょう。
そうした彼らキリスト教保守派と全く同じ聖書を読んで全く正反対の立場をとる人もいます。例えばカーター元大統領です。彼はイスラエルの占領政策を正面きって批判したことで有名です。占領地で行っている入植地や分離壁の建設自体が「アパルトヘイト」だと厳しく非難しました。彼は、イスラエルがパレスチナの領土を占領しつづけ、植民地化していることこそが中東和平を妨げる最大の要因だ、と訴えたのです。
イエスさまの時代、主イエスを救い主と受け入れなかった中心的な人々は聖書をよく読んでいたファリサイ派、律法学者たちでした。ただ問題は、彼らのメシア像、そのメシアが実現する神の国像が現実のイエスさまの御姿と違っていました。メシアを待ち望む点については同じでした。しかし、実際にイエスさまがもたらそうとした現実の神の国とズレていたのです。
このように、専門家たちはことごとく真のメシア、主イエス・キリストを指さすことに失敗したのです。

Ⅳ.キリストに示された神の国に生きる者として

ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーもシオニズム運動に参加していました。しかしある時から、その運動から離れます。そのブーバーが次のように語っています。
「シオニズム運動は、国家的エゴイズムか国家的ヒューマニズムのどちらを選びとるのかを決めなければならない。前者を選び取るなら、その民族は、真に超越的な使命に位置づけられることなく、浅薄なナショナリズムに降りかかる運命を被ることになる。しかし、もしヘブル的ヒューマニズムを愛することを選び取るなら、人類に対して語りかけ、人類に貢献するものをもつ運命を授かるものとなりうる」。
この言葉は、聖書を読んで生きる私たちが傾聴しなければならないメッセージに聞こえて来ます。自分は熱心なクリスチャンで誰よりも聖書を読んでいるとトランプ大統領は豪語するのですが、そうであるならば、何故、彼からあのような発言が飛び出すのだろうか。ブーバーの警告の言葉にあるように、聖書の言葉を曲解し、「アメリカ・ファースト/イスラエル・ファースト」を裏付けるために利用するならば、それは聖書のメッセージではなく国家的なエゴイズム以外の何ものでもありません。
ネタニヤフ政権もそうでしょう。ブーバーのメッセージをもう一度、聴き直す時に来ているのではないかと思います。何故なら「人は、聖書を読むようにしか生きることができないし、生きるようにしか聖書を読むことが出来ない」からです。聖書と私たちの生き方はそのように関係しているはずです。
ダビデの子であるメシアは、大きな暗闇に小さな光としてやって来たのです。単にイスラエル国民だけ、アメリカ国民だけが享受できる括弧つきの「平和」ではなく、すべての人を照らす真の光として世に来られたのです。
ブーバーの言葉を使うならば、聖書が説く本当のヒューマニズムを愛し、生きる道を示すために、私たちの只中に来てくださったのです。
主イエスが宣べ伝えた神の国の福音に生きるとは、一見弱そうに見える歩みかもしれません。その灯があまりにも小さなものだったので、当時の人々は見失ってしまいました。
しかしその光こそ、戸惑うマリアに「神にできないことは何一つない!」と宣言なさるお方が、私たち人間、また被造世界、全ての造られたものの救いのために備えてくださった、闇を吹き払う光なのです。
この希望のために備えられた尊い光なる主イエスの輝きを身に受けて、闇が勝利しているかに見えるこの世界に、忍耐強く主イエスの光を反映させ、証しし続けて行きたいと願います。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

洗礼者ヨハネの証し

2017年12月10日
松本雅弘牧師
イザヤ書61章1~4節,8~11節
ヨハネによる福音書1章6~8節、19~28節

Ⅰ.ヨハネ福音書の降誕の出来事

ヨハネによる福音書は、4つある福音書の中で最後に書かれたものであると言われます。
当時、ユダヤ教の人々は、イエスをキリストと告白する者がいれば、その人を会堂から追放することを決めていました。クリスチャンたちにとって厳しい状況の中で、この福音書は書かれたものでした。
そのように考えて今日の箇所を読んでいくと、イエスこそ救い主であり神の独り子であること、そして、神による恵みと真理が、イエスによって現されたことなどが強調されていることに改めて気づかされるのです。

Ⅱ.証言者としてのヨハネ

福音書記者ヨハネは、「光」なる「言」のことを証言する人物として洗礼者ヨハネを示します。洗礼者ヨハネは、イエスこそがメシアであり、自分はそうではないことを主張しました。
ヨハネは、イエスさまについて「語る」ために神から遣わされたのです。ギリシャ語で「語る」という言葉は「見たことを証言する」という意味があります。つまりヨハネとは証言者でした。

Ⅲ.土台のある人ヨハネ

ある時イエスさまは、ヨハネを指して「女の産んだ者の中で、最大の人物」と称賛しました。そのヨハネが殉教の死を遂げるのです。理不尽極まりない仕方でヨハネは殺されていきます。
時の権力者、ユダヤの王ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアを奪い取って結婚したのです。それに対して、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」(マルコ6:18)。
このようにヨハネはヘロデの罪を糾弾し、その結果として逮捕され投獄されました。
しばらくしたある日、ヘロデの誕生日に、ヘロディアの娘が客の前で踊りを披露したのです。喜んだヘロデは、その娘に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、娘はその母ヘロディアと相談し「洗礼者ヨハネの首を」と願い、この結果、ヨハネの首がはねられることになったのです。
福音書には後日談が記されています。ヘロデがヨハネを殺した後にイエスさまの活躍の様子が、そのヘロデの耳にも入ってきます。するとヘロデはイエスさまのことを「自分が殺したヨハネの生まれ変わりだ」と思い不安にさせられたというのです。
ヨハネは、その働きを進める中で、自分の死をある程度予測できたのではないかと思います。
ところが、福音書に出て来るヨハネには、恐怖におびえたり、後悔しているような形跡が全くないのです。与えられた道を当然のように信じ、まっすぐに歩いて行く、小気味良い生き方に見えます。ヨハネの生涯を顧みる時、彼を取り巻く状況は大変厳しいにもかかわらず、常に心穏やかです。彼は自分自身に満足し、確信に満ちていました。
何故なら、ヨハネは真に恐るべきお方である神を恐れていたので、他の一切の恐れから解放されていたからです。ですから、時の権力者に向かって、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とはっきり言うことができました。彼は輝いていました。たとえヘロデによって殺害されたとしても、ヨハネの魂、彼のスピリットは決して滅びることがなかったのです。聖書はそのことを証ししているのです。
殺す側のヘロデについても触れておきたいと思います。記録によれば、ヘロデは豪華な宮廷に住み贅沢の限りを尽くしていました。軍隊に守られ、律法を破ってでも欲しいと思うものを手に入れようとしました。そのようにして自分のものにしたのが、妃ヘロディアでした。
ところが、彼の内面は何と平安のなかったことか! 何とビクビクし怯えていたことか、と思います。先ほども触れましたが、「イエスの名が知れ渡ったので」、「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」(マタイ14:2)と、自分が首をはねたヨハネからの報復の恐怖に憑りつかれておののき、良心の呵責に悩まされています。
殺される側のヨハネが生き生きと輝き、喜びに満ちていたのに対し、殺す側のヘロデは恐怖におののいていた。主客転倒が起こっていました。権力、地位、財産、そうした支配の力は表面的には強く見えても、実質は無に等しい。しかも、死と隣り合わせです。
これに対して優しさ、愛、良心、信じること、そして望みを抱くことは、表面的には弱く見えても、実はどのような権力も刀打ちできない強さがそこにはあるのです。
まさに福音書記者ヨハネが「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(ヨハネⅠ 4:18)と、その手紙に記した通りです。
洗礼者ヨハネとヘロデの姿は、この違いを好対照なものとして示しているように思います。洗礼者ヨハネの生き方を一言で表現すれば「人と自分を比べて生きる生き方から自由であった」ということです。
私たち人間が的外れな生き方をしている場合、そうした人間の生活の中には、必ず自己中心と虚栄心として現れてくると、聖書は教えています。自己中心とは「自分が、自分が」という思いです。虚栄心とは等身大の自分を受け入れることが出来ないために背伸びをして生きる心です。
何故そうなるのでしょうか。それは、神さまにしか満たすことの出来ない心の隙間を、神さまの愛以外の何かをもって満たそうとするから。そして、心の深いところで「自分はダメな人間だ」との思いが支配し、自分を受け入れていないため、少しでもよく見せるようにと虚勢をはるのです。
本来、神さまに造られ愛されているはずの私たちが、造り主なる神さまから離れて生きようとする時、必ず自己中心となり、虚勢を張って生きるしかなくなると、聖書は教えています。洗礼者ヨハネは、そうした生き方から本当に自由でした。解放されていました。
自分に満足できない人は、人に対しても決して満足できません。これがヘロデの問題であり、私たちの問題でもあるのです。これに対して、神さまの恵み、神さまの愛が十分に実感されていく時、そのままの自分自身に満足できるのです。あるがまま、そのままの姿で受け入れられ、受け止められるので背伸びをする必要がありません。人と比べることから解放され、自由です。「私は私で良かった!」と心の深いところに満足を覚えることができるのです。
洗礼者ヨハネと、王ヘロデの生き方、その違いは、人生の拠り所の違いと言えるでしょう。それは神さまを土台として生きていたかどうかの違いなのです。

Ⅳ.「現代のヨハネ」として召されている私たち

福音書は、洗礼者ヨハネは「光について証しをするために来た」証人だと伝えます。
光なるイエスさまについて証しをする時には、光そのものと向き合う必要があります。月が太陽の光を身に受けて輝くように、光なる主イエスさまの素晴らしさを反映し、私たち自身が光輝くのです。それによって、洗礼者ヨハネのように証し人として輝かせていただくのです。
五味太郎さんが『クリスマスにはおくりもの』と
いう絵本をかいています。こんな話です。クリスマス・イヴに靴下を下げておいた女の子のところに、サンタさんがやってきます。靴下にプレゼントを入れようとすると、中に何か入っています。それは、サンタさんへの贈り物でした。サンタさんはそれを取り出し、大事に抱えて急いで帰って、自分のベッドの靴下に、そのプレゼントを入れて朝まで待つのです。
クリスマスの朝、包みを開けてみると素敵な靴下でした。真新しい靴下をはいて、サンタさんは喜んで教会へ出かけます。サンタさんからピカピカの靴を貰った女の子も、その靴をはいて一緒に教会で賛美歌を歌います。来年は手袋を上げようと、心に決めながら。
女の子はプレゼントを貰うだけではなく、プレゼントをくれるサンタさんに贈り物をしています。喜びを分け合っているのです。この絵本、このお話しには、クリスマスの心がよく現されていると思います。
そして、この絵本のサンタクロースは教会へ行ってクリスマスの礼拝をしているのです。クリスマスはサンタさんの日ではなくイエスさまの日だからです。私たちは、「教会に行かないサンタさん」をよく見かけますが、クリスマスの主イエスさまを知らないサンタさんでは困ってしまいます。
人々に洗礼を授け、悔い改めを勧めていた洗礼者ヨハネも困ったようです。人々はヨハネが救い主ではないかと言い出したからです。
ヨハネは、「そうではないのです。自分は救い主について証しをするために来たのです」と訴えるのです。周囲の人々は、あまりにも身勝手にさまざまなことを言いました。それは、それだけヨハネが、イエスさまによって光輝いていたからだと思うのです。
それに対して15節を見ると、「声を張り上げて」イエスさまについて証しするヨハネの姿が紹介されています。
キリストは、「まことの光」として、「すべての人を照らす」お方としておいで下さいました。他の誰でもなく、ただ、イエスさまを見つめることが大切なのだと、ヨハネは訴えているのです。
光の中で初めて、私たちは自分の本当の姿を確認することができ、そして、光なるお方と向き合って生きる時に、その光を反射させる者としていただけるのです。そして、主の証人となるのです。
キリストは、罪深い私たちをも、光の証し人として生きることが出来るようにと招いておられるのです。お祈りします。

カテゴリー
アドベント 主日共同の礼拝説教

主の道を備えるために

2017年12月3日
第1アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書40章1-11節
マルコによる福音書1章1-8節

Ⅰ.主の再臨を待ち望むために

今年も待降節がやって来ました。「待降節」は「降臨を待ち望む季節」と書きますが、2千年前にキリストはすでに降臨されました。
私たちにとって待降節は、キリストの降臨であるクリスマスの恵みを思い巡らすと共に、天に戻られたキリストが再びやってくる「再降臨」、「再臨」を待ち望む季節でもあります。

Ⅱ.あらすじ

この福音書を書いたマルコは、さまざまな前置きの文章に時間を費やすことをせずに、イエス・キリストの到来、この方の存在こそが、福音「良き音信そのもの」なのだと、大胆に宣言するのです。そして、ユダヤの荒れ野に現れ「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えるヨハネという男が、メシアの先駆けとして神さまによって遣わされた者であることを明らかにしていきます。
ヨハネは、自分の後に本当に「優れた方」が来られると伝えます。自分は、当時奴隷の仕事であった、その方の履物のひもを解くこともさせていただけないほどに優れたお方なのだとヨハネは語ります。そして、自分がしていることは、そのお方のための道を備えることなのだというのです。
福音書記者のマルコは、そのヨハネが行ったこと、その道備えこそ、他でもない、主イエスに洗礼を授けることであったのだと語っていくのです。

Ⅲ.「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」という御声を祈り求める

今日、高座教会でも洗礼式が行われます。洗礼者ヨハネが、イエスさまの道備えの最初の務めとして、イエスさまに洗礼を授けたように、今日、ここで洗礼を受ける方々も、新しい歩みをスタートするわけです。
洗礼を受けるとは、どのような意味のある出来事なのでしょう。今日の箇所を見ますと、洗礼を受けたイエスさまの上に聖霊が鳩のように降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声があったと伝えます。
洗礼を受けるということは、イエスさまの命である聖霊をいただくことの目に見える印です。そして同時に、私たちの心の深いところで、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声をしっかりと聞きとることでもあるのです。
しかし現実には、洗礼を受けた後も、神さまに愛されている実感が乏しいということがあるのではないでしょうか。それは私たちの中にある、子どもの頃から刷り込まれた「偽りの物語」が原因しているからです。ひと言で言えば、それは「成果主義」です。「人の価値は、その人が成し遂げたこと、獲得したことによって決まる」という考え方です。
これが信仰に当てはめられる時、神さまに愛されるには、愛されるに値する理由を、私の側にたくさん積み上げる必要があるという考え方に導かれていくのです。
この同じ出来事を記したルカによる福音書によれば、イエスさまが「洗礼を受けて祈っておられると」、その祈りに応えるように、父なる神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御声をかけられたとあります。
神さまに愛されていると実感できる恵みは、この時、イエスさまがそうなさったように「祈り求めるべき恵み」であるということです。これは本当に大事なことだと思います。
自分の今までの歩みを振り返る時に、私は、本当にマイナスの言葉を浴びるようにして大人になって来た人間だとつくづく思うことがあります。我が子に対しても、そのようにしてしまっている自分を情けなく思うことがよくあります。自分の中のマイナスの面、弱いところと上手く向き合うことができないのです。自分の弱さと直面させられる時、その弱さを隠そうとし、あるいは「いちじくの葉っぱ」を張るようにして、良く見せようと頑張ってしまう自分があります。
しかし、そのような者ではあっても「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「わたしにとって、あなたは大切な人です」という言葉に触れる時だけは、「私は私」という思いに整えていただけるのです。
あるクリスチャンは、こう語っていました。「私たちは愛されている者です。両親や教師、結婚相手や子どもや友人が、私たちを愛したり、傷つけたりするはるか以前から、私たちは深く愛されています。これが私たちの人生の真理です。その真理を、あなたも受け取っていただきたい。それは『あなたはわたしの愛する子』という言い方で語りかけてくれる真理です。しっかりと心の耳を澄ませてその声に聴き入ると、私の存在の中心から、こう語りかける声が聞こえてきます。『私は、はるか以前からあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの、私はあなたのもの。あなたは私の愛する者、私はあなたを喜ぶ。私はあなたを地の深いところで仕組み、母の胎の内で組み立てた。私は手のひらであなたを形造り、私の懐に抱いた。私はあなたを限りない優しさで見つめ、母がその子を慈しむ以上に親しくあなたを慈しむ。私はあなたの頭の毛をすべて数え、あなたの歩みを導く。あなたがどこに行こうと、私はあなたと共に歩み、あなたがどこで休息しようと、あなたを見守り続ける。・・』」と。
一日が終わって、床に就く時、その日一日を振り返って後悔することがあります。〈何故、あんなこと言ってしまったのだろう。あのような事をしなければよかったな〉。〈あの時、ああ言えばよかった。〉
結構、幾つも幾つも心に浮かぶことがあります。時には、取り返しがつかなくなるような失敗をしでかすこともあります。そういう時に、主の御前に静まり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、主のこの語りかけに耳を澄ますのです。すると不思議な力や慰めをいただくことができるのです。どんな失敗をしたとしても、神の子としての私の価値に傷がつくことなどない、ということを深く知らされるからです。
洗礼を受けるということは、そのことをはっきりと自分のこととして聞くことであり、神さまを信じて歩み始めるということは、常にそのように語りかけてくださるお方の前に立ち返っていくことなのです。

Ⅳ.ぶどうの木であるキリストにつながり続ける

イエスさまは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語られました。洗礼を受けた後、心から喜びに満ちた信仰生活を送ることを願うならば、ぶどうの木であるキリストにつながることが必要です。そして、その恵みの結果として、妻が夫を愛し、子が親を敬うという、具体的な信仰生活が展開してくるのだと聖書は説いています。
また洗礼を受けるということは、聖霊が私たちの心に宿られることを表わしています。この「宿る」とは単に「お客さんとして滞在する」のではありません。「住みつづけ、生活を共にする」ということです。
私たちには幾つもの「生活の場」があります。そして、それぞれの場に合った私の顔があるかもしれません。家での顔、職場での顔、学校での顔、友だちといる時の顔、教会での顔、と色々な顔を持つ私がいるでしょう。
場合によっては〈この顔は見せたくない〉と思うような顔をして生きる場所もあるかもしれません。〈イエスさま、ちょっと向こうをむいていてください〉と言って、私の方からぶどうの木との繋がりを断つことはないでしょうか。
信仰生活とはこの逆なのです。ぶどうの木に繋がったり離れたりしていては、実を結ぶ暇もないことになります。
聖霊は私たちの内側に宿られるお方ですから、御言葉を通して心の扉を開くようにと語りかけ続けてくださいます。私たちの生活の全ての領域で、聖霊なる神さまは共に生きることを願っておられます。そのようにして、私たちは聖霊に満たされていくのです。
聖霊に心の王座を明け渡していく時、必ず起こることがあります。それは、聖霊が聖書の言葉を用いて、口を挟んでこられるということです。聖霊と共に生きる時、御言葉と祈りを通して、私たちの生活の隅々に具体的に介入してくださるのです。
その結果として、多少、やっかいなことが起こるかもしれません。〈妻に謝りなさい〉、〈夫を尊敬しなさい〉、〈この働きを始めなさい〉、〈こういう時間の使い方をしなさい〉等、具体的な導きをお与えになるからです。
それは時に、私の願うことではないかもしれません。しかし、聖霊は私たちを愛しておられるキリストの霊です。私たちの最善を願っておられるお方です。
イエスさまが共におられる時、平安が私の心を包み込むように、御言葉を通しての語りかけに従って歩んでいく時に、聖霊は、私の心に住み続けてくださる助け主なるお方であることを知るのです。
置かれている状況が厳しくても、どんな環境にあっても、聖霊が共におられるので、私は本当に心強いのです。「キリストにつながる」とは、そういうことです。聖霊なる神さまの助けによって主が私の道となってくださるように祈り求めていきたいと願います。お祈りします。