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主日共同の礼拝説教

キリストの割礼

2018年6月24日
和田一郎副牧師
創世記17章9~14節
コロサイの信徒への手紙2章11~12節

1、キリストの割礼

今日の聖書箇所の11節の最初に、パウロは「あなたがたは」と、ありますが、これはコロサイ教会の人々に向けて、パウロが励ましのメッセージを送っているのですが、これはそのまま私たちに向けて、「高座教会のあなたがたは」とも受け取れるメッセージです。
あなたがたは洗礼を受けている。それは「手によらない割礼」です。ここを丁寧に訳すと、「人の手によらない割礼」となります。つまり人間の力ではない、霊的な割礼をあなた方は受けているのです。「割礼」という言葉は、先ほど読みました創世記17章で初めて出てくる言葉です。アブラハムが神様と契約を交わしたアブラハム契約の場面ですが、そこで神様との契約のしるしとして、割礼を施すことを命じられました。割礼は男性の生殖器の包皮を切り取るという痛々しいものですが、これは人間の罪の汚れを取り除いて、神様に受け入れていただく「しるし」を意味していました。「しるし」とは言っても、単なる儀式や外見的なものではありませんでした。預言者エレミヤは「心の割礼」であることを強調していて、割礼は霊的なもの、イスラエルの民が神の民であるのは外見だけではなくて、心の内側にあるものが、きよめられることを意味していました。
それが新約聖書の時代になって、割礼に代わるものが洗礼となりました。11節の後半にある「肉の体を脱ぎ捨てる、キリストの割礼」とは、汚れた人間の罪の性質を脱ぎ捨てるための、キリストによる、新しいしるしです。

2、私たちはキリストと共に「葬られた」

12節には「洗礼によって、キリストと共に葬られ」た、とあります。「葬られた」のは古い自分です。イエス様は十字架に架かられて死んで葬られました。しかし、私たちが、キリストの死と葬りに預かっていることは、あまり意識していないかも知れません。パウロはコロサイの教会や私たちに向けて、古い私たちは死んで葬られたこと、そして、私たちの命は今キリストと共にあることを思い出させてくれます。私たちはキリストと共に十字架にはかかりませんでしたが、キリストの死と葬りに参与しています。違った意味で、私たちは死んで葬られたのです。古い生き方に生きていた頃は、人から評価されることが自分の価値だと思ったり、目に見えないものよりも、目に見えるものに目が奪われて追いかけていました。そういった、かつての自分の価値観を葬ってくださいました。新しい生き方が始まっているのです。
ある青年が心の中で葛藤していました。自分が貪欲で、人の為に何かしようとか優しく振舞おうとしても、それができなくて、反対に人を傷つける言葉や態度をとってしまいました。何で自分は、いつもこうなのだろう。ほとほと自分が嫌になっていた時、田舎に帰って御婆さんに話したそうです。「もう自分が嫌になって、死んじゃいたいよ」。するとお婆さんは、穏やかな顔をして「そうだね、いっそ死んじゃった方がいいかもね」と答えたと言うのです。その青年はビックリしました。「死んでしまったらお終いだよ」とか「生きていればいい事がある」と、言ってくれると思ったのです。現実に悩みを抱えている人からして見ると、生きているということは、まさにそのことが苦しいのに、それでも「生きろ」と言われてしまうとプレッシャーになります。しかし、その青年は「死んじゃった方がいいかもね」と言われた時、不思議と楽になって「生きようと思った」というのです。おそらく御婆さんは本気で「死んだらいい」と言ったのではないと思いますが、青年がしがみ付いていた何かが、お婆さんの言葉で消えて、力が出てきたのです。

3、私たちはキリストと共に「復活」した

パウロは、ここで古い自分はキリストと共に葬られたと言います。古い自分には死んでもらわないと、次には行けないものです。しかし、死んで終わりにはなりません。
12節「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」
わたしたちクリスチャンは、イエス様の復活にも、すでに与かっていることにも、どこか実感をもてないかも知れません。イエス様は十字架の死から復活されました。それと同じ力が私たちの中にも働いています。パウロは2コリントの手紙でも同じように語っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」2コリント5:17
わたしたちは洗礼を受けた時に、キリストによって新しくされました。私たちは新しい自分を身に着けて、日々新しくされていきます。これは自分の行いによるものではありません。つまり、神様の力によってであり、それはイエス様を墓から甦らされたのと同じ力です。私たちはこの力をもって、日々、復活した者として進んで行くことができます。イエス様の復活は自分の復活でもあります。同じコロサイ書の3章10には、私たちは、日々新しくされて生きるとパウロは言っています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」コロサイ3:10。
先ほどは、古い自分に死なないと、次には行けないと言いました。死の次は復活です。
霊的には、イエス様が死んで葬られたように、同じ神の力をもって、日々復活させられるのです。私たちは毎日、聖書の御言葉に生かされます。聖書の言葉に触れる時、古い自分が死んで、新しい自分が生れます。毎日この力をもって、死んだ者だけれども、また復活した者として、また一歩前に踏み出せます。生きている間に「何回死んで、何回生まれ変われるか」ということの中に、キリスト者として生きる醍醐味があるのではないでしょうか。

4、そして「復活」は今を生きる希望

キリストの復活は、いつかやがてやってくる、私たちの希望でもあります。昨日は、「天国への引っ越しに備えて」といって、死に備えるというセミナーがありました。キリスト教の考える死には、その先に復活という希望があるのが特徴です。そのことをシンボルとなる花を通して話しをしました。日本を代表する花である桜ほど、日本人に愛されてきた花はないかも知れません。桜はぱっと咲いて、ぱっと散ります。美しさと、はかなさを感じさせます。それが日本人の死生観を表していると言われます。戦争当時は「国家のために命を捨てる日本人」というイデオロギーを意図的に作り上げられました。人の命とは「はかないもの」、それは美しい、という死生観と結びついています。
一方でキリスト教会では、「ゆり」を復活のシンボルとしてきました。冬の長い眠りのあと、土の中の堅い球根から新しい命をみせる様子を復活のシンボルとしてきました。白い花の色はキリストの純潔、花びらを正面から見た形はダビデの星、花の中央のめしべの先には三位一体のしるし、そして全体の形は終末の時に吹かれるラッパの形です。「ゆり」は復活の希望を表しています。決してはかなく散って消えてしまうものではありません。キリストを復活させられた神の力によって、私たちは洗礼を受けた時にも、新しい命に変えられ、日々御言葉によって新しく変えられ、やがて死が訪れても、その先に復活という希望があり、その希望の中を生きています。自分に死んで、キリストに生きることが、私たちの中で成されていく、これが神からの恵みとして与えられました。
今日、皆さんにお願いしたいことは、この一週間も日々、古い自分に死んでもらいたいということです。それは「傲慢な自分」でしょうか、「弱虫な自分」でしょうか。古い自分に死んで新しい自分を生きるために、神様の力に信頼していきましょう。お祈りします。

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喜んで負ける主イエス

2018年6月17日
松本雅弘牧師
詩編63編2~12節
マタイによる福音書15章21~28節

 

Ⅰ.主イエスによる拒絶

「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」。
ティルスとシドンというのは地中海沿岸の北部都市でユダヤ人からすれば辺境の地、異教徒の地、誰も行きたがらない場所でした。
そこにやってきた主イエスの一行を、意外な人が追いかけてきたのです。それは、この地方出身の1人のカナン人女性です。
その彼女がこう叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
「ダビデの子」とはイスラエルに対する救いを約束する言葉、「救い主」と言う意味です。彼女が用いた「ダビデの子」とは、あくまでもユダヤ人を救う救い主の呼び名です。
ここで、カナン人の彼女がユダヤ人の救い主に助けを求めているのです。周りにカナン人がいたかもしれない。彼女の口から飛び出した、その言葉に周りの人たちは驚き、あっけにとられたのではないでしょうか。ただそこには理由がありました。それほどまでに彼女は切羽詰まっていたからです。
ところが、主はこれに対して何もお答えにならなかったのです。たまりかねた弟子たちが主イエスに執り成すのですが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」(24節)と、冷たい返答でした。
しかし彼女はめげません。弟子たちと主イエスとが話をしている、その間にスッと入るように近寄り、御前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください。」と嘆願したのです。
彼女が使った「お助けください」という言葉は、「人の悲鳴を聞いて駆けつける」という意味の言葉だそうです。彼女はこの言葉を主イエスに向けて使ったのです。それは、まさにこの時の彼女が置かれている状況がそうだったから、溺れかかっているような状況だったからです。
こう訴えられてしまったのですから、主イエスは振り向かざるを得なかったでしょう。ところが振り向いたイエスさまが彼女に言った言葉が、これまた意味不明なのです。
「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」というものでした。これは3回目の肩すかし、拒絶です。
最初の拒絶は23節、「何もお答えにならなかった」。2度目は24節、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」です。
神さまがおられる。それも実に立派な愛の神さまです。ところが、その立派な愛のお方が全く沈黙しているだけなのです。御顔をこちらに向けてくださらなければ、何の意味もありません。いや、やっとのことで振り向いてくださったにもかかわらず、「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」なんて言うだけの神でしたら、むしろ絶望は深まるだけでしょう。

Ⅱ.3回目の拒絶

ここで、主イエスはユダヤ人を子どもにたとえ、彼女たち異邦人を犬にたとえられました。これは一種の侮辱でしょう。
しかも彼女1人だけでなくカナン民族全体を侮辱する言葉です。ここまで言われれば、言われた方は憎まれ口をたたいて去って行くしかないでしょう。
けれども、彼女は負けていません。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と訴えたのです。
このように冷静に、主イエスの一枚上を行くように、主が使った言葉を用いながら、上手に軌道修正し、自分の主張に結び付けていくのです。本当に冷静で賢い女性です。
それほどまでに、彼女は主の憐れみを必要としていたのでしょう。22節、25節、そして27節と、この時すでに三度、彼女は「主よ、主よ、主よ」とイエス・キリストに訴えかけています。
そして、とうとう主は、この彼女の訴えにお答えになったのです。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(28節)
そしてこの瞬間、遠く離れたところにいた娘の病気が癒されました。何かホッとします。

Ⅲ.大きな信仰

ここで主は、「あなたの信仰は立派だ」と言われました。この「立派だ」という言葉は、原文では「大きい」という言葉です。ですから直訳すれば、「大きいな! あなたの信仰は!」となります。
これ以前に、弟子たちに対しては「何と信仰の小さい者たちよ。」と言われているのです。ところが、名もないこのカナンの女に向かっては、「大きいな! あなたの信仰は!」と褒められたのです。彼女は何を褒められたのでしょうか。説教を準備しながら、私はこの違いについて考えてきました。
1つだけはっきりしていることがあるように思います。それは、ここでイエスさまの方がお考えを変えた、ということ。それも、この女性の信仰の大きさの故にそうなった、ということです。

Ⅳ.喜んで負ける主イエス

主イエスは論争の名手です。次々と吹きかけられる議論でも決して負けません。ところが今日のところでは、主が負けておられます。しかも、何か喜んで負けておられるように思えるのです。ある牧師が語っていました。主イエスの笑顔が見えるようだ、と。
マタイ福音書には、主イエスの大切な宣教命令の言葉が2回出て来ます。その1つが、福音書の最後28章の派遣命令で、もう1つは10章5節と6節に出て来る言葉です。
10章の方は、「異邦人の道へ行ってはならない。…イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と、派遣先が限定されています。
これに対して、2回目の宣教命令は「あなたがたは行って、すべての民を…」とあります。
1回目と2回目の間には、大きな変化があります。ここで、カナンの女性の願いに対して語った主イエスの言葉は、1回目の派遣の言葉と同じ内容です。彼女を全く相手にしていないのです。
ところが、彼女は必死になって助けを求め続けます。しつこく、しつこく主に訴えるのです。
その結果、主イエスはまるで降参でもするように「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って、娘の病気を癒されたのです。
聖書の専門家の中には、このしつこいカナンの女性に出会って、主イエスご自身の意識が変わっていったのだ、と解説しています。
主は名もない異邦人の女性との出会いによってご自分の宣教方針を変えられたのかもしれない。もっと豊かな方向、愛情深い方向に変えて行かれたのです。
偉大な人に出会って影響を受けたのではないのです。全く弱い、力のない人との出会いによって主イエスの方針は変わってしまったのです。そこで本当のメシア、救い主としての使命を意識され、十字架へと向かって行かれました。
そして復活の後、最初に墓に行った婦人たちに、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)とおっしゃいました。復活の主は、あの異邦人の地ガリラヤで弟子たちに会われたのです。
それはまさに、ユダヤ人だけではなく、「すべての民に」、すべての人に救いを、という主イエスの福音のメッセージと調和するのではないでしょうか。
そう言えば主イエスは、天の国はパン種のようなものだと、教えてくださいました。「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(13:33)と語られました。
小麦粉にパン種が入ると膨らんでパンになる、というのです。
パン種、それは全体の小麦粉にとっては、ある意味、異物です。何か違うものです。でも小麦粉の中にパン種が入らないとパンにならないのです。膨らまない。これは、まさに教会のたとえのように思うのです。
自分たちだけで分かり合い、お互い仲良くやっているだけでは、全く膨らまない。確かに楽しいかもしれない。それなりに充実感もあり、安定感もあります。でも膨らまなければ美味しいパンにはならないのです。そのためにはどうしても、パン種という異物、まったく違う異質なものが入り、化学反応が起きなければ難しいのです。
私たちは、どうしてもこのパン種/異物を恐れる傾向があります。そして逆に、それを取り除こうとするのです。
でも、パン種が入らなければ膨らみません。ですから、私たちが自分たちの内に、どれだけパン種を取り入れて、神さまに膨らませていただけるのか。膨らまそうとするのか、そのことが問われているのだと思いました。
そして、イエスさまにとってパン種とは、まさにこのカナンの女性だったのではないでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)
イエス・キリストは、この言葉が真実であることを、このカナンの女性に対して示してくださいました。真実な思いには真実をもって、時には喜んで負けることをもって応えてくださるのです。
一見、神さまから見放されたように見える時、突き放されたように思える時、実は、私たちの信仰が試されているのです。私たちも、この女性のように、主に食い下がっていく信仰をもちたいと願います。お祈りします。

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心配から信頼へ

2018年6月10日
松本雅弘牧師
詩編127編1~2節
マタイによる福音書6章25~34節

Ⅰ.時間泥棒との戦い

神学校の校長先生が私たち学生に1冊の児童書、『モモ』(ミヒャエル・エンデ作)を紹介してくださいました。
主人公の少女モモは、痩せっぽちで、いつもボロ服を着ています。ただ、とても不思議な子で、彼女が居ると、憎しみ合う2人は仲良くなり、子どもたちの遊びも不思議と素晴らしく楽しいものになるのです。人生を諦めかけた人も、彼女に話を聞いてもらうと心の内に勇気が湧いてくるのです。
ところが本を読み進んでいくと、次第に街の様子が変化してきます。より幸せな人生、より豊かな暮らしを求めて人々の生活が忙しくなって来るのです。明日の成功を勝ち取るために、1秒の時間も無駄にできません。確かにお金は貯まり、生活も便利で快適になる。でも、反面、人々の心に落ち着きがなくなり、不機嫌で怒りっぽくなっていきました。その原因は何でしょうか。物語では「時間泥棒」が時間を盗んでいたからだ、という話です。
そして、人々は「子どもは未来の人的資源だ」と考え、将来は専門職が多く必要になる。だから未来に備えて、遊びに浪費させるのではなく、今からしっかり教育することが大事だ、と言って「子どもの家」という教育施設を作るのです。
その施設の様子が描かれています。「こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びを決めるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、何か役に立つことを覚えさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れていきました。ほかのあること、つまりそれは、楽しいと思うこと、夢中になること、夢見ることです。」
いかがでしょう。大人たちが教育の名のもとに効率や利益を優先させる。その結果、子どもの生活は損なわれていくのです。効率と損得の物差しが優先すると、必ず、切り捨てが生まれます。お金儲けにつながらないことは後回しに、お金儲けにつながらない子どもたちは次第に疎んじられていくのです。
子どもたちは自分がそうした扱いを受けていることを知りませんから、悲しいことに、その被害を黙って、その心と身体とで受けとめていってしまうのです。
この本を校長先生に勧められた時、正直、〈子どもの本でしょ…〉と思っていました。〈でも校長先生が勧めてくださるのだから、まあ、読みましょう…〉と手に取った書物です。
ところが読んでみると、まさに、現代社会を予言するような内容で、あれから30年以上経った今も、キラッと光るような言葉に出会います。それどころか、聖書のメッセージと響き合うように思うのです。
ところで、この『モモ』のテーマは、時間泥棒との戦いです。時間を奪われた人々の心に植え付けられた物語は、「『今、この時』は明日に向けての準備の時」という物語であることが分かります。「『今、この時』は明日に向けての準備の時」という偽りの物語によって、私たちの日々が、そして、ひと時ひと時が翻弄され、忙しくなり、大切なものが損なわれていくのです。

Ⅱ.「今、この時」に生きることから遠ざけるもの

イエスさまはそうした私たちを、「時間泥棒」から取り戻そうと御言葉を語ってくださいました。
イエスさまは「思い悩むな」と言われます。私たちにとっての悩み、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という実際的な思い悩みを、イエスさまはひと言でまとめた言葉で語っておられます。それは「明日を思い悩む」ということです。
「『今、この時』が、明日に向けての準備の時」と言われたならば、私たち誰もが焦りを覚えるのではないでしょうか。明日、何が起こるのか誰にも分かりません。そうしたことを考えれば考える程、私たちの心は不安にさせられていきます。ですから、明日に向けての準備のために、大事なことを犠牲にし、今の時を、アクセクと過ごしてしまうのです。
幼稚園は小学校へ行くための準備、小学校は中学校へ行くための準備、高校は大学受験のための準備、大学は就職のための準備、会社での働きは老後の準備…、そうやって来ると、退職後は何のための準備となるのでしょう。
最近、『終わった人』という映画の宣伝を目にしました。映画化されるとは知らずに、今年の始めに原作を読んだところでした。
主人公はまさに、「『今、この時』が明日に向けての準備の時」という物語をずっと信じて定年を迎え、定年になってみて、実は、その物語が通用しないという経験をする人です。
私たちが思い悩み始めると、悩みの種は、掃いて捨てるほどに、次々と思いつくものだと思います。次から次へと、思い悩みの種は、尽きることがありません。
イエスさまは「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)と言われました。
空の鳥、野の花をよく見なさい。神の造られた自然世界を注意して観察して御覧なさいとイエスさまは勧めます。
そうすると、本当に不思議なのですが、空の鳥は養われ、さえずり飛び交っている。野の花も綺麗な花を咲かせている。空の鳥、野の花でさえそうであるならば、まして、あなたがたはなおさらのことではないか、とイエスさまはおっしゃるのです。
空の鳥が自分たちだけで生きているのではなく、野の花も自分たちの力で装っているのではない。空の鳥も、そして野の花も、神さまによって養われ、生かされている存在なのですよ。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26節)と言われ、あなたがたを守り養う神さまがおられることを知りなさい、とおっしゃるのです。

Ⅲ.今、この時を生きる

『モモ』によれば、「子どもは未来の人的資源だ」ということで、子どもたちにとって「今、この時」しかできない遊びを、「役にもたたない遊び」と呼んで、子どもたちから取り上げてしまおうとしています。
そして、「これからは、ジェット機と電子頭脳の時代になる。こういう機械をぜんぶ使いこなせるようにするには、たくさんの専門技術者が必要だ。そうした人材になるように、今から、将来に備えて、準備をしていきましょう。役に立たない遊びで、貴重な時間を浪費することを避けましょう」ということで、「子どもの家」という教育機関を作るわけです。
これによって、何が起こったか、と言えば、子どもたちにとって、「今」しかできないこと、「今ならではのもの」としての「遊び」が取り上げられていくのです。
聖書の御言葉によれば、3歳の子は3歳らしく、4歳の子も4歳の子らしく、5歳は5歳らしく、そしてその子はその子らしく、生きることが大切でしょう。「今」の、そうした“らしさ”はダメ、もっとこうなるために準備をし、頑張りましょうと、神さまは決して強いることはありません。むしろ、「今」ならではの味を出し切って生きるように、それを子どもたちに、そして、私たちに、神さまは求めておられるのです。次への準備のために、今、この時を損なってはいけないのです。「今」を、「今」ならではのものとして存分に生きること、そのことこそが、実は、次への最良の準備となると、神さまはわたしたちに教えておられます。

Ⅳ.人生の旅を楽しむために

ある年配の牧師夫人が子育て中の牧師夫人たちに向かって語ったメッセージを聴いたことがあります。
子どもが小さい時には、なかなか子育てを楽しめない。ただ過ぎ去ることだけを願ってしまう。でも少しだけ長く旅をしてきた者にとっては、〈もっとゆっくり、その時々を味わって生きてこられたらよかった〉と思うのが実感です。
そして、牧師夫人は「私にとって人生で一番素晴らしい、そして、懐かしい香りは、お風呂上がりの、赤ちゃんのお頭(オツム)の香りです」と、しみじみ語りかけていました。これを聴いて、私も納得してしまいました。改めて、「今、この時」を生きることは、神さまが私たちに願っておられることであり、また、今の時を生きるって楽しいんだ、と実感することが、神さまからのプレゼントなのだと思わされたのです。
聖書も人生を旅にたとえて語ります。人生の旅の途中に、四季折々の喜びを主は備え、楽しませてくださいます。目的地に向かって一目散に突っ走るだけでなく、旅の途中、旅そのものの中にこそ目的があり、色々な景色を見、人々と出会い、様々な経験を喜んで生きるのです。きわめて人間らしい生き方でしょう。そのことを楽しみながら、私たちは主と共に歩むことが許されています。
旅の同伴者である主は、『あしあと-フットプリンツ』の詩のように、ある時は背負ってくださり、時に叱り、励まし、慰めて共に歩いてくださいます。このお方がおられることを心の目を開いて見続けて行く、それが時間泥棒から解放し、「今、この時」を生きる喜びで私たちを満たしていただける人生の旅なのです。
私たちの人生の旅、私たちの日々の歩みを、心配から、信頼へと導いていただきたいと願います。お祈りします。

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人を汚すもの、人を生かすもの

洗礼・転入会式

2018年6月3日
松本雅弘牧師
ヨエル書2章12~17節
マタイによる福音書15章1~20節

Ⅰ.手を洗ったか、洗わなかったか

1つの事件が起きました。ファリサイ派の人々、そして律法学者がやって来て、主イエスの弟子たちが、食事前に手を洗わなかったことを咎め、それによって主イエスとの間に論争が起こったのです。
当時のユダヤ教は、食事は神聖で、それは清められた時であり、食物に触れる手が汚れていることは許されないことでした。そのため食前に手を洗うことを教えられていました。それも洗い方に関する具体的な規定が「言い伝え」として継承されていたのです。
その「言い伝え」を守らないことは、神の神聖さを軽んじ、清い生活を重んじていないと見なされました。ファリサイ派や律法学者たちは、このことで主イエスを咎めたのです。しかも、そのことのためにわざわざ、遠いエルサレムからやって来るほどでした。
この出来事は一見、他愛もない事が原因の論争に見えますが、実はこれを契機に、主と当時の指導者との間に、闘いの火ぶたが切って落とされていくのです。
主イエスはそのことを承知だったと思います。ですから「偽善者たちよ」と、敢えて事を荒立てる挑発的な言葉を、面と向かって彼らに浴びせるのです。
普段は柔和なイエスさまが、なぜ、と思うほどです。理由は明らかです。怒っておられたからです。それは、彼らが「自分たちの言い伝えによって神の言葉を無にしてい」たからです。

Ⅱ.主イエスによる反論

「神の言葉を無にする」とはどういうことでしょうか。
ある年老いた夫婦に息子がいたとします。両親の生活ぶりを見た息子が、家にある、ある物をあげれば両親はどんなにか助かり、喜ぶだろうと考えました。しかもそのことは「父と母を敬え」という教えに適う行為でもあります。
でも一方で、その物を手元に置いておきたいという思いもありました。そこで、そのような時に息子が「お父さん、お母さん、悪いけど、これは“供え物―コルバン”と決めた。神に捧げることにしたから、悪しからず。」と言うことによって、その物は「父母に与えないでよい」という「言い伝え」がありました。「コルバン/供え物」と宣言した息子は「言い伝え」により、実際に両親に物をあげる義務を免除されたのです。
ここで主イエスは、そうした「言い伝え」は、聖書の教えに反すると言われました。そして、「偽善者たちよ。イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ」(7節)と言って、イザヤ書の聖句を引用し、彼らファリサイ派と律法学者の行為を糾弾したのです。

Ⅲ.人を汚すもの

イエスに「偽善者」呼ばわりされ、反論できないほど論破されてしまったファリサイ派、律法学者たちは、このイエスの言動につまずきました。ここで言う「つまずく」とは、「カンカンになって怒っている」という意味があります。弟子たちから、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのを御存知ですか」と言われ、それを知った主イエスは、次のように語られました。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と。
旧約聖書は、イスラエルの民を「神に植えられた木」と表現しています。自分たちは神に植えられた特別な存在だ。従って誰も引き抜くことはできない。必ず成長し、実を結ぶという確信です。
しかし現実は、ユダヤは当時、ローマの支配下にあり、以前から何度も異邦人の国によって支配され続けてきたのです。そのような中で、なおも自分たちの信仰、民族としての誇りを守ろうと考えた人々、その代表がファリサイ派の人であり律法学者であって、彼らは自分たちを「まことのイスラエル」と呼び「神に植えられ選ばれし者」との誇りを持って生きていたのです。
ところが主イエスは、その彼らについて「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と言われたのです。
これはかなりの問題発言です。誰よりも聖書を熱心に学び、ひたすら御言葉に生きようと努めていた彼らに対して、「ファリサイ派の人々、彼らは天の父がお植えになった者ではない。だから必ず抜き取られる」と、イエスは言われたのです。
彼らがつまずき、カンカンになって怒るのは無理のない話です。しかし、主イエスは彼らが怒り狂うこと、そのことを百も承知の上でそう断言なさったのではないでしょうか。
今日、高座教会は、新しい神の民、洗礼・入会者を迎えます。私たちが信仰生活を始められるのは、イエスさまの言葉によれば、神さまが植えてくださったからでしょう。だから私たちは信仰生活のスタートを切ることができるのです。
ファリサイ派の人々もそうでした。ところが、主イエスは「しかし」と言われます。「しかし、今の彼らの生き方は違う」とおっしゃるのです。
聖公会の牧師であり聖書注解者であったジョン・ストットは、ファリサイ派の生き方、彼らの信仰のあり方について、神の言葉の周囲に規則や律法という垣根を張り巡らしてしまった状態と表現しています。
御言葉は「神を愛し、隣人を愛する」と教えているのだとジョン・ストットは言います。
ファリサイ派は、その御言葉の周囲に、言い伝えや規則という垣根を設け、「そうした規則を守る事で神を愛したことにしましょう。隣人を大事にしたことにしましょう」と言って、神を愛し、隣人を愛することを、その時、その場面で主に祈り求め、真剣に考え、葛藤することをさせないのです。
そういう信仰のあり方は、結局、神さまを愛する、隣人を愛することを抜きにしても成立する、安心を得るための道具のようなものです。そうした宗教の在り方には、さらにもう1つの落とし穴があります。規則に従わない人を批判し、裁き始めるのです。そこには、巧みな自己正当化が潜んでいます。そうなって来ると聖書の信仰から完全に離れ変質してしまうのです。
さてこれまでは、群衆が主イエスの方にやって来たのですが、この時、主は群衆を呼び寄せて語っておられるのです。何故なら、どうしても語っておかなければならないことがあったからです。
そのようにして集められた群衆に向かって、イエス様が語った言葉が、ファリサイ派の人々に対する警告の言葉でした。群衆はファリサイ派ではないから清い、と言われたわけではありません。むしろ、「ファリサイ派の人々ですら、この心の罪を逃れることができないとするならば、あなたたちはどうですか」と群衆に向かってイエスさまは問うておられるのです。

Ⅳ.人を生かすもの― 心を裂き、神に立ち帰る

私たちは、どうでしょうか。正直、イエスさまのこの迫りの言葉を聞くと、下を向いてしまうかもしれません。確かにもう少し真剣に信仰生活を送りたい、真面目に人を愛したいと思います。でも、自分には力がありません、だから肩を落とし、下を向きながらつぶやくのが精一杯かもしれません。それでは、私たちは「ファリサイ派の人々ですら、この心の罪を逃れることができないとするならば、あなたたちはどうですか」という、この主イエスの迫り、この言葉にどう向き合ったらよいのでしょうか。
このことを考える上で、今日、お読みした旧約聖書の箇所を開いてみたいと思います。ヨエル書に挑戦的な言葉が出て来ます。
「『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」(2章17節b)
神の民の生活を見ている人々が、「彼らの神はどこにいるのか。あなたがたの生活を見ていたら、あなたがたが、信じている神がおられるなんて、信じられない」と言った。そうした時、私たちは「これでは、あなたが生きておられるという証しが立ちませんから、どうにかしてください」と、主に訴えることが許されているのです。神の民が負う恥は神の恥なのだから、というのです。
ヘブライ人への手紙に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とありますが、私たちはファリサイ派の人々と全く同様に、聖なる神さまの御前にさらされる時、その審きには耐えられない存在です。しかし、それでもなお、私たちに与えられ、許されている祈りがあるのです。
それが、「『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」という神への祈りだというのです。
それと共に、私たちの側の責任が語られています。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。」(ヨエル書2:12、13a)
衣服を裂くだけでなく、実際に心を裂き、神に立ち帰って行きなさいと主は言われます。何故なら主イエスご自身が十字架の上で自らを裂いてくださったからです。
そしてこのように、ファリサイ派の人々を責めたてながらも、結局は滅ぼすことを主イエスはなさいませんでした。いやむしろ逆に、ある人の言葉を使えば「植え直し」てくださるのです。
私たちに対しても、イエスさまは同じように関わってくださるのです。「兄弟の罪を、何回赦すべきでしょうか」と問うペトロに対して、「七回どころか七の七十倍まで」と言われるお方が、私たちの神であり、
そのお方こそ、私たちを生かす主なるイエス・キリストだからです。お祈りします。