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主日共同の礼拝説教

キリストにあって歩く

2018年5月27日
和田一郎副牧師
詩編37編23~29節
コロサイの信徒への手紙2章6~7節

Ⅰ.わたしたちの日常と歩き方

今日のコロサイの信徒への手紙の箇所は「キリストに結ばれて歩みなさい。」(6節)という言葉から始まっています。歩きなさい、というのは生き方、人生の歩き方と言ってもよいかと思います。
先週は大学のアメリカンフットボールで、無防備の相手選手に、怪我をさせることが目的でタックルするという出来事がありました。それが命令には絶対服従の組織の中でコーチや監督からの指示だったということです。タックルをした選手は率直に「たとえ上からの指示があったとしても、自分はすべきではなかった」と話していました。しかし、その時は、指示に従うしかなかったのです。彼にとって、従うべきものがフットボール部の組織でしかないと、考えるしかなかったのだと思います。
しかし、私たちキリスト者は、どこにいても「主イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」と言われています。「歩みなさい」というのは、そのように生きること、そのように生活することです。

Ⅱ.キリストに結ばれた信仰生活

6節には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから」とあります。
「受け入れた」というのは、ただ聖書の教理を受け入れたというのではなくて、キリストという方の人格を受け入れるということです。この自分の人格を、キリストの人格に重ね合わせて、近づいていく、キリストに似た者になっていく、そのように受け入れるということです。イエス様は山上の説教で、どのように生活すべきかを、教えてくださいました。
仲たがいをしている人とは、和解しなさい。腹を立てて怒ったりしてはいけない。仕返しなどはしてはいけない。右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさいと言われました。敵を愛しなさい、とも言いました。どんな強い人でも、敵を愛するなんて難しいことですが、そうしなさい、とイエス様は教えました。「私はあなたのことを本気で愛しているんだよ、だから、あなたも敵を愛してごらんなさい」と教えてくださいました。
私を受け入れたのだから、私の道を歩きなさい、そのように生活しなさいというのです。
それは、どういうことなのか。7節「キリストに根を下ろして造り上げられ」なさいとあります。砂や泥の中に根を下ろしても、危なっかしくて頼りにならないものです。でも砂や泥は柔らかいので、根っこを伸ばしやすいと思うのです。ところで、鹿児島には屋久島という島があって、そこで育った屋久杉は樹齢千年以上もある強い杉です。しかし屋久島の地盤は固い岩です。ですから成長するのは遅いのです。地盤が強い分しっかりとした強い木が育つのです。キリストを受け入れた人は、どこに住んでいても、どこで働いていても、このキリストという固い岩に根っこを下ろすことになります。そして、そこで「造り上げられなさい」(7節)と言われるのですから、その固い岩盤から成長していきなさいというのです。洗礼をうけたらゴールじゃないのです。洗礼を受けたところから、キリストにしっかり根っこを下ろして、成長しなさいと言われるのです。どんなに歳をとっても成長するのです。イエス様に似ていくまでには時間がかかります。時間がかかった方が良いと思います。すぐに出来上がったものは、すぐに崩れます。すぐにできると、人には驕り(おごり)が生れます。しかし、屋久杉のように、ゆっくりと成長する人は、しっかりと強く豊かに育まれていくのです。
7節の後半には、「教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」とあるように、キリストに似ていくと、感謝の思いが増えていくのです。私の友人は、クリスチャンになって良い事が起こったのか?というと、そうでもないというのです。相変わらず嫌なことも続いてあるといいます。しかし、感謝することは増えてきたと言うのです。キリスト教の信仰は、御利益のあるといった御利益信仰ではないのです。クリスチャンになったら受験に受かったり、商売が繁盛するといったことではないのです。しかし、生活の環境は変わらなくても、信仰が成長していくと感謝することが増えていきます。そして、感謝は人生を確実に変えていきます。
今日のコロサイの手紙の6節7節は、キリストを受け入れて洗礼を受けてから、しっかりと成長してゆき感謝が溢れていくという、信仰生活を歩ゆむ道について短く語っています。このキリストが一人一人に与えて下さっている「道」をみつけて、その道を歩んでいきたいと思うのです。

Ⅲ.キリストを受け入れた時

この「道」ということに焦点を当てて見たいと思うのですが、先日この礼拝堂で「三浦綾子読書会」代表の森下先生の講演会がありました。三浦綾子さんの代表作の一つに「道ありき」という本があります。この本は三浦綾子の青春時代を描いた自伝の本ですが、彼女がクリスチャンになる前と、後の様子が描かれている本です。
三浦綾子さんは、大正11年北海道の旭川市に生まれて16歳で小学校の先生になったそうです。その頃に日本は戦争に向かっていました。彼女は何の疑いもなく「あなたたちはお国のために、天皇陛下のために戦争に行くのですよ、それが日本人として素晴らしいことですよ」と、真剣に子どもたちに教え続けました。しかし、昭和20年敗戦の日を境に、それまでの軍国主義は間違っていたとされました。それまでの価値観を捨てさせられて、綾子さんは「私はもう子どもたちを教えることはできない」と思い、小学校の先生を辞めます。それからも世の中なんて信じられない、自分も信じられない、自分を愛せない。そうした心が凍えてもう生きていけないというという思いを、後にある小説の題名にしました。それが『氷点』だそうです。
やがて彼女は、二人の男性と同時に口約束で二重婚約をします。先に結納を持ってきた方と結婚すればいいや、などとふざけたことを考えました。ところが、そのうちの一人が結納を持ってきた日に、突然彼女は高熱を出して倒れたのです、それが、13年に及ぶ肺結核との闘病生活の始まりでした。当時、結核は死の病でしたが、そんな病気にかかった自分に向かって「ざまあみろ、私にはちょうどいいわ」と自分に言ったそうです。それほど、自分を愛することができないで生きていたのです。この時の綾子さんは、イエス様と出会う前でした。自分が歩むべき道が、まだ分からなかった時期です。
ある日、オホーツク海に面した町に、婚約をしたまま先延ばしにしていた、西中さんという人に結納金を返しに行ったのです。西中さんは綾子さんを責めたりしませんでした。綾子さんがどんなに傷つき、どんな気持ちで、婚約を解消しに来たか、痛いほど分かっていたからです。綾子さんはその晩、「もう生きていくのは辛い」と思って、夜中に家を抜け出し、砂浜まで歩いていきます。そして冷たい海の中に入っていきました。そこで後ろからガチっと肩を掴む手があった。そして、背中に背負って砂浜に連れていかれました。それは西中さんでした。綾子さんは背中で「夜の海を見てみたかったの」と言い訳を言いますが、西中さんは「海ならここからでも見えるよ」と言って、陸から暗闇を一緒にながめていました。翌朝、西中さんは結納金を受け取らずに、綾子さんを送り出してくれたそうです。
後になって、綾子さんは、あの「真っ暗な海の中で、西中さんの背中に背負われた時、私の中から死に神が離れて行ったような気がした」そして「わたしは不思議と素直になっていた」と書いています。この後、綾子さんは前川正さんという、同じ結核患者だったクリスチャンと出会って、彼女もクリスチャンとして「信じて歩むべき道を」見つけることになります。そして、この出来事を『道ありき』という自伝小説に書くのです。『道ありき』というのは、「道があった」という事です。あの時から道はあったのだという意味です。あのオホーツク海の、冷たい海に入って「わたしは、死にたい」と真っ暗な海の中にいた時、肩を掴んだ手は誰だったのか。この自分を背負ってくれたのは誰だったのか。西中さんという人の愛を通して、神様の愛がはっきりと現われている。すべてを赦し、すべてをそのままで受け止めて送り出してくれた。あの時から「道」はあったのだ、自分の人生には『道ありき』ということを、三浦綾子さんは書き残したのだそうです。

Ⅳ.キリストにあって歩く

今日みなさんにお願いしたいことは、キリストに結ばれた道があったことを思い起こして頂きたいのです。あの時、差し出してくれた手、語り掛けてくれた言葉、あの人との出会いの中で、「あの時、イエス様がいたのだ」、そして今も一緒に歩んでいる。そのことを、日々忘れずに、キリストに結ばれて、結びつきに確信をもって、この道を歩んでいきたいと思うのです。私たちの道は、キリストに根っこを下ろして成長し、キリストの教えをしっかりと守り続ける、という道です。その先には喜びがあります。感謝しましょう。お祈りします。

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ペンテコステ礼拝 主日共同の礼拝説教

ペンテコステ ― 四世代が喜び集う教会の誕生

2018年5月20日
ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録2章1~21節

Ⅰ.バベルの塔の出来事

ペンテコステと聞くと、私はバベルの塔の出来事(創世記11章)を思い出します。言葉が混乱した出来事です。あの時、人間は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と思い上がり、計画を実行し始めますが、それを喜ばれなかった神は言葉を混乱させます。
その結果、心が通い合わなくなり、人々は全地に散らされて行ったのです。
17年前、私はブラジルのサルバドールにあるマッタ・デ・サンジョアンの集会を訪問したことがあります。ポルトガル語が全く分かりません。「オブリガード」という、「ありがとうございます」のポルトガル語だけを覚えてブラジルにまいりました。
「言葉がわからない」ということは、本当に心細いものです。サンパウロまでは国際線でしたから英語のアナウンスがありますが、サンパウロからは国内線で、そこは正真正銘のブラジルでした。
やっとサルバドールに到着。空港で出迎えてくださったマッタの教会員の方たちが、日本語で話しかけてくれた時に、なんとも言えない安心感を覚えました。しかも、その時、案内されたレストランの名前が「やまと」でした。大和市民の私にとって、これまた馴染みのある名前で、ホッとしました。
ところで私たちは今でも、同じ日本語を使いながら、日常の生活において心が通じ合わない経験をすることがあります。一番親しい関係においてもそうです。つまり日常的に「バベルの塔の出来事」を経験しているのではないでしょうか。
ヘブル語で「バベル」とは、「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ています。私たちの周りでは、今現在も、そして世界のあちらこちらで、絶えることなく、そうした混乱が起きています。

Ⅱ.ペンテコステの出来事

ペンテコステの日に起こった出来事は、バベルの塔の出来事と深く関係しています。2千年前のペンテコステには、ちょうどバベルの塔の出来事と正反対の出来事が起こっているのです。
その日、「一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:1)とあります。
聖霊をいただいた弟子たちはガリラヤ出身の人々でした。その日、エルサレムには、祭のために世界中から集まって来た人々がいましたが、弟子たちが彼らの言語を語りだしたのです。
バベルの塔の出来事同様に「言葉の奇跡の出来事」が起こりました。ただ、この2つの出来事の間には大きな違いがありました。
ペンテコステのこの日、種々雑多な言語によって語られた内容は1つだったのです。
「奴らは酒によっているだけだ」と言って無視する人々もいました。そこでペトロが立ち上がり、「そうではない。この現象は、聖霊が私たちに与えられ、旧約聖書の預言者ヨエル書の預言が成就したことの結果なのです」と言って、この出来事の原因である聖霊が降ったこと、そしてその聖霊が降ったことの意味、つまりペンテコステの出来事の意味を説き明かしたのです。
聖霊の恵みが行き届く時、そこに集まる人々が、たとえ多くの言語に分かれているような状況にあったとしても、それが単なる混乱や分裂では終わらないというのです。
子どもや若者、壮年や高齢者という複数の世代、世代の違いがあったとしても、共に夢を見、幻を見て将来への希望を共にすることができる。違いを乗り越えて、神にあって互いに通じ合う世界が生み出されて行くのです。
まさに、多様性と統一性が聖霊の働きの中で調和を保つというのです。
私たちも聖霊に導かれ、聖霊に満たされて行く時に、言葉や文化の違いがあっても、同じ神さまに愛され生かされている1人ひとりであることを知らされるのです。そして互いに必要とし合う者同士であることを経験させられていきます。
さらには、神の民である私たちの教会に、このペンテコステの出来事を通して、「キリストの福音の言葉」という、「新しい共通語」が与えられたという恵みを発見するのではないでしょうか。
バベルの塔の出来事以来、人間に与えられている言葉という賜物が、罪によって誤用され、他者を傷つけ、醜く争い、騙し、嘲り、本当に惨めな結果を生み出してきました。それが私たちの歴史でしたが、神は「キリストの福音の言葉」という共通言語を、再び人類に与えてくださったのです。そして、それを大胆に語り伝えるようにと聖霊を与えてくださったということなのです。これが聖霊の降臨によって起こった出来事、ペンテコステであり、その時以来、私たちもこの恵みに与って生かされている、ということでもあるのです。

Ⅲ.コリント教会の信徒が忘れていた霊的現実

ペンテコステの出来事以来、パウロは、主イエスを信じる全ての者に与えられる聖霊について語り、また、教会宛てに記した手紙によって、繰り返し思い起こさせていきます。
ところが一方で、罪や弱さ故に、この現実に心の目が閉ざされている人々もおりました。コリント教会の兄弟姉妹がそうでした。パウロはそうした彼らに向かって、「新しい霊的現実」に生かされていることを教えたのです。
暫く前のクリスチャン新聞に、ある調査結果が出ました。「日本人クリスチャンの平均寿命は3年弱」というものです。大変ショッキングな数字でした。これが事実とするならば大変なことですが、1つ言えることがあります。それほどサタンの誘惑が巧みである、ということです。
神さまから私たちを引き離そうとする力が、常に私たちの周りで働いているのです。そういえば、主イエスも受洗直後に悪魔の誘惑に遭っています。

Ⅳ.聖霊の命が生き生きする方向を選び取る

では、どうしたらよいのでしょうか。
「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、主が言われているからです。
高座教会では「信仰生活の5つの基本」を大切にし、それをもってぶどうの木であるキリストにつながろう、と互いに励まし合いながら歩んでいます。
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(2:41、42)
このように、聖霊降臨の出来事に与った弟子たち、初代エルサレム教会の人々の信仰生活の様子が使徒言行録に記されています。
私たちの教会が大事にしている、「信仰生活の5つの基本」は、まさにここに出て来る、彼ら初代教会の兄弟姉妹の歩みそのものなのです。
受洗後勉強会で次のようなお話をします。魚は何故、水の中をスイスイと泳ぐことが出来るのか。それは魚の命を持っているからでしょう。なぜ鳥は空を自由自在に飛ぶことが出来るのか。鳥の命を持っているからです。
ただ、鳥の命を持っていてもヒナ鳥は簡単に羽ばたくことができません。けれども、鳥の命が大きく成長すると、大空を自由に羽ばたく日がやって来ます。魚もそうです。魚の命があっても、誕生したばかりの魚は、最初は物陰や岩の陰に隠れているだけでしょう。流れに逆らい、勢いよく上流に向かって泳いだり、滝を登ったりすることはできません。しかし、やがて大きな魚になると滝を登り、自由自在に泳ぎまわることが出来るようになる。何故でしょうか。魚の命が成長していくからです。
私たちクリスチャンも同じです。聖霊をいただいている私たちが、「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることで、ぶどうの木であるキリストから枝である私たちに、聖霊の命が流れてくるのです。それによって、私たちは聖霊の実を結ぶ者とされていくのです。
そして、その聖霊の働きの1つの側面が、今日の説教題とした「4世代が喜び集う教会」が実現する、ということです。それが、使徒言行録2章16節から21節に出てきます。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17b)
聖霊が降り、聖霊の命が行きわたる時に、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが愛し合い、主を証しする共同体になるとの約束が語られています。新しい命が成長し、共同体は「4世代からなる教会」が形成されていくのです。
4世代という多様性がありつつも、そこには聖霊による一致があるのです。
使徒言行録2章に登場する初代教会は生き生きしていました。彼らは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するために、ぶどうの木であるキリストにつながり続ける中でそうなっていったのです。キリストにつながり、つながり続ける「恵みの循環」が始まっていきました。
同じ聖霊が私たちにも与えられています。聖霊による命がいよいよ成長し、この地域の人々をキリストの福音で満たすために、私たちは福音をもって仕えていきます。
私たち一人ひとりが、「信仰生活の5つの基本」を生活の土台にすえてキリストにしっかりと結び付き、「3つのめざすもの」を活動の柱として仕えていきたいと思います。
ぞれぞれの世代が、キリストにあってその違いを乗り越え、初代教会のように、共に喜び集える高座教会を、主が御建てくださるようにと祈り求めていきたいと願います。お祈りします。

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主日共同の礼拝説教 召天者記念礼拝

上にあるものに心を留めよ

2018年5月13日
召天者記念礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
コロサイの信徒への手紙3章1~3節

Ⅰ.人間のもろさ

創世記は人間について大切な2つのことを教えています。1つは、人間はチリで造られたということ。もう1つは、人間が神のかたちに造られたということです。
人間がチリで造られたことには深い意味があります。風の強い日など、それによって土が宙に舞うことがあります。そしてまたしばらくすると地面に戻ります。つまり、チリは外の力(風の力や引力等)に簡単に影響を受けてしまう存在だということです。人間がチリで造られたとは、このように、人間の持つ弱さや脆さの側面を教えています。
このことで、まず私たちが思い知らされるのは死の現実でしょう。死を考える時、死はさまざまな面をもっていることに気づきます。
死とは何か? 一般的な説明は、生物学的な意味での命の終わり、それが死でしょう。命あるものは必ず、この死を経験するということです。
以前、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉が流行りました。確かに死も皆が経験することです。極めて一般的で普通なことです。でも怖いのです。何故でしょう? ある人は「死は怖くないが、死ぬのが怖い」と言いました。ですから、ぽっくり死にたいと思います。また、ある人は死後どうなるか全く分からないから怖いと言います。
死の苦痛が耐えがたいので、〈いっそ、ひと思いに死んでしまいたい〉という思いを抱きつつ、だからと言って、ひと思いに死んだとしても、その先に何が待っているか分からない。だから不安を感じるのです。これも死が怖い大きな理由でしょう。
先程の「赤信号・・」ではありませんが、死は、決して皆で渡ることができません。死は自分自身の死であって他人に代わってもらうことなどできないからです。
牧師をしていますので臨終に立ち会うことが何度もあります。けれど、他人の死を幾度経験しても、私自身の死について、何らかの助けになっているか怪しい気がします。当然のことですが、他人の死は決して私個人の死とはならないのです。ですから死は孤独です。いや、人間は本来孤独なもので、その孤独さを暴露するのが死の事実である。それ故に怖いのかもしれません。
子どもが小さかったりすればなおのこと、〈死んだら家族はどんなに苦労するだろうか〉と思うと、死はますます忌まわしく思えて来るものでしょう。
そして死とは、好むと好まざるとにかかわらず、人生を振り返り、自分の人生の総決算を迫られる出来事でもあるのです。私たちは多くの場合、上手くいった経験よりも後悔の方が多いでしょうから、どうしても「まだ死ねない」と思ってしまいます。
私たちにとって、全ての営みの中断を突きつける死は、本当に恐ろしく残酷な現実にもなるわけです。

Ⅱ.神のかたちに造られた人間

チリで造られた人間は、他の生き物同様に死を経験します。ただ、他の生き物には感じ得ない恐怖を、死に対して抱くのが人間です。これこそが、神のかたちに造られた現実と深く関係しているのです。
創世記には「罪を犯したら死ぬ」と予告されていましたが、現実は、アダムとエバは生き続け、子どもをも授かります。
このことから、神が罪との関係で人間に予告した「死」とは、単なる生物学的な終わり以上のことだと分かるのです。そうした視点で創世記を読んでいくと、「死」は関係の断絶、特に命の源である神との断絶であることが分かります。
創世記の中で、関係の断絶を経験した人間は、自分との断絶をも経験し、自己受容が難しくなりました。そのための対策が「いちじくの葉」です。見せたくない箇所、恥ずかしい所、知られたくない場所に葉っぱをペタッと貼って人前に姿を現し、相手に受け入れてもらおうとするのです。ただそれは本当の自分の姿ではありません。飾った姿、背伸びした姿ですから窮屈で疲れます。けれどもそうしないと不安でたまらないのです。そして何かの拍子に「いちじくの葉」がハラリと落ちることもある。
本来、神との交わりによってこそ本当の充足を経験するはずの人間が、神との断絶、命の源である神との断絶によって、その心の奥深くに、他の何によっても満たすことのできない空洞が生まれるのです。これが聖書の教える死です。
では、この死がもたらす悪循環を断ち切る道はあるのでしょうか。それは主の十字架です。
主イエスは、チリで造られた私たちの死、神のかたちに造られた私たちの死という、2つの死に対する解決の道を、十字架で完成してくださったのです。

Ⅲ.上にあるものに心を留めよ

キリストは救いの業を成し遂げて復活し、今は天に上げられ神の右に座しておられます。
パウロは、コロサイの信徒の手紙で「上にあるものを求めなさい」(3:1)と勧めています。この「上」とは「キリストのおられるところ」です。神の御許です。先に天に召された愛する家族が、キリストにあって安息をいただいている、そのところです。そのことを思うことが許され、なおかつそれを求めるようにと勧められています。
2節で、パウロは再び「上にあるものに心を留め」と繰り返しています。そして、その具体的な生き方は「地上のものに心を引かれないようにしなさい」ということです。
パウロの言う「地上のもの」とは、さまざまな思い煩いでしょう。「苦しまないで死にたい」、「死ぬ時は独りぼっちで寂しい」、「はたして自分の人生は満足な人生だったのだろうか」…。そうした1つひとつの思い煩いです。私たちにとって当然な思い煩いです。
そして、それらはどれも地上に属する思い煩いです。こうした思い煩いは、時間をかけて、どれほど真剣に思い煩っても、チリで造られた私たち人間にはどうにもできない類の思い煩いです。
ですから、そういう思い煩いの淵に沈んで、自分を見失ってしまわないようにと、聖書は「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているの」(コロサイ3:3)だから、自分の生死を神さまに委ねていきなさいと勧めるのです。
主がその断絶に十字架をもって橋渡しをしてくだるのだから、主を信じ、さらに自分自身とも和解し、周囲とも和らぎなさいと言うのです。こうしたことこそが、「上にあるもの」を求め「地上のもの」に心引かれない生き方なのです。

Ⅳ.神さまの親切の反映

Sさんというクリスチャンがいました。彼は進行性筋ジストロフィーと闘った人で、23歳で召された方です。彼が14歳の時、次のような詩をつくりました。
「人間の心なんて 積み木みたいなものなんだね ちょっとさわればすぐ崩れてしまう」
Sさんは自分の心が、そして周囲の健康な人をも含めて、人の心が積み木のように壊れやすく脆いものだと言うのです。
その詩はさらに続きます。「だから神さまの根を心の中にたくさん張らしておかなくてはならない」と。
14歳と言ったら中学2年生です。ある人が「聴」という漢字は「耳偏に十四、そして心」と書くことから、「聴く」とは、その字のごとく「十四歳の心をもって耳を傾けることだ」と書いておりました。
Sさんは、まさに14歳の感受性の鋭い心をもって、自分と周囲の人々の優しく壊れやすい心を一生懸命、観察したのでしょう。だから、「僕の心」とだけ書かないで、彼はこの詩を「人間の心…」と書き始めたのだと思います。
この少年は、私たちの心がいかに脆く、積み木みたいに壊れやすいかを実感していました。だから彼は「地上のもの」の限界、チリで造られた自らの限界を受けとめ、キリストと共に、神の内に隠されている自らの本当の命を見いだすために、永遠の命という宝を盛ってくださる主イエスの神に心を向けるように、「上にあるものを求め」ました。
<僕たちの心は積み木みたいにもろいものであるからこそ、神さまへの信仰が大事なんだ。だから、神さまの根を、その積み木のような心の中にたくさん張らしておくことが大切なんだ〉と詠んだのです。
キリストは永遠の命を与えるために十字架にかかり、復活されました。そしてキリストを信じる者は神の支えの御手を常に意識しながら、死という巨大な壁を乗り越え、天の御国へと凱旋することを確信できるのです。
その証拠に、愛する者たちが召される時、その死が何としばしば、私たちを驚かせるような、平安で静かなものであることでしょう。
それは決して偶然ではありません。ある人は、死のことを「神が疲れた兵卒を地上からみもとに召集なさることだ」と、信仰の立場から言っておられました。
また、別の人は病気で死んでゆく状況をさして「神の親切を反映したものだ」とも言っています。
罪赦され、永遠の命を与えられて神の御許にいるという信頼のあるところで、私たちは死という最も無力を感じさせる現実の中で、神の助けが最も強まることを経験するのです。
そして、キリストに受け止められて生きるという命は、死をもって始まるのではなく、すでにもう私たちの中で始まっているのです。
私たちの愛する家族、兄弟姉妹はキリストの御許に安息を得ています。いつか召され、そして復活する時、私たちは、主にあって愛する家族、兄弟姉妹との再会があることを覚え、日々、平安のうちに歩む者でありたいと願います。
お祈りします。

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主日共同の礼拝説教

主イエスだけを見つめて

2018年5月6日
松本雅弘牧師
イザヤ書65章13~19節
マタイによる福音書14章22~36節

Ⅰ.主イエスはだれなのか、を問い直す経験

マタイ福音書には「山上の説教」が出て来ます。それに代表されるように、マタイ福音書は、イエスの弟子になる道を説いている福音書だと言われています。
その観点からすれば、今日の出来事も、弟子たちが、主イエスに従うということが一体どのようなことなのかを学んだエピソードとして紹介されていると言ってよいでしょう。
ところで、主イエスのお姿はいつも見えているわけではありません。主が共におられる恵みの中にあると言いながらも、残念ながら、そうした神の国の現実を常に覚えているわけではないのです。突然、逆風が吹くと、主イエスの姿が見えなくなります。
それがここで弟子たちが経験した出来事でした。この時、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸へ行くようにと命じられました。あの奇跡の食事の後です。そこは物凄い興奮に包まれて、主がメシアとして担がれていくような場面です。「この方こそ、メシア・まことの王です」と訴えれば多くの人が耳を傾け従ったことでしょう。弟子たちも期待したと思います。でも、それは主の御心ではありませんでした。まだその時は来ていなかったのです。
それどころか、主イエスは、弟子たちを群衆と御自身から引き離し、強いて舟に乗せ、向こう岸へと出発するように命じたのです。その結果、彼らは嵐に遭うことになりました。

Ⅱ.「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

嵐は吹き荒れました。乗っているのは、びくともしない大きな船ではなく、葉っぱのようないつ沈むかわからないような小舟です。
彼らの様子を見る時、信仰をもっていても、不安に襲われ脅えることがあるのだと改めて思い知らされます。信仰をもたない人と同じように、いや信仰をもったが故に、もたなかった時以上に悩むことすらあるのではないかと思います。
この時、嵐の中での恐怖に加え、彼らの心をさらに混乱させたことがありました。〈もとをただせば、イエスさまが、自分たちだけを舟に乗せて、強いて送り出されたからではないか〉という思い、主イエスに対する疑いの思いです。
ちょうどそうした時でした。主イエスが湖の上を歩きながら近づいて来られたのです。
漕ぎあぐんでたどり着いたスポットは、陸から「何スタディオンか離れた」ところでした。ヨハネ福音書には「25ないし30スタディオン」(6:19)とありますから、ちょうど湖の真ん中あたりでしょう。
弟子たちが夜通し悩み続けていた時に、真の助け主であるお方が、確実に、それも一歩一歩近づいて来ていたのです。ところが、それに気付いた弟子たちは、恐怖のあまり叫び声まで挙げてしまう。そして、「幽霊だ」と言って怯えたのです。滑稽と言えば滑稽ですが、彼らを笑うことも責めることも出来ません。
だれが水面を歩くでしょうか。水の上を歩ける人間など一人もいないわけですから…。しかし救い主イエスは、そうした弟子たちを救うために一歩一歩近づいて来られるのです。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいました。
ここで重大なことを主イエスは口にされました。「わたしだ」という言葉です。現在も、多くの専門家たちが研究を重ねる程に深い意味のある言葉です。特別な表現です。
「私はいる」(I am)とも訳せる言葉。つまり、主イエスの存在そのものが助けだというメッセージです。小さな子どもにとっての「お父さん」「お母さん」のようなものです。お父さん、お母さんが居てくれれば安心です。姿が見えなくなると、急に不安になるのが子どもでしょう。
でも、不安になった時、「ここにいますよ」とお母さんに呼びかけられる。その声が誰の声であるか、子どもはよく知っています。「ああ、お母さんだ。お母さんがいる」、もうそのこと自体が子どもにとっての救いです。そういう安心感です。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この呼びかけは、そのような言葉として聞こえました。親しみのある主の御声だったからです。
ペトロにとって、他の弟子たちにとって、我が子を安心させるお母さんの声のように、そのような救いの言葉として彼らは聞いたのです。

Ⅲ.信仰の冒険

ペトロはこの言葉に飛びつきました。その声を聞き、そのお方が主であることを知り安心します。そして、「イエスさま、あなたでしたか。主よ、あなたでしたら、わたしに命令し、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ったというのです。
これこそ信仰の冒険です。「信仰の冒険」とはイエスの御言葉を信じること。御言葉の約束を信じて、一歩、前に歩みだすことです。すると冒険した者にしか味わえない恵みや祝福にあずかることになるのです。
考えてみてください。ペトロは、この時までの主イエスとの生活を通して、主が共にいてくださる恵みがどういうものなのかを味わい知っていたはずです。マタイ福音書で言えば、今日の14章に至るまでのさまざまな出来事を通して経験してきたわけですから。
思うに、ペトロは主イエスを試そうとしたのではないでしょうか。嵐の中です。波にのまれそうな、そうした状況であったにもかかわらず、イエス・キリストを信じて歩み出そうとするのです。そのペトロに向かって主も「来なさい」と言われる。ペトロはその言葉を信じて自らの足を水の上に置くのです。
主イエスさまをまっすぐに見つめながら歩き始める。すると本当に不思議にも水の上を歩くことが出来ました。ところが、そこに強い風が吹いてきたのです。激しい風にあおられた大きな波がこちらに向かってきます。ペトロはそれを見て怖くなりました。その瞬間、主イエスから目をそらしてしまいます。すると途端に沈みかけたというのです。
これは示唆的な言葉として心に響きます。まっすぐに主イエスを見つめている時は怖くなかった。水の上さえも歩けた。でも波の方に気を取られたとたんに沈みかけたのです。「主イエスといえども、この嵐には勝てない」と、瞬間的に思ってしまったからなのでしょうか。
ある牧師は、「風を見て恐ろしくなる。この〈風を見る〉とはどういうことか?」と問題提起をしていました。
考えてみれば、私たちは、風を見ることなど出来ません。見えるのは、見えない風が呼び起こした波でしょう。その波に脅えてしまったのです。波が風を見せるからです。
主イエスに派遣されて歩み出す中、イエスよりも強いもの、イエスよりも大切なもの、イエスよりも素晴らしいものがあるかのように見せる「風」が吹き、私たちの周りにたくさん見えてくることがあります。「主イエスは救い主です」と告白して歩み始めると、「それがどうした?」と言わんばかりの「波」が目に入ります。
「信仰をもつことは幸いだ」と思った矢先に、「お前がやっていることは、時間とお金の無駄なのではないか」と囁く声を聞きます。
受洗した直後のイエス様を襲った「神の子なら、・・・・・・したらどうだ」という、悪魔の誘惑のようなものでしょう。
時に、そうした力を手に入れられたらどんなにか幸せかと考えます。まして疲れ、行き詰りを経験し、寂しさや不安を感じているような時はなおのことです。
目に入る「波」、それを起こす「風」は、本当に大切なお方から私たちの目を離そうと誘うのです。
でもどうでしょう。本当に幸いなことに、この時、ペトロたちが出会ったこの出来事はそれで「おしまい」ではありませんでした。
主は、「恐れることはない」、「なぜ疑ったのか」と声をかけ、主がおられることを私たちに気づかせてくださるのです。

Ⅳ.主イエスだけを見つめて

先週、壮年会の修養会がありました。「70周年の記念誌」委員会のメンバーが分担して発表し、それを受けてのやり取りを行いました。
御心を求めつつの歩みであっても、教会の歩みには、ある種の限界や弱さ、失敗もあります。キリスト教会の歴史を振り返る時、ある人は「人間の混乱、神の摂理」と語りましたが、私はよくこの言葉を思い出します。教会の歴史の背後には、必ず摂理の神が共におられ、復活の主がいつも共にいてくださるのです。素晴らしい慰めの言葉です。
そして、これは教会の肢としての私たち一人ひとりの人生にも当てはまります。少しだけ長く人生を歩んでくると、上手く行ったことよりも、むしろ失敗や後悔の方が多いかもしれません。まさに「混乱」です。でも幸いなことに、キリストに在る者はそれで終わらないのです。
混乱している最中に、主は一歩一歩近づいてこられる。そして、主から目をそらし、この世の荒波にのみ込まれそうになって「もう駄目だ! 主よ、助けてください」と叫ぶと、主は力強い御手を伸ばし、私の手をぐっと掴んで引き寄せてくださいます。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、嵐を静めて、「本当に、あなたは神の子です」との告白へと私たちを導かれるのです。
私たちはこのお方から決して目を離してはなりません。しっかり前を向いて歩いていきたいと願います。
お祈りします。