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主日共同の礼拝説教

神の子としてー礼拝に生きる

2018年1月28日
和田一郎伝道師
申命記6:4-15
マタイ4:1-11

Ⅰ.サタンという存在

イエス様は、ごく普通の男子として成長され、およそ30歳の時にナザレでの生活を離れて宣教の働きに出ます。宣教の働きに就く前に、二つの事をイエス様はなされました。それが洗礼者ヨハネから洗礼を受けること。そして今日の聖書箇所で荒れ野に行かれてサタンの誘惑を受けるという二つの事です。
神の子として来られたイエス様ですから、洗礼を受けることも、サタンの誘惑を受けることも、必要なのだろうか?と思わされます。洗礼者ヨハネは、当時のユダヤ人たちに、悔い改めの証しとして洗礼を授けていました。しかし、イエス様には罪はありませんでしたから、反対にイエス様からヨハネに洗礼を授ける方が、ごく自然なことだったでしょう。しかしイエス様が洗礼を受けることにこだわったのは、やがて私たち人間の罪を負う日が来ることを知っておられて、私たちと同じ立場に立つことを願われたのです。私たちと同じ「人」として、イスラエルの民に加わってくださるためでした。
そして、荒れ野に行かれて試練を受けました。「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」とありますから、これは神様の御心によって行かれたのです。神様はサタンによって、私たちに誘惑が起こることを許されます。そして、この時のイエス様に対する誘惑とは「お前が神の子なら・・・」という誘惑です。しかもこの直前で洗礼を受けた時に、「これは私の愛する子」と、父なる神の言葉を聞いた直後に「お前が神の子なら・・・」と言ったのです。あたかも、そうではないかのように、これから宣教の働きにでようとする時に、キリストの心の中に、迷いを湧き起こそうとするサタンの試みでした。
ところでサタンというものは、旧約にも新約聖書にも出てくる存在です。悪魔とか悪霊の頭などとも呼びます。サタンという言葉はへブル語ですが、「分離する」とか、「非難する」といった意味で使われます。創世記では蛇の姿をしたサタンが、アダムとエバを誘惑しました。その時も言葉巧みに、神様と人間との信頼関係に、疑問を湧き起こさせる働きをします。要するに神と人とを分離させようとする働きです。サタンは、まっこうから神を否定するようなことはしません。巧妙な知恵を使って、「あなたにはもっと価値のあるものがあるのではないか?」。「苦労しないで、もっと楽をしても神は怒らないだろう」と囁きます。イエス様に対しては、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、神の言葉もいいけれど、食べたいものを食べてもいいじゃないか?「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。・・・それでも、あなたは死なないだろうから、それを見た人々は驚いてついて来るだろう。こつこつと宣教活動などしなくてもいいじゃないか」。そして最後に、「もしこの私サタンにひれ伏して私を拝むなら、この繁栄した世界を支配できるようにしよう」と魅力的なものを見せます。サタンに礼拝することを条件にした、ちょっとした取引で得られます。「あなたはこの世を救って、すべてのものを治めるために来たのだから、十字架の苦しみなど経験しなくても、この取引に応じればいいじゃないか?」という誘惑です。
ところが、このサタンの誘惑はイエス様や聖書の中の人物だけに囁くのではありません。今この話しを聞いている、みなさんにも囁きます。「お前も神の子だろう?」。「もしお前が神の子ならば・・・大丈夫だ」。「礼拝も大事だが、仕事も大切だ」「礼拝もいいけれど、奉仕も教会の務めだから」という、一見もっともな、しっかりとした考えに聞こえる誘惑です。おそらく日本の中では9割以上の人が「礼拝よりも、もっと大事なものが・・・」。と言うでしょう。一歩社会にでれば誘惑に当たる、という環境に私たちはあります。

Ⅱ.私を礼拝から遠ざけるもの

私たちを礼拝から遠ざけるものはいったい何でしょうか。イエス様が荒れ野で受けた誘惑は3つありましたが、この事との関係でヨハネの手紙一に次のような御言葉があります。
「なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父(おんちち)から 出ないで、世から出るからです」 (ヨハネの手紙一  2章16)
これはイエス様が荒れ野で受けられたものと、アダムとエバが受けた誘惑とも共通すると言われる聖書箇所です。
この「肉の欲」とは、人間の様々な「欲」のことを指しています。イエス様が断食をしてお腹がすいた時に、食欲に訴えて誘惑したように、人間の欲というのは神様が与えて下さったものですから、本来悪いものではありません。食欲などの欲がなければ人間は生きていけません。しかし、その欲を満たすと次の欲が現れます。「もっと」とか、「もう一度」と、いつのまにか自分でコントロールできなくなって、欲望に支配されてしまいます。その事に私たちは「気づかない」という性質があります。その時、私たちが神の子として、神の国の住人というアイデンティティーに基づいて生きているかどうか?ということが問われます。この世の価値に生きているのか?神の国の中に立っているのか?という境界線です。神の国に生きていれば、必要なものはすべて満たされます。その信頼があれば必要以上のものを欲したりはしません。求めれば必要なものは与えられる、もしくはすでに与えられていることに気づくはずです。

「目の欲」は、人に善く思われたいという虚栄心のような欲と解釈されています。イエス様が神殿から飛び降りてもケガもなく助かれば、物凄いパフォーマンスだったでしょう。人間にはとてもできない、まさしく神の子であることの証しとなります。人の目に自分がどのように映るのだろうか?少しでもよく見てもらいたいという虚栄心と、日本人の文化の中では「世間体」というものがあり、虚栄心も世間体を気にすることも、決して人を傷つけるわけではないので、とても見えにくい「欲」です。
たとえば、私たちは、自分の価値を人からの評判で計っていることはないでしょうか。 周りの人が自分を何と言ってるのか、それしか自分の価値を知る方法がないと感じるわけです。しかし、人からの評判というものは、いっときの代用品でしかありません。残念なことに、周囲の高い評価は気まぐれで、束の間で、無くなる時はあっという間です。しかし、神の子とされた私たちは、私がどうであろうと神様の前に価値ある存在です。
他の人達が私をどう思おうが関係ありません。私たちが、今神の国に住んでいるのなら、私がどんなに罪深くても、神にとって価値ある存在です。世間体や虚栄心に振り回される必要がありません。
「生活のおごり」というのは、「暮らし向き」とか「富」とも訳されています。サタンはイエス様に、この世の繁栄ぶりを見せて誘惑しましたが、モノの欲や、お金の欲はだれにでもあります。モノをもらって幸せに感じることや、お金が手に入って安心することがありますが、これを得ようとすることは、決して悪いことではありません。しかし、モノやお金を得ることに、心を支配されているのであれば話しは別です。そのために、私たちは生かされているのではないのです。これもまた、神の国に立ち、必要な者はすべて与えられるという信頼があれば、モノやお金に支配されることはないのです。
これらのように「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」は、神から出たものではなく、この世の罪から出てきたものです。サタンの誘惑は、私たちを神から切り離して、この世の罪へと向かわせます。サタンが「おまえが神の子なら・・・」と囁かれても、私たちが神の国に住む者として、しっかりと立っていれば誘惑に支配されることはありません。
私たちが世間の評価や、いつも移ろう限りのある価値観を気にしているのであれば、心に平安はありませんが、神の恵みと力に信頼するのであれば、それは変わることのない平安となるのです。私たちはそこに留まり、神を礼拝する者として、神に似た者へと近づいていきます。

Ⅲ.一週間という営み

イエス様は10節で、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とおっしゃいました。これは申命記の引用です。要するに「あなたの神である主を礼拝し、ただ主に仕える生活をする」というのです。私たちは、これを一週間のサイクルで生きるように、一週間という生活の秩序を与えられました。
「六日の間に主は、天と、地と、海と、そこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して 聖別 されたのである。」(出エジプト 20章11)
6日働いて1日を神のもとで安息するという、一週間の生活の秩序です。
主日の礼拝の一日が一週間の軸となって、6日間は派遣されたそれぞれの生活の中で、神の国に立つ者として地の塩、世の光となる。この摂理がこの世の支配から守られ、神の恵みを受けた神の子として生きる、変わることのない平安の生活となるのです。この事を悟るのであれば、誘惑もまた恵みであります。誘惑という試みがあるからこそ、この与えられた秩序の大切さを改めて知ることになります。礼拝の一日が一週間の軸となり、神の子としての秩序が守られますように。お祈りをします。

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聖書の教える親子の関係

2018年1月14日
松本雅弘牧師
創世記2章18節
ローマの信徒への手紙15章1~6節

Ⅰ.ある園長先生の経験

今日の礼拝は、今年成人を迎えられた方たちの祝福を祈る礼拝でもあります。創世記2章18節、ローマ書15章から聖書の教える人間関係について、ご一緒に考えてみたいと思います。
ある園長先生がこんな経験を綴っていました。A子さんは門限に遅れ、両親に叱られたことがきっかけで家出をしました。そして東京について、「先生、私のこと、覚えている?」と電話をかけてきたのです。泊まる所もないと聞きタクシーで駆け付けました。
「絶対に帰らないから」と言うA子さんと両親との関係は、その後5年間、大変な道を歩んだそうです。しかし幸いにして素晴らしい男性と出会って結婚し、ある時、可愛い赤ちゃんを抱いて訪ねて来たのです。「ほら、このおじいちゃんがいなかったら、お前の命はなかったんだよ」と、赤ちゃんを園長先生の膝に乗せて言いました。そして、「あの時、両親に叱られているところに、祖父母までが一緒になって怒ったから…」と、ポツリと言いました。家族の中で、皆に負けて、勝てる相手が1人もいなかったことを改めて感じたのだそうです。

Ⅱ.私たちの関係

私たちの家庭にはどのような人間関係があるでしょうか。創世記に、「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2:18)とあります。
神さまがお考えになって、アダムとエバとを出会わせてくださったのです。ここには、出会うこと、そしてもう1つ、人間の在り方としての大切なこと、「助ける者」として私たち人間は、造られていることが書かれています。別の言い方をすれば、私たち人間は他者に仕える存在として生きることが求められているということでしょう。
今日は、ローマの信徒への手紙15章も読ませていただきました。ここでは、パウロの言葉をもって、私たち人間の「助ける者」としての生き方が語り直されています。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」
(15:1)
「強い者」の強さを、自己を喜ばせるために用いることがあってはならない。その強さをもって、弱い者の弱さを担い「助ける者」として生きる生き方を、パウロはここで説いているのです。

Ⅲ.グー・チョキ・パーの人間関係

先ほどの園長先生は、聖書から、私たちの家庭にとって必要なことは「グー・チョキ・パーの関係だ」と提言していました。
「グー・チョキ・パーの関係」とは何でしょう? 例えば祖父母、両親、子どもがいると、祖父母は孫に負け、両親には勝つ。両親は祖父母に負けるが、子どもには勝つ。子どもは両親には負けるが祖父母には勝つ。これを家族の中の「グー・チョキ・パーの関係」と言い表していました。
よく考えてみると、これは祖父母、両親、子どもの関係だけではなくて、場合によっては、職場の人間関係にも当てはまるのではないでしょうか。しかもこの関係は、ある意味で、本当に実際的な平等の関係でもあるように思うのです。
ところが、現実の人間関係はなかなか平等になりにくいのです。創世記によれば、元々神さまは男女の関係を、また人間関係一般を平等に造られました。正確な言い方をすれば、相手に無いものを私が持っていて、私に備わっていないものが相手に備わっている。つまり、お互いの違いは優劣を表すのではなく、相補い合う関係として、人を男性と女性に造られた、と教えます。
ところが、この後、創世記を読み進めて行きますと、人間が神に反逆し、罪がこの世界に入って来て以来、相補い合う関係が持ちにくくなった。さらには、違いが対立の原因になり、違いを見つけると必ずと言ってよい程に、その違いを「優劣という物差し」で計り、どちらが上でどちらが下か、のような人間関係になってきたと教えています。ですから、どうしても命令する者と従う者との関係に固定化されやすくなり、強い者が弱い者を支配するという上下関係に落ち着きやすくなったことを聖書は伝えています。
そのことを創世記3章16節は次のように言い表しています。「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
元々の神さまのご意志は、2人だけの関係であっても、「ありがとう」とか、「ゴメンね」と言う言葉が自然に行き交う関係です。こうした、感謝したり謝ったりすることがあれば温かな家庭になるでしょう。
こうした温かな家庭の中の人間関係が「グー・チョキ・パーの関係」だと、園長先生は言うのです。またこんなことも、言っていました。グー・チョキ・パーの関係は、いつも一方方向に回っているのではなく、時々、逆方向に回ったりもする。そのようにして、その関係はさらに深められていく、と。
幼稚園の中で園長は、普通は教師に勝つものですが、その園の先生方は園長に負けていません。「娘のように」園長に対して遠慮なく小言を言うのだそうです。園長もタジタジになる。一方、園児に勝つはずの教師が、子どもの前で失敗をし、突っ込まれている…、その姿を園長は愉快に見ている、というのです。そうしたことが起こる日々、何か楽しそうです!
家庭の中で、いつも勝っていた祖父母が両親に負けることだって起こるでしょう。昔のことを思い出しますと、子どもながらに、そんな時、そんなことを見てきたのではないでしょうか。
家族の中に「グー・チョキ・パー」があって、時々それが逆方向へ回りだし、そんなことの繰り返しの中で改めて見てみると、欠点が長所に見え始めたりする。これまでと違った思いで受け取り、温かく見え始めたりもするのです。家族の見え方が違ってくることで、楽しそうで温かい雰囲気の家庭、心の絆の豊かな家庭がそこに現われてくるのではないでしょうか。

Ⅳ.聖書が教える親子関係

イエスさまもご覧になるお方です。聖書によれば、38年間も病に苦しむ男の表情、彼の着ている服など、ひと通り見た上で言葉をかけておられます。イエスさまの眼は粗探しをする眼ではなく温かく慈しむ眼です。
私の友人の牧師が、ある時「眼差しには力がある」と語っていました。私たちは、このイエスさまの温かな眼差しを受けながら歩む時に、身近な人間関係の中で、自分の立派さや真剣さを認めてもらう誘惑から自由にされて、助け、助けられる関係へ、勝ち負けから解放された、生き方へと導かれていくのです。
神さまの愛の眼差しを受けながら生きたイエス・キリストは、徹底的に仕える生き方を選び取ってくださいました。そして、イエスさまが生きられた、そのような生き方を祈り求めて行くことが、本当の意味で私たちの幸いにつながる生き方であると聖書は教えるのです。
ある人がこんな話をしていました。例えば、クレヨンは使えば使うほど小さくなっていきます。でも私たちの力はどうだろうか、というのです。使えば使うほど弱くなるどころか、強くなります。走れば走るほど足は強く、また子どもでしたら速くなるでしょう。考えれば考えるほど、考える力は身につくものです。
「強い人になりたいですか?」と質問されて、「なりたくありません」と答える人はいないと思います。子どもたちもそうでしょう。
ただ、「なんで強くなりたいと思いますか?」と質問されたら、どう答えるでしょうか。強い力で家来を作って、威張るために強くなるのでしょうか。
私は、改めてイエスさまより強い人がこの世にいるだろうかと思います。イエスさまよりも強い人は誰もいません。その強い力で、イエスさまは家来を作って威張っておられたのではなかった。人の喜ぶこと、私たちの喜ぶことばかりをしてくださったのです。
強い力を持った人は、その力で他の人の喜ぶことをする。その人が喜ぶことが本当に嬉しい。それが、とても嬉しいと思う人になっていくこと、それがイエスさまの喜ばれる人の姿であると思うのです。
私たちの中には、恵まれた家庭環境の中にあってというよりも、むしろ、親子の関係の中で様々な葛藤を抱えながら大人になるという、そのような人が少なくないかもしれません。
でも、その背後には神さまがおられ、そうした環境をも含めて、神さまは万事を益としてくださるというのが神さまの約束です。神さまに愛されているということは、ふり返って見る時に、そこに神さまの慈しみがあったことを発見することでもあります。
聖書が教える親子関係とは、まさに、神さまが私を、神さまが私の親を、神さまがその関係をどのようにご覧になっているのか、そのことをもう一度、神さまの視点に立って振り返ることでもあるのです。
私たちは神さまから愛されています。その愛の中で、勝ったり、負けたり、お互いをいたわり合う中で、神さまのくださった関係が深まり強められていくのです。そのことを求めながら歩んで行きたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

神の望みに生きるー キリストを知り、キリストを伝えるために

2018年1月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書55章6~11節
フィリピの信徒への手紙2章12~13節

Ⅰ.霊的生活の第一歩としての神の愛を知り、神の望みに生きること

「エクササイズ」を始めてから、神を知ることと神について知ることの違いについて繰り返し学んできました。
実際に神さまを知らなくても、神について多くを語ることが出来ます。ちょうどリンゴを味わったことがなくても、リンゴに関する知識を豊富に持ち、様々な角度から人に教えることが出来るようにです。でもリンゴを味わった時に、初めてリンゴの何たるかを知ることができるのです。リンゴならば、それを食べればよいのですが、神を味わうにはどうしたらよいのでしょう。
神に関して知ることから、神を知ることへ、この大きなギャップを超えるために出来ることは何でしょうか。それは、聖書を読むこと、そして日々の出来事を通して生活の中で神さまを知ろうとすることです。
その第一歩として大切なことは、神さまの愛を知ること、そして神さまの望みを知ることです。そのことに注目したいと思います。

Ⅱ.神の愛を知る

神さまの愛を知るという時に、聖書が大切な点として教えていること、それは、私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛しているという事実です。この事実に気づくことが信仰生活の中で最も大切なことであり、信仰生活の基本の基本といえます。
使徒ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と語りました。
私たちの方から神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。それで初めて私たちも愛ということを知ることが出来たのです。ただ残念なことに、私たちには、神がどれほど深く、私を愛しておられるか、その実感がないのです。そうした課題が私たちの側にあるのです。
アダムとエバが神に対して罪を犯した出来事が創世記3章に記録されています。その結果、神との関係が切れてしまいます。さらに、アダムとエバの関係が崩れ、自分自身との関係もおかしくなったのです。
その結果の象徴的出来事が「いちじくの葉っぱ」です。造られたままの姿の自分を受け入れられなくなってしまったので「いちじくの葉っぱ」で見栄え良くしたのです。このように「いちじくの葉っぱ」は、罪によって命の源である神さまとの関係が切れた人間の心に、自己不信と自己嫌悪の心が生じたことの象徴でもあるのです。
私たちが、自分自身をそのままの姿で愛することが出来るならば、もっと自由に自己表現できるでしょうし、自分のことは神さまにお任せし、必要なことに力を注ぐことができるはずです。けれども神さまとの関係が切れている私たちは、そうした生き方ができないのです。
こうした生き方から解放されるためには、本当に愛してくださっている神を知ることです。私の友人が「人間の最大の悲劇は神さまの愛に気づいていないことに尽きる」と語っていましたが、正にそうだと思います。
私たちは、愛されることに素直になりたいのです。自分は神に愛されてよい存在なのだということを素直に受け入れたいと思います。
聖書を読むと分かるのですが、神の愛は、私たちが良いことをしたからご褒美としてもらうものではありません。逆に、悪いことをしたからもらえないというものでもないのです。善くても悪くても神は100%、この私を愛してくださっているというのがアガペの愛です。
私たちの住む社会は、ギブアンドテイクの社会、それが当然と思っている私たちがいます。ですから無条件の愛はなかなか信じられません。しかし、神さまの無条件の愛を本当に知ることができたら、私たちはどんなに楽になることでしょう。神さまから愛をいただき、それによって人を愛することができるのです。私たち自身も、愛する人に変えられていくはずです。このように、神を知るということは、具体的には「神の愛を知る」ということなのです。

Ⅲ.神の望みに生きる

私たちが生活の中で神を知ろうとする時に、もう一つ大切なことは、「神さまの望みを知る」ことです。別の言い方をするならば、神に何を願い、何を望むか、ということです。
誰もが様々な抱負を持ちながら新しい年を迎えたことだと思います。そして様々な祈りをささげ、神さまにお願いをします。受験を控えている若者たちの心の中にある祈りは、「希望の学校に合格できますように」というものでしょう。病と闘っている方たちは回復を祈るでしょう。
仕事がうまくいきますように。希望の学校に合格しますように。健康が守られますように。そうした一つひとつの願い事はとても大切なものです。
このようにして、私たちが神に思いを向ける時、実は神の側にも私に対する願いがあることを知らされるのです。その時、私たちクリスチャンにとって大切なことは、その神さまの願いに気づくかどうかです。私たちの神への願いが、神のみ旨にかなう願いや望みであるかどうか、ということ。このことが大切なポイントです。
教会史のなかに偉大な信仰の先輩たちがいますが、彼らに共通していることは、神のみ旨にかなう望みを抱いて生きていたということです。
歴代誌下16章9節に「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とありますが、私たちがみ旨にかなう望みを抱く時、神はその望みにかなう「力づけ」を与えてくださるというのです。神のみ旨を望むならば、神は、その望みを叶えるために恵みと霊性を整え、私たちを用いてくださるというのです。
私たちが神に何を望んでいるのか、神の望みを自分の望みとしているかどうか、それが大事なことです。何を願い、何を望みとするかという視点から考える時、神を知ることは、「神の望みを知る」ことだとも言えるのです。

Ⅳ.神に聴くこと

日頃、私たちは神さまに対して、様々なお願いをしています。それは大切なことです。ただ神さまの側にも私たちに対して願っておられることがあるのです。時に、私たちの祈りが自分の利益ばかりを求める、独りよがりの祈りになる可能性が大いにあります。
祈りを通して神さまと交わることで、私たちに何が起こって来るのでしょうか。私たちは、祈りの中で、私たちの願いや望みが、神さまの願いと望みに近づいて行く経験をしていくのです。そしてそのために大切な姿勢、それは神の望みを聴くことです。何故なら、神に聴くことなしに、神に従うことはできないからです。
ですから、問題は神のみ旨をいかに聴き、いかに知るかということです。ただ、この場合注意しなければならないことがあります。それは実際に音声で聞こえるようには神が語られるのではなく、聖書の言葉を通して、あるいは周囲の人々を通して、また自然界や、日常のささいな出来事を通して、神は私たちに語りかけておられるお方だということです。
したがって私たちは、まず神さまに心を開き、少年サムエルのように、「主よ、お語りください。しもべは聴きます」という素直な心、へりくだった思いで聞くように心がけることが何より大切なことなのです。神は、私に何を語りかけようとしておられるのか。毎日の出来事に注意深くなるように心がけることです。
様々なお願いをする前に、自らの生活を振り返り、その日の出来事を通して、神は何を私に伝えようとしておられるのか、心を開いて聴くことです。神に感謝すべきことはあっただろうか。また逆に、神の御心に痛みを与えるような言動はなかっただろうか。感謝すべきことがあったなら感謝をし、痛みを与えるようなことがあったならば、それを告白し、赦していただくのです。
こうした日々の積み重ね、神さまとの交わりを通して、そのお方の望み、私に対する願いが次第に絞られてくるのです。
一日を終えて寝る前の5分、1日を振り返る祈りをすることは、喜びある信仰生活を送るためにとても大事な習慣です。
主イエスは「羊は羊飼いの声を聴き分ける」と言われました。ですから道に迷ってどちらかに行けばよいか分からない時、まず立ち止まって、イエスに尋ねるのです。そうすれば、必ず何らかの方法で答えてくださいます。
私たちは、音声によって神の声を直接聞くことはできませんし、神の御姿を見ることもできません。それでも神に近づくことが出来るように、イエスさまが与えられているのです。そのイエスさまが何を語り、どう行動されたのか。そこにこそ神さまの望みがはっきりと現されています。主イエスの言葉と行いの中に神の望みを聴くことができるのです。
そのような意味で聖書、特に福音書はとても大事です。新しい年、御言葉に聴きつつ、日々の生活の中で神さまを知り、神さまが私のために持っておられる望みに生きる歩みを求めていきましょう。
キリストが恵み深いお方であることを深く知らされることによって、このお方を証しする者として、私たちは神さまに用いていただくのです。
お祈りします。