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主日共同の礼拝説教

交わりへの招待

2018年2月25日
和田一郎伝道師
出エジプト記18章5~12節
ヨハネの手紙一 1章3~4節

1 宣教の目的

「交わり」という言葉は、いわゆる人と人との付き合いや、交友関係を意味しています。今日の聖書箇所でも「交わり」という言葉が3回出てきますが、ここで使われる原語の言葉は、よく耳にする「コイノニア」というギリシャ語です。
たとえば、礼拝の最後で祈る祝祷も「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが・・・」という、「交わり」もコイノニアです。わたしたちの信仰において、神との関係、人と人の関係は意味深いものですから、一般的な付き合いとか交流とは少し区別して、コイノニアという言葉を「交わり」と訳して使います。
このヨハネの手紙を書いたヨハネという人は、イエス様と、特に深い繋がりのあった人でした。イエス様の公生涯で12弟子の一人としてイエス様と過ごしましたし、ヨハネの福音書やヨハネの黙示録を書いた人です。有名なのはレオナルドダヴィンチの最後の晩餐の絵の中で、イエス様と寄り添っていた人です。イエス様もこのヨハネに、自分の母親の世話を頼むほどに信頼を寄せていたようですから、この手紙の冒頭で書かれていることは、リアリティがあります。
ヨハネの手紙一1章1節には、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」とあります。ヨハネは弟子として、イエス様とユダヤの町々を旅して生活をしていましたから、その頃に自分が聞いた、目で見た、そして手で触れて一緒にいた。そのイエス様について証しして伝えると言うのです。
ここではイエス様のことを「いのちのことばについて」と表現しています。ヨハネは福音書でも、同じようにイエス様の事を「言葉」と表現しています。そして、そのイエス様が、「初めからあったもの」とあるように、「天地創造以前の初めから」いた方であること。天におられた存在なのに、地上に降りて来られ、しかも私たちと同じ人間となられたイエス・キリストという人を言い表しています。
ヨハネも一緒に過ごしていて、自分のような罪人であるにもかかわらず、直接触れ合っていた方に「本当の命」がある、私たちを救う「永遠の命」があることが分かった、「だから今、このイエス様のことを、あなたがたにも伝えます」と言っているんです。
注目したいのは、ヨハネが、なぜ私たちにイエス様のことを伝えようとしているのか?その理由です。3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも、わたしたちとの交わりを持つようになるためです」。ここで交わりという言葉がでてきます(コイノニア)。イエス様のことを伝えるのは、「交わりのため」と言うのです。私ヨハネは、イエス様と親しい交わりの関係にありました。素晴らしい交わりです。ですから、あなたがたもこの交わりの中に招き入れたい、そのためにキリストを伝えるのですと言うわけです。その交わりとは、一体どんなものでしょうか。

2 「交わり」という神のビジョン

私たちは、人と人との繋がりを大切にしているつもりですが。クリスチャンは「大切なのは自分と神様の個人的な問題だ」と思いやすいので、交わりは優先順位の低いことと考えてしまう時があるのではないでしょうか。しかし、神様は教会の交わりというのは、決して二次的なものではなく、むしろそれは、神様ご自身が求めている大事な「ビジョン」であると、新約聖書の様子から見ることができます。
ヨハネの手紙を書いた頃のヨハネは、随分高齢になっていましたが、若かりし日々のヨハネが、まだエルサレムにいた頃ですが、使徒言行録で「交わり」についての神様のビジョンを見ることができます。それは、キリスト教会が誕生した時、教会は、ペトロの説教で信仰告白をした3千人の人々によって始められましたが、彼らがキリストを信じて洗礼を受けた後、直ちに取り掛かったことは何でしょうか。それは「交わり」です。もちろん、礼拝も、聖書の学びも、祈りもしました。ですが、それと同時に行なっていたのは「交わり」です。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒2:42)とあります。使徒の教えは、使徒たちによる証しや教えです。パンを裂くことは現在の聖餐式の原型ですが、儀式のようなものではなくて、食べたり飲んだりしながら、最後の晩餐を思い起こして楽しいものだったでしょう。
続いて46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」(使徒言行録2:46-47)
ここに描かれている様子そのものが、「交わり」なのです。礼拝すること、学ぶこと、祈ること、すべてが「交わり」と共にありました。若かりしヨハネ達がそんなふうに「交わり」を熱心にしていたことによって、ある現象が起こりました。47節「主は救われる人々を、日々仲間に加え一つにされた」。
エルサレムにいた人々は、喜びに満ちたクリスチャンの交わりに、引き寄せられるように、教会に繋がっていったのです。
この時から50~60年が過ぎて、ヨハネがこの手紙を書くころには、地中海周辺の諸国でクリスチャンが急激に増えていきました。その要因はいくつかあるようですが、その一つはここにあるように、教会の交わりが豊かにあって、周囲の人に影響を与えていったというものです。当時の社会は差別が当たり前のようにありました。男女の違い、身分の違い、病気や障害への差別、小さな子ども達は虐げられていた。その中で教会の交わりには、差別ではなく「喜びと真心をもって一緒に食事をした」とあります。世の中には格差や差別がありましたが、教会の交わりには喜びがあり、そうして教会は各地に広がっていったのです。

3 交わりの核心にあるのは 「喜び」

教会の交わりの大切さは、どなたでも認識していると思うのです。教会の礼拝や集会に集まること、「集まること」はその人の信仰告白だと言えます。しかし、義務感や責任感で集会に集まるというのは、使徒言行録にある「交わり」に照らしてみると違うようです。
「交わり」の核心にあるのは「喜び」という要素があって、それが差別に苦しんでいた人々を教会に惹きつけたというのが「コイノニアの力」です。それは交わりの中に喜びをもたらす神様の性質を現わしているのです。
私たちの信じる神様は、三位一体の神様です。三位一体というのは、父・子・聖霊の三つの神が交わって初めて一つの「神」であるのです。「交わりの神」である、という信仰を私たちは持っています。その神様の性質には、時として怒りや憤り、悲しみという感情もあります。しかし、それは一時的な反応であって、神の中心的な性質は「愛」です。愛が満たされている所に「喜び」があります。天地を創造された神様は、1週間を毎日「夕べがあり、朝があった。」そして「良しとされた」と、喜びをもって一日を終えていました。私たちのように繰り返される毎日を「ああそんなの当たり前」と片付けずに、良いものを良いと喜ばれる方です。その神様に似た者として造られた人間が、神様と同じように「喜ぶ者」として生きられることを神様は願っています。
イエス様も「ぶどうの木」の話しをされましたが「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である・・・わたしに繋がっていなさい」と話された時も、「これらのことを話したのは・・・あなたがたの喜びが満たされるためである。」(ヨハネ福音書15:11) と、「喜ぶこと」が目的だと言われました。「交わり」の核心には「喜び」という要素があることが分かります。
このぶどうの木の話しを、書き残したのはやはりヨハネですが、今日の聖書箇所の4節でも、同じように「喜びが満ちあふれるため」と記しています。ヨハネはイエス様との喜びのある交わりの中にいました。この交わりの中にあなたも入りなさい。とヨハネは実体験から、私たちに語りかけてくるのです。
それでも、痛みや苦しみのあるこの世の中で、いったいどうやって喜べばいいんですか?という疑問もあると思います。それに対して、カール・バルトという神学者はこう言いました。「喜びは、苦しみや恨みに『それにもかかわらず』と言って待ったをかける、挑戦的なものだ」。
自然に喜びが湧いて来るのを待っていたら、なかなか喜べません。困難があったとしても、それにもかかわらず今ある恵みに気付くのか、気付かないのか?この信仰の挑戦の向こうに喜びが浮かんできます。
今日は信仰生活で大切にしたい、「主にある交わりに生きる」ことについて、御言葉から考えてきました。神様の視点からこの「交わり」というものを考えてみると、そこに「喜び」という神様の性質と、「喜びなさい」という私たちへの「愛」が反映されています。
私が喜ぶこと。友が喜ぶこと。神様が喜ぶこと。この事を交わりの中心に添えて、この一年の交わりを味わって行きたいと願います。お祈りをいたします。

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天の会議に招かれた人―アブラハム

2018年2月11日
松本雅弘牧師
創世記18章9~33節
ヨハネによる福音書15章15節

Ⅰ.「やさしい神さま」

「天にいらっしゃる、やさしい神さま」、この祈りが私にとっての高座教会との出会いでした。1981年12月、学生会クリスマス会での祈りの言葉です。神に向かい、こう呼びかけることは当時の私にとって衝撃でした。
聖書を読む時、神を「優しい」と表現できない場面に出くわします。例えば神の裁きによるウザの死です。「一行がコナンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を抑えた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは箱の傍らで死んだ」(サムエル記下6:6、7)。契約の箱を運ぶ時、台車から転げ落ちそうになったので手を伸ばして箱を押さえた。たったそれだけのことでした。また使徒言行録5章に出て来るアナニアとサフィラ夫婦の死も同様です。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」…「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6:3~4)。これは神と出会い、自らの汚れを知らされた若き日のイザヤの経験です。聖なる神さまの御前で、自らの汚れに気づかされ、このままだと滅んでしまうと恐れたイザヤです。
「いや、松本さん、問題ないです。旧約の神は義の神、新約の神は愛の神ですから…」。果たしてそうでしょうか。旧約の神も新約の神も同じイエス・キリストの神です。その神と出会う時に、私たちはどうなるのだろうか。私は、果たして神と出会っているのだろうか。信仰生活を送りながら、そのような思いを抱いたことはないでしょうか。
さて、今日の箇所に登場するアブラハムの人生に、神は、しばしば介入されました。それが音声で語られた言葉か、目視できる幻だったのかは分かりません。ただ1つ言えることは、神とアブラハムとの交わりは常に神の主導権で始まったという事実です。
ふつう祈りは私たちの側から神への働きかけと考えますが、今日の聖書を注意深く読んでいくと、常に神が語りかけ、次にアブラハムが応答しているのです。この順序です。そして、このことは旧約から新約に至るまで、聖書の中で一貫した事実であることを知らされます。ですから大事なことは、神に主導権を執っていただくために、「主よ、お語りください。しもべは聞きます」という思いと姿勢をもって神の御前に心を静めることでしょう。

Ⅱ.訪問客

ある日、遊牧民の格好をした3人の男がアブラハムの天幕にやって来ました。突然の訪問客でしたが、アブラハムは彼らを迎え入れてもてなすのです。
食事が始まり、そこでどんな会話が交わされたのか聖書は沈黙していますが、ただ彼らの内の1人が突然サラの名をあげ、「あなたの妻のサラはどこにいますか」と尋ねました。さらに「来年の今ごろ、…あなたの妻のサラに男の子が生まれている」と語ったのです。それを聞いて、アブラハムはどれほど驚いたことでしょう。そして、天幕の向こうにいて、この話を聞いていたサラが思わず笑ってしまったのです。その場に気まずい空気が流れたことでしょう。そしてそれがどのように和んだのかは分かりませんが、その後、3人はソドムを目指して立ち上がり、アブラハムも彼らを見送るためについて行ったのです。

Ⅲ.神の独り言

17節には驚くべき神の独白が記録されています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」。この同じ個所を、新改訳聖書では、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と訳しています。
創造者であり、同時に私たちの髪の毛の数も、地に落ちる雀の一羽一羽のことも、すべて把握なさっている神が、何かを考える時に、このように知恵を絞りだすようにして頭を使うということはあり得ないと思います。
ところが、この時、神の頭の中にはアブラハムのことしかなかったかのように、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」、と自問し、悩んでおられるのです。
王の王、主の主なるお方です。ご自分の考えに従ってソドムに罰をくだしても誰も文句など言えません。しかし、ここで神は、ご自分の考えを実行に移す前にアブラハムに報告し、連絡し、相談しようとしているのです。
何で、創り主である神が、わざわざアブラハムに、その胸中を打ち明けたりなさるのか。アブラハムに報告し、相談する義務でもあるかのように感じておられるのはなぜなのか。
ここに、私たちが信じ従う神さまの大切なご性質が、そして、本当に深い意味が明らかにされているのだと思うのです。
神はアブラハムをご存知でした。召しに従い約束の地にやってきたこと。家の者たちの世話をよくしていることも十分ご存知でした。同時に弱さも分かっておられました。彼が特別に優れていて、ご自分と対等に渡り合える人物と「特別視」なさったのではありません。
では理由は何でしょうか。それは「わたしがアブラハムを選んだ」からです。この「選んだ」というヘブル語は「友とする」と訳せる言葉です。
「私はアブラハムを友として選んだ。創造主対被造物、裁き主対罪人という関係ではなく、あくまでも友として選んだ」、そうお考えになって関係を結んだのです。
イエスさまの言葉を思い出します。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:15)
私たちはこのような者として選んでいただいたのです。今日の説教の題に、「天の会議に招かれた人」と付けましたが、正に、神はそういう者としてアブラハムや私たちのことを考えておられるというのです。私たちは「こうしてください」、「ああしてください」と祈ります。同じように、神の側にも願いがあるのです。ご自身が用意した「議事日程(アジェンダ)」にそって話し合いたい、それが祈りの本質であることを教えられます。
そして、この日の「アジェンダ」は「ソドムの審判」でした。それを相談したいと願い、アブラハムに相談したのです。会議の席に引きずり出されたアブラハムは戸惑ったことでしょう。
さっそく彼は祈りを通して話し合いを始めました。それはソドムに、甥のロト家族が住んでいたからだけではありません。仮にロトの家族だけが心配でしたら、そのことだけのために約束を取り付けるような祈りとなったことでしょう。その約束を取り付けたら祈りを終了してもよかったでしょう。
しかしアブラハムは、ソドム全体のことを心にかけていたのです。ソドムは邪悪でしたが、その中には情け深く、善意の人たちも多く居る事実を、彼は知っていたからです。
ただそれ以上に、彼にはどうしても質したい事柄があったのです。それが25節に出て来ます。「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。」〈神さま、どうしてあなたが…〉という思いです。

Ⅳ.神さま、どうして

これまでアブラハムは神を信じて生きて来ました。神こそ彼の人生の土台でした。それなのに何でそのお方が、このようなことをしようするのか分からなくなってしまっていたのです。ソドムに親戚や知人もいる彼にとって、「どうして神は正しい者を悪者と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そのようなことをなさったら、もうあなたは正義の神ではなくなってしまいます。あなたのことが分からなくなりました。何で、神さま…」そうした悩みでした。
つまり神の資質に関わる問題だったのです。ところが、この祈りを見る時にアブラハムは本当に知りたかったことを質問していません。何故かと言えば彼の心におそれがあったからです。そうしたおそれと戦いながら、もしかしたら御終いかもしれないと震えながらも、彼が一番知りたいことを知ろうと努めていたということです。
そして、32節で「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と訴えています。これに対して主は、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と答えてくださいました。
するとどうでしょう。アブラハムと神との対話は終わります。家に帰るのです。なぜここで終わりなのでしょう。何が起こったのでしょう。
詳細は分かりません。しかし、確かなことが1つあると思います。それはアブラハムが納得したということです。
「滅ぼさない。その40人のために。…滅ぼさない。もしそこにわたしが30人を見つけたら。…それをしない。その10人のために…。」と、そのように返ってくる答えごとに、神さまのイメージがアブラハムの中で変えられていったのです。
自分の前におられるお方は、「得体のしれない怪物」ではなく、今まで信じ、すべてを預けて来た恵みの契約の主なる神であったのです。
いや今まで以上に、もっと信頼できるお方だった、という納得です。ですから、もう数字を引き下げ、駆け引きする必要はありません。たとえソドムに何があっても、あるいは何もなかったとしても、このお方は万事を益としてくださる主なる神である。
アブラハムはより偉大な神さまと交わる中で、一回り大きな人間に成長させられていきました。神との出会い、神との交わりがそうさせたのです。
お祈りします。

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いかに幸いなことか、 御言葉と祈りで神につながる人は

2018年2月4日
松本雅弘牧師
詩編 84編1~13節
ルカによる福音書10章38~42節

Ⅰ.はじめに

今日は、「御言葉と祈りに生きる」という「信仰生活の5つの基本」の3番目のことについて、ご一緒に学んでみたいと思います。最初に詩編84編を味わうところから始めましょう。

Ⅱ.詩編84編

この詩編は、巡礼で訪れたエルサレム神殿で礼拝する時の喜びを歌った詩編です。「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」(2-3)
11節の言葉も有名です。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」
ここでこの詩人は、「神の宮の敷居で物乞いとなりたい」と語っているのだと専門家は解釈します。つまり、どんな身分であろうと、主なる神さまの近くに居ること、このことがどれほど素晴らしいことなのか。詩人は、その喜びを歌って詩編を締めくくろうとしているのです。
主もまた、そうした信仰の告白をする者に対して豊かに報いてくださいます。
「完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません」(12)。「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう」(13)と、この詩編は結ばれていきます。

Ⅲ.なんと幸いなことでしょう。心にシオンへの大路のある人は

今日は「御言葉と祈りに生きる」ということを考える上で、特に6節に注目してみたいと思います。「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。」
詩人は、ここでイエスさまの「山上の説教」の語り出しを思い起こさせるような語り口で歌います。
「いかに幸いなことでしょう」と、彼を奮い立たせ、支える力の源泉が、「あなた」すなわち、主なる神さまにある人、その人が幸いなのだと歌っているのです。
新改訳聖書では、「あなたによって勇気を出す人」のことを「その力が、あなたにある人」とし、「心に広い道を見ている人」については「その心の中にシオンへの大路のある人」と訳しています。
この詩編のテーマである巡礼とは、「シオン」すなわちエルサレムを目指しての旅です。もっと言えばそこに臨在される神さまを目指し、神さまと交わることを求めての旅です。
その巡礼の道を「広い道」、新改訳では「シオンへの大路」、そして英語の聖書では「シオンへのハィウエイ」となっていました。「シオンへのハィウエイ」とは面白い表現です。これは、「何かあった時、いつも神さまの許に飛んで行けるような、よく整備された道」という意味でしょう。そうした道を心の中にしっかりと持っている人は何と幸いなのでしょう、と詩人は歌っているのです。
7節には、そうした人に与えられる特別な恵みが出て来ます。その恵みとは、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」という恵みです。
時に私たちは「嘆きの谷を通る」ような経験をします。そのような時に「神さまの許に飛んで行けるような、よく整備された道を心に持っている人」は、その「嘆きの谷を泉とする」というのです。
ただここで注意したいことがあります。それは、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」という言葉の主語です。残念ながら新共同聖書では分かりにくいのですが、原文では、はっきりしています。その人は「心に広い道を見ている人」、「その心の中にシオンへの大路のある人」です。その人が「嘆きの谷を泉とする」のです。
私たち誰もが、「嘆きの谷を通」ります。不慮の病いという嘆きの谷があるかもしれません。経済的な行き詰まりという嘆きの谷もあるでしょう。受験で思うように行かない、進路が開かれないという嘆きの谷もあります。神さまを信じる者、主を信じる者の幸いを歌う、この詩編84編の詩人も例外ではなかったのです。
でも神さまを信じる人は、そうした「嘆きの谷を通る」経験をしても、そこを「泉のわくところ」「泉のわくような経験」に変えることができるのです。
このようにマイナスをプラスにする力が、「心に広い道を見ている人」、「その心の中にシオンへの大路のある人」には与えられる、というのです。
そして、泉ですからオアシスです。私一人の渇きが癒されるにとどまらないのです。人生という旅を共にしている周囲の人たちにとっても、神さまを信じる私の「嘆きの谷を通る経験」が、共に生きる人々の心の渇きや霊的渇きを癒す、豊かな恵みの出来事となるのです。新年礼拝でお話した表現を使うならば、「祝福の源となる」ということです。
私たちは、さまざまなかたちで神さまから恵みをいただいています。祝福を受けています。そして、そうした恵みや祝福は、私だけに関わるものではなく、「それによって」という条件が必ず付いてくると、聖書は理解します。
神さまが私たちを祝福してくださる。「それによって」人々が励まされます。この私に神さまが恵みをくださった、それによって、共に生きる病気の人が支えられ、また、職場に神さまの祝福が届くのだ、というのです。
このような特別な恵みに与る人たち、この人たちに共通する特徴、それは「必要がある時、神さまの許に飛んで行ける」、「よく整備された道を、常に心に持っている」ということです。そして、このことは、御言葉と祈りで神さまにつながっていることなのです。

Ⅳ.神さまのところにすぐに飛んで行ける整備された道

今日は、皆さまに次の2つのことをお尋ねしたいと思います。1つは、「わたしの心には、何かあった時に、すぐに飛んで行けるような、神さまの御前に通じる、真っ直ぐな道が、いつもあるだろうか。」ということです。
そして2つ目は、そうした広い道を持つために、私は何をすべきか、ということです。このことをぜひお考えいただきたいのです。
ある時、イエスさまはマルタとマリアのもてなしを受けられました。最初、台所ではマルタとマリアが料理しています。ところが急にマルタがイライラし始めます。忙しくなってきたからです。そんな時に一緒に立ち働いていた妹が台所から姿を消した。隣の部屋を覗くとイエスさまの教えに頷きながら聞き入っている妹の姿が目に飛び込んできました。その途端にマルタの感情が爆発したのです。
そのマルタに対して主は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。イエスさまは、マルタも、一旦、働きの手を休めて、私の前に座って御言葉に聴くことを選びなさいと招かれたのです。
いつもお話することですが、私たちは過去を変えることは出来ません。怒りのあまりに口から飛び出してしまった言葉を、白紙に戻すのは不可能です。ただ、その怒りのままに進むのか、それとも、ハッと気付いたならば、怒りの延長線上の言動ではなく、それとは違ったこと、今までとは異なる道を選ぶかどうか、ということです。もし、この道を選ぶことができたら、全く異なる状況が展開することでしょう。私たちには、そうした選び直すチャンスが与えられていますし、また、そうできる自由が与えられているのです。
ストリートチルドレンのために献身して働くあるシスターの証しを聞いたことがあります。彼女は恵まれた環境で育ち、周囲が羨むような生活をしている人物でした。その彼女が、「どのような家庭に生まれるかということを選ぶことはできません。でも、どう生きるかは選ぶことができる。悪人になるか、聖徒になるかを選ぶことができる。」と、確信をもって語っておられた言葉を思い出します。
イエスさまの言葉を聞いたマルタは「どう生きるか」「何を選ぶか」という選択の場面に立たされました。「マリアは、何て気が利かないんだ。イエスさまもイエスさまだ。」と不機嫌に苛立つまま時間を過ごすことをもできました。しかしそれとは全く違った選択も出来たのです。つまり一旦、働きを中断し、妹の隣に座って主の教えに耳を傾けることも選べました、選べるのです。
私たちの人生も同様です。どちらの道をも選ぶことが出来る。そうした自由が与えられています。そして主は「何かある時に、神さまの許に飛んで行けるように、広い道を、その心の中に持つように」と教えられます。普段から御言葉と祈りを通して、常に主と交わり、主との関係を深め、その交わりのパイプを太くすることを、主は望んでおられます。
そして、その主から、聖書の言葉を通して、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」という具体的な導きをいただいたならば、そちらを選ぶのです。
すぐに選べなかったならば、そのことを祈りの中で主に申しあげ、主から力をいただいていくのです。そのようにして、「御言葉と祈りに生きる」ことを通して主につながり、そのお方のくださる幸いを、共に生きる方たちと一緒に味わう歩みでありたいと願います。お祈りします。